2020年 9月 観劇記

 はじめに

 9月もリハビリ科でした。「元活動家」の部長先生*1からの怪しい展覧会や芝居の誘いをいなしつつ、今月もいくつかの作品を観ることができました。

 

9/1 NAPPOS PRODUCE『かがみの孤城』@サンシャイン劇場

 

 辻村深月の作品が、活動休止中のキャラメルボックス成井豊脚本・演出で舞台化されるとのことで観劇。この組み合わせの『スロウハイツの神様』が素晴らしかったのが印象に残っていました。

 


 NAPPOS PRODUCEの企画を端的に表すと「客寄せパンダ+キャラメルボックス」となるでしょうか。固定ファンを持つアイドル的な俳優・女優を主役級に据えて集客を確保しつつ、チケット代を上げて収益を確保するというビジネスモデルのように感じました。

 今回は主役が元乃木坂46生駒里奈、準主役がいわゆる2.5次元出身の溝口琢矢という座組みでした。

 この様な企画にどことなく抵抗感を持って観劇に臨みましたが、それを差し引いても今一つの出来の様に思いました。まずは、やはり舞台初主演の生駒さんの演技が悪目立ちしてしたのが印象に残りました。引っ込み思案な役を演じるため、声の出なさや感情表現の乏しさにはある程度正当性が出ることが救いになっているかもしれませんが、やはり舞台上で異物感を放っていたのは否定できません*2

  肝心の脚本も原作のギミックを盛り込もうとして説明過多(「XはYと感じた!」というナレーションが目立ちました)となり、物語への没入を妨げているように感じました。

 頑張って実現したギミックも、舞台上で表現されるとやや拍子抜けしまった印象がありました。

 そもそも、叙述トリックは物語を文字情報に落とし込む過程で削ぎ落とされた部分を読者が想像で復元する際に生じる誤差を利用したもので、そういったものを舞台でやることには無理があるのかもしれないなと感じました。

 

9/3 ロチュス『モノクロチュス』@中野RAFT

 

 これまで全く触れたがないカンパニーを観劇しようと思い観劇。早稲田大の演劇倶楽部出身の劇団スポーツの一員、竹内蓮さんの一人芝居でした。


 舞台は竹内さんが「夏の思い出」を語る、といった体で始まり、甘酸っぱい中学時代の恋物語が提示されます。そして物語は見事にハッピーエンドを迎えます。しかしその直後、それは実話ではないことが「楽しい思い出に逃げているだけ」との責句とともに判明します。

  その後も高校時代のバスケットボール部の「思い出*3」や、祖父との「思い出」とそれとはやや違った現実が交互に提示されます。その過程を通して、舞台上では真実・虚構が等価である事が共有されていきます。そして、その後は「思い出」を語るに至った思いを吐露する大演説でクライマックスを迎えます。

 この話題に関しては、個人的には「舞台上にあるものは全て真実」という捉え方をしていたので、「板の上でやってる時点で全部ウソ」という回収のされ方は新鮮でした。もしかしたらこの違いは観客と演者の立場の差によるもの、もしくは脚本・演出重視か俳優重視かという姿勢の差によるもかもしれないなと感じました。そして、この差は、本作の様に演劇への思いを語る演劇をどう評価するか、という点に繋がっている様な気がしました。

 脚本を含めて荒削りな印象はありましたが、終始エネルギッシュな表現が印象的で、気持ちいい舞台でした。

 自分と同世代の方の作品をもっと観てみたいと感じた作品でした。

 

 余談にはなりますが、竹内さんは公演中に足首受傷、公演後に救急搬送されました。その際に発熱が確認され、PCR検査の対象となり公演は中止となってしまいました。

 熱演と怪我による一時的な発熱だとは思っていましたし、結果も陰性とのことでしたが、終演後までドキドキさせられる舞台でした。

 

9/4 KAKUTA『ひとよ』@本多劇場

 

 昨年の映画版『ひとよ』が印象に残っていたため観劇。桑原裕子作品は『らぶゆ』、『荒れ野』、『往転』に続き4作品目でしたが、こちらも素晴らしい作品でした。

 子供達のためにDV夫を殺した母が15年後に帰ってくるという大まかなあらすじは変わらないものの、映画版よりもはるかに明るいテイストに驚かされました(本来の順序は逆ですが)。

