2020年1月 観劇記

 

はじめに

 1月は引き続き麻酔科でした。仕事に慣れてくると少し楽しいものだと感じられたのは意外でした。

 今年もできる範囲で多くの作品を観ていきたいと思います。

 

1/10 ゴジゲン『ポポリンピック』@こまばアゴラ劇場

 オリンピックイヤーの幕開けにふさわしい作品と言うことで観劇。

 オリンピック競技に「選ばれなかった」ボーリングの天才ポポを主人公に据える発想が見事。そこからの展開はオリンピック競技に「選ばれた」スポーツクライミングの選手や、「自分は社会から選ばれない*1」と考えている人々を巻き込み、普段は我々があまり意識しない「選ぶ/選ばれる」ことの権力性や不条理さが描かれる。また、我々がテレビやニュースで見聞きすることになるであろうオリンピックのニュースの裏に、代表に選ばれなかった者、やっている競技が選ばれなかった者、そもそも環境に恵まれなかった者など、様々な人間が存在するという、当たり前すぎるが故に普段は意識しない事実を丁寧に提示している。

 

 また、当初は「非オリンピック」であったポポリンピック関係者が、存在の認知/承認や社会からの批判に晒されることによって旧ゲリラ左翼的な「反オリンピック」の組織に変容してしまう姿も批判的な視線で描かれていて好感が持てた。もちろん、この「非だったものが反になる」という現象はありふれている。その原因は「非が集まった結果の集団」という多様な事実を認知できず、シンプルな二項対立に落とし込んでしまう大衆側にも、自分たちに名前/意味をつけてもらえる誘惑に抗えない集団側にもあるのかもしれないなと感じた。

 

 この数年でインターネット・SNSが普及して、私たちの見える世界は格段に広くなった。しかしその事で、私たちは常に誰かに負けていて、誰かからは選ばれず、誰かよりは弱く、誰かより下であるという当たり前の事実をこれまでになく意識させられている。

 そんな事実とその原因になる他者を恨まず、自己選抜に逃げないように、「敗者/選ばれないもの/弱者/下のもの」を描く重要性は高まっているのだと感じた。

 

1/11 多摩美術大学演劇舞踏デザイン学科研究室『黄昏ゆ〜れいランド』@東京芸術劇場

 これまでの経験から、「エンタメ系(『HERO 2019夏』, 『夕 -ゆう-』)」などよりややアーティスティックな作品(『終わりにする、一人と一人が丘』、『姿』)の方が楽しめると感じたので、一度芸術に振り切った作品を観たいと思い観劇。

 大学の卒業公演といえど、公共の劇場での公演、ぴあでチケットが買えるなど部外者でも入りやすい雰囲気だった。

 

 作品では死後の世界における幽霊達のやりとりが描かれる。脚本の内容は正直あまり面白いとは思えなかったが、「演劇舞踏」の名の通り、ダンスパフォーママンス/肉体性の面白さは十分伝わってきた。ダンスや動き、同じシーンを何度も再現すること、別の役者が同じシーンを引き継ぐなどの外連味のある演出ももちろん印象的だったが、舞台を通して同じ場所で同じ動きをしている機織り職人を徐々に意識しなくなっていくなど、彼らが作る場所でしかできない鑑賞体験ができたと感じた。

 

1/26 『少女仮面』@シアタートラム

 唐十郎の代表作で第15回岸田國士戯曲賞受賞作。新進気鋭の演出家、杉原邦生の演出ということで格好の機会だと思い観劇。

 

 まずは50年前の作品とは思えないほどに脚本が素晴らしかった。

 宝塚スターを目指す少女・貝が、元宝塚スター、春日野八千代の経営する地下喫茶『肉体』を訪れる。八千代は宝塚スターとして数多の観客に観られ、渇望され続けた結果、「肉体を奪われた」と感じている。もちろん、彼女は死んだわけでも幽霊になった訳でもない。他者に見られることを意識し続けた結果、身体の所有感を失った彼女が、それでも肉体を取り戻そうとする狂気的な過程の先にあった「私は何者でも無いんだ」というセリフが重く残った。

 この作品を観て調べた後知恵だが、唐の演劇哲学の中に、「特権的肉体論」というものがあるらしい。それは実存主義的な「いま、ここ」にあるが故に多様な肉体を「特権的」と称し、そこから発せられる言葉を最重要視するもので、「誰か」の理想像(宝塚風に言えば「清く、正しく、美しい」)に近づくように訓練された肉体を最上のものとする演劇観の対極に位置するものであった。

 それを踏まえると、「清く、正しく、美しい」肉体を持つはずの八千代が肉体の不在に苦しみ、最終的に自分は何者でも無い(=「いまここ」しかない)と悟る脚本は作者の強い意見表明だったのかな、と思った。

 そしてその「肉体の不在・肉体への否定/恐怖」というテーマは以前観劇した『少女都市からの呼び声』に連なっているのだなとも感じて膝を叩く思いだった。

 

 

 また、演出もアングラ演劇風に大掛かりだが、現代風のアレンジによって「古臭さ」が今から見た「レトロな雰囲気」に昇華されているのは見事。上演に際しての演出家の企み*2は極めて周到に達成されたと感じた。

 

1/26 松永天馬『2020年の生欲』@渋谷WWWX

 アルバム『生欲』がとても良かったため実演されるところも観たいと思ったため参加。

 

 基本的にはアルバムの曲をなぞる形+αで行われ、熱量も十分で楽しめた。これまでのバンド活動で溜まっていた鬱屈とした表現欲の爆発を目の当たりにできたのは良かった。

 撮影/演出の都合だろうか、大団円的な『ナルシスト』でやや上向きのカメラの方ばかり見ていたのは少し残念。真っ直ぐ前だけをみていて欲しかった。

 

1/31 アーバンギャルド『TOKYO POP』ツアー@恵比寿CreAto

 『生欲』のようにソロ活動という表現したいことを自由に表現できる場を得た今、既存の枠組みの中で彼らがどんなものを見せてくれるのか気になり参加。

 

