村田沙耶香 『地球星人』について

はじめに

 村田沙耶香の『地球星人』はすでに方々で話題になっていますが、最近やっと作者の出版されている全ての作品を読了したため、今更ですが感想を残しておきたいと思います。

 

感想

 あらすじは

村田沙耶香『地球星人』 - 地球星人の正体とは(ネタバレあり) : としおの読書生活

 がとてもよくまとまっていたため、引用させていただきます。

 

全体を通して

 大雑把に言えば、『しろいろの街の、その骨の体温の(以下しろいろ)』以前の「性,肉体感覚」,「家族」といったテーマと『殺人出産』以後の「社会規範/常識」といったテーマのつながりを1人の主人公の視点から語ることでハッキリと示しつつ、その先の可能性を真摯に模索した、まさに総決算的な作品であったと感じました。

 

 作者の美点の一つに、常識的な解決が見込めない時に、しっかり「無理でした、でも頑張ってみました」という宣言ができる点がある、と私は思います*1。今作もその傾向が強く、主人公奈月とその「恋人」由宇と「夫」智臣*2、が選んだ結末は、「カルト村」的なものでした。

 

 限界集落の中で、裸で暮らし、近隣住宅から略奪し、人肉を食べて「いきのびる」姿は一見いびつで破滅的な結末のように思えます。しかし、この生活の中で奈月は他人と社会に侵害され続けてきた、自分の肉体と情念を取り戻すことについに成功します。さらに3人は、その姿が普遍的*3という確信を得るまでに至ります。

 

 これらは彼らが「普通に」社会生活を送っていた場合には得られなかった「成功」体験であり、その面では彼らは幸せになっていると言えるでしょう。

 

 その幸せにたどり着く手段が『しろいろ〜』*4や『コンビニ人間*5のような穏やかなものにはなり得なかったのは、奈月が受けた侵害がそれほど苛烈なものだったことを示しているのかもしれません。

エスカレートする物語

 この小説の中で最も印象に残った一文は「地球星人なんて、ポハピピンポボピア星人が作り上げた幻想なんじゃないかな」でした。

 

 この文章を話の流れ通りに「常識なんて他人が作り上げたもので絶対的なものではない、だから自分たちで作っていくんだ」という宣言と解釈をすることももちろんできます。しかし、「自分たちのポハピピンポボピア星人的なアイデンティティーを規定する対立軸として、地球星人という仮想敵を作っている」という「ポハピピンポボピア星人」の自白のように解釈することも可能ではないかと思いました。

 

 実際に奈月は「自分のことを、本当は地球星人なのだろうと、どこかで考えていた」と物語の転換点で述べています。ある意味では、「ポハピピンポボピア星人」というのが現実からの逃避、社会から疎外されている感覚が表現されたものだと、当人たちもうっすらと理解していることがわかります。

 

 しかし、彼らはその欺瞞から目を背け、「地球星人」ではないと自らを断言し、「ポハピピンポボピア星人」への生活に身を投じていきます。その生活は「合理的」である一方で極めてディストピア的なものであり、彼らの精神的な満足感の一方で、体は明らかに健やかな状態からはかけ離れていってしまいます。

 

 このようになった原因として、

  • 「〜ではない」集団が「〜である」集団になってしまったこと
  • 「合理性」に全ての判断を預けてしまったこと
  • 「地球星人」の自発性を信じられなかったこと

の3つ(根はつながっている気がしますが)があったのではないか、と思っています。

 

ボトムアップディストピア、あるいは#Metoo

 まず、1点目についてです。当初、家庭の事情でアイデンティティの問題を抱えている状態を、奈月は「魔法少女」、由宇は「宇宙人」と表現していました。もちろん両方とも「人ではない」という共通点はありますが、この時点では2人の物語は「同じもの」ではありません。奈月と智臣の場合はより顕著で、「工場」に「ちゃんと洗脳してもらえなかった人」と表現されています。

 

