少女都市『光の祭典』について (前編)

 

はじめに

 この記事では昨年8月に駒場アゴラ劇場で上演(再々演)された少女都市の演劇、『光の祭典』の感想をまとめます。以前の記事*1の続きを意図していますが、単体でも読めるように努力していきたいと思います。

 

根底にあるものを探して


 この作品は様々なテーマを扱っているように感じました。ただ、同時にそれらの問題はバラバラではなく、どこかひと繋がりとなっているような印象も不思議とありました。
 その繋がりが何に由来する物なのか、各テーマについて述べることで探っていきたいと思います。

 

喪失と復活について

 まず、公演のチラシにあった「喪失と復活」というテーマから始めます。この作品では、様々な「喪失と復活」が描かれているように思いました。

 このテーマを背負わされているのは主人公まこと*2と、その友人であり元交際相手の江上だと感じました。

 このセクションでは、この2人が「何を失い、何を取り戻した」のかを考えていきます。


人・物の喪失

 まず2人に共通するのが「大事な人を失った」という点です。

 江上は阪神淡路大震災によって父を亡くしており、その心的外傷を引きずっています。

 そして、まことは自分にとって大切(だと感じていた)な存在の江上をある理由により失ってしまいます。当初まことと江上の関係は大きくは取り上げられていませんが、物語が進むにつれ、まことが江上に抱く情念の強さが強調されていくのもその喪失の大きさを際立たせています。

 

 しかし、亡くなった江上の父はもちろん、まことの元に江上が帰ってくることもありません。江上はまことの目の前で、「江上を求める」まことではなく「一緒の景色を見ようとする」サークルの元後輩で元婚約者*3、滝内の手を取りまことの前から消えてしまいます。

 

 それでは、まことと江上は「大切な人」のどこを大切に思い、その喪失によって何を喪失し、それをいかに回復したのでしょうか。

 

 まずは作品中に明示されているまことのケースから検討します。まことが江上のことを強烈に求める理由は「あたしの金魚をはじめて飼い慣らしてくれたから」と述べています。金魚はこの作品において極めて重要なテクニカルタームですが、後に詳しく述べるので、現時点では「特定の他者に対する怒りや悲しみ、恨み、不信感などが増幅し、環境や多くの他人に恒常的に向けられるようになった故にもつ孤独感や不安感」程度の説明に留めます。

 

 まことは大学の担当講師井上から性暴力を受け、その心的外傷から、カメラを持てなくなっています。また、男性に対する不信感を強烈に植え付けられてしまいます*4

 しかし、明らかに心身のダメージを負っているにもかかわらず、他者からの視線に飢えていた*5まことは井上を拒絶することができず、だらだらと身体関係を継続してしまいます。このあたりの共犯関係については前記事の少女性に関する部分で多くを述べているので省略します。

 

 そんな中でもまことに真っ直ぐ向き合い続けたのが江上でした。

 江上はしっかり彼の目でまことを捉え続けようとしました。そんな江上の誠実な視線に「金魚」を一時的に宥めることができると感じたまことは、大学卒業の2年後、江上の自主制作映画作成をきっかけに江上と交際することになります。

 ただ、その蜜月は長くは続きません。短期間に終わってしまったのは、まことがそんな江上を強烈に求めつつ、「金魚」に由来する暴力性までぶつけてしまったことでした。まことは井上に受けているような暴力をそのまま江上に投影するごとくぶつけてしまうような描写が見られます。そして、極め付けに、大学生時代にまことが江上に対して性暴力を働いたことが明かされます。

 

 しかし、まことは性暴力を江上に対してはたらいたことを記憶しておらず、「私の元から江上はなぜかいなくなった/私は一方的に被害者だ」と言うやや事実とは反した認識に陥っています。

 それでも江上は、まことを2年後に再度「見ようと」します。その結果が劇中劇の『ドキュメンタリー・私の女』であり、その(広義の)制作過程が芝居の前半を占めています。そんな真摯な他者からの視線を浴びることが「金魚」を宥める方法なのかもしれないと、まことは思ったのかもしれません。

 最終的にまことが江上との関係で起こったこと、自らが加害者であることなどを認識できたのは江上の作品、江上自身との対話によるものであり、その面では世界を正しく見ることができるようになった(=復活した)と言えることができるかもしれません。

 しかし、江上の真摯な他者性はまことの元から離れてしまっています。そんな存在から見られることが「金魚」を宥める唯一の手段であると認識している以上、この状態を「復活」したと呼べるにふさわしいかについては最後の方で議論します。

 

