少女都市『光の祭典』について(後編)

 

はじめに

 この記事は少女都市『光の祭典』について (前編) - Trialogueの続きです。

 何とか阪神淡路大震災の日までには仕上げたいと思っていたので、間に合ってよかったです。

 

「他者性」と向き合うこと・見て見られることについて

 前項では、心身のコントロールの不可能性、そしてそれを引き起こす権力関係を生み出す存在としての他者について述べました。これに引き続き、特に主人公まこと、そしてまことに再び撮られようとする冨田の「他者性」との向き合い方、特に全編を貫くテーマである見ること、見られることについて考察を加えていきます。

 

見られること・見ること

 前述の通り、見られること自分の姿や存在への自由な解釈を許す、という点で被権力的な行為です。この点は劇中でも「カメラの前に立った時、身体はわたしのもので無くなり、如何様にも意味付けられ、切り取られる」という『シネマトグラフ覚え書』の一節を引用する形で数回述べられています。

 その面では、他人から見られることは、自分で自分を見た結果、つまり自己認識を揺るがしうる危険な行為と言えるかもしれません。今後、そのような「自己認識」と違う「他者からの認識」、「他己認識」ともいうべき姿を突きつけうる性質を「他者性」と定義します。

 その上で、見られることを冨田とまことが求める理由、まことの「他者性」への向き合い方、そして最後のまことの台詞の真意について考えていきます。

 

「少女性」と見られること

 『少女都市計画』の序論において、人間関係や社会の中で主体性が確立されず、第三者の存在や欲望、視線に依存している存在を「少女*1」と定義しました。この作品においてもそんな「少女性」の片鱗が描かれます。

「あたし生まれて初めて世界から見られたの」

 一人は江上と出会う前のまことです。まことは井上に求められることを、その欲望の発現が暴力的なものであったとしても「世界から見られる」こととして欲望し、受け入れてしまいます。

 しかし、まことは江上との出会いや直接的/間接的な対話を通して、「少女性」を捨て、主体性を獲得することに成功したのだと感じました。この点に関しては後述します。

「ぼんやりとした書き割りだったあたしが、初めて、世界にピントを合わせられた日を」

 そしてもう一人がまことに撮られる前の冨田です。冨田の場合は匿名の誰かではなく、自分にしっかりピントを合わせ、美しく撮ってくれるまことだけ(そのような存在はあまり多くないと考えられます)を求めているところがややまことのケースと異なる気がします。

 ひたすらカメラに撮られることを求めた夢波に対して「カメラじゃない、まことさんに」撮られたかったと述べるのも印象的です。

 

 また、冨田が「まことに撮られたい」と気づくきっかけとなった夢波がかけた「自分がしたいじゃなくて「誰かのためにしたい」ばっかり」という言葉、そしてそれを受けた冨田がまことにかけた「あんたはどうしたいの」という発言が「少女性」の本質をついているような気がしてしまいます。


「あたしはあたしのことちゃんと見えてるもん」

 まことの台詞で印象的なのが、序盤で冨田との会話の中で放たれる「あたしはあたしのことちゃんと見えてるもん」という台詞です。

 まことは自分のことを強く、自立した女性であると自己評価しており、さらに「しっかり見えている」ことを一つのアイデンティティとまでしています。

 序盤のまことは、このセリフに代表されるように、自己認識に対して疑問を呈する存在(「他者性」)を拒絶し、自己認識を防衛しようとしています。それが、純粋な自信によるものか、自己認識が間違っている可能性を認識しているが故の虚勢かは判然としません。

 ただ、この時点でのまことの自己認識が後々示される事実と大きく乖離していること、麻生ではなく江上を求め続けたこと(この点については後述します)を考慮すると、後者であるような気がします。

