アーバンギャルド 『少女都市計画』について

 

はじめに

 先日、とある演劇を観に行きました。その劇団名があるCDアルバムと似通っていたこともアンテナに引っかかった理由の一つでした。

 演劇は素晴らしく、さらに自分がそのCDから感じ取ったものと同様のメッセージが込められていると感じました。後にその劇団の処女作ではバンドの曲が多数引用されていたことを知りました。

 もちろん鑑賞は極めて個人的なもので、正解不正解はないのは重々承知です。ただ、同じものに触れた人間が似たメッセージを受け取っていた、というのは否応なく嬉しいことでした。

 

 デリケートな作品の分、おっかなびっくりにはなりますが、彼ら/彼女らに背中を押される様に2つの作品について感想を残しておきたいと思います。

 

全体を通して

概念の娼婦

 このアルバムを通して描かれるのは「概念の娼婦*1」が主体性を取り戻す過程であると感じました。

 

 エリクセンのライフサイクル論をひくまでもなく、青年期は男女問わず、自己同一性の確立が大きな課題となります。しかし、その時期に男女が置かれている環境、社会との距離感はその性別により大きく異なるように思います。

 

 現代社会において、青年期の女性は行動ではなく存在に対して需要/欲望が発生してしまう存在と言えるかもしれません。それは生物学的な理由だけでなく、絵画から文学まで様々な文化が彼女たちの肉体に纏わせてきた憧憬や幻想によるところも大きいと思います。そしてその欲望は否応なく彼女たちを社会へ巻き込んでいきます。

 それは暴力や「JKビジネス」の様な搾取など、わかりやすい被害者-加害者関係の形をとることもありますが、もう少し穏当で隠密な共犯関係のような形をとることもあるように思います。

 

「説明しよう、都会の仕組み」

 そもそも、取引や行為が成立するためには買う人と売る人の意思が一致することが必要です。さらに、消費社会において私たちは常に代替可能な消費者として求められています。

 

 例えば、私たちはコンビニに行き「欲しいもの」を買いますが、それは同時にコンビニが「売りたいもの」でもあります。また、私たちがコンビニに行きたくなる時もそうでない時も、同時に私たちはコンビニの経営者から消費者として求められています。ただし、売る側の欲望は、私たちの「欲しい」という感情を惹起させるような広告で上手に隠されており、なかなか表沙汰になることはありません。

 

 このように、私たちの周りにあるほぼすべての事物は私たち一人一人の「買いたい」欲望と私たちの中の別の人の「売りたい」欲望が結託した産物*2と言えるのかもしれません。そしてそれが私たちの周りをパッチワークのように埋め尽くし、都市を形作っているのだと思います。

 

 もちろん、売りたい/買いたい欲望の力関係は対等ではなく、それが反映されたパラメータの1つが価格(≠価値)*3なのだと考えます。

 そして、価格は単純に欲望のバランスを表したもので、価値*4とは因果関係を持たない*5ことを常に意識する必要があると思っています。

 

「少女性」について

 そのような社会において、買い手は売り手に対して常に「売るように、売るならばいい売り手*6であるように」という一方的な欲望を持っています。

 その欲望は極めて身勝手であり、本来無下にできるようなものです。存在が欲望されることは、他人に媚びない「強い売り手」となり、都市における自由を確保できる特権的なことですらあるように思います。

 

 しかし主体性が確立されていなかったり、他者に従順な気質を持っていたり、経済的/精神的に独立していなかったり、自分の価値を信じられなかったりする人間にとって、その要求を完全に無視することは難しいどころか、自分に価格や指針、アイデンティティを与えてくれるように感じてしまうのかもしれません。

 そして、価格と価値を混同した人間であれば、「価格がつかない」と「無価値である」という認識に陥ってしまい、なんとか自分に価格を付けてくれる「買い手」を強烈に要求することも理解できます。

 

 もちろん、前述した要素(弱さと言い換え可能かもしれません)は社会的(学校/部活/職場などあらゆる集団にいる)な人間であれば多かれ少なかれ持っている*7のですが、やはりこのような特性は若年者に多くみられると思います。

 

 しかし、同時期の男性という存在が「売り手」として社会から欲望されることはほとんど無いように感じます。彼らは資本主義社会からは切り離された存在であることを大っぴらに許されているように思います*8