 満員だったこともあり、テクノポップセットと聞いた時の不安を払拭するような盛り上がりだった。アルバムのリードトラック『言葉売り』にもあるように、彼らが音楽ではなく言葉にフォーカスを置いた結果、アルバムもある程度纏まり、ライブも盛り上がるようになったのは興味深いなと感じた。

 

 また、今回は背景で流れる映像がとても印象的だった。楽曲の内容はもちろんだが、それが私たちの住む場所と深く関わっていることなどが明瞭に感じられて印象的だった。妙に華やかなところや、様々な文化をミクスチャーするところは最近見たカミーユ・アンロの『偉大なる疲労』を何故か思い起こさせた。

 

*1:現代風に言うと上級国民ではない

*2:https://theatertainment.jp/japanese-play/42005/

虚言癖と夢野久作『何んでも無い』について

 

はじめに

 先日、研修医同期との雑談で、どうして虚言癖というものが存在するのか、という話題になりました。
 それは、彼の大学の後輩が虚言癖持ちで、周囲を戸惑わせた上に、さらに本人が抑鬱状態になった*1というエピソードから発展したものでした。

 すぐにぼんやりとした、一般的な答えは浮かんできたものの、気恥ずかしさや実力不足から「なんでだろうね」とお茶を濁してしまったのを覚えています。
 ちょうどその時、『光の祭典』に関して考えていたこともあって、劇団のステートメント「傷つけられ蔑まれ、簡単には納得できない複雑な想いが少女の体と邂逅したとき、少女は無意識に自分自身に嘘をつく。」という一文も思い出されました。
 また自分も、大学時代に同様の虚言(かもしれないこと)に振り回された経験*2もあり、案外世の中にはこういうタイプの人が多いのかもしれないとも感じました。

 そう言った事情もあり、ここでは、虚言癖(=無意識の嘘)がなぜ生じるのか考えることで、『光の祭典』についての補論としたいと思います。

姫草ユリ子について

 このテーマで、真っ先に思い浮かんだのが夢野久作『少女地獄』の中に収載されている『何んでも無い』という短編とその主人公、姫草ユリ子でした。

 この作品は「漫画で読破シリーズ」にもなっているような有名作で、青空文庫にも収載されているので興味がある方はぜひお読みいただければと思います。

 ユリ子は天才的な嘘つきとそれなりの美貌によって貧しい身分からそれなりに看護師*3として成功を収めていましたが、その虚言癖によって信濃町のK大学病院を追い出されます。
 そして、ユリ子は横浜の開業医、臼杵のもとに流れ着き、そこでもその魅力で看護師として成功すると共に、臼杵に取り入ります。
 しかし、徐々に嘘はエスカレートしていき、ユリ子の発言を疑った臼杵にその嘘が事実に反していることを確かめられてしまいます。


 そしてそれを知ったたユリ子は、自らの嘘を検証不可能なものにするために自殺し、さらに臼杵やその先輩の白鷹からの性的な裏切り(これももちろん嘘です)を自殺原因と示唆する遺書を残していくことで、より事の真偽を有耶無耶にしようとします*4
 そんなユリ子を臼杵は「ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。 ただそれだけです。」と評します。


虚言と虚栄について

 では、なぜ、ユリ子はここまでの虚言癖を持つようになったのでしょうか。
 現代風にユリ子をサイコパス(精神病気質)と簡潔に表現することはできますが、それだけでは理解をすることも現実の解像度を上げることにも寄与しないのでここでは避けます。


 もちろん作中にも、なぜユリ子が虚言に走るか、という点は2つの形で言及されています。
 一つは精神病発作が女性の骨盤内うっ血に由来するといった、19世紀まで信じられてきた古い精神医学的な考えです。

「やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性か、月経性かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。」というセリフが象徴的です。
 ただ、これは夢野のオカルティズムや精神病者に対する偏見から生じたものであり、現代において「女性は生理があるから嘘つき」なんてことを言ったら袋叩きに会うことは必定でしょう。


 しかし、臼杵とその推理小説好きの妻*5の対話の中で示されるもう一つの理由は理にかなっていると感じました。
 妻は、ユリ子の嘘を

「……あたし……それは、みんなあの娘の虚栄だと思うわ。そんな人の気持、あたし理解ると思うわ」

「え。それがね。あの人は地道に行きたい行きたい。みんなに信用されていたいいたいと、思い詰めているのがあの娘の虚栄なんですからね。そのために虚構を吐くんですよ」
 と解釈します。次はこのセリフ、特に虚栄とは何かについて考えていきます。

 これまでの記事で、他人の視線や評価に依存してしまう性質を「少女性」と定義していました*6
 また、他人に見られることですら、自らの自己認識を揺るがす危険な「他者性」に直面するにきっかけなりうることを主張しました。そして、その「他者性」への恐怖感を左右するのは自己愛と欲望/意志の強さであることも主張しました*7
 この両者が合わさった時、嘘が生じるのだと思います。
 つまり、「自分がこうありたい/こう見られたい」という願望が強すぎる/叶えられないため、現実を自分の努力で変容させる前に、「少女性」によって「こう見られたい」方を優先させ、言動で他人が持つ自分への認識をコントロールしようとしているのが嘘なのだと思います。
 その自らが望む姿が明確であればあるほど、それを信じられているほど、嘘はより反射的に、肉体的になっていくのかな、と感じました。

 ただ、「理想の自分」はあくまで自分自身が作り上げた理想であって、それを作り上げた自分の価値基準を実直に反映していることに留意する必要があります。つまり、価値基準が違う相手*8にはその嘘はタイトルの通り何んでも無い、無意味なものになってしまうのです。


 具体例としては、ユリ子の嘘には権威主義的だったり、拝金主義的な嘘が多いのが印象的です。それは、ユリ子の人生の中で、ろくな教育を受けていないことや金銭に困っていたことの反動なのかもしれせん。「嘘はコンプレックスの裏返し」とはよく言ったものだと思います。

地獄への入り口

 最後に、ユリ子を自殺にまで追い込んだ要因について少し考えたいと思います。
 対処療法的な面としては、いわゆる検証(今風に言うならファクトチェック)可能な嘘に頼ってしまったことが原因として挙げられます。最後に遺書に記した「白鷹と臼杵は私に好意を持っていた」という嘘は検証不可能であり、こう言った嘘を重ねていれば嘘は完璧に否定されず、ユリ子も生き延びることができたのかもしれません。