 一方、江上は災害によって父を失った結果「選択ができなくなった」と述べられています。ここの因果関係については明確には述べられれてはいません。震災の際、西と東どちらに逃げるかの選択が父親の命を奪った、ということも示唆されていますが、この1点で「選択できない」ことを説明するのは難しい気もしています。それに加えて、片親で育ったことによる苦労や、自己選抜が「選択」できなさにつながっている可能性はあると感じました。

 そして、災害によって不条理に肉親を奪われると言う体験は環境への不信感(=金魚)を持つに十分な体験であり、まこととはお互い似たような「金魚」をもつ者同士惹かれあったのかもしれないな、と思います。

 ただ、最後には江上はパートナーとしてまことではなく滝内を選ぶと言う大きな「選択」をします。この点では主体性が復活している、と言えるかもしれません。それまでには様々な葛藤があると考えられますが、あまり詳しく描かれることはありません。

 それは時間によって解決されるものかもしれませんし、同じ景色を見ようとする滝内の存在によってサポートされるものなのかもしれません。

 

都市の喪失と復活

 次に進む前に、登場人物自身の物語と同時に描かれる都市という物語の喪失と復活(復興)について触れておきます。作品中では、阪神淡路大震災東日本大震災2つの災害に触れられていますが、大きく扱われるのは前者です。

 大震災から二十年以上経ち、神戸の街がある程度復興したことを観客の私たちは知っています。しかし、それまでの過程では前述したような大切な人の死や財産、環境への安心感(これについては後述します)を喪失した人々の努力があったのだと思います。それを支えるのは未来への希望のようなものであり、その象徴としてルミナリエ(タイトルの由来)があるのかもしれません。

 そして巨大な災害から復興した神戸の街の姿は、まことや江上が経験した喪失からの復活を強力に暗示する存在となっているような気がします。

 まだ復興途上の東日本大震災について敢えて触れたことも、東北地方も「いずれ復興する」という希望が込められている、というのは勝手な願望かもしれません。


「心身のコントロール/支配権」の喪失と復活

 もう一つ、まことと江上に共通する喪失として「心身のコントロール/支配権」の喪失が挙げられます。

 前述の通り、心的外傷によってまことはカメラを持てない状態になっています。さらに、自分の合理的な思考とは別に井上と決別できなかったり、大事だと思っているはずの江上に暴力をふるってしまったり、メンタル面の故障により、身体的/物理的な問題が生じています。

 まことのカメラを持てないという身体的な故障は、麻生によるサポートで一時的に回復します。しかしこれは、まことの意思というよりは、国家という権力や、オリンピックというフィクションに依拠したものです(この現金さはなかなか現代的な感覚な気がします)。

 しかし、ラストシーンではまことは麻生の手を振り払い、再度自分の両手でカメラを持ちます(もちろんこれは身体的な問題の復活だけでなく、自分自身の眼で世界を見ていくという覚悟の表れだとは思います)。

 

 江上もまことの性暴力によって性的に不能な状態に陥っていることが強く示唆されます*6

 こちらの復活は明確に描かれることはありませんが、前項を考慮すれば、いずれ身体のコントールを取り戻すことを期待してしまいます。

 

心身と都市、あるいは権力について

 次に、前項で触れた「心身のコントロール」と、それを損なう存在としての権力、そして取引について述べていきます。

 ここのテーマを主に背負っているのはまことと江上に加え、女優志望の女子大生夢波、売れないドキュメンタリー映像作家藤原です。


切り売りされる心身 

 前提として、私たちの心身は我々一人一人自身のものであると我々は考え、そう願っています。そしてその考えは「自己決定権」という形である程度実現しています。

 つまり、我々の心身は我々自身でコントロール可能であり、それをするのが望ましいとされているのです。

 そして、その結果「〜しろ」という他者に対する攻撃的な欲望よりも、「〜したくない」という自己防衛的な欲望が優先されることに社会全体である程度のコンセンサスが取れています(時々同意が取れていないような人も見受けられますが)。

 しかし、都市に住む我々は「〜したくない」という欲望に従うだけでは生きていくことはできません。他者の「〜して欲しい」という欲望に応えることで、ある程度の金銭をもらい、「ここに住みたい(=ここに住まわせろ)」、「これが食べたい(=これをよこせ)」といった欲望をかなえる手段としています。

 もちろん、自分の「〜したい」「〜して欲しい」と他人の「〜して欲しい」「〜したい」が完璧に合致し、お互いがお互いの欲望を無償で叶え合う社会は一つの理想ではありますが、それは現代社会からはかけ離れた、夢物語のような社会になってしまう気がします*7