 「年頃の女の子なんだから〜しなさい」という表現は多用されますが、女の子を男の子に変えるだけでしっくりいかない表現になるのもそのためかもしれません。

 

 ここまで述べてきたように、「社会から欲望され(需要があり)」、「社会からの欲望に脆弱(未成熟)」である若年女性(存在としての少女)が、社会/都市に生きる人間の病理を最も反映しやすいような気がしています。

 そのような病理に侵されやすい性質を「少女性」、その少女性を備える人間(もちろん男女は問いません)を「少女」と定義し、本論に移ります。

 

アーバンギャルドと「少女」

 アーバンギャルドはこれまで述べてきたような、人間関係や社会の中で主体性が確立されず、第三者の存在や欲望、視線に依存している存在(「少女」、後の作品では「幽霊」と換言されています)が主体性を恢復し、「人間」になる一歩を描いている様に思います。

 他者に欲望されることへの欲望(「ふりむいてもらおうと焦れば焦るほど/ぽつぽつするの」)、もしくは自分への信頼感の欠如の為に、現実の姿と理想の姿の間で自己否定/自己分裂に陥る「少女」の心理を描いた『水玉病』から始まる第1作、『少女は二度死ぬ』を貫くのはそんな「少女」を「僕」が人間として愛してやるよ、そうしたらお前も「少女」を卒業できるよ(『四月戦争』)、といった蔑視にも通ずる強烈なナルシシズムだと感じました。

 

 しかし、この主張は大きな問題を2つ孕んでいるように思います。

 1つ目はいくら「僕」が「少女」ではない、代替不可能な存在として相手を想おう*9とも、その気持ちは「少女」にとっては代替可能なもの、存在の不安を紛らわせるその場しのぎ程度になってしまうのではないかということです。

 ボーナストラックを除いた最後の曲『四月戦争』と『水玉病*10』がひとつながりになり、アルバムがループ構造をとっていることからも、この問題に関しては作者も自覚的であると考えられます。

 もう1つは「少女」を卒業した人間はもう「僕」の庇護を必要としないという点です。それを「僕」もわかっているからこそ、「少女」が成熟しないことを願うのかもしれません(『セーラー服を脱がないで』)。つまり、「僕」の庇護にある限り「少女」は「少女」のままになってしまいます。

 もちろんこれは、当時のバンド-ファン関係をバンドの側から揶揄したものかもしれません。ただ、誰かから欲望されることは気休め程度にはなるが、「主体性の恢復」には繋がらないという問題点は明らかに残ります。

 

 それらの問題点に真っ向から取り組んだのがこの『少女都市計画』というアルバムだと感じました。そして最後に残った結論は「欲望されること」ではなく「欲望できる何かと出会うこと」で「欲望する主体たる自分を発見する」といったものでした。

 

 ちなみに「少女三部作」の最終作、『少女の証明』では前作で解決の糸口として描かれた「欲望」が商業主義や他者によって植えつけられたもの(「欲しいものが欲しいの」)、「価格」と「価値」を混同してしまったものではないかという懐疑(『プリントクラブ』)を前提として「不在の(他人を見れない/他人から見られない)少女」*11の主体性を主張しようとします。しかし、その結末は「もうどうしようもない(『救生軍』)」ものでした。

 

 無論、リスナーを突き放すことが彼らの目的ではない様に思います。そのままではどうしようもないことを指摘した上で、「私たちの青春はあなたのものです」と現実の代替としての機能を果たす虚構として、楽曲を差し出しているのかもしれないという風に思ったりもします。そしてその虚構に触れることは、私たちの「現実」を私たちが漫然と眺めるよりもずっと人生に有用であるような気がしています。

 

個々の楽曲について

 ここからは個別の楽曲について言及していきます。カギ括弧で括ったものは歌詞からの引用です。

M1 『恋をしにいく』

 「あたしのこゝろ 概念の娼婦」

 M5までのSide:Aでは、欲望と共犯関係を結ぶ*12「概念の娼婦」の一般的な帰結が描かれます。

 端緒となるM1では坂口安吾*13を大胆に引用しつつ、「概念の娼婦」という概念の導入と「恋をしに行く=行為をしに行く」というあけすけで強烈な描写がなされます。

 また、「概念の娼婦」である「あなた」が「名前を棄てた」存在、つまり匿名的で代替/複製可能な存在であることも指摘されています。

 