 また、これは「嘘に嘘を重ねることになる」という一般論になりますが、嘘をつく相手も社会的な存在であり、その言動をコントロールできない以上、一度嘘をつくと、その虚構を諦めない限りその他の人間にも同様の嘘を重ねることになります。そして本文中にある「虚構の天国」を作り上げることになってしまうのだと思います。そして本人が「天国」だと思って作り上げた環境はその実、綿密なコントロールが常に必要な針のむしろのような「地獄」と形容できるものなのでしょう。
 そして、そんな地獄に自らを叩き込まないように助けるのが、これまでの記事で触れた作品に込められたエッセンスなのかもしれないな、と思うのです。

 

最後に 

 これまで、アーバンギャルド『少女都市計画』、少女都市『光の祭典』、それぞれの感想を述べてきました。そして、補論として虚言癖について考えることで、これらの作品から得たエッセンスを現実の現象に適応させるという試みを行いました。
 一連の記事は徹頭徹尾自分が書きたいから書いたものですので、誰の役に立たずとも本望です。ただ、これを読んでくれた人にとって新たな視点を提供する「他者性」の役割を果たせていれば嬉しいです。

*1:おそらく適応障害

*2:男女1回ずつ

*3:原文では看護婦

*4:妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。罪深い罪深いユリ子。 姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
 お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐がありましょう。

*5:作中では常に”真実”を示唆するポジションにあります

*6:アーバンギャルド 『少女都市計画』について - Trialogue

*7:少女都市『光の祭典』について(後編) - Trialogue

*8:完全に価値基準が同じ他人は存在しません

少女都市『光の祭典』について(後編)

 

はじめに

 この記事は少女都市『光の祭典』について (前編) - Trialogueの続きです。

 何とか阪神淡路大震災の日までには仕上げたいと思っていたので、間に合ってよかったです。

 

「他者性」と向き合うこと・見て見られることについて

 前項では、心身のコントロールの不可能性、そしてそれを引き起こす権力関係を生み出す存在としての他者について述べました。これに引き続き、特に主人公まこと、そしてまことに再び撮られようとする冨田の「他者性」との向き合い方、特に全編を貫くテーマである見ること、見られることについて考察を加えていきます。

 

見られること・見ること

 前述の通り、見られること自分の姿や存在への自由な解釈を許す、という点で被権力的な行為です。この点は劇中でも「カメラの前に立った時、身体はわたしのもので無くなり、如何様にも意味付けられ、切り取られる」という『シネマトグラフ覚え書』の一節を引用する形で数回述べられています。

 その面では、他人から見られることは、自分で自分を見た結果、つまり自己認識を揺るがしうる危険な行為と言えるかもしれません。今後、そのような「自己認識」と違う「他者からの認識」、「他己認識」ともいうべき姿を突きつけうる性質を「他者性」と定義します。

 その上で、見られることを冨田とまことが求める理由、まことの「他者性」への向き合い方、そして最後のまことの台詞の真意について考えていきます。

 

「少女性」と見られること

 『少女都市計画』の序論において、人間関係や社会の中で主体性が確立されず、第三者の存在や欲望、視線に依存している存在を「少女*1」と定義しました。この作品においてもそんな「少女性」の片鱗が描かれます。

「あたし生まれて初めて世界から見られたの」

 一人は江上と出会う前のまことです。まことは井上に求められることを、その欲望の発現が暴力的なものであったとしても「世界から見られる」こととして欲望し、受け入れてしまいます。

 しかし、まことは江上との出会いや直接的/間接的な対話を通して、「少女性」を捨て、主体性を獲得することに成功したのだと感じました。この点に関しては後述します。

「ぼんやりとした書き割りだったあたしが、初めて、世界にピントを合わせられた日を」

 そしてもう一人がまことに撮られる前の冨田です。冨田の場合は匿名の誰かではなく、自分にしっかりピントを合わせ、美しく撮ってくれるまことだけ(そのような存在はあまり多くないと考えられます)を求めているところがややまことのケースと異なる気がします。

 ひたすらカメラに撮られることを求めた夢波に対して「カメラじゃない、まことさんに」撮られたかったと述べるのも印象的です。

 

 また、冨田が「まことに撮られたい」と気づくきっかけとなった夢波がかけた「自分がしたいじゃなくて「誰かのためにしたい」ばっかり」という言葉、そしてそれを受けた冨田がまことにかけた「あんたはどうしたいの」という発言が「少女性」の本質をついているような気がしてしまいます。


「あたしはあたしのことちゃんと見えてるもん」

 まことの台詞で印象的なのが、序盤で冨田との会話の中で放たれる「あたしはあたしのことちゃんと見えてるもん」という台詞です。

 まことは自分のことを強く、自立した女性であると自己評価しており、さらに「しっかり見えている」ことを一つのアイデンティティとまでしています。

 序盤のまことは、このセリフに代表されるように、自己認識に対して疑問を呈する存在(「他者性」)を拒絶し、自己認識を防衛しようとしています。それが、純粋な自信によるものか、自己認識が間違っている可能性を認識しているが故の虚勢かは判然としません。

 ただ、この時点でのまことの自己認識が後々示される事実と大きく乖離していること、麻生ではなく江上を求め続けたこと(この点については後述します)を考慮すると、後者であるような気がします。

「あたしは、この目でこの世界を歪めてしまう」 

 しかし、まことの自己認識を防衛しようとする努力は、江上という「他者性」を備えた存在からの視線により敗北します。

 江上の視線はまことが自覚していない暴力性をしっかりと捉えており、(一般公開はしなかったものの)その事実をまことに突きつけたのです。ただ、その代償*2として江上も消耗し、婚約者の滝内の前から蒸発してしまいます

