2019年 9月 観劇記

 

はじめに

 定時に帰る際に投げかけられる冷ややかな目線もなんのその、先月に引き続き9月も比較的多くの芝居を観ることができました。

 観劇趣味は決まった時間に決まった場所にいる必要があり、医者稼業と絶望的に相性が悪いとも感じています。

 

9/1 feblabo プロデュース『ナイゲン』@新宿シアターミラク

 タイトルの『ナイゲン』とは千葉県立国府台高校に実在する「内容限定会議」の略。この会議では文化祭の展示や、最後は全会一致、途中退出は禁止など自然発生的に定められたであろうルールが存在している。

 その会議を題材に描かれているが、もちろん平穏な風景が描かれることはない。今年は3クラス3学年、合計9クラスのうち1クラスが各々の企画を中止し、行政との関係で教員サイドから押し付けられた「節電エコアクション」を実施しないとならなくなったのだ。どのクラスも実施しない場合は文化祭の一般公開の中止、という厳しい条件も付いている。

 そのなかで、どのクラスが節電エコアクションをやるのか、どうやるのかなどについての取り止めのない議論がポップに描かれている。

 各所で再演されるだけあり、ユーモラスかつ熱量を持って高校生なりの自治、理想と現実のすり合わせを描いている。

 自治問題でお決まりの多数決の瑕疵(ある人がターゲットになった時、その他の人は反対するメリットが薄い)や、自由な議論の場における年長者・年少者の問題などもしっかり描かれていてとても興味深かった。

 最後の結末も上に政策あれば下に対策あり、といったもの。半ばジャンプ的な明るさも秘められていると感じた。力ないものの自律、自主性について考えさせられた。

 これは贅沢な要望だが、「誰がやるのか」というテーマの会議が途中まで描かれていたのに、それが不可抗力で決まってしまったのは少し残念だった。もちろん、それを議論で決めてしまわないからこその美しい結末なのだが。

9/3 おおくぼけいのベランダ@LOFT HEAVEN

 100人規模の会場で大槻ケンヂが見られるとのことで参加。

 穏やかな音楽がメインで心地よい時間を過ごせた。

 

9/4 Prelude『ここハ東京、ユメのなか』@シアター風姿花伝

 0点か100点かはっきりしてしまう日常と虚構というテーマに正面から向き合ってスパッと0点を叩き出した作品といった印象。

 仕事と家庭の両立に悩む金融業のキャリアウーマン、借金まみれになりながら豪遊する風俗嬢、レンタル彼女を生業にする女性、証券会社のマネージャの男などの光景がクロスオーバしながら描かれていた。しかし、東京/日常に潜む虚構性を示せていたのは金融業程度で、それもありきたりな表現に留まっていると感じた。

 20年後の東京にまつわる描写も極めて陳腐で、見ているこちら側が恥ずかしくなってしまう類*1のものであった。厳しい評価かもしれないが、作者の想像力の浅さだけが伝わってきて悲しくなってしまった。

 ただ、池袋演劇祭というプログラムでなんらかの賞をもらったよう。偉い人の考えることはよくわからんな、と思った。

 

 

9/6 マチルダアパルトマン『おへその不在』@下北沢 駅前劇場

 5月に観た『ばいびー、23区の恋人*2』のなんとも言えないおかしみが気に入り、次の作品も観に行った。

 話の趣旨は大きく違うのだが、「あぁ、同じ人が作ったんだろうな」というのはわかるのが不思議。

 今作は、コンプレックスだったでべそが突然どこかへ消えた人間の悲喜交々、というふれこみだったこともあり、2時間近くどのように観させるのか期待していた。

 実際の内容は前作以上にはちゃめちゃで、おへそについても直接触れられることはほとんどなかった。ただ、そのはちゃめちゃの中にも単純な繰り返しに頼らない理知的な笑いや、不思議な言語感覚に基く笑いが散りばめられていて、あっという間に終わってしまった印象。

テーマとしてはアイデンティティ周辺のことなのだとは思うが、あまり解像度高く観劇することができなかったのは心残り。

9/8 アーバンギャルド presents 鬱フェス@TSUTAYA O-EAST

 多彩な出演者に応じた雑多な感想があるので別にまとめます。

 

9/11 NICE STALKER 『暴力先輩』@ザ・スズナリ

タイトルとフライヤーのアバンギャルドさに惹かれて観劇。

2020年代の多様性と自由について考える異色女子正義譚」とのこと。内容は、多様性を重視しすぎると寛容性をたてにして不寛容への寛容や、強制への寛容への圧力が生じる。「多様」であることを良しとしているため、対話によるすり合わせも困難になり、最終的な解決手段として「暴力」が生まれてしまうのではないか、みたいな内容。それを防ぐためには、自分の認知のフレームの外にあるものを「理解しないが干渉もしない」みたいな解決策しかないよね、といった明るい諦めも感じた。

