テーマパーク的なるものについて (卒業によせて①)

 

はじめに


 多くの人は、学生生活が終わると2度と部活に入ることはありません。そこで大学卒業に寄せて、部活が自分にとってどのような場所だったかを少しまとめてみたいと思いました。まずは、序論としてテーマパークという身近なところから始めます。

 

USJの思い出

 大学の同級生8人で、USJに行った時のことを今でも鮮明に覚えている。私たちは勉強会*1のメンバーで、進級試験の打ち上げを兼ねての旅行だった。試験の結果は発表されていなかったが、私たちの中には妙な団結感と高揚感が漂っていた。


 私たちはいわゆる「主流派*2」ではなく、文化部や帰宅部のような、どちらかといえば「それ以外の人」の集まりであった。
 そんな文化の辺境に位置している人間が、メインカルチャーであるUSJにどのように向き合うのか密やかに楽しみにしていた。

 それまでは、私にとってテーマパークと遊園地は同じものであった。つまり、アトラクション、そしてその体験を共有することによって自然発生的に生じる連帯感がテーマパークのほぼ全てだった。それゆえにUSJでもハリーポッターなどのライドに乗って、安全なスリルを味わって終わりになるだろうと漫然と予想していた。
 しかし、私はテーマパークについて何もわかっていなかったのだ。

 

 入園して最初のアトラクションは普通のジェットコースターだった。ハリーポッタースヌーピーもまだそこにはいなかった。寒風吹き荒ぶ2月の頭だというのに、園内は大盛況で多くの人が並んでいた。私はこの先、どのアトラクションに乗るためにもこの行列に耐えないといけないのかと思い、少し憂鬱な気分になっていた。


 列が進み、ようやく乗り場が見えてきたところだった。突然「いってらっしゃい!!」という声が近くから聞こえた。
 驚いて振り返ってみると、声の主は同行者の一人、T君だった。彼は日頃からコミュニカティブな人で、8人の中でも良く遊ぶ人、という印象だった。彼はジェットコースターに乗り、最初の急勾配を登る人々に対し声をかけていたのだった。彼は「これがテーマパークのマナーだ、こうした方が楽しいじゃないか」と言って、私たちにも同じことをするように要求した。むしろ彼は私たちが静かに並んでいるのを訝しむ程であった。

 

 彼が自らのコミュニケーションスキル、明るいキャラクタを見せつけているだけだった可能性もある。しかし、私たちが彼に同調しない中でも一人で大声をだし、両手を振り続けていた、彼の爛々と輝く目が、私たちに見えない何かを捉えていたことは確かなのだと思った。

 
 ジェットコースターは呆気ないほどに終わった。Tくんの楽しみ方に面食らっていた私たちの中からも、徐々に彼の楽しみ方に慣れていくひとが出てきた。そこにはジェットコースターという身体的な経験を共有した事、徐々にUSJという環境に慣れてきたことなどがあったのかもしれない。彼らはスタッフや他のお客さんに普段使わないような言葉や態度で接しはじめた。
 
 しかし、その後も私の心身だけはテーマパークへの参加を拒み続けた。テーマへのコミット、没入、それがこの場で楽しくなる、この場が求めることだとわかっていても、それを信頼しきれず、私は現実を手放すことができなかったのだ。
 私にとって、見知らぬ人に大声でいってらっしゃいと声をかけることは不自然なことであり続け、ミニオンのバナナ饅頭は黄色く気味の悪い、出来のわりに高い食べ物でであり続け、マトリックスシアターのお姉さんは、必死に私たちを「テーマ」へと勧誘する道化であり続けたのだ。

 

 一方で私はこれを声に出す、つまりミッキーマウスが着ぐるみだと指摘する類の行為が他人のテーマパークの体験を根本的に損ない*3、その場における自らの他者性*4を決定づける行為であることもわかっていた。
 フィクションを内在化し、取り憑かれた人間は、自力でそれを脱ぎ去ることは難しいどころか、それが真実でないと指摘する声をこれ以上なく敵視することは、宗教戦争をはじめとした歴史を振り返っても明らかだと感じる。

 つまり、私はフィクションの中に没入することはなく、フィクションが存在するという現実を羨望と微かな嘲りをもって、その内側にいながらにして静かに傍観していたのだった。恐怖心という殻を被った私の心身は、外気を閉じ込めた海中の小瓶のように、生きのびるために必要な現実を抱えて虚構の中を漂っているようだった。

 

もう一つの思い出

 

 私たちは帰路に着いた。彼らはハリーポッターの杖やスヌーピーのぬいぐるみを抱えていた。私にはそれが夢の抜け殻のようにも、残り火のようにも見えた。
 手ぶらの私は、諦めにも似た寂しさを抱きながら、小学6年生の時にディズニーランドに行ったことを思い出していた。