。そんな江上を滝内が「ちゃんと「見よう」としたんです。でも「見」きれなかった」と述べているのも印象的です。

 そして、自己認識を揺るがされたまことは自信を完全に喪失し、「だってあたしきっとまた、あたしのフィルターをかけてしまう。あたしはあたしの目を通してしか、この世界を見ることができない。なのにあたしは、この目でこの世界を歪めてしまう」というどうしようもない事実と、個人の限界に直面することになります。

 

無害な麻生、それでも「他者性」を求めるまこと

 そんなまことを、「お前の目が必要なんだ」と肯定し、励ましたのが、江上とまことのサークル仲間で江上の映画制作にも参加していた麻生でした。

 麻生はまことの自己認識に踏み込むことがない安全な存在である反面、麻生とまことの間には真摯な対話がもたれることはありません*3。 麻生はまことを自分の視線を排除した形で見ようとしていたことが最後に明らかにはなりますが、その「他者性」なき視線をまことは「自分のフィルターくらい自分で受け入れろよ」と拒絶します。

 明確にその関係性は描かれませんが、それはまことが自分自身で自分を認知することの限界に気づいたからなのかもしれないな、と感じました。

 そして、強烈な「他者」であるところの江上の下へと走っていき、クライマックスを迎えます。

 

「今度はちゃんとあたしもあたしを見るから」

 しかし、前述のように、まことが江上に性暴力をはたらいたというまことが忘れていた強烈な事実を提示し、滝内の手を取り退場します。

 一人になったまことに、舞台裏に隠れた麻生が再度手を差し伸べます。しかしまことはその手を振り払い、ハンディカムのレンズを自分の方に向けます。その画面に映るのはまこと自身であり、観客がその画面を眺めています。

 そんな中で「撮る……、本当に撮る……。切り刻む、全然別物みたいに……。だから、全然違うあたしにして。だから、ちゃんとあたしのこと見て。今度はちゃんと、あたしも……あたしを見るから」とい最後の台詞が放たれます。そして、そんなまことは劇中で1番の笑顔を見せるのです。

 麻生ではなく江上を求めたという点、最終的に他者(観客)からの目線を受けることを受け入れる、と行った点で、他者への非従順を宣言しつつ、「他者性」は拒絶せず、自己完結にも終わらないという深みのある結末だと感じました。

 


「赤くて黒い金魚」と自己愛について

 前項では、まことが持つ「他者性」に対する恐怖感と、それでも「他者性」を必要とする理由について考えました。その恐怖感が表現されたのが、前半の記事で触れた「金魚」なのだと感じました。最後に、その「赤くて黒い金魚」について考えて締めくくりとしたいと思います。

 ここからは輪をかけて特に根拠がある話ではないので、話半分に読んでいただければと思います。


認知のスキームは変わったか?

 前項で主張したように、この物語において描かれるのは、「少女性」を捨てて主体性を獲得したまことが自らの手で「赤くて黒い金魚」を飼い慣らしていくという覚悟、そして、その助けとして「他者性」を必要とすること、「他者性」に対する恐怖心の克服であると感じました。

 ここで注目したいのは、まことの「赤くて黒い金魚」に関しては解決が描かれていない( 結末を迎えてもなお、まことは社会や環境に対して強い不信感を持っていることには変わりがない可能性がある)ことそして、「赤くて黒い金魚なんてみんな持っているんだ」というセリフです。


「赤くて黒い金魚」はいつから?

 まことはその金魚(特定の他者に対する怒りや悲しみ、恨み、不信感などが増幅し、環境や多くの他人に恒常的に向けられるようになった故にもつ孤独感や不安感と前半で定義しました)を植え付けられたきっかけは井上による性暴力だと主張しています。

 しかし、江上のセリフにあるように「赤くて黒い金魚なんてみんな持っている」とすると、その金魚は性暴力やそれに類するトラウマだけではなくもっと小さな出来事でも生じてしまう気がしてしまうのです。

 そしてそれが表面化し、支配的になるかどうかは、環境や出来事によらない、気質や性格など、個人の要素による面が大きいのではないかと感じました。

 
痛いほど光る人、光らない人

 その性質を端的に表したのが、「どんなにありふれた出来事も自分のことになると痛いほど光るの」というまことのセリフなのだと思います。

 もちろん性暴力のような出来事は、それがどんなにありふれていたとしても「痛いほど光」って当然でしょう。しかし、他人に起こったことに対する認識と自分に起こったことに対する認識との間に大きなズレがある人と、あまりない人、という2つのタイプがいることは事実なのだと思います*4

 まことのケースでは、共感力の欠如、というよりも自分のことに対する繊細さ、感度の高さが原因となっている気がします。

 その感度の高さの原因について明確に述べることはできませんが、自分やいろいろな人のケースを振り返ってみると、強い自己愛*5とそれに由来する全てを自己決定/コントロールするという(決して実現しないが実現してほしい)意志、そしてそれを阻まれること、阻む他者への恐怖心・敵愾心なのかもしれないな、と思います。

 

他者の下へ自分を放つために

 では、そんな強い自己愛とこだわり、そしてその反動として他者への恐怖感・敵愾心を持ってしまった人間が、他者の下に自分を放つために必要なのは一体なんなのでしょうか。

 個人的には、環境を信頼すること、頭だけで考えず実際に体を動かすことかもしれないな、と思っていますが、明確な理由も根拠もありません。今後のいろいろな作品や人と対話していく中で自分なりの答えを見つけていけたらな、と思っています。

 

最後に

  これまで、2つの作品について「少女性」と「他者性」をキーワードとして感想を述べました。読んでいただいた方にとってこの記事が「他者性」を帯びているといいなとも思っています。

 そして、2つのテーマの結びつきを示すのが、この劇団のステートメントだと感じました。

「少女都市は、女性の持つ暴力性をテーマに、

女性の情念を、舞台空間に女優の体と言語で解き放つ。

 

少女都市の「少女」とは、

喜び・怒り・憧れ・憎しみ・優越感・劣等感…

いくつもの想いが混在する情念の「器」のことだ。

 

傷つけられ蔑まれ、簡単には納得できない複雑な想いが

少女の体と邂逅したとき、

少女は無意識に自分自身に嘘をつく。

少女の嘘は周囲を巻き込み、

次第にひとつの大きなうねりとして社会を変えていく。

 