 彼ら3人は当初、「地球星人」ではなかった、という共通点しかありませんでした。そのためか、彼らの目的は「ポハピピンポボピア星人に"なる"」ことではなく、「いきのびる」ことのみに限られ、その手段として共有されていた「ポハピピンポボピア星人」の物語はエスカレートすることはありませんでした。

 

 しかし、徐々に「宇宙人だから〜する/ポハピピンポボピア星人になるために〜する」*6というように自らの行動の根拠をその物語に求めるうち*7、自らの輪郭を手段であった物語に求めるようになってしまいます。

 

 そして、その状態が極限まで達し、お互いのアイデンティティが「ポハピピンポボピア星人」性にあることを宣言し、目的としてしまった時から、物語は急激にエスカレートし始めます。そして、その明確な輪郭を持つ物語に、「命令」(=物語)に従順な由宇も取り込まれていきます。

 

 このように、 仮想敵(=対立軸)を設定し、人間を”こちら側”と”向こう側”に分け、"こちら側"である事に安心する、という構図は世の中に溢れているように思います。

 そしてその構造は、この小説が示すように物語の暴走*8を引き起こす危険なものなのかもしれません。

 

 この作品と関連したものでは、#Metooというムーブメントにその危うさを感じています。もちろん、各々の女性が受けた被害というものは絶対に許されるものではありません。しかし、1つ1つのケースにおいて被害者も、加害者も、もちろんその間に生じた問題も異なったものであるはずです。

 そのように多様な、その人だけのナラティブを「私も同じ (Me too)」という言葉の下に"こちら側"の物語に統合してしまうことは、本質的な問題を隠蔽し、無用な対立に当人を巻き込んでいるだけのような気がしてなりません。

 もちろん、個々の人間が不快に感じたエピソードの開陳には何らかのエンパワーメントが必要だと思います。そのエピソードが"Me too"ではなく"In my case"であるためには、私たちに求められるのは”I'm with you"、もしくは” I stand by you”という態度ではないかと思うのです。

 

「合理性」という『信仰』 の危うさ

 次に2点目についてです。

 「ポハピピンポボピア星人」としての行動規範は「合理的」かどうかで定められていきます。この「合理性」はロジカルで批判的な思考によって作り上げられたものであり、それが保たれている限りは、ある程度客観的にも「有益な」判断をもたらすものかもしれません。

 しかしその「合理性」も、それ自体を自ら批判的に再検証する態度や、他の判断基準も模索する態度が失われた(=それを『信仰』してしまった)途端に、教条的で危ういものになっていくような気がしてしまいます。

 もちろん今作では、彼らはその「信仰」により内面的な安寧を得ている上に、外部との衝突も最小限に留まっている(専守防衛といえる状況です)ため、彼らの幸せに文句をつけることはできないように思います。

 

 それでも、この「合理性」をはじめとした「信仰」に私は2つの危うさを感じざるを得ません。一つは他の「信仰」を持つ人を裁くようになり、他の「信仰」を持つ人間を精神的にも物理的にも、積極的に攻撃するようになる可能性、もう一つは「信者」内部で「信仰」する対象やそれに対する理解が徐々にずれていき、内ゲバの様相を呈してしまう可能性です。

 

 これらの2つ危うさのうち、前者に関しては、のちに発表された作者の短編『信仰』のメインテーマになっています。

 あらすじを説明します。

 主人公のミキは極めてロジカルな人間で、直感を排除し、「合理的」な形で世界を観ていました。ミキは自ら導いたその世界観に強い自信を持っており、直感に頼った結果「間違ってしまった(=幻想にとらわれた)人々」にそのロジックをぶつけて「目覚めさせよう」とします。しかし、ミキは周囲の人々に感謝されるどころか疎まれることになります。

 それらの体験によって自分の「合理性」への信頼が揺らいだミキは、自分を幻想に「連れて行ってもらう(=洗脳される)」ために以前立ち上げに勧誘された、つまり完全に虚構であることを知っている天動説セミナーに自らを勧誘するよう頼み込みます。

