運動会の思い出、「体育」という呪い

はじめに

 これは私の運動会の思い出についての記事です。学生時代が終わる前に、どうしてもまとめておきたかったテーマです。

 

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棒倒しの画像 ©︎Ko Sasaki for The New York Times

小学生の頃

 

 「小学生で一番モテるのはかけっこが速い子」というのはよく聞く表現である。

 学校生活がすべての小学生(特に低学年)にとってかけっこが速いことはモテるだけでなく、「高い身分」、身の安全に直結するものであった。

 

 その理由には、日本の近代教育、特に初等教育は導入された時期の問題で集団行動、軍隊教育の色合いを強く残しており、そのため肉体の鍛錬が重要であった、ということはもちろんあるだろう。

 しかしそれ以上に、小学生の私たちは「階級」を求めていた。安定して見下せる、イライラをぶつけられる誰かが必要だったのだ。

 それを決めるために、順位が明確にわかり、個人に属するもので、再現性が高い、個人の努力で大きく変えられない*1かけっこはうってつけだったのだと思う。

 

 教員もそのヒエラルキーを黙認していた。小学生の集団と言う厄介なものを言葉と指導だけで統率することは不可能に近い。発生した秩序を安定させ、いじめなどの形でエスカレートしてしまったケースをフォローする(もしくはするふりをする)しか方法がないことは想像に難くない。

 教員と生徒の共犯関係の下、運動会だけでなく、組体操や班やクラス委員決めなど様々な場で「身分」は再確認され、固定化いった。そしてそれに異を唱える「低い身分」の者の声は、「集団の和を乱すもの」として顧みられることはなかった。

 

 まさに私たちは、「体育」によって統治されていたのだと思う。そして「体育」を楽しむことは「上流階級」の特権であった。その中で、個人が自らの楽しみ、健康のために行う「運動」は教えられることもなかった。

 

 その一方で、私は幼稚園の時から野球、サッカーなど様々なスポーツを観戦することも遊びとしてプレーすることも大好きであった。これらの体験がなければ、一生「運動」を知ることもなく、スポーツも大嫌いになっていただろうと思う。

 中学生になっても昼休みはサッカーに興じることが多々あったし、今でもスポーツ観戦や水泳を趣味の一つにできているのは、幼児教育の賜物であるのかもしれない。

 

 

中学生の頃

中学1年生の頃

 そんな小学生時代を過ごした私は、受験を経て中学生になった。しかし私達1年生を待ち構えていたのはボートレースの応援と運動会だった。

 ボートレース応援団の顔合わせは、顔も知らない上級生が扉を蹴る大きな音とともに教室に入り、怯える私たちを半ば不条理*2に、ひたすらに威嚇する内容だった。

 運動会*3の顔合わせでも同じことが繰り返された。

 そこには、暴力性と肉体に裏打ちされた、逆転不能な統治があった。それはまさしく「体育」であり、私たちの心身は伝統という言葉に思考停止した上級生によって統治されていた。

 受験戦争の果てにたどり着いた進学校でも「運動」ではなく、「体育」が行われていることに絶望し、家に帰って泣いたことを覚えている。

 

 組における競技の練習でも「体育」は繰り返された。1年生の競技は馬上鉢巻取り*4。その競技では、騎馬を組む前に数十秒で騎乗*5の頭に鉢巻を結びつける場面がある。 

 私はそれが苦手で、居残り練習を課せられた。その中で、上級生から「なんでお前はできないんだ」、騎乗の生徒*6からも「お前のせいで居残ることになった」という声を浴びせられた。

 疑問符が頭の中を埋め尽くした。私は組の一員に自ら望んで加わったわけでもないし、勝つためにコミットすることを宣言したわけでもない。居残り練習に付き合っているのはこっちの側で、感謝されることはあれど、怒鳴られることは全く想定していなかったからだ。「運動ができない事は悪で、そのような人間は軽視される」という「体育」のルールを私はすっかり忘れていたのだ。

 そんな事を繰り返しつつ、最初の運動会が終わった。結果*7は初戦負け。試合時間は2分弱、あまりにも呆気ない幕切れだった。

 

 しかし、ボートレースと運動会との間にはその統治の形に大きな差があった。ボートレース応援団は高校3年生しかなれない。しかし、運動会は大規模である分、運動会準備委員会や審判団、運動会審議会(ルールを決める会議)など、統治のために様々な機関が必要で、高校3年生以外の生徒で運営されていた*8

 私は運動会の後、「体育」を逆に統治できる可能性があること知って俄然嬉しくなった。そして、中学2年生の時は準備委員会、3年生からは審判団の一員として活動し続けた。

 