 大きな違いとしては、母が隠遁生活中にニセコで出会った外人風酪農家・吉永の存在が挙げられます。彼は地元のタクシー会社という舞台にも、母親というどうしようもない他者といかに向き合うかというテーマにも全くそぐわない人物です。吉永の一挙手一投足により物語の風通しが良くなったと感じるか、焦点がブレてしまったと感じるかは人それぞれかもしれません。

 個人的には、そのほかの登場人物にとっては「母でしかない」女性を、別の視点でみる吉永の視点が導入されることにより広がりが出たと感じました。

 それもあって、映画版では「母として為したこと=(過去の罪)」に対する向き合い方が主題であったのに対し、舞台版では「母という存在」への態度にフォーカスがあたっていることでした*4

 前者には善悪、正誤といった価値判断の余地があり、その違いが物語の推進力となっていましたが、後者では推進力を登場人物の会話の可笑しみやリズム感に任せた分、より難しく、根源的なテーマに取り組めている印象がありとても楽しむことができました。

 

9/6 山口ちはるプロデュース『FANTSY WORLD?』@小劇場 楽園

 プロデューサが前面に立つプロデュース公演を観たことがなかったため観劇しました。「国の管理の元、自殺者・自殺未遂者は臓器移植希望者に強制的に臓器を提供しなければならない右の世界」と「そして、3日おきに記憶をリセットされる左の世界」が描かれるという触れ込みから、政治性を帯びているのかなと思っていましたが、そういった要素は感じることはありませんでした。さらに人物造形(謎のエージェント・難病の少女など)やあらすじ(「右の世界」にある新興宗教の施設が「左の世界」だった)、セリフは中二病のテンプレといったもので、正直に言えばこの芝居が上演される動機や意義がほとんど掴めず終わってしまいました。

 ただ、正方形の舞台の2辺が客席となっているという劇場の特性を活かした演出は新鮮で楽しむことができました。

 

9/8 劇団献身『知らん・アンド・ガン!』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

 今年のMITAKA “NEXT” Selection 第2弾。『BLACK OUT』に続きこちらも印象的な作品でした。

 舞台は売れないクリエイターが住まうシェアハウスと隣にあるマスク工場です。クリエイターたちは売れない中でも社会から*5の援助を受け、安穏と生活していました。そんな彼らをコロナ禍が襲う…といったあらすじですが、主題はコロナやその被害にあるわけではないと感じました。

 コロナ禍はクリエイターたちにとっての淘汰圧に過ぎません。そして、淘汰されかけるクリエイターが自らの才能の無さを自覚した時、いかに向きあっていくか、という点が主題となっていきます。

 弱者、脇役、持たざる者への容赦なさや、「主人公だ(才能がある)と勘違いしている脇役(無能)」を物語の中心に据える手法は佐藤友哉の小説(特にデビュー作『フリッカー式』から続く鏡家サーガ)を彷彿とされました。「脇役」だと暴かれた後のもがき*6の惨めさも同じような印象を受けました。

 ただ、最終的にはワクチンというデウスエクスマキナの出現*7・弱者が力を合わせて解体業者に立ち向かったという努力より、シェアハウスは存続し、「才能がなくてもそれでも取り組み続ける方がいい」といった「ヌルい」結末を迎えます。これは脚本としては無理筋ですし、ありきたりな結末ですが、それでも理想を語る方を選んだ、作者の切なる思いを感じとることができました(ただし、作者がこの主人公に作者自身を投影していたとしたら、「現実はこうはいかない」という認識を強く持ち続ける必要があるかもしれないとアフターコントをみて感じました。)

 Corichではかなりの不評のようですが、個人的には悪くない印象でした。

 

9/10 ロロ 『心置きなく屋上で』@神奈川県芸術劇場 大スタジオ

 公演期間中に横浜に立ち寄る用事が出来たため観劇。「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」略して「いつ高」シリーズの8作目とのこと。初見であったがゆえ、セールスポイントである「学内で起こる小さな事件の”ここ”と”あそこ”がまなざしで繋がれてゆき、シリーズ全体で大きな物語となっていく様」を楽しむことができなかったのは残念でした。