 ただ、「芸術表現を大義名分として個性的な女子をフィーチャーする」の劇団コンセプトの通り、今回フィーチャーされるみしゃむーそというアイドルにフォーカスがあたり、あまりテーマの掘り下げはされていない印象。結局みしゃむーそが強引に解決してしまうし。

 オリンピックのテーマソング『パプリカ』もその不自然さを助長している気がして少し不気味だった。これが作者の意図するところなのかは知りたいと思った。

9/15 柿食う客『御披楽喜』@本多劇場

 有名カンパニーの本公演とのことで興味が湧き観劇。 

 聞き取れないくらいの早口、長台詞、大きめの音響、しかも続き物であらすじもわからない、というでって正直あまりわからなかった。

 アフタートークで観客の老婆が似たような感想を述べていて一安心。それに対する作者の返答も「極限まで役者の肉体と精神を追い込み、演者の中での律動、そして舞台と客席の律動がどんなものになるか〜」とアーティスティックでよくわからず。

 確かに、他の芝居に比べると役者の身体性は表面には出ていたので、ストレートプレイというよりもダンスやミュージカルの様な見方をするのがいいのかな、と感じた。

 

9/20 iaku『あつい胸さわぎ』@こまばアゴラ劇場

 フライヤーを見て興味が湧き観劇。開演後に評判が評判をよび、全回大入りだったようだ。

 女子大生が抱く幼馴染みへの淡い恋心とその初恋の顛末、そしてその娘を女で一つで育ててきただらしない母親の十数年ぶりの恋が並行して描かれる。

 描写は優しい響きの関西弁に導かれるよう、話も平穏に進む。娘が乳がんの疑いで精密検査となったことから話が動き出す。とはいっても激しい展開や感情の表出がない中でじっくり、心理的な揺れ動きは描かれるのは印象的だった。

 最後はがんではなく、病の可能性を知って自分と向き合えました、というような展開を予想していたが、完璧に裏切られた。

 結果は早期の乳がんで、乳房全摘か部分切除(再発のリスクが高い)を迫られることとなる。それを踏まえた母、娘のそれぞれの思いが強烈に伝わってきたのと同時に、両者の分かりあえなさも感じてしまった。

 いや、初期乳がんだったら基本温存でセンチネルリンパ生検で…みたいなのが頭に思い浮かぶのは職業病か。

 

9/28 阿佐ヶ谷スパイダーズ『桜姫 〜燃焦旋律隊殺於焼跡〜』@吉祥寺シアター

 タイトルは「燃えて焦がれてバンド殺し」と読む。

 原作:四代目鶴屋南北という触れ込みどおり、歌舞伎『桜姫東文章』を換骨奪胎した演劇。

 効果音(小豆を使って波の音を演出、動きに合わせた鼓の音など)やBGM(何度も繰り返し同じ曲が用いられるが、その気の抜け方は絶妙だった)も生、奈落の使い方も上手。外連味のある演出(背景にあったドアが開いて外の道路が見えるなど)も歌舞伎らしさと言えばらしさか。


 内容としては、ほぼ最後まで原作のストーリーをなぞりつつ、舞台を戦後日本に移したというところで、大きな違いは、主人公の高貴な出生、というのが不確かな主張にとどまるくらいか。

 やはりキーポイントとなるのは楽隊。物語の転換点や重要場面でたびたび登場し、登場人物を原作の「物語」へと導いていく。

 しかし、最後の最後、原作とは異なり、桜姫はお家再興に成功することも、自分の旦那*3をあやめることもない。姫は無惨にも殴り殺され、楽隊の面々も同様にたおれ、音楽は徐々に止んでいく。そこに残ったのは「物語」よりも生きることを優先せざるを得ない男(そして、死んでもなお生きることを諦められなかった清玄)だけだったのだと思う。

 逆に考えると、楽隊やその音楽は現状に満足できなかったり、人生に彩りや外連味を求めてしまうような美しく、贅沢な人間の欲や業のようなものなのかもしれないと感じた。

 そして欲は「戦後」という荒れた時代には仇にしかならないものだったのかもしれない。

 とにかく原作の流れを最後で裏切るというギミックはとても素敵。上半期最後にいい芝居を観られて幸せだった。 

*1:「故人をAI化してスマホで持ち歩く」、「自動運転」

*2:動画が連続ドラマ形式で配信されている

*3:原作どおり、姫を無理やり孕ませたり、置屋に売り払ったりなどかなりの悪党だ