 そうともいかない現代社会では、そんなふうに我々は自分の欲望をかなえるために、心身を切り売りしている、そうせざるを得ないと言えるのかもしれません。

 

権力との取引

 ただ、前項のような主張に対しては「私は私の意思で売ることを決断している。これはコントロールしていると言えるのではないか」という反論が成り立ちます。

 そのような主張を体現しているのが夢波です。女優を目指す夢波は、有名映画監督に取り入るため、枕営業に手を出します。目論見通り女優としてある程度の仕事を得るまでに至ります。夢波はそれを気に病むことも、まことのように心身の自己所有感を失うこともなく飄々とギブアンドテイクだと語ります。

 彼女の姿は堂々としており、心的なダメージも負っているようには見えません。まことのケースと起こっていることは同じ*8でも、自己の欲望を上手に叶えているという点で心身をコントロールできている、と言えるかもしれません。

 一方で、同じように藤原も監督に体を差し出します。しかし、(男女の違いはあれど)同様の”支払い”でも藤原は心的ダメージを負い、仕事は手に入れられるものの、活力を失い、舞台から退場してしまいます。

 

心身を予知すること、認知すること

 では、そんな藤原は心身をコントロールした、と言えるのでしょうか。もちろん、自分の意思で”支払い”、結果として”破綻した”のだからそれは自分で自分を破滅へと追いやっただけだ、だからこれもコントロールだという意見もあるとは思います。

 しかし、やはり藤原は破綻することを当初から予測したわけではなかった、つまり心身が予想外の反応を見せたのだと私は考えてしまいます。

 そもそも、コントロールしていることを「自分の予測/意思通りに物事が動いている」状態を指すことだと定義すると、そもそも人間の自分の心身に対する認知は不完全であり、それが故にその動きを完全に予知することはできないように思うのです。

 試験前や舞台の本番前は緊張していいことなんて無いとわかっているのに緊張してしまいます。バスケットボール選手は100%フリースローを決めようとしても全てを決めることはできません。私たちは躓きたいと一生で一度も思ったことがないのに何度も転んでしまいます。

 そんなふうに、我々の心身は我々の意思や意図とは違った反応を示すことがほとんどで、そういう点ではそもそも心身のコントロールなどできないと言えるのかもしれません。

 それでも私たちは何かを”買う"ために、心身が”支払い”に耐えられると信じながら自分を日々切り売りせざるを得ない、強くて弱い存在と言えるかもしれません。

 

権力関係の不可避性

 そしてそんな大きな支払いという賭けにを夢波と藤原に強いたのが、監督の裁量権なのだと思います。前の記事で述べたように、「売りたい」・「買いたい」欲望はアンバランスであり、その不均衡が権力をとなって個人を蝕んでいきます。もちろんそれには権力に阿ろうとする我々の卑しさや欲望の強さが関与していることは言うまでもありません。

 しかし、フーコーが「この社会のあらゆるところに、男女間でも、家族間でも、先生と生徒の間でも、知っている人とそう出ない人の間でも、権力的な関係が存在する」と述べるように、我々は裁量権のような明らかな形はもちろん、劇中のキーワードの「見る・見られる」ことにすら権力関係が潜んでいます。

 それは、「こう見て欲しい/私はこういう人だ」と言う見られる(弱い)側の欲望と、そんな欲望を知らずただ「見」て解釈できる(強い)側の小競り合いと言い換えることができるのかもしれません。

 つまり、都市に生きる我々にとって、他者は必要不可欠な存在でありながらも、我々が当然と思っている自己決定や自己所有を強弱の差こそあれ脅かす存在なのです。

 

 長くなってきたのでここで一区切りとし、後半は追ってまとめます。

 後半(https://stmapplier.hatenadiary.com/entry/2020/01/17/013026)はそんな不可避な他者と向き合うこと、「他者性」が必要となる瞬間、そして「他者性」の拒否感と自己愛の関係について述べることから始める予定です。

 

*1:

アーバンギャルド 『少女都市計画』について - Trialogue

*2:性暴力被害が原因でカメラを持てなくなった天才映画監督

*3:一度婚約破棄

*4:「うそ。男はあたしのこと踏みにじる。絶対そう。だって、あんなに信じてたのに、先生、あたしに…」

*5:「あたしのこと生まれて初めてちゃんと見てくれたのが先生だったから」/「あたし生まれて初めて世界からちゃんと見られたの」

*6:「お前のせいで、俺は、滝内とちゃんと恋人になれずに…」

*7:現実的なラインでは「〜してもいい」と「〜して欲しい」が結託するのが関の山でしょう

*8:好きでもない相手と身体関係を持つ