 高校演劇*8のフォーマットで演じられているとのことで、舞台美術の設置から観ることができたのはは新鮮でした。

*1:ただ、その弱者への優しい眼差しは尊敬に値すると思っています

*2:ただし、その異物感が「クラスで浮いている」という設定と噛み合っていた印象はありました

*3:ほぼ別の作品のトレースですが

*4:映画では過去の罪により破滅していく過程が強烈な存在感を放った元薬物ブローカーが舞台版では息子から父としての存在を否定されるのみでフェードアウトしていくことも一例です

*5:作中ではシェアハウスのOB・OG

*6:マスク工場拡張のため、シェアハウスが取り壊される危機の中、クラウドファンディングのリターンと称して一発ギャグを連発させられます

*7:マスク工場の拡張が断念されます

*8:今までそういった大会があることは知りませんでした、調べたら母校も地区予選は通過していたようです

2020年 8月 観劇記

 

はじめに

 8-9月はリハビリ科を選択しました。以前に読んだ『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』が興味深かったというだけのミーハーな理由ですが比較的楽しく過ごしています。

 8月に入り、徐々に公演も再開されてきました。演劇やクラシックコンサートの入場制限が緩和されるというニュース*1もあり、これからも安心して多くの芝居を観られる環境が維持されると良いなと思います。

 

8/16 深夜ガタンゴトン『消え残る』@王子スタジオ1

 これまで観劇したことのないカンパニーを観たくなり観劇。

 『「新しい気づきのプラットフォーム」をコンセプトに、「現代社会で本音で生きる」を合言葉に』と社会派で少し大仰なキャッチコピーでしたが、看板倒れのように感じてしまいました。

 作品のテーマは「嫉妬と覚悟」と明言されており、売れない口だけ俳優と同棲する後輩女子(舞台女優を目指していたが売れるためにAV女優へ転身)の同棲生活が描かれます。

 しかし「覚悟」のあらわれとして選んだAV女優というガジェットは安直ですし、下ネタのインパクトに比して先輩の嫉妬と葛藤の描かれ方が弱く、既視感のあるシーンが続いてしまう印象でした。俳優志望や作演として売れない/選ばれない経験をした人はその感覚の前提を共有しているかもしれませんが、部外者には切実さが足りないように感じてしまいました。

 少し辛辣な書き方にはなってしまいますが、演劇関係者の井戸端会議/傷の舐め合いレベルの内容を「新しい気づき」と宣言してしまうのは作者が「こんなことにすら気付いてませんでした」と自らの浅はかさを告白していることに等しいと感じました。

 

8/18 スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』@こまばアゴラ劇場

 3月の『ウエア』が印象的だったスペースノットブランクの代表作とのことで観劇。

 このカンパニーの公演は、オフィシャルのイントロダクション(

フィジカル・カタルシス|植村朔也:イントロダクション __ 小野彩加 中澤陽 / スペースノットブランク)が素晴らしいのであまり語ることはありません。

 今回もステートメント

『それは多様な選択ができるものとする。
それは躰の内在と外在から構築される。
それは作家のためだけのものではない。』

 と抽象的。「それ」の指すものは「動作」ではないかと踏み舞台に臨みました。

 イントロにあるように、提示されるのは単なる動作の連続がほとんどです。PHASE 4の"Music"を除いてはほとんど言語による情報提示もなされません。

 しかし、1時間以上その動きを観ている私たちはそこに何らかの意味を見出してしまいます。動きが同期したり、身体がわずかに触れ合う瞬間に感情が揺れ動くこともありました。それは普段の演劇ではあまりにありふれていて見逃してしまうような身体の交歓であり、対話であるように感じました。その時感じた爽快感や”結末に辿り着いた感”が個人的*2な『フィジカル・カタルシス』なのかな、と思いました。

 また、PHASE4とエンディングで流れる『フィジカル・カタルシスのテーマ』はテーマに触れつつも遊び心に富んでいて、ストイックさだけでない彼らの魅力を垣間見た気がしました。

 

8/27 東京夜光『BLACK OUT -くらやみで歩きまわる人々とその周辺-』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