 親戚のおじさんが、帰りしな、遠ざかっていくシンデレラ城を指し、「〇〇くん、あれがアメリカ資本主義の幻影だよ」と話しかけてきたことを鮮明に覚えている。もちろん、当時は何を言っているんだ、程度の感想であった。それが決定的な出来事だったとも到底思えない。
 しかし、私は彼と似た視点を身につけてしまい、もはやそれを無視することもできなくなってしまっていた。もちろんわざと捻くれようとしているわけでも、スカした態度を取ろうとしているわけでもない。後戻りできなくなる一線はどこにあったのか、もしくは元々彼と私は同類だったのかはわからない。ただ、私にはそれが唯一の現実であり、普通であり、自明なことだった。


T君の思い出/フィクションへの距離感


 T君と私はテーマパークへの態度だけでなく、様々な面で両極端に位置していた。

 コミュニケーションの様式では、彼はこれでもかと馴れ馴れしい、良く言えばフランクな交流を好んだ。周囲の人の話を聞いていると、それが仇となる事もあったようだ。

 彼がよく誰かしらのファンを自認していたのも印象的だ。プロ雀士からゲーマー、彼は多くのファンを兼任していたように思う。

 もっとも顕著なのは恋愛事情かもしれない。彼は学生時代に一度結婚し離婚した。結婚したきっかけはいわゆる出来ちゃった婚であり、奥さんと子供を大学の近くに移住させて3人で暮らしていた。しかし、詳しい経緯は不明だが、1年後には離婚した。そして、噂話によるとすぐに次の恋人を見つけたらしい。 
 そのエピソードの中でも、彼が一番苦しいのは、今後20年に渡りのし掛かる養育費でも、戸籍にバツがついたことでもなく、親との、あるいは親同士の仲がギクシャクしてしまった事だと述べていたことが最も印象に残っている。彼にとって一番信頼できる、大切にしていたテーマパークは家庭なのだろうと感じた。

 

 一方私は後輩へのLineですら丁寧語が抜けない有様で、よく言えば丁寧、悪く言えば臆病なコミュニケーションが染み付いている。日常会話でも卑屈な愛想笑いが頭の奥から湧き出るタイプの人間だ。

 スポーツなどもよく観戦するが、特にどこのファンか、というのを公言することは少ない。もちろん、勝ったら嬉しいチームや人などはたくさん存在するが、それでも尚、それは可換なもの*5なのではないかという疑念が募り、発言を控えてしまうことが多い。

 色恋沙汰についてもデミロマンティックと自認するほどではないが、随分と縁遠いものになっている。道端で人目も憚らずに抱き合うカップルを見た時の気持ちは、テーマパークで大はしゃぎする同級生を見かけた時と似通っている気もする。

 

 これらの違い、個々のフィクションへの距離感はもしかしたら独立な事象かもしれない。感じているものは同程度で、表出するためのハードルが違うだけかもしれない。それでも、その背景には何か共通の構造が潜んでいると感じることも多い。
 それに関する無根拠な考察を、この序論の締めくくりとしたいと思う。

 

感情への信頼・環境への信頼、もしくは共通点について

 

 簡潔に述べれば、彼と自分の大きな違いは感情、環境への信頼感だったのだと思う。USJという環境を安全で、喜びを与えてくれるものだと信頼して、全力でコミットしていた彼は、同様に自分の中に生じた少しの感情を信頼し、大きなものに育てていっているのだと思う。

 

 一方で最後までUSJを信仰することができなかった私は、私自身の感情について大きな不安感を抱いている。それは、自分の理性を超えたものに対する恐怖でもあり、それに飲み込まれて安全な環境から引きずり出され、望まぬ方向に変革させられる恐怖である。そしてそれは、感情を喚起する他者、環境に対する不信感に由来しているのだと思う。

 

 その一方で、私は彼の信仰の裏に、自分と似た不安を見出せる気もしていた。それが何に対するものなのか捉え切ることはできなかったが、それは他者の不在下で自らのアイデンティティを定義できない*6ことに由来する、何かしらにしがみ付いていないと、どこかに飛ばされてしまうような恐怖感だったのではないかと今になっては思う。

 

テーマパーク的なるもの


 本項ではフィクション/物語、あるいは一つのテーマを比較的無根拠に共有し、それを前提として普段では起こらない、擬似的*7で不自然なコミュニケーションが生じる環境をテーマパーク的なるものと定義した。また、そのような環境では、物語を共有しない他人を排除し、いずれフィクションで他人を裁く可能性があることを指摘した。
 そして、テーマパーク的なるもののへの態度は、自らの感情/今ある環境への信頼感、そしてそこから生じる、根拠なき指示が与えられた時のコンプライアンスの高さに大きく左右されうると主張した。

 

(追いコン用スピーチ原稿、卒業によせて② に続く予定です)

*1:ただ、今振り返ると私は彼らを不安の捌け口として利用していただけのような気がする

*2: (医学部においては)運動部に所属し、そのメンバーを軸に人間関係を構築している人

*3:一方で、それは小学生でもわかる事実ですら隠蔽しないと成立しないテーマパークの脆弱性を逆説的に示している気もする

*4:alienness

*5:明日には変わっているかもしれないもの

*6:自分も含め多くの人はそうだ

*7:嘘ではないが、真実でもない