 その後、部活決めでは「体育」会系ではない「運動」部と感じたソフトテニス部に入った。ラケットを振り、友人と汗を流すのはとても楽しかった。

 しかし入部して数ヶ月経った頃、サーブの練習の時に先輩が「入らなかったらコート3周な」と私たちに告げた。その当時は理由が全く理解できなかった*9。私は「サーブが入らない人ほど走るよりもサーブの練習に集中すべきなのではないか」と反論した。「屁理屈をこねるな、黙ってろ」先輩は大声で私を怒鳴った。私はその日に部活を辞めた。

 

中学2,3年生の頃

 中学2.3年生の頃は組の競技活動にも様々なスタンスで臨んだ。もちろん当時は、最初から今年は積極的にやろう、今年は撤退しようと決められるほどには、自分の気持ちを知らなかった。それには先輩の性格、組の雰囲気、期待のされかたなど多くの要因が絡んでいた。

 中学3年生の時のパンフレット*10には「お前は組で一番熱心だった」、「お前に組の命運がかかっている」と今では信じられないような言葉が並んでいる。

 もちろん、その競技が純粋なゲーム、「運動」として好きだったのかもしれない。しかし今振り返ると、当時は「体育」に求められることが嬉しくなってしまって、より求められようとしてしまったのだろうと思う。

 結果は優勝だった。自分の「体育」への服従が報われたような気がして、その当時はとても嬉しかったのを今でも覚えている。

 

 同時期にスキー部に入った。スキーは幼少時からの趣味であった上に、スキー部は強制参加の大会などもなく、時たまホッケーをして遊んだり、合宿*11に出かける、ゆるい運動部だった。

 

高校生の頃

高校1年生の頃

 高校生になった。「統治機構」の一員としての責任は徐々に大きくなり、周囲にいた友人たちも運動会準備委員会、運動会審議会の中枢メンバーになっていった。彼らほどではないが、自分の審判としての活動も充実していた。

 一方、高校1年生の私たちは未だに「体育」による統治の下にあった。私たちは組のため、先輩たちの自尊心のため、伝統のため、儀礼的な顔合わせや怪我人が多数出る練習や競技に参加させられていた。

 そのギャップがより「体育」の理不尽さを私に突きつけた。ついに我慢できなくなった私は先輩の前で窓から脱走する、明確な不参加の意思を伝えるなど挑発的な行動をとり始めた。

 それでもパンフレットには、「練習にはあまり出なかったけどお前ならできる」、「お前を信じている」といった文言が並んでいた。

 「信じている」という言葉は甘く響き、そこにチームの一員でさえあれば受け入れられる、という暖かさを感じた。しかし、それだけで「体育」を信じられるほど、私はおめでたい存在ではなくなっていた。

 

 スキー部の方では部長になった。私は周囲の人間を部活へと勧誘し続けた。今振り返ると、自分は「運動」の仲間を増やしたくて必死だったのかもしれない。

 その中で後輩も少なからず入部してきた。大会に向け真面目に取り組む人、反抗期特有の尖った言動を繰り返す人*12、様々であった。彼らは私をどう見ていただろうか。知りたい気も、知りたくない気もする。

 

高校2年生の頃

 高校2年生になった。ここから2年間は競技も組のメンバーも固定される。

 競技は棒倒し、ポジションは10以上あり、複雑なルールと戦略性、派手な見た目を兼ね備えた花形競技だ。

 その中で私は座衣というポジションに配置された。組に3人しかいない、ほぼ誰にも見えず、ひたすら棒を支え続けるポジションである。もちろん走力も要求されない。

 このポジションはとても嫌だった。目立たない、木偶の坊の指定席だから、試合中はただ耐えるだけだからというだけではない。

 座衣が3人いないと棒は立たないし、競技が成立しないのだ。不参加という決断は私だけのものだけではなくなってしまった。高校2年生の5月に決定的な孤立を生む選択をできるほど私は無鉄砲ではなかった。私の心身は相談も同意もなく*13、競技の成立に必須な「犠牲」に選ばれたのだ。また同じことが起きるのだ、そう思った。

 組のリーダーたちは、そんな役割を他人に押し付けたことすら忘れて、団結を、友情を叫ぶ。攻撃のポジションについた自らの戦果について興奮気味に語る。どうして彼らはその欺瞞に気づかないのだろうかと思いつつも、「体育」会系の人々にとっては当たり前のことであるのだろうと諦め、嫌々練習や競技に参加した。

 

 本番は引き分けの末くじ引きや相手の反則もあり、下馬評とは裏腹に決勝に進んだ。

 決勝も一度は引き分けに持ち込んだ。決勝再試合でついに守備が崩壊したが、同率優勝寸前、望外の準優勝だった。

 もちろん勝てたこと自体は嬉しかった。しかし、その充実感や達成感はもはやその時の私にとっては、自分の認知と矛盾する、ある意味で疎ましいものでもあった。

 そのモヤモヤ感に追いうちを掛けたのが、組の方針であった。一回も棒を傾けることすらできなかった攻撃陣は、「プライド」のために守備陣を解体し、攻撃に重点を置く方針をとった。4回棒を守った守備陣の「プライド」も実績も一切顧みられる事はなかった*14