 今年のMITAKA ”NEXT” SELECTION第1弾として観劇。この企画は、芸術監督が小劇場を回って”ピンときた”劇団を3つ選んで上演させるというもので、公共劇場らしからぬチャレンジングな内容が魅力的で毎年楽しみにしていました。

 実家から徒歩圏内にあった関係で、小劇場系演劇に最初に触れたのもこの企画で上演されていたぱぷりか『きっぽ』でした。去年のゆうめい『姿』、犬飼勝哉『ノーマル』、第27班『潜狂』どれも面白く、ハズレがない印象を受けました。

 

 さて、この作品はいわゆる「演劇の演劇」に分類される作品ですが、その中でも演出助手という一般の観客にとっては馴染みが薄い仕事を取り上げているのが新鮮でした。

 そして、演劇を題材にし、癖のある人たちの人間模様を描くだけに留まらず、自意識の割に自信がなく、周囲に迎合してしまいがち、そして「上手くできてしまう」若者の葛藤や決意、成長が細やかに、切実に描かれていて好印象でした。コロナを背景として「この公演」にかける想いが強く描かれた上での、この作品のエンディングはとても見事だと感じました。この覚悟を見せた上で、次にどんな作品を観せてくれるのかが今から楽しみです。

 また、メインテーマではないですが、コロナに対する十人十色の反応もリアリティに富んでいて、4月の混乱した雰囲気が強く思い出されました。

 

 ここからはこの作品とは関係のない予測と勝手な願望です。

 劇団・劇場・観客の数だけ”再開”があり、「演劇ができることについての演劇」が多いのも仕方ないのかもしれまんし、これだけのことがあれば話したくなるのも当然かもしれません。

 しかし、こういった作品はメタフィクション的な飛び道具に頼らざるをえず、えてして結末も「それでも私たちは続けていく/生きていく」と似通いがちです。もう早い者勝ちの期間は過ぎようとしているように感じますし、極論を言えば観客にとって俳優や演劇関係者は知り合いでもない限り”どうなろうと知ったこっちゃない”存在です。観客が興味があるのは作品や思考なのであって、”演劇をしていることそれ自体”ではない、ということを忘れず、観客に甘えず作品を作って欲しいと思いました。そして今後はコロナを取り扱うにしても「コロナ禍と”演劇以外の何か”に関する演劇」を観たいなと感じました。

*1:

映画、演劇で定員50%以内の制限緩和へ(共同通信) - Yahoo!ニュース

*2:普段の演劇以上にどこでどんなカタルシスを感じるかは鑑賞者によって大きく異なると思います

2020年 7月 観劇記

 

はじめに

 7月は訪問診療を行うクリニックでの地域研修でした。小劇場や映画館が多いエリアでの研修となり、当初はアフター5を楽しみにしていたのですが、この状況ではあまり楽しめなかったのが残念でした。

 

 6月に緊急事態宣言が解除され、演劇の公演も再開されました。ただ、当初は商業主義的な作品(クラスターが発生した『THE★JINRO イケメン人狼アイドルは誰だ!!』などは最たる例です)が多く、この状況下でなくても全く観劇する気が起きないようなものでした。

 しかし、そのような中でも興味深い作品が徐々に上演されるようになってきました。ルーティンワークとして、いくつかの作品の感想を残しておきます。

 

7/20 DULL-COLORED POP 『アンチフィクション』@シアター風姿花伝

 

 観劇を再開するにあたり、作品のテーマである「今の時代にどんな物語が可能なのか? コロナ禍の中、演劇は一体どんな物語を生きるべきか? 劇場とはどうあるべきか?*1」という問いはとても重要であると感じたため観劇。予想以上に素晴らしい作品でした。

 作品は、主宰・谷賢一が、作・演出・出演・音響・照明をこなすという徹底的な一人芝居の形式で上演されます。

 作品冒頭で「私(「演じる私」であり「書いている私」でないことを強烈に留意する必要があります)が語ることは全て本当であり、私が語ったことは全て本当になる。私は本当のことしか喋らない。フィクションを喋らない」と宣言されるように、序盤はコロナ禍という濃厚な現実を前にして物語が書けなくなった劇作家(「書いている私」)の懊悩*2がやや大袈裟に描かれます。  

