Trialogueについて

 

ご挨拶に代えて

 まずはこの場に訪れ、さらにはこの記事に目を通して頂いたあなたに最大限の感謝を申し上げます。初めまして、私はらりー(id:stmapplier )と申します。

 

 ここは「私と誰か、そしてあなた、その3者間の対話(Trialogue)の場」にしていきたいと私は考えています。

 

 ブログという性質上、「私と誰か(の文学、音楽、演劇、サービス、製品)」という記事が多くなりますが、同時に「"誰か"を介して私とあなたの間」に、そして「"私と誰かの対話"を介して誰かとあなたの間」に生まれる対話も志向しています。時には「誰か」を乗り越え、 「私とあなたの間」の直接的な対話を目指すこともあるでしょう。

 

ただ一つ求められるもの・守るべきもの

 

 対話の本質はその双方向にあります。コメントやトラックバックを頂いた際には、その内容をできるだけ真摯に受け止め、打ち返したいと思っています。

 

 対話が続いていくのに必要なことはただ一つ、思うままにあなたの言葉を、物語を表出することです。そこには義務も倫理も役割もありません。しかし、それが快適に続くためには、ある程度共通した「作法」が必要です。そのヒントとなりうる記述を一部引用したいと思います。

 

  • 「世のため人のため」ならず。まずは「自分のため」にすべし。
  • 自分に閉じ込めるべからず。開いて他者と共有すべし。
  • 自分にとって痛いことこそ要点なり。
  • 他者の表出はていねいに扱うべし。
  • おためごかしは無用のこと。
  • 自他を混同しないように気をつけるべし。

          貴戸理恵『「コミュ障」の社会学青土社 pp.191

 

 万人に優しく開かれた対話の場を保つためにも、このシンプルな「作法」は非常に有用であると感じます。自分の物語を語る時、誰かの物語を聞いた時、突発的に言葉を発する時、この「作法」を守れているか、自分に問い続けたいと思わされます。

 

もう一つのTrialogue

 Trialogueという言葉にはもう一つの対話への願いを込めました。「なるべき」自分、「なりたい」自分、「今ここにある」自分の3者の間に起こる対話です。

 

 社会・都市が「なるべき」姿を明示的、黙示的に与える、その圧力をひしひしと感じながら私は、「私は生きていくため、欲望を叶えるため、自由を勝ち取るためには意識的にその姿に迎合しないといけないタイプの人間である」とこれまで思ってきました。

 そして、そんな圧に身を委ねるうち、目的だった「なりたい」を忘れ、手段であったはずの「なるべき」姿に「なりたい」といつの間にか錯覚していました。

 

 しかし、「なるべきだった」自分と「今ここにある」自分が一致していること/その認識は、他人/他人がどう思っているかという自分の認識」というひどく操縦性が悪い(ごく稀に完璧に乗りこなせる人もいますが)、努力量と強くは相関しないものに依存します。

 そのため、否応なしに「なるべきだった」自分と「今ここにある」自分のギャップを認識することになります。しかし、自省的で悲観的な性格は、そのギャップの原因を「私のせいだ」と曖昧に捉え、「今ここにある」自分が志向する姿の再検討ではなく、努力*1することで縮めようとしてしまいました。

 そんな中で「なるべき」姿は再強化され、努力に限界が来たときに訪れるであろう、「なるべき」私になれない私はもう無価値である、という絶望の足音も感じていました。

 

 しかし、私が大好きで大嫌いだった、人、小説、音楽、映画、漫画、演劇、評論、工業製品、サービス、都市、社会といったありとあらゆる事物は「私の物語」を受け止め、その解釈を、ずっと前から提示してくれていました。そして、彼らはそれだけではなく、分析するための言葉、立ち向かうための戦略、勇気、武器までも密かに与えてくれようとしていたのです。

 それなのに私は心を閉ざし、自分自身の「あるべき」姿だけを見ていたために、それらが全く見えていなかった、そのことに最近ようやく気づくことができました。

 

未だ見えない、しかし「今ここにある」あなたへ

 そのような経緯で、私はこの場で「なるべきだった」「なるべき」姿から少しだけ自由になり、「これまであった」自分、「今ここにある」自分を見つめていきたいと感じています。それによって「今ここにある」自分が志向する姿*2が、「なるべき」自分と、「なりたい」自分、どちらの方角を向いているのかを認識し、調整し続けることが、少し楽に人生を過ごすコツなのではないかと考えています。

 

 そして、自分の物語を相対化し、向かう方向を少しずつ書き換えるための方法として、「私と誰か、そしてあなたとの対話( Trialogue )」の試み( Trial )をおっかなびっくりでもはじめてみたい、そしてその過程( log )を残したい、そう思ったのです。

 その手始めに、おそらく人生で初めて「発したい」言葉を使い、おそらく人生で初めて「語りたい」物語を語りましたが、その体験は充実したものになっています。

 

 私と違う、だけど似ているかもしれない、未だ見えない「今ここにある」あなたがこれを読んで、内容の是非は別としても「今ここに」提示されたと認識したこと、それだけで私は十二分に幸せです。ただ、できればこの企みに乗っていただき、その結果として、あなたの中で、あなただけの対話(それはTrialogueではないかもしれません)が生まれれば、これに勝る喜びはありません。

*1:他人に与えられた姿であるために、調整が効かない上に、絶対的なゴールを定めることもできません。虹の根元を目指して走り続けるようなものです

*2:現実問題として、100%「なりたい」姿であることは不可能です。その姿を100%肯定するのは詐欺師か宗教家しかいません