「あたしは、この目でこの世界を歪めてしまう」 

 しかし、まことの自己認識を防衛しようとする努力は、江上という「他者性」を備えた存在からの視線により敗北します。

 江上の視線はまことが自覚していない暴力性をしっかりと捉えており、(一般公開はしなかったものの)その事実をまことに突きつけたのです。ただ、その代償*2として江上も消耗し、婚約者の滝内の前から蒸発してしまいます

。そんな江上を滝内が「ちゃんと「見よう」としたんです。でも「見」きれなかった」と述べているのも印象的です。

 そして、自己認識を揺るがされたまことは自信を完全に喪失し、「だってあたしきっとまた、あたしのフィルターをかけてしまう。あたしはあたしの目を通してしか、この世界を見ることができない。なのにあたしは、この目でこの世界を歪めてしまう」というどうしようもない事実と、個人の限界に直面することになります。

 

無害な麻生、それでも「他者性」を求めるまこと

 そんなまことを、「お前の目が必要なんだ」と肯定し、励ましたのが、江上とまことのサークル仲間で江上の映画制作にも参加していた麻生でした。

 麻生はまことの自己認識に踏み込むことがない安全な存在である反面、麻生とまことの間には真摯な対話がもたれることはありません*3。 麻生はまことを自分の視線を排除した形で見ようとしていたことが最後に明らかにはなりますが、その「他者性」なき視線をまことは「自分のフィルターくらい自分で受け入れろよ」と拒絶します。

 明確にその関係性は描かれませんが、それはまことが自分自身で自分を認知することの限界に気づいたからなのかもしれないな、と感じました。

 そして、強烈な「他者」であるところの江上の下へと走っていき、クライマックスを迎えます。

 

「今度はちゃんとあたしもあたしを見るから」

 しかし、前述のように、まことが江上に性暴力をはたらいたというまことが忘れていた強烈な事実を提示し、滝内の手を取り退場します。

 一人になったまことに、舞台裏に隠れた麻生が再度手を差し伸べます。しかしまことはその手を振り払い、ハンディカムのレンズを自分の方に向けます。その画面に映るのはまこと自身であり、観客がその画面を眺めています。

 そんな中で「撮る……、本当に撮る……。切り刻む、全然別物みたいに……。だから、全然違うあたしにして。だから、ちゃんとあたしのこと見て。今度はちゃんと、あたしも……あたしを見るから」とい最後の台詞が放たれます。そして、そんなまことは劇中で1番の笑顔を見せるのです。

 麻生ではなく江上を求めたという点、最終的に他者(観客)からの目線を受けることを受け入れる、と行った点で、他者への非従順を宣言しつつ、「他者性」は拒絶せず、自己完結にも終わらないという深みのある結末だと感じました。

 


「赤くて黒い金魚」と自己愛について

 前項では、まことが持つ「他者性」に対する恐怖感と、それでも「他者性」を必要とする理由について考えました。その恐怖感が表現されたのが、前半の記事で触れた「金魚」なのだと感じました。最後に、その「赤くて黒い金魚」について考えて締めくくりとしたいと思います。

 ここからは輪をかけて特に根拠がある話ではないので、話半分に読んでいただければと思います。


認知のスキームは変わったか?

 前項で主張したように、この物語において描かれるのは、「少女性」を捨てて主体性を獲得したまことが自らの手で「赤くて黒い金魚」を飼い慣らしていくという覚悟、そして、その助けとして「他者性」を必要とすること、「他者性」に対する恐怖心の克服であると感じました。

 ここで注目したいのは、まことの「赤くて黒い金魚」に関しては解決が描かれていない( 結末を迎えてもなお、まことは社会や環境に対して強い不信感を持っていることには変わりがない可能性がある)ことそして、「赤くて黒い金魚なんてみんな持っているんだ」というセリフです。


「赤くて黒い金魚」はいつから?