 この時点では観客は、これは「書いている私」が実際に経験したことかもしれないと思うことができるかもしれません。

 しかし、徐々にファンタジックな方向へ物語は進み、鈴木福を名乗る怪しい男性が差し出すMDMAの亜種の手助けも借り、「演じる私」は死の象徴であるユニコーン*3に直面し、人生とは何かという問いに一定の答えを見出します。

 この作品の中で語られることは、もちろん「書いている私」「観ている観客」にとってはフィクションでしかありません。しかし、「演じる私」にとってはそれは紛れもない現実=「アンチフィクション」であるということが宣言され、それを受けて「書いている私」がそれでも物語を描き続けようとする姿が提示され、舞台は幕を閉じます。

 

 この作品で印象に残ったことは、物語、フィクションとは何か、なぜこの環境下で無効となる物語が多いのかという問いに対する作者の考えでした。

 作者は、本来カオスである自然状態に耐えることができない私たちが、それを理解しようと考え出した強い「だから」が物語の本質であると述べます。

 しかし、「通り雨に降られるようにして人が疫病にかかり、偶然に死んでいく現在、時として現実には「だから」がない、ということが強烈に示されてしまっています*4。そんな現実を目の前にし、作者は新しい「だから」を生み出す必要があるのだと述べています。

 

 もちろん、作中でも述べられるように、他者の物語に興味や共感、感情移入を抱くためにはある種の心理的な安全が必要であるから*5というのも理由の一つではありますが、それだけではないのだろうなぁと思いました。

 ちなみに、個人的には「アンチフィクション」を特徴付けているのは、解釈の余地はあるが反駁の余地はない、ということなのかな、と思っています。

 

 この作品を観てもう一つ考えたことは、作品がある、というアンチフィクションについてでした。もし、ある作品が、観客や作者が体験している現実と独立に存在しているなら、「面白い作品はいついかなる状況、誰が観ても面白い」となり、この作品中で語られるような苦悩は生まれないはずです。しかし、作品の意義、受け取られ方はその環境によって大きく変容していきます。言うまでもなく、それは作品自体が私たちの現実の中に存在しているからです。そして、その存在は私たちにとって突然、どうしようもなく(「だから」がなく)もたらされる物です。音楽はイヤホンを外せば、テレビはリモコンを操作すれば、本は閉じてしまえば、映画は電気が消えてしまえば、その存在から距離をとることができます。しかし、演劇を始めとした舞台芸術(ライブやコンサート、ダンスも含まれます)は他の現実と同レベルの確かさを持ってその場に存在し、観客は心身全てで作品と向き合い、反駁せずに解釈し続けることができます。それが自分が思う演劇の魅力なのかもしれないなと今は思っています。

 

 

7/27 屋根裏ハイツ『ここは出口ではない』@こまばアゴラ劇場

 今年度からこまばアゴラ劇場の支援会員になった関係で観劇。会員はアゴラ劇場+連携劇場での作品を原則無制限に観劇することができる制度の中、4月以来初めての公演となりました。

 年会費も3万円と一回公演が3-4000円することを考えると格安なことはメリットの一つですが、自分から探して予約しようとは思わない作品、よく観る作品とはテイストが違う作品との出会いとのハードルが格段に低くなるのが最大の魅力だと感じています。

 芸術監督の平田オリザさんが「作品が面白くないと感じても、なぜ面白くなかったのかを考えるのは面白い」と述べるとおり、作品自体の面白さと鑑賞体験の面白さはまた違ったところにあるのかもしれません。

 

 この作品は再建設ツアーと題され、過去2作品を再演する企画のうちの1作でした。当日パンフレットにもあるよう、小部屋での会話を屋根裏から覗き見るような作品でした。

 作品は何らかの災害*6を背景としていますが、静かな、方向性が薄い会話が大半を占めており、エキサイティングなものではありません。

 

 テーマは死者、喪失とどう向き合うかということのように感じましたが、明確な機転(「だから」)がなく「いたじゃなくて今もいる」という結論にたどり着きます。そもそも、死者役の生者が舞台上にあがり、生者役の生者と同様に扱われるという舞台構成が雄弁なこの作風であれば、結論を作中で言葉にせず、ふんわりと着地させてもいいんじゃないかとは感じました。独特の味わいがある作品で興味深く見ることができました。