M2『コンクリートガール』

 「イライラしていた 誰でも良かった」

 M2では「コンクリート」ジャングル、もしくは鉄筋「コンクリート」の中に生きる「概念の娼婦」の内面が描かれます。

 その無機質な精神(「脱人間化」とも言えるかもしれません)は生々しい肉体(「血と肉だけ」でできている)と対比され、より鮮やかに描かれているように思います。無機質なテクノサウンドと生ピアノ、生ギターのミスマッチさもその鮮やかさを際立たせていると感じました。

 「あたしだって▼笑うよ▼泣くんだよ」という表現の生命力には驚かされます。

 また、私は冒頭の「イライラ」をアイデンティティ不安と捉えてしまいますが、これは鑑賞者によるところが大きいかもしれません。

 

M3『東京生まれ』

 「また出会って 恋をして それがルールなの」

 視点は「概念の娼婦」を育む環境である都市に向けられます。

 内容はシンプルで、私たちの恋愛/欲望は「都会のルール」に誘発させられたものに過ぎないのではないかといった問いが断定的に描かれます。

 ただ、同時に「死ぬときは皆ひとり」とどうしようもない個人主義を謳うのが彼ららしさだな、と思いました。

 

M4『アニメーションソング』

 「ふしぎだね げんじつ」

 都市の虚構性というものは語られて久しいですが、現実問題として私たちはそこに住み、そこに参画しています。

 そのような”虚構(「▼家庭▼学校▼会社▼国家」)が存在するという現実”の”現実面”にフォーカスを当てつつ、"その虚構の価値観を内在化した結果の「少女性」とそれが宿る現実の肉体"というテーマで描かれているという解釈は可能だと思います。

 

 比喩や突飛な表現が多くてあまりよくわからない(これは決して批判や悪口ではなく褒め言葉です)、というのが正直な感想です。

 

M5『リボン運動』

 「昭和八十余年少女享年」

 リボン運動とはRibbon Campaign であり Reborn Campaignであると作者が語っている*14ように、少女の「少女性」は死に、再度人間として生まれ変わるという基本的なこれまでのコンセプトが再度提示されます。また、その変化に対する両価的(「リボン運動 賛成 反対」)な感情も描かれます。

 方法はこの時点では具体的に示されず、他人の声に耳を貸すな、といった程度の主張に留まりまるように思いました。

 作者のキリスト教的なバックグラウンドを加味すると、聖霊によってもたらされるborn again*15いう概念も見え隠れします。

 この聖霊については次作で語られている、と作者は述べています*16

 

 ちなみに「少女元年」というフレーズは最新作のリードトラックのタイトルともなっています。

 内容もかなりあけすけなメッセージソング*17 となっており、ツアータイトルに至っては「あなた元年」とさらに明瞭になりました。これを考慮しても彼らの主張は10年間一貫しているような気がするのです。

M6『修正主義者』

 「自己批判しろ」

 SIDE: Bと名付けられた後半では、Side: Aや前作までの行き詰まりを打開する(="Reborn"運動を達成する)方法が探られます。

 

 まず初めに、M1-5までの病理の一つである共犯関係を結ぶ原因となった受動性(「好きだといってくれたから 好きになってあげたの」)と、それの裏返しとして別れゆく相手自体への好意の薄さが描かれます。

 繰り返される「自己批判しろ」というフレーズには2つの意味があると感じました。それは”お前なんか別に好きじゃなかった、好かれていたと思ってる甘さを自己批判しろ”という相手*18の自覚を迫る意味は明確に示されています。もう一つは”自分が欲しいと思ったものは本当に欲しいものではないのかもしれない”という自らの感情への批判的検証です。