 まことはその金魚(特定の他者に対する怒りや悲しみ、恨み、不信感などが増幅し、環境や多くの他人に恒常的に向けられるようになった故にもつ孤独感や不安感と前半で定義しました)を植え付けられたきっかけは井上による性暴力だと主張しています。

 しかし、江上のセリフにあるように「赤くて黒い金魚なんてみんな持っている」とすると、その金魚は性暴力やそれに類するトラウマだけではなくもっと小さな出来事でも生じてしまう気がしてしまうのです。

 そしてそれが表面化し、支配的になるかどうかは、環境や出来事によらない、気質や性格など、個人の要素による面が大きいのではないかと感じました。

 
痛いほど光る人、光らない人

 その性質を端的に表したのが、「どんなにありふれた出来事も自分のことになると痛いほど光るの」というまことのセリフなのだと思います。

 もちろん性暴力のような出来事は、それがどんなにありふれていたとしても「痛いほど光」って当然でしょう。しかし、他人に起こったことに対する認識と自分に起こったことに対する認識との間に大きなズレがある人と、あまりない人、という2つのタイプがいることは事実なのだと思います*4

 まことのケースでは、共感力の欠如、というよりも自分のことに対する繊細さ、感度の高さが原因となっている気がします。

 その感度の高さの原因について明確に述べることはできませんが、自分やいろいろな人のケースを振り返ってみると、強い自己愛*5とそれに由来する全てを自己決定/コントロールするという(決して実現しないが実現してほしい)意志、そしてそれを阻まれること、阻む他者への恐怖心・敵愾心なのかもしれないな、と思います。

 

他者の下へ自分を放つために

 では、そんな強い自己愛とこだわり、そしてその反動として他者への恐怖感・敵愾心を持ってしまった人間が、他者の下に自分を放つために必要なのは一体なんなのでしょうか。

 個人的には、環境を信頼すること、頭だけで考えず実際に体を動かすことかもしれないな、と思っていますが、明確な理由も根拠もありません。今後のいろいろな作品や人と対話していく中で自分なりの答えを見つけていけたらな、と思っています。

 

最後に

  これまで、2つの作品について「少女性」と「他者性」をキーワードとして感想を述べました。読んでいただいた方にとってこの記事が「他者性」を帯びているといいなとも思っています。

 そして、2つのテーマの結びつきを示すのが、この劇団のステートメントだと感じました。

「少女都市は、女性の持つ暴力性をテーマに、

女性の情念を、舞台空間に女優の体と言語で解き放つ。

 

少女都市の「少女」とは、

喜び・怒り・憧れ・憎しみ・優越感・劣等感…

いくつもの想いが混在する情念の「器」のことだ。

 

傷つけられ蔑まれ、簡単には納得できない複雑な想いが

少女の体と邂逅したとき、

少女は無意識に自分自身に嘘をつく。

少女の嘘は周囲を巻き込み、

次第にひとつの大きなうねりとして社会を変えていく。

 

少女都市が生み出すのは、閉塞感という空気が作り出したヒエラルキーを打ち破るためのアンセムである。

 劇場の帰り、この強い意志と決意を漲らせる文章を見たときに、雷に打たれるような思いをしたのが昨日のことのように思い出されます。

 きっと、主宰者・作者の葭本未織さんも、主人公まことと同様、繊細さや反骨精神、そして自己愛を守り切った方なのだと思います。それゆえに本人の中にも眠っているであろう「赤黒い金魚」を飼い慣らしつつ、彼女にしかつくれないであろう新たな作品を私たちの眼前に提示してくれる日を心待ちにしています。

 

 次の記事では補遺として、このコンセプトにあるような「少女性に由来する嘘」がどのようもので、どのように生じるのか具体的な事例を交えて検討を加えていきたいと思います。

 

*1:幽霊・概念の娼婦とも換言でできるとも主張しました

*2:明確には示唆されていませんが

*3:対話とは違いがあるところにしか生じないためです

*4:自分自身もどちらかと言えば前者だと思います

*5:本当の意味で良い教育を受けるとより育まれる気がします