 

7/29 屋根裏ハイツ『とおくはちかい(Reprise)』@こまばアゴラ劇場

 こちらも同系統の作品ですが、震災を背景にしていることが明確にされています。こちらは過去と向き合うか、といったテーマについてですが、「思い出すとかじゃなくてある」といった結論がやや唐突*7に明示されます。2作続けてみることで、このカンパニーに漂う空気感を少し掴めたような気がしました。

*1:公式HPより引用

*2:解題より引用:「恋に落ちたり、青春を燃やしたり、人生の選択に迷ったりする物語はどうしても今書く気になれない。現実で生きるか死ぬかをやってる時に、そんなことを長々と時間をかけて観客と語り合う気にはなれないのだ(演劇とは観客との対話だと私は考えている)」

*3:解題によると12-3世紀の中世ヨーロッパで実際に語られた伝説だそうです

*4:その状態をシェイクスピアを引用して『世界の関節が外れてしまった』と述べています

*5:個人的な考え(

テーマパーク的なるものについて (卒業によせて①) - Trialogue

)と同意見で膝を打つ思いでした

*6:このカンパニーは仙台出身だ

*7:なくしたと思っていた物が出てきたというエピソードに呼応する形はあります

2020年3月 観劇記

 

はじめに


 研修も1年がすぎ、ついに後輩ができる時期になってしまいました。
 3月は消化器内科で忙しい日々を過ごしていました。自分ではあまり進歩していないと思った1年でも、できないことができるようになり、出来ることはより簡単に出来るようになっていると実感できたのは有意義な1ヶ月でした。
 3月はコロナウイルスの影響で観劇予定の作品が何本*1も中止になりましたが、それでもそれなりに作品を観ることができました。
 観劇は不急かもしれませんが、不要な活動ではない、と小さな声でここに主張しておきます。

3/4 ゆうめい『弟兄』@こまばアゴラ劇場

 前作『姿』が素晴らしかったため、「ゆうめいの座標軸」と称して代表作3作を再演する試み全作品を予約していた。

 この劇団は「作・演出の池田亮の実体験を元にした作品」という触れ込みで、かなり現実に近しい作品を、技巧が尽くされた舞台芸術とともに上演するのが特徴的。しかし、池田亮として登場する人物が「池田亮役」の別の役者であることから分かるように、その全てが真実ではなく、真偽がごちゃ混ぜになった不思議な観劇体験ができると感じている。

 前作『姿』は「両親が離婚するので両親の話をします」という内容で、実父・実母を出演させるというかなり派手な演出が印象的な作品だ。しかし、それだけではなく、両親への愛憎入り混じった感情や、離婚してしまうやるせなさが笑いや明るさ*2の裏に滲み出ていて非常に好印象だった。

 『弟兄』は『姿』にも登場していた「弟」、そして2人を繋ぐ「いじめ被害」というテーマにフォーカスが当たり、池田亮の中学〜大学時代が描かれる。

 前半は池田のいじめ被害、そしてその環境下で生き延びていくための池田の空想*3がポップなタッチで描かれる。

 しかし、そのいじめは池田が長距離走で学内1位になったことで唐突な終わりを迎える。

 中盤はその後に高校に進学した先で出会った「弟」との交歓が描かれる。「兄」池田と「弟」はいじめから自由になった環境で、初めて信頼できる他者と出会い、コンビニでたむろしたり、川べりではしゃいだりなど、たわいもないが幸せな時間を過ごす。

 しかし、卒業式の出し物で弟と兄が『悲愴感』という曲を披露させられたことをきっかけにその蜜月は終わってしまう。兄が「あんなものただ人前で踊るだけじゃん」と捉え、前向きに物事に取り組めたのに対し、弟はいじめ(他者に自尊心を侵害された)体験がフラッシュバックしてしまい、うまく踊れない。さらにその後、「これ以上のことがあるなんて、無理だろそんなの…」と将来を悲観するまでに至ってしまう。