 その批判を元にして、卑近な表現ですが、”本当に欲しい/好き”とはどういうことかという問いが、この後のテーマになっていると感じました。

M7『少女のすべて』

 「受話器ごし世界が生まれたの」

 これまでとうってかわってロマンティシズムに溢れた作品。大上段に構えたタイトルをこの内容につけること自体がかなり挑戦的かつ示唆的だと感じました。

 「女の子」を「少女」たらしめていた社会的な要素はなりを潜め、劇的な出会いをした「彼」への一方的とも言える感情が描かれます。

 ボーボワールの有名な一節*19を彷彿とさせる「(彼に息を吹き込まれて)あたし女の子に生まれたの」という表現を元のコンテクストのままネガティブに捉えるか、「少女」が"Reborn"して女の子になったとポジティブに捉えるかは難しいところだと感じました。これまでの流れを踏まえると後者であって欲しいような気もしています。

 

M8『都市夫は死ぬことにした』

 「説明しよう 世界の仕組み」

 突然テイストが大きく異なる作品が挟まれます。描かれるのは表現者見習いの苦悩といったところでしょうか。

 照れ隠しのように引用で埋め尽くされているのが、かえって作者の自意識を浮き上がらせているような気がして興味深く思いました。

 全体の流れの中では「都市」=社会的な要素/「夫」=男性性の排除と頑張れば捉えることはできますが、これは牽強付会に過ぎるでしょう。

M9『ラヴクラフトの世界』

 「好きなの」

 最後に種明かしのごとく「概念の娼婦」と実在の娼婦*20の姿が重ね合わせて描かれます(もちろん『修正主義者』からここまで1人の話と見ることもできますが)。

 歓楽街の外れの産婦人科クリニック、エイズ検査の結果を待つ人間*21の複雑な感情、様々な願いをシンプルな歌詞に込めたサビは絶品だと感じます。

 もちろん、検査の結果は描かれずに終わります。しかし、「生まれ変わ」った彼女は「概念の娼婦」ではなく、一人の人間として検査結果を受け取り、その如何にかかわらずその後の人生を自ら歩んでいくのだろうだと思いました。

 

最後に

 以前お話を伺ったとある精神科医の言葉に、「『〜先生じゃないとダメ』という状況は二流。一流は『〜先生がよく理解してくれているけど、〜先生じゃなくてもいい』という状況を作り出せる医者」というものがありました。

 それを援用すると、この作品はきっと一流の作品なのだと思います。

 

 また、前述のように彼らは同じテーマで10年以上作品を作ってきたように思います。活動がひと段落した今、次のステップで彼ら(ソロ活動、特に『生欲』に関してはテーマは比較的似たところにある気がしています)がどのような言葉を発するのか今から楽しみでなりません。

*1:娼婦とは受動的に”買われる”ことを許し、中動的〜能動的に"売る"存在と言えるかもしれません

*2:どちらかが欠けてしまうと取引は成立しません

*3:価格は必ず他者との関係の中で生まれますが、価値は独立して存在することができます

*4:実用性や尊さ、あなたが価値を見出すものを代入してください

*5:ある程度の相関関係は存在します

*6:"いい商品"を提供できる/商品を”安く”提供できる

*7:これがこの作品の普遍性につながっています

*8:それは将来良い「買い手/売り手」になることを期待されるが故なのかもしれません

*9:『四月戦争』では「僕」も明らかにアイデンティティ不安に陥っている=「少女性」を兼ね備えうるので状況はより悪いかもしれません

*10:「水玉病は少女特有の病」で「思春期生理期失恋期を期に発症」するそうです

*11:=『傷だらけのマリア』, マリアといえば"処女"懐胎です

*12:卑近な表現では「恋に恋している」と言えるかもしれません

*13:『恋をしにいく』の副題は『「女体」につづく』だそうです

*14:

アーバンギャルドの少女都市計画 (全文) [テクノポップ] All About

*15:神学は全くわからないのでwiki

新生 (キリスト教) - Wikipedia

をどうぞ

*16:

アーバンギャルドの証明 (全文) [テクノポップ] All About

*17:ガイガーカウンターの夜/ノンフィクションソング」といいこういう作品はこのバンドに限らず区切りの時に出るよなぁと思っていたらギターが介護離職してしまった

*18:これはもしかしたら作者自身なのかもしれません

*19:「人は女として生まれるわけではない〜」

*20:エイズ検査に行」くことが必要な職業はそう多くありません

*21:そもそもこのシチュエーションに深い感銘を受けました。なぜ「エイズ検査に行」こうと思ったか、それを考えるだけで感情が揺さぶられます