2019年6月 観劇記

 

はじめに

 先月もいくつかの舞台を観に行ったので記録に残しておきます。準夜勤のせいで本数が少ないですが、一作一作が印象的な作品になりました。

 

6/2 KAKUTA 『らぶゆ』

 これまで妙な恐怖感があって近づけなかった下北沢へ。

 かなりのキャリアがあり、作品が映画化されたこともある劇団の最新作ということで期待していたが、想像以上に重厚な作品だった。

 

 いわゆる「辺境のユートピア」モノ。刑務所の中で知り合った元受刑者4人とその知人*1が、社会から逃れるように移り住んだ福島*2にある山村での共同生活とその崩壊が描かれる。

 この生活は、獄中で自死した男が4人に出所した後の夢として語ったものであり、その彼の存在が4人をゆるく結びつけている。

 

 受刑者の罪状は詐欺、薬物ブローカーと様々だが、彼らからはどこか憎めないような人の良さがにじみ出ている。そんな彼らだからだろうか、同じ工場で知り合った者同士での農業移住と身分を偽って移り住んだ先でも少し怪しまれながらも地域に馴染んでいく。

 こういった作品の定型として、「最初は地元住民に歓迎されて幸せな生活を送るが、徐々に素性がバレて徐々に日々が壊れていく」というパターンがあるように思う。

 1幕の終盤、中村中演じるトランスジェンダーの女性(MTF)の友人*3が売り物のヘロインに手を出して中毒になってしまった彼氏を連れて来る。彼らの生活が、外部からの横暴な闖入者によって破壊されるのかと多くの観客は思ったはずだ。

 しかし、再び幕が開くと男は落ち着きを取り戻し、共同体の一員として受け容れられる。彼らのユートピアはそれなりに強固なものであったのだ。

 その中で惹かれ合う者もいた。元ドラックの売人と交通事故で子を無くした高齢女性、父子を母国に置いてきたフィリピン人女性と詐欺を働いた男、そしてその父とうまく付き合えない思春期の娘。

 もちろん描かれるのは彼らの間にある愛だけでない。修道女を辞めた女*4は神の愛と赦しを説き、地元の名士の娘は村役場で働く冴えない夫との離婚を考えている。ヘロイン中毒の男をその彼女は過剰なほどに案じ、男はその愛に甘え続ける。なかなか子を授かることができない、という「ありきたり」な悩みを持つ夫婦。彼らは人並みに苦悩しつつ、それでも穏やかな日々を送っていた。

 

 しかし、これまたありきたりな言い方にはなるが、幸せな生活は長続きせず崩壊へ向かっていく。やはり受刑者たちの過去は徐々に暴かれ、地元の人々の間に若干の距離ができてしまうのだ。ただ、彼らは同じ家で住み続け、交流も続いていた。

 最終盤にかけて、舞台設定が2011年3月であることが示される。彼らの偽りの生活を決定的に破壊したのは自然という、さらに外部の存在であったのだ。

 

 震災によって暴かれるのは、磐城にアルバイトに行っていたというヘロイン男の嘘だけでなく、様々な真実が一気に露呈することになる。その中でも苛烈なのが、ブローカの男から買った薬が原因で、女の息子が交通事故死したという事実だろう。

 この2人が感情をぶつけ合うシーンは凄みがあった。崩れた家の下敷きになった男に「私の願いの方が強かったねぇ」*5と言い放ち立ち去る女、元修道女が彼の元に駆け寄って手を取り、主の祈りを繰り返し唱える中で「本当は神様や許しなんてどうでもよくて、あんたと一緒に居たかっただけかもしれない」*6と吐き捨てる男。女の怒りと男の後悔と諦観にどこか背筋が凍る思いだった。

 

 しかし、この舞台が素敵なのは、「残酷な真実が露呈しました、終わり」とならずに一縷の希望を残すことだろう。彼らは元の生活に戻っていくが、父娘はお互いを理解し、名士の娘も元の鞘に収まる、そして一時は相手の死を願った女も元売人と共に過ごすことになる。そこにどんな経緯があったのかは描かれない。

 ただ、そんな少し暖かい結末を導いたのは何かをを許すことかもしれないし、何かを愛し続けることなのかもしれないなと思った。そしてそれは綺麗な「love you」ではなく、母国に帰るフィリピン人が発した東北訛りの「らぶゆ」のようにちょっと野暮ったい、それゆえに心からの気持ちなのかもしれないと柄にもないことを思った。

 

 余談にはなるが、あれから8年、図らずも震災をテーマにした舞台を見ることになって少し驚いた。少なくとも震災を歴史上の出来事として消化しきれない人々にとって、今も「震災後」の世界は続いているのかもしれない。

 