少女都市が生み出すのは、閉塞感という空気が作り出したヒエラルキーを打ち破るためのアンセムである。

 劇場の帰り、この強い意志と決意を漲らせる文章を見たときに、雷に打たれるような思いをしたのが昨日のことのように思い出されます。

 きっと、主宰者・作者の葭本未織さんも、主人公まことと同様、繊細さや反骨精神、そして自己愛を守り切った方なのだと思います。それゆえに本人の中にも眠っているであろう「赤黒い金魚」を飼い慣らしつつ、彼女にしかつくれないであろう新たな作品を私たちの眼前に提示してくれる日を心待ちにしています。

 

 次の記事では補遺として、このコンセプトにあるような「少女性に由来する嘘」がどのようもので、どのように生じるのか具体的な事例を交えて検討を加えていきたいと思います。

 

*1:幽霊・概念の娼婦とも換言でできるとも主張しました

*2:明確には示唆されていませんが

*3:対話とは違いがあるところにしか生じないためです

*4:自分自身もどちらかと言えば前者だと思います

*5:本当の意味で良い教育を受けるとより育まれる気がします

少女都市『光の祭典』について (前編)

 

はじめに

 この記事では昨年8月に駒場アゴラ劇場で上演(再々演)された少女都市の演劇、『光の祭典』の感想をまとめます。以前の記事*1の続きを意図していますが、単体でも読めるように努力していきたいと思います。

 

根底にあるものを探して


 この作品は様々なテーマを扱っているように感じました。ただ、同時にそれらの問題はバラバラではなく、どこかひと繋がりとなっているような印象も不思議とありました。
 その繋がりが何に由来する物なのか、各テーマについて述べることで探っていきたいと思います。

 

喪失と復活について

 まず、公演のチラシにあった「喪失と復活」というテーマから始めます。この作品では、様々な「喪失と復活」が描かれているように思いました。

 このテーマを背負わされているのは主人公まこと*2と、その友人であり元交際相手の江上だと感じました。

 このセクションでは、この2人が「何を失い、何を取り戻した」のかを考えていきます。


人・物の喪失

 まず2人に共通するのが「大事な人を失った」という点です。

 江上は阪神淡路大震災によって父を亡くしており、その心的外傷を引きずっています。

 そして、まことは自分にとって大切(だと感じていた)な存在の江上をある理由により失ってしまいます。当初まことと江上の関係は大きくは取り上げられていませんが、物語が進むにつれ、まことが江上に抱く情念の強さが強調されていくのもその喪失の大きさを際立たせています。

 

 しかし、亡くなった江上の父はもちろん、まことの元に江上が帰ってくることもありません。江上はまことの目の前で、「江上を求める」まことではなく「一緒の景色を見ようとする」サークルの元後輩で元婚約者*3、滝内の手を取りまことの前から消えてしまいます。

 

 それでは、まことと江上は「大切な人」のどこを大切に思い、その喪失によって何を喪失し、それをいかに回復したのでしょうか。

 

 まずは作品中に明示されているまことのケースから検討します。まことが江上のことを強烈に求める理由は「あたしの金魚をはじめて飼い慣らしてくれたから」と述べています。金魚はこの作品において極めて重要なテクニカルタームですが、後に詳しく述べるので、現時点では「特定の他者に対する怒りや悲しみ、恨み、不信感などが増幅し、環境や多くの他人に恒常的に向けられるようになった故にもつ孤独感や不安感」程度の説明に留めます。

 

 まことは大学の担当講師井上から性暴力を受け、その心的外傷から、カメラを持てなくなっています。また、男性に対する不信感を強烈に植え付けられてしまいます*4

 しかし、明らかに心身のダメージを負っているにもかかわらず、他者からの視線に飢えていた*5まことは井上を拒絶することができず、だらだらと身体関係を継続してしまいます。このあたりの共犯関係については前記事の少女性に関する部分で多くを述べているので省略します。

 

 そんな中でもまことに真っ直ぐ向き合い続けたのが江上でした。

 江上はしっかり彼の目でまことを捉え続けようとしました。そんな江上の誠実な視線に「金魚」を一時的に宥めることができると感じたまことは、大学卒業の2年後、江上の自主制作映画作成をきっかけに江上と交際することになります。

 ただ、その蜜月は長くは続きません。短期間に終わってしまったのは、まことがそんな江上を強烈に求めつつ、「金魚」に由来する暴力性までぶつけてしまったことでした。まことは井上に受けているような暴力をそのまま江上に投影するごとくぶつけてしまうような描写が見られます。そして、極め付けに、大学生時代にまことが江上に対して性暴力を働いたことが明かされます。

 

 しかし、まことは性暴力を江上に対してはたらいたことを記憶しておらず、「私の元から江上はなぜかいなくなった/私は一方的に被害者だ」と言うやや事実とは反した認識に陥っています。

 それでも江上は、まことを2年後に再度「見ようと」します。その結果が劇中劇の『ドキュメンタリー・私の女』であり、その(広義の)制作過程が芝居の前半を占めています。そんな真摯な他者からの視線を浴びることが「金魚」を宥める方法なのかもしれないと、まことは思ったのかもしれません。

 最終的にまことが江上との関係で起こったこと、自らが加害者であることなどを認識できたのは江上の作品、江上自身との対話によるものであり、その面では世界を正しく見ることができるようになった(=復活した)と言えることができるかもしれません。

 しかし、江上の真摯な他者性はまことの元から離れてしまっています。そんな存在から見られることが「金魚」を宥める唯一の手段であると認識している以上、この状態を「復活」したと呼べるにふさわしいかについては最後の方で議論します。

 

 一方、江上は災害によって父を失った結果「選択ができなくなった」と述べられています。ここの因果関係については明確には述べられれてはいません。震災の際、西と東どちらに逃げるかの選択が父親の命を奪った、ということも示唆されていますが、この1点で「選択できない」ことを説明するのは難しい気もしています。それに加えて、片親で育ったことによる苦労や、自己選抜が「選択」できなさにつながっている可能性はあると感じました。