 そんな弟の感情を兄は理解できず、励まそうとして「あんだけでそんなに考える?」「え、俺はそんなに辛くないけど」という言葉をかけてしまう。

 両者はこのすれ違いをきっかけにほとんど連絡を取らなくなってしまうが、弟は池田が教えたアニメーションなどの娯楽に没頭し、問題を先送りしてしまう。

 終盤では、大学に進学したり、異性とパートナーシップを結んだりと、社会的にある程度立ち直ったに見える池田が、過去のいじめ体験に囚われる姿、そして、同様にトラウマによって大学に通えなくなった「弟」が最終的に自死したというエピソードが描かれる。

 そしてクライマックスでは、「現在」におけるいじめた側(前回までは伊藤華石という名が明かされていたそうだ)と池田の対話が描かれる。しかし、例によっていじめた側は大したことと捉えておらず、池田は「弟」のエピソードもあり、激昂し伊藤を詰る。その声も届かず伊藤は「もっと深い話したかったんだけどな」と立ち去ってしまう。

 しかし、芝居はここで終わらない。「弟」が好きだった東京事変の『女の子は誰でも』をバックに、最後の数分でいじめに対する空想の憂さ晴らしと同様、「こうであって欲しかった」風景が描かれる。それは伊藤へ直接反撃することであり、「生まれ故郷の春日部と伊藤が最低であるという告発」によって間接的に反撃すること*4であった。

 祝祭的なBGMと逝ってしまった「弟」や自分の過去などに対するやるせなさが対照的で印象的なラストシーンだった。


3/12 ゆうめい『俺』@こまばアゴラ劇場

 時系列としては『弟兄』の大学生以降にあたる作品。今作品は「俺」の一人芝居であるが、「『斎藤さん』という匿名通話アプリでこういう話を聞いたのでそれを再現する」という設定で上演された。そのため、スマートフォンで常に自撮りをしながら演技し、かつその映像が舞台上のスクリーンにリアルタイムで投影されるというなかなかテクニカルな作品。

 物語は「俺がアニメ『ストライクウィッチーズ』の二次創作で好き勝手やっていたら警察に呼び出された」という奇抜なシーンから始まるが、全体のテーマは「物語は誰のものか」、「切実な当事者性・事情のない物語*5への怒り」と明確になっている。

 しかし、そういった真面目な見方だけではなく、派手にうごく舞台美術を眺めたり、スクリーンの画面のみを観て劇中で「俺」がしたものと同じ体験をするなど、様々な楽しみ方ができて非常に興味深かった。

 昨今の状況や、スマートフォンで配信できるという特性を生かし、現在リモート公開稽古と称してほぼフル尺の作品を観ることができる*6スマートフォン/オンラインで観劇されることに最適化された演劇という特徴もあり、劇場で観るものと遜色ない観劇体験ができるはず。投稿日(4/12)16時から「本番」とのことなので、時間を持て余している方はぜひ。


3/16 ゆうめい『弟兄』@こまばアゴラ劇場

 『光の祭典』を一緒に観にいった友人と再び観劇。

 こちらはあまりお気に召さなかったよう。確かに、内容のダイナミズムという点では大したことない*7ため、やや形式や現前性を楽しむ要素が強いのが一つの要因かもなと感じた。


3/17 スペースノットブランク『ウェア』@新宿眼科画廊

ドラマとカオスを縦横するスペースノットブランク。CHAOTICなコレクティブによるDRAMATICなアドベンチャー。ダウンロードとアップロード。HIGH & LOW。物語とキャラクターと本人と別人が脱ぎ着する、母音だけでコミュニケーションできる「場所」。実存しない物語とキャラクターを、実存する本人が「上演」というシチュエーションを用いて実存する別人の目覚ましを鳴らそうとするための舞台。

  とのコンセプトの通り、かなり抽象的で前衛的な作品。

 ストーリーもかなり解体されている上、役者と登場人物が結びついていないため、筋書きを追うので精一杯だった。元々ダンスユニットということもあるのか、脚本はあくまで発話を含めた身体活動の題材と捉えているのだろうか。評論家による前説がないと全く理解できなかっただろう。