6/5 STRAYDOG『おとうさんとわたし』

 固定ファンも多い、音楽モノの芝居を観た。

 内容自体はよくある「好きなモノを追い求めるっていいよね〜、いつか理解されるよ」といった売れないバンドマン、演劇人の自己弁護的なストーリーの範疇を脱していないと感じてしまった。

 さらに、その一生かけて提示したいほど好きなモノの内容が「BIG FACE」「(顔が)デカいナガい」というのがあまりに貧相だと感じてしまった。

 それでもある程度の説得力を持たせることができるのが、音楽のなせる業なのかもしれないと思った。

 

6/9 モダンスイマーズ『ビューティフルワールド』

 当代随一の脚本家との声もある蓬莱竜太が所属する劇団の20周年記念公演。 

 3月に観た『母と惑星たち、および自転する女たちの記録

*7 』と同様、シビアな現実を温かく描く彼らしい作品であった。

 

 こちらの内容も広義の「辺境のユートピア」ものと言えるかもしれない。軸となるのはと夫からのDV、モラハラに苦しむ中年女性、衣子とその家に居候することとなった40歳引きこもりニート、夏彦の恋愛だ。

 2人は社会や家庭といった環境から迫害*8を受けており、そこから逃げる様にして結ばれる。それはいわゆる大恋愛ではなく、お互いがお互いを精神の拠り所として必要とした結果の関係だった。

 もちろん、真っ只中にいる2人はお互いを必要としているだけで、別に好意を持っているわけではないということに最初は気づかない。彼らの姿は生き生きとしており、以前には得られなかった安寧を得ている限り両者を峻別する必要はないのかもしれないとも思わされる。

 

 しかし、徐々に2人の関係にも不穏さが漂っていく。きっかけはちょっとした嫉妬や疑念、小さな嘘もあったかもしれない。しかし2人のすれ違いの最大の原因は安らぎと「誰かに求められた」というだけで夏彦を少しだけ尊重する様になった周りの人々からの承認を得たことによって、お互い*9が相手を必要としなくなったことだった*10

 

 そしてすれ違いはどんどんと大きくなり、2人の精神状態は以前の様に落ち着かなくなってしまう*11。しかし、喧嘩をする様になっても意見をぶつけることなく有耶無耶に済ませてしまう。それは、お互いにとって相手は拠り所となる「生存に必要な存在」であって、意見をすり合わせるほど興味をもてる存在ではなかったからなのかもしれない。

 

 2人の関係はやがて終わりを迎えるが、その終わり方がこの作品の白眉だろう。2人は喧嘩別れをするのではなく、他人のはちゃめちゃな恋愛沙汰*12を見た夏彦が世界を面白いものとして肯定的に捉え*13、そこにコミットする手段として衣子の庇護の元から旅立つ(「 どうだっていいって思ってたけど、今ははっきりと逃げたいと思えてるから」)ことを決意するのだ。

 そして衣子も一時は食い下がるが、別れを受け入れる。そして別れ際に「きっと気にいるよ」というこの作品の核心を夏彦に投げかける。 2人で過ごした時間と味方ができたという経験は、周囲に迫害され続け、心を閉ざしてしまった夏彦が環境を「気にいる」きっかけとして必要であったのだろうと思うし、きっとこの他の手段では達成できないものであったとも思う。

 愛する、肯定できると言い切らない、「気に入る」という控えめな表現がとっても素敵だと思った。

 

 夏彦も当初は何を「気にいる」のかわからなかったが、帰路、兄夫婦が妊娠したと聞いて兄に同じように「きっと気にいるよ」と声をかける。「何を?」と聞き返す兄に夏彦は「セカイ?」と答えて物語は終わる。

 ここまで直截的に表現されたことには驚き、少し興ざめだと思う反面、衣子と別れて一人になった後でも、夏彦がここまで「セカイを気にいる」ことに希望と確信を持っていることにどこか救われる様な気がした。

 

 演劇作品には珍しく、戯曲が刊行されている(「すばる 7月号」)ので興味がある人はぜひ手にとってみて欲しい。

*1:娘、友人と様々である

*2:脚本家の出身地らしい

*3:2人は過去に交際していた

*4:元々福島に住んでいた

*5:うろ覚え

*6:こちらもうろ覚え

*7: 2019年3-4月 観劇記 - Trialogue

*8:前半はその迫害を事細かに描くことに費やされる。このことが後半の説得力を増している

*9:特に夏彦

*10:「ただ、ちょっと楽しいと思うにつれて衣子さんのことがだんだんと…」

*11:「あれ、なんだろうこれ、夏彦くんがだんだんあの人みたいになってきてる」「あれ、いつの間にかお父とお母にあたっていた時みたいになってる、なんでだ!?」

*12:BGMも相まって劇場で大笑いしてしまった

*13:「いいなぁ、叫びたい!俺もあそこに入って、罵倒して、罵倒されて!あぁぁ、叫びたい!」