 セミナーは進行し、ミキも努めて「洗脳」されようとします*9。しかし、周囲の参加者がトランス状態に至って幻覚を見ていく中でも、ミキが見たのは「現実*10」だけでした。

 セミナーの内容が嘘だとわかりつつも、心から「信仰」し、それで他人を幸せにしたいと思っていた主催者はそんなミキに対して、「現実」が「あなたのカルマ」であり「一生を共にする幻覚」だと言い放ちます。

 そして、ミキは「洗脳される」ことを諦め、「現実」の中(=地動説の地面の上)で、セミナーの参加費である10万円を返せと叫び続けます。

 

 この短編を読み、私は作者がこの危うさに対するを感覚を持っていることに安堵する一方、自分がこれまで頼ってきた、ミキに似た「合理的」な「幻想」の強固さ、自らの不可逆性を見せつけられたような気分になりました。

 私は自分の感情や感覚が信頼できなかった結果、「合理的」でロジカルな思考に頼らざるを得ず、自分の言葉で世界を捉えようとしていました。そして今日まで宗教ややりがいと言った「信仰」に恐怖にも似た強い違和感を覚え*11、染まることができませんでした。

 しかし、そんな「信仰」できる人々を「騙されている」と「合理的」な思考に基づき断罪する一方、心のどこかでは彼らに対して嫉妬にも似た感情を抱いていました。

 そんな私にとってこの短編は他人事のようには思えず、その分提示された結末に深い納得と諦めを感じてしまいました。

 

「正常」に対する不信感

 最後に3点目についてです。

 これも村田作品全般に共通することですが、「正常」な周囲の人間すべてが「正常であること」に気持ちよくなっている、「正常にさせられている」という認識に登場人物が陥ってしまうことが多々あります。

 

 この作品も例外ではなく、奈月にとって周囲の人間は「工場に洗脳されている」ようにしか思えず、自分も「洗脳してほしい」と思うまでになっています。そして先天的には全員自分と同じような視点を持っていたと考えている、つまり「自分が正常で、周囲は異常、でも異常に馴染みたい」という考えになっています。

 

 もちろん、語り手がこの視点に立つことが、この作品の説得力や強度に繋がっていることは否定できません。そして、自分を異常だとする社会の方が異常であると断言し続けないと自分の正常さを信じ続けられないほど、現代の同調圧力は強いのかもしれません。

 しかしそれでも、社会において優位な価値観は、多くの人が内発的に持っている感覚や価値観を最大公約数的に抽出したものではないのか、そこにある種の妥当性が存在しているのではないか、という検討*12は必要ではないのかと思わされます。

 

男女のコントラスト

 この物語でもう一つ印象に残ったのは奈月と由宇,智臣ら男性陣との間にある温度差でした。

 奈月の視点から語られているために他の人の内面的な葛藤は見えないことが理由かもしれませんが、男性陣は「物語」に対して熱中しやすく、また冷めやすいようにみえる反面、奈月はある程度の距離感を持って物語に対峙しています。

 具体例をいくつか示します。

 最終盤に至り、「男料理」を作る時になっても、由宇と智臣は何の疑問も持っていませんが、奈月は「それをしたらもう「地球星人」の仲間に入れてもらえないんじゃないか」といううっすらとした懸念を抱いています。

 また、奈月は表面上だけでも社会に馴染んでいる大人時代になっても「魔法少女/ポハピピンポボピア星人」という物語を完全に捨ててはいませんが、由宇は社会に進出する際に、その物語を一度完全に捨てています。

 もちろん、智臣に関してはわざとらしいほどに「都会/田舎」「地球星人/ポハピピンポボピア星人」といった2項対立に夢中になっている*13ことは言うまでもありません。

 

 この、「熱し易く冷め易い男性」というモチーフは前作『コンビニ人間』にも見受けられます。ここでは詳しく述べませんが、白羽さんの現代社会に対する態度*14はこの作品における男性陣と似ている部分があるように思われます。