 不思議な作風なので、気になる方は期間限定公開されている別の作品の公演映像

(30分程度だ)を眺めてみると新しい体験ができるかもしれない。

*1:映画美学校『シティキラー』、True colors dialogue『All sex I've ever had』, ゆうめい 『あか』, PARCOプロデュース『ピサロ

*2:離婚が決定的になるシーンで、実父がモーニング娘。ハッピーサマーウエディング』を踊るなど

*3:桜庭一樹風に言えば「砂糖菓子の弾丸」

*4:こちらは作品を上演することで達成されている、というのがこの作品最大のギミックだろう

*5:ゆうめい は極めて当事者性の高い物語を上演している

*6:

田中祐希: "6回目の稽古配信です。よろしくお願いします。"

*7:実話の範疇を超えられていない

2020年 2月 映画について

はじめに

 先月から家の近くにある名画座の年間会員になりました。

 せっかくなのでこの1年だけは映画(劇場で観たものに限る)についても軽く記録を残しておこうと思います。


 これらの映画はAmazonプライムNetflixなどのおかげでいつでもどこでも観られるようになっているので、あらすじについて触れることはしません。興味が湧いた作品があれば是非観てみてください。


2/13 『幸福なラザロ(英題: Happy as Lazaro)』

 初っ端から濃厚な宗教映画を見せられてびっくりした。

 聖性を帯びる程の純朴さを見せつけられるのはどこか爽快で、幸福感のある体験だった。そして聖性が具体化したのが音楽であったり、狼であったりするのだろう。

 ただ、「復活後」の展開がご都合主義的なのは仕方ないと思いつつも、最後まで違和感が拭えなかった。きっとキリスト教徒はラザロの聖性による奇蹟と納得できるんだろうなとも思った。

 もちろん、中世的な小作農のシステムの被害者そして加害者までもが、都市のシステムによって搾取されるという社会批評的な側面があるが、どこか真剣に取り組みきれてない印象があったのが残念。

 


2/20 『存在のない子供たち(英題: Capernaum)』

 名画座のお作法として、「2本立て作品の場合はなんらかのリンクを持たせる」というものがあるらしい。

 この作品はレバノン映画で、イタリア映画の『幸福なラザロ』とは舞台も時代背景も大きく異なるが、「システムとそれに搾取される弱者、そしてその抵抗」というテーマは確かに似通っていた。


 『ラザロ』の場合はシステム=前半は地主・小作農/後半は都市・現代ビジネス、弱者=小作農・ラザロ/後半は元小作農・元地主、抵抗は「ひたすらに純朴であること」であったが、こちらはシステム=国家/家庭、弱者=難民/子供、抵抗は「親を「自分を産んだ罪」で訴える」といったもの。


 こちらはより社会派な作品で、ややドキュメンタリーチックに描かれていた。そのおかげか、シリアスな問題をしっかり伝えられるだけの強度がある作品になっていたと感じた。

 
 

2/24 『ミッドサマー』@TOHOシネマズ日比谷

 ネット上で評判が良かったため観賞。


 基本的には「トラウマからの解放+明るめのフォークホラー」といった内容で面白く観ることができた。

 牧歌的な風景、ポップな衣装や小道具と、丁寧に予告されたエログロ表現の対比というのもなかなか新鮮で、話題になるのも納得の出来だった。


 一方で、序盤、村にたどり着くまでの導入がやや雑で、「妹が両親と無理心中した」といった事実が主人公にとってどれほどトラウマになっていたか、なぜそうなのか、という点が観客と共有できていないという印象を受けた。

 そのため、解放への希求によってドライブされるはずの物語が、純粋にカルト村の設定をめぐる物語のみになってしまったのは片手落ちのように感じた。


 さらに残念な事に、その設定も日本の観客には横溝正史三津田信三のような民族ホラーでお馴染みのもので、最後まで特に驚くべき点はないように思えた。 

 そもそも、「主人公達と一緒に世界/舞台の謎を解き明かそう!」といった内容の作品は、作者が事前に準備していた各要素をどういう風に観客に呈示するか、というテクニックだけの勝負になってしまうのであまり面白くないと感じる。 それだけなら設定資料集で十分で、「その設定を用いて作者がいかに実験/冒険したのか」ということに興味があるのだなと感じた。