 そして、災害によって不条理に肉親を奪われると言う体験は環境への不信感(=金魚)を持つに十分な体験であり、まこととはお互い似たような「金魚」をもつ者同士惹かれあったのかもしれないな、と思います。

 ただ、最後には江上はパートナーとしてまことではなく滝内を選ぶと言う大きな「選択」をします。この点では主体性が復活している、と言えるかもしれません。それまでには様々な葛藤があると考えられますが、あまり詳しく描かれることはありません。

 それは時間によって解決されるものかもしれませんし、同じ景色を見ようとする滝内の存在によってサポートされるものなのかもしれません。

 

都市の喪失と復活

 次に進む前に、登場人物自身の物語と同時に描かれる都市という物語の喪失と復活(復興)について触れておきます。作品中では、阪神淡路大震災東日本大震災2つの災害に触れられていますが、大きく扱われるのは前者です。

 大震災から二十年以上経ち、神戸の街がある程度復興したことを観客の私たちは知っています。しかし、それまでの過程では前述したような大切な人の死や財産、環境への安心感(これについては後述します)を喪失した人々の努力があったのだと思います。それを支えるのは未来への希望のようなものであり、その象徴としてルミナリエ(タイトルの由来)があるのかもしれません。

 そして巨大な災害から復興した神戸の街の姿は、まことや江上が経験した喪失からの復活を強力に暗示する存在となっているような気がします。

 まだ復興途上の東日本大震災について敢えて触れたことも、東北地方も「いずれ復興する」という希望が込められている、というのは勝手な願望かもしれません。


「心身のコントロール/支配権」の喪失と復活

 もう一つ、まことと江上に共通する喪失として「心身のコントロール/支配権」の喪失が挙げられます。

 前述の通り、心的外傷によってまことはカメラを持てない状態になっています。さらに、自分の合理的な思考とは別に井上と決別できなかったり、大事だと思っているはずの江上に暴力をふるってしまったり、メンタル面の故障により、身体的/物理的な問題が生じています。

 まことのカメラを持てないという身体的な故障は、麻生によるサポートで一時的に回復します。しかしこれは、まことの意思というよりは、国家という権力や、オリンピックというフィクションに依拠したものです(この現金さはなかなか現代的な感覚な気がします)。

 しかし、ラストシーンではまことは麻生の手を振り払い、再度自分の両手でカメラを持ちます(もちろんこれは身体的な問題の復活だけでなく、自分自身の眼で世界を見ていくという覚悟の表れだとは思います)。

 

 江上もまことの性暴力によって性的に不能な状態に陥っていることが強く示唆されます*6

 こちらの復活は明確に描かれることはありませんが、前項を考慮すれば、いずれ身体のコントールを取り戻すことを期待してしまいます。

 

心身と都市、あるいは権力について

 次に、前項で触れた「心身のコントロール」と、それを損なう存在としての権力、そして取引について述べていきます。

 ここのテーマを主に背負っているのはまことと江上に加え、女優志望の女子大生夢波、売れないドキュメンタリー映像作家藤原です。


切り売りされる心身 

 前提として、私たちの心身は我々一人一人自身のものであると我々は考え、そう願っています。そしてその考えは「自己決定権」という形である程度実現しています。

 つまり、我々の心身は我々自身でコントロール可能であり、それをするのが望ましいとされているのです。

 そして、その結果「〜しろ」という他者に対する攻撃的な欲望よりも、「〜したくない」という自己防衛的な欲望が優先されることに社会全体である程度のコンセンサスが取れています(時々同意が取れていないような人も見受けられますが)。

 しかし、都市に住む我々は「〜したくない」という欲望に従うだけでは生きていくことはできません。他者の「〜して欲しい」という欲望に応えることで、ある程度の金銭をもらい、「ここに住みたい(=ここに住まわせろ)」、「これが食べたい(=これをよこせ)」といった欲望をかなえる手段としています。

 もちろん、自分の「〜したい」「〜して欲しい」と他人の「〜して欲しい」「〜したい」が完璧に合致し、お互いがお互いの欲望を無償で叶え合う社会は一つの理想ではありますが、それは現代社会からはかけ離れた、夢物語のような社会になってしまう気がします*7

 そうともいかない現代社会では、そんなふうに我々は自分の欲望をかなえるために、心身を切り売りしている、そうせざるを得ないと言えるのかもしれません。

 

権力との取引

 ただ、前項のような主張に対しては「私は私の意思で売ることを決断している。これはコントロールしていると言えるのではないか」という反論が成り立ちます。

 そのような主張を体現しているのが夢波です。女優を目指す夢波は、有名映画監督に取り入るため、枕営業に手を出します。目論見通り女優としてある程度の仕事を得るまでに至ります。夢波はそれを気に病むことも、まことのように心身の自己所有感を失うこともなく飄々とギブアンドテイクだと語ります。

 彼女の姿は堂々としており、心的なダメージも負っているようには見えません。まことのケースと起こっていることは同じ*8でも、自己の欲望を上手に叶えているという点で心身をコントロールできている、と言えるかもしれません。

 一方で、同じように藤原も監督に体を差し出します。しかし、(男女の違いはあれど)同様の”支払い”でも藤原は心的ダメージを負い、仕事は手に入れられるものの、活力を失い、舞台から退場してしまいます。

 

心身を予知すること、認知すること

 では、そんな藤原は心身をコントロールした、と言えるのでしょうか。もちろん、自分の意思で”支払い”、結果として”破綻した”のだからそれは自分で自分を破滅へと追いやっただけだ、だからこれもコントロールだという意見もあるとは思います。

 しかし、やはり藤原は破綻することを当初から予測したわけではなかった、つまり心身が予想外の反応を見せたのだと私は考えてしまいます。

 そもそも、コントロールしていることを「自分の予測/意思通りに物事が動いている」状態を指すことだと定義すると、そもそも人間の自分の心身に対する認知は不完全であり、それが故にその動きを完全に予知することはできないように思うのです。

 試験前や舞台の本番前は緊張していいことなんて無いとわかっているのに緊張してしまいます。バスケットボール選手は100%フリースローを決めようとしても全てを決めることはできません。私たちは躓きたいと一生で一度も思ったことがないのに何度も転んでしまいます。

