2020年 12月 観劇記

 

はじめに

 12月は救急外来での勤務でした。4月と6月に引き続き、今回もまたコロナの感染が拡大しつつある時期の勤務となり、終始陰鬱な気分でしたが、自分が遊んだ分の尻拭いくらいはしようと