 もちろん、恵子と奈月に共通する点として「ぶっきらぼうで合理的」な性格があり、それが男性陣と違いの原因だ、男女は関係ない、と言う意見にも肯首できます。ここからは過度な一般化であることを承知で、その理由について少しだけ考えてみたいと思います。

欲望の発するところ

 これまでに述べたコントラスト、そして『コンビニ人間』とこの作品の結末の違いの遠因になっているのは、『星を吸う水』、『ハコブネ』といった過去作品でも重要視されていた「肉体感覚」なのではないかと考えます。

 

 男女の「肉体感覚」の違いについては、「ユリイカ 平成25年7月号」の川上弘美高橋源一郎の対談*15に、女性の性欲は肉体から来ているが男性の欲望は視覚と認知に由来する、女性は月経*16という体験を通じて「日常的に清濁あわせて生も死も抱え込んで生きている」といった表現があります。

 さらに直截的なものとしては、斎藤環による櫛木理宇『赤と白』の解説に「しかし実のところ、男性は肉体を持っていない、彼らが『自分も身体を持っている』と思い出すのは、病気など特別な場合だけ」ともあります。

 

 この構造を応用すると、本作と『コンビニ人間』とにみられる「物語」への要求(=欲望)についても「男性のものは認知に由来し、女性のものは肉体と認知のどちらか(もしくは両方)に由来する傾向があるといえるかもしれません。

 この傾向は、『コンビニ人間*17』において恵子が自分はコンビニ店員としてしか生きられないと確信するラストシーンにおいて顕著であると思います。

 恵子は白羽さんが取り付けたクリーニング屋*18の面接に向かう途中で訪れたコンビニで、コンビニの「声」を「頭で考えるよりも先に本能で理解し」、それに従うことで充足感を覚えます。そんな恵子に怒る白羽さんに対し、恵子は「人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいた方が都合が良くて、家族も友人も安心して納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ない」と言い放ちます。ここに「人間の私」(=認知と思考に依拠する社会的な存在)と「動物である私」(肉体と本能に依拠する個人的な存在)の対立が端的に表されています。

 そして白羽さんが後者を理解できない一方、恵子が両方を理解しつつ、後者としての自己実現を選択したことは男女の違いに起因する、ある意味必然的なものであったのではないかと考えます。

 今作で奈月を「ポハピピンポボピア星人」としての生活に駆り立てたのには、社会からの疎外感や伊賀崎先生を殺した、というこれまで隠蔽していた事実に対する罪悪感を軽減してくれるという「人間的」な理由も、もちろんあったと思います。しかし、それ以上に「故障した」性的な感覚*19や味覚、聴覚への違和感*20であったのではないかと思います。

 

 そして、一見正反対に見える両作品の結末も、肉体への違和感を解消するために必要だったのが『コンビニ人間』では「コンビニ人間」的な比較的「穏当」な生活で、今作では「ポハピピンポボピア星人」的な「常軌を逸した」生活だった、というだけなのかもしれません。

 

肉体という足場

 ではなぜ、物語に対する欲求の由来の違いが、物語への没入具合における違いに影響してくるのでしょうか。

 特定の結論を用意することはできませんが、2つの要因を考えてみました。

 ① どちらかの違和感を解消する行為(=物語への没入)がもう一方の違和感を増大させてしまうケースでは、認知と肉体の両方を持つ女性はコミットできないが、認知しかない男性はコミットできてしまう

 ② 実体がない認知は、一瞬で変容させることが可能で、その内容にも制限がない。その一方で、実体を伴う肉体感覚は、徐々にしか変容せず、その内容もにも制限がある

 どちらも荒唐無稽で無根拠な説ですが、どちらにおいても肉体が「現実」に自我を繋ぎとめる足場のような役割を果たしているのではないかと考えます。

 

 これは前項の肉体的な違和感が、物語への欲求を生んでいる、という主張とと一見矛盾しているように思えるかもしれません。

 しかし、肉体的違和感を解消するのは物語への没入そのものではなく、あくまでその物語の下で行われる(普段と違った)活動や感覚であることを留意する必要があります。 これは、認知的な違和感は『〜である』ことによって解消されますが、肉体的な違和感は『〜する』ことによって解消される、と言い換えることとができます。