 そんなふうに、我々の心身は我々の意思や意図とは違った反応を示すことがほとんどで、そういう点ではそもそも心身のコントロールなどできないと言えるのかもしれません。

 それでも私たちは何かを”買う"ために、心身が”支払い”に耐えられると信じながら自分を日々切り売りせざるを得ない、強くて弱い存在と言えるかもしれません。

 

権力関係の不可避性

 そしてそんな大きな支払いという賭けにを夢波と藤原に強いたのが、監督の裁量権なのだと思います。前の記事で述べたように、「売りたい」・「買いたい」欲望はアンバランスであり、その不均衡が権力をとなって個人を蝕んでいきます。もちろんそれには権力に阿ろうとする我々の卑しさや欲望の強さが関与していることは言うまでもありません。

 しかし、フーコーが「この社会のあらゆるところに、男女間でも、家族間でも、先生と生徒の間でも、知っている人とそう出ない人の間でも、権力的な関係が存在する」と述べるように、我々は裁量権のような明らかな形はもちろん、劇中のキーワードの「見る・見られる」ことにすら権力関係が潜んでいます。

 それは、「こう見て欲しい/私はこういう人だ」と言う見られる(弱い)側の欲望と、そんな欲望を知らずただ「見」て解釈できる(強い)側の小競り合いと言い換えることができるのかもしれません。

 つまり、都市に生きる我々にとって、他者は必要不可欠な存在でありながらも、我々が当然と思っている自己決定や自己所有を強弱の差こそあれ脅かす存在なのです。

 

 長くなってきたのでここで一区切りとし、後半は追ってまとめます。

 後半(https://stmapplier.hatenadiary.com/entry/2020/01/17/013026)はそんな不可避な他者と向き合うこと、「他者性」が必要となる瞬間、そして「他者性」の拒否感と自己愛の関係について述べることから始める予定です。

 

*1:

アーバンギャルド 『少女都市計画』について - Trialogue

*2:性暴力被害が原因でカメラを持てなくなった天才映画監督

*3:一度婚約破棄

*4:「うそ。男はあたしのこと踏みにじる。絶対そう。だって、あんなに信じてたのに、先生、あたしに…」

*5:「あたしのこと生まれて初めてちゃんと見てくれたのが先生だったから」/「あたし生まれて初めて世界からちゃんと見られたの」

*6:「お前のせいで、俺は、滝内とちゃんと恋人になれずに…」

*7:現実的なラインでは「〜してもいい」と「〜して欲しい」が結託するのが関の山でしょう

*8:好きでもない相手と身体関係を持つ

2019年12月 観劇記

 

はじめに

あけましておめでとうございます。先月は時間に正確な麻酔科と言うこともあって、比較的多い作品を観ることができました。ただ、麻酔科は正確な動作や手技などフィジカル面が要求される場面が多く、なかなか大変でした。

 

11/28 青年団リンクキュイ『景観の邪魔(Aプログラム)』@駒場アゴラ劇場

 オリンピックを控えて演劇畑の人間がいかにに東京を描くのか気になり鑑賞。

 内容は他のコンテンツ同様、「オリンピック後の緩やかな衰退」を予測するもの。衰退を見据えるブルーな感情に災害の不安を重ねるのもやや典型的か。

 ただ、その不安をぶちまけた上で、その衰退や災害を「土地にとっては有益」とポジティブな視点を提供するのは新鮮。

 都市をドラスティックに変容させてしまう人々の欲望とその土地の繁栄を両立させるのが度々繰り返される「あなたの土地に愛着を持ってください」というお題目なのだろうと思った。

 ただ、劇中で詳しく描写されるのは東京の西側だけであり、作者の発想も吉祥寺の変化に基づくところが大きいと感じた*1

 自分も三鷹に住んでいたため、認識できる「東京」の東限が東京駅になってしまうのは理解できるが、もう少し東京の東側について描写があればより多面性が出ると感じた。

 

12/1 青年団リンクキュイ『景観の邪魔(Bプログラム)』@駒場アゴラ劇場

 ほぼ同じ戯曲をより華やかな演出でといった内容。

 Aプログラムの「景観の邪魔は生命に他ならない」という殺伐としたコンセプトに「人を必要とする土地*2」の視点が少しだけ導入されるだけで深みが出る。

 

 衰退と東京といえば、椎名林檎の「TOKYO」についての記事をいつか書きたいと思っている。これを書いている途中に東京事変再生のニュースを聞いて驚いた、後出しジャンケンにならないようせめてオリンピック前には!

 

12/5 『椿姫』@新国立劇場

 U25割引が強烈(75%OFF)だったので観劇。

 内容は娼婦が真実の愛に目覚める〜というありふれたもので、最後に報われないのも西洋的な世界観では典型的。

 ただ。19世期としてはかなり斬新であったと思うし、何より音楽で増幅された感情のダイナミックさに圧倒された。しょっちゅう観に行くものではないと思うが、今後も観たいと思った。

 

12/7 inseparable 『変半身』@東京芸術劇場

 村田沙耶香と松井周の共同制作プロジェクト。ある程度共同で下地を作ったのちに、小説版を村田さんが、舞台版を松井さんが制作するといったもの。

 村田沙耶香の想像力にはいつも驚かされるため、企画が発表されてからずっと楽しみにしていた。

 

 両者ともヒトという種の相対化、あやふやさを最終的な主題にはしている。ただ、個人的には小説版の方が好みだった。

 

 小説版は「海のもの/山のもの」の対立、絶対視されていた「モドリ」がデタラメな虚構あったことなど、「真実だと思っていることが虚構である」という段階*3から始まり、次に「その虚構が恣意的なものである可能性」を述べる*4、そして「恣意的な虚構だとしてもそれを必要とし、信仰してしまう人間の性」を描いた最終地点として「我々は人間だ」という観念にもそれが適用可能ではないかとする流れになっている。

 私たちの信ずるあらゆるものの弱さ、曖昧さをこれでもかという程暴く作品で、その最終形として「私は人間である」という信念まで脅かすもので、そこにたどり着く必然性があり、説得力も相当な作品だった。