 

 運動会の翌日、次の運動会に向けて役職を決める選挙が組内で始まった。独裁政権にも官僚がいるように、組の内部にも統治機構があったのだ。

 役職は多岐に渡った。組責任者、応援団長、各学年係のチーフはもちろん、旗手、エール(応援歌) チーフ、アーチ(応援用の絵画)チーフ、襷(応援団がつける装飾)チーフといったものもあった。

 その選挙では、候補を一人に絞った後信任投票が行われ、当選に必要な信任率は役職によって95%にものぼる。

 この投票も苦しいものだった。誰かを苦しめる「体育」の責任者なんてものは存在すべきではないと思っていた。しかし、誰かが反対し続ける限り物事は進まない。

 私たちは信任投票を通して「体育」の共犯者になる。それがとてつもなく怖かった。

 

 こんな中でも、私は組の中で何らか役職に就きたいと思っていた。それが、内部の人間として「体育」に干渉したいという欲望だったのか、組の中で孤立する恐怖からの逃避だったのかはわからない。

 

 私は会計に立候補した。金銭を扱う仕事であり、高い信任率が必要だった。立候補は私だけだったが、不信任になるだろう、と思っていた。 

 結果は98%で信任であった。あまりに予想外の出来事に呆然とした。「体育」ではなく、私に信任票を投じてくれた人のために働こうと考えた。

 

高校3年生の頃

 ついに高校3年生になった。周囲は「体育」で下級生を啓蒙し、統治しようと躍起になっていた。

 私は中学3年生を指導する係を希望した。係のメンバーがあまり「体育」を信じていなかったこともあったし、せめて自分が楽しめた「運動」を指導したいという理由があった。それもあってか、戦略の立案や相手の偵察など、係の一員として仕事をすることにあまり抵抗は感じなかった*15

 そんな中で、私は努めて「体育」を排除して後輩を指導しようとした。練習への参加に感謝こそすれ強制せず、上手い人にも下手な人にも同じように接しようとした。

 それでも、練習試合で戦果を上げた人には感謝せざるをえないし、下手な人が練習に出ないと焦りのようなものを感じることがあった。絶対に当人にはぶつけてはいけないと思い自制したつもりではあるが、人を指導する事はなんと難しいのだろうと思った。

 

 競技の方といえば、ポジションは相変わらず座衣であった。組のモチベーションも良好とはいえず、ほとんど練習に参加しないまま本番を迎えた。

 その初戦、「プライド」のために攻撃に重点をおいた私の組は、あっと言う間に守備陣形を崩された。こちらの攻撃陣が相手の棒に近づけもしないなか、自分たちの棒には何人もの相手プレーヤーが乗っていて、敗戦は火を見るよりも明らかだった。

 棒が傾き始めた。「ライン解消!」「肩入れ!」との怒声が飛ぶ。肩入れ*16は座衣の仕事だ。しかし、私は倒れゆく棒とそれを必死に支えようとするクラスメートをじっと眺めていた。それは「体育」に対するささやかな復讐だったのかもしれない。

 棒が倒れた。組の敗北と「体育」との戦いの終わりを告げる笛の音を、私ははっきりと聴いた。

*1:階級の安定化のためには簡単に変化してはならない

*2:事前に何も伝えず、点呼の際に「はい」と答えると「返事は「おう」って言っているだろ!」と怒鳴ってメガホンを叩きつけるなど

*3:6年生=高校3年生がリーダーシップをとって各学年を指導する仕組みになっていた

*4:簡潔にいえば普通の騎馬戦である

*5:文字通り、騎馬の上に乗る人である

*6:小柄ですばしっこい人でした

*7:8クラスによるトーナメント式であった

*8:文民統制的、官僚主義的と言えるかもしれない

*9:もちろん、「1本1本に集中して欲しかった」と言う好意的な解釈もできる。しかし、サーブが入る=「上手い」人間を優遇し、「上手い」自分の地位の優越を確認しようとしたのだと思う

*10:前日に配られ、巻末に上級生からのメッセージが記載される

*11:顧問の先生の一人は温泉目的で合宿を引率していた

*12:それゆえにスキー部に流れ着いたのだと思う

*13:もちろん、組の勝利のために貢献したいという意思を示していた場合は受け入れていただろう

*14:もちろんスポーツの基本として弱いチームは守備重視の方が勝率が上がる、という事は彼らも知っている

*15:係の結成に際して旅行に行ったり、側から見れば仲の良いグループに見えたかもしれない

*16:棒の下に体を入れ、肩で担ぐ形で支える行為