  そして、『〜である』ことには際限も制限もありませんが、それに比べると『〜する』ことは物理的な制約が伴います*21

 ここで述べたような難しさ、制約は奈月をじわじわと苦しめた一方で、同時に発狂から守っていた*22のかもしれません。

 

今後の展望

 最後に、今後の村田作品に期待する事について僭越ながら述べたいと思います。

 この作品で、既存の価値観の相対化という一つのテーマにはメドがついたのではないか、と個人的には感じています。

 このテーマはいくらでも変奏が効くので、まだトライしていない題材に応用した作品もぜひ読んでみたいと思っています。

 

 しかし、既存の物語を壊しても、放っておくと新しい優位な物語が生まれ、人を絡め取っていき、同じことが繰り返されてしまう*23のではないかと思ってしまいます。

 そのナンセンスなループを断ち切るためにも、十人十色の思考や価値観から、どのように一つの支配的(=優位な)な価値観が形成されてしまうのか、そしてどのように人はその「既存の物語」に絡め取られてしまうのか、その過程が彼女だけが持つ想像力と解像度で描かれた作品があったらいいなと思ってしまいます。

 そして、そのテーマの裏返しとして、優位な物語への隷従に頼らずとも、個々も孤立しない、ユートピアともいえる環境は存在するのか、するとしたらどのようなものなのか、彼女の眼を通じて知りたいと願っています。

*1:『タダイマトビラ』、『ハコブネ』が顕著だと思います

*2:地の文においても名前ではなく、あくまで「夫」という役割で呼ばれているのが印象的です

*3:「あなたの中にも、きっとこの形のあなたが眠っている」

*4:スクールカーストを乗り越えた先の想い人との交わり

*5:労働と局地的なルールへの没頭

*6:特に智臣の近親相姦のエピソードが顕著です

*7:もちろん、ここに「工場」からの圧力の影響があったことは否定できません

*8:ボトムアップディストピアと言えるかもしれません

*9:盗撮されていたことがわかっても続けるよう懇願したり、450万円のコスモストーンアロマポットを安いと断言したりします

*10:「異常事態による集団幻覚。脳内ドーパミンによる異常な快楽。(中略)私には現実が見えます!

*11:「合理性」が警告を発してしまうのです

*12:もちろんそれに従うことが必要というわけではありません。しかし、その検討なく彼らは洗脳されている、異常だと断言することはできないのではないかと思うのです

*13:どちらか一方からデタッチメントし、その反動でどちらか一方にコミットしている

*14:この社会は縄文時代から変わっていないムラ社会だと毒づく一方で、最後はその社会の価値観に基づき恵子を「気持ち悪い、人間じゃない」と罵倒します

*15:余談ですが、この対談で性交時に男性はハードランディング、女性はソフトランディングと述べられているのも示唆的です

*16:もちろん第二次性徴における身体の変化もあると考えられます

*17:中村文則による解説も五感というキーワードから始まっています

*18:恵子と違い、白羽さんにとってはコンビニと可換な存在だと思われます

*19:こちらは一足先に取り戻すことができています

*20:ポハピピンポボピア星人としての生活が描かれる最後のシーンで「私の身体は全て私のものになった」と述べられているのが象徴的です。これ以上奈月にとって語るべきことはないのでしょう

*21:単純な例ですが、あなたが今「自分は殺人者である」と確信し、名乗ることは可能ですが、ナイフも殺すべき相手もいない状態で「殺人をする」ことは難しい、といったようなことです

*22:『しろいろ〜』の「駄目だよ。だって、恋って発狂することだもん。伊吹は狂ってないじゃん。」というセリフにあるように、肉体が発狂することももちろん考えられます。今振り返るとこの作品もスクールカーストという認知的、社会的な状況と伊吹への発情という肉体的な欲求の相克を描いたものといえるかもしれません

*23:インターネットの存在が物語の立ち上がりを加速させている気がしてなりません