 

 しかし、舞台版では「人間」を相対化するために「神様」という上位概念を安易に導入してしまった結果、舞台設定のほとんどが意義を失い、ただ突飛なだけの賑やかしになってまったように思えた。そしてあっさりテーマをこなした後は、「不確定性に飛び込むことって勇気がいるけど楽しいよ」という無難なメッセージに終わってしまいやや消化不良だった。

 

 これは才能や視点の問題だけではなく、肉体を無視して言葉だけで世界を捉える小説と、肉体で表現する演劇というメディアの違いによるものな気がする。

 小説では内面や認知の描写が克明にでき、地に足がついていない展開にも説得力を持たせることができるが、その分実現可能性という面では劣ってしまうし、こちらの行動を促すものにはなりにくい。

 その分演劇は肉体的で、人間にできること、第三者にわかる言動としてしか提示されない。それは内容の乏しさにもつながりうるが、こちらの言動をダイレクトに変容させうる実用性の高いメディアたらしめるのだと思う。

 

 どちらも一長一短だと思うが、今回のテーマを扱うには小説版の方が一歩上手だった印象。 

 

12/14 『少女都市からの呼び声』@早稲田Space

 演劇界隈で度々リファレンスされる唐十郎の代表作ということで観劇。

 一歩間違えば突飛になってしまう展開をギリギリの所で観客に伝える脚本は20年以上前の作品とは思えない程に新鮮さを保っていると感じた。

 タイトルの少女都市とは男が手術中に夢見る、自らの実在しない妹*5が住む世界のことで、そこでは歳を取らず、肉体も劣化しない。それを維持しているのが、少女の自らの肉体への実感のなさ、変化への恐怖感なのだ。

 その象徴としてガラスの*6体、子宮への欲求が描かれているのだと思った。

 それが女の髪の毛に象徴されるように男の中に眠っているというのがまた外連味があって良いと感じた。

 また、大槻ケンヂや松永天馬を指して「お腹の中に少女を飼っている」と述べた文章を読んだことがあるが、こういうことだったのだなと思った。

 

12/14 新国立劇場シリーズ「ことぜん」Vol.3 『タージマハルの衛兵』@新国立劇場

 シリーズ「ことぜん」最終回。今回は強大な「全」との権力関係に向き合う「個」という「個と全」の関係が描かれる。

 登場人物は2人、ムガール帝国の衛兵を務めるフマーユーンとバーブル。2人は幼なじみでお互いをバーイー(兄弟)と呼ぶ間柄だが、仕事や権力への取り組み方は大きく異なる。

 フマユーンはその生い立ちもあり、権力の存在やそれに従うことに対して肯定的な態度を取る。一方、バーブルは極めて個人主義的で、精神的な自由を重視する。ただしバーブルはニヒルを気取っているわけではなく、彼は美しいものへの執着熱っぽく語る。

 

 中盤まではややグロテスクな流血場面もあるもの、2人の対話がポップに描かれる。しかし、バーブルの一言がきっかけとなって訪れる結末は極めてシビアで、権力のどうしようもない暴力性が露わになる。しかも権力の根源たる皇帝は直接手を下さず、権力を恐れ、従うことがその暴力と離別を引き起こしてしまうというのがより権力と我々の関係の不条理さを浮かび上がらせていると感じた。

 パンフレットにある内田樹の「権力を創り出し、機能させているのは、権力には争うことができないという個人の信憑である。権力の非情と暴力性をかたちづくっているのは個人の非情と暴力性である。権力を恐るべきものたらしめているのは個人の恐怖心である」という言葉がこの演劇の本質をついていると感じた。

 

12/15 二兎社『私たちは何も知らない』@東京芸術劇場

 いわゆる社会派演劇というものにおっかなびっくり挑戦。こういった作品は政治的なメッセージを伝えようとするあまり、無理筋の展開になったり、作者が挑戦をしなくなりがちなので好きではないが、今作は比較的楽しめた。

 思ったより政治色も控えめであったし、何より平塚らいてうというドラマティックな人生を送った人を主人公に据えたことで作品自体も楽しめた。歴史モノということもあって事実に反した描写も少ないというある程度の信頼を持って鑑賞することもできた。

 

 しかし、最後に平塚が戦後共産党系の組織を率いた人間であったことを隠し「女性の権利回復に尽力した組織*7の委員を務めた」と述べるのは、これまでの2時間半あまりで「女性の権利向上を応援するモード」に誘導されることを考えるとあまりにアンフェア*8に過ぎると感じた。こういやってプロパガンダというのは成されていくのだなと思って背筋が冷える思いがした。

 

12/18 PLAT 『荒れ野』@ザ・スズナリ

 桑原裕子作品はこれで3作目。

 これまでの作品とは異なりややコメディタッチに、ただ個が個を想ってしまうことのどうしようもなさが描かれる。その中で家族内での相互不理解という形で家族というテーマが繰り返されるのも作者らしさか。

 自らの想いが満たされないときに「あなたならどうする」という締め括りは劇中の登場人物だけでなく観客にも深く刺さるものだった。

 

12/19 ワワフラミンゴ『くも行き』@東京芸術劇場

 小さな恐竜という劇団のキャッチコピーに惹かれて鑑賞。表現方法は穏やかでポップなのにバックグラウンドには厳しい人間観や深い思考があるということなのかなと感じた。

 11月の鳥公園とセット券が発売されているようにこちらも現代アート系で、正直ほとんど理解できずに終わってしまった。ただ、全部の芝居がわかってしまうよりもわからない芝居がある方がワクワクしてしまう。来年はどんなものが見られるのだろう、今から楽しみだ。

*1:吉祥寺シアターやブックスルーエの件など

*2:ここで被災地を出すのはやや短絡的だとは思うが

*3:幼少期

*4:島に戻るまで~島に戻ってからの序盤

*5:演出上は男の分身/少女性が具現化したものである

*6:老化しない/変化しない

*7:実際は共産党の外郭団体に過ぎなかった

*8:作者の共産党との繋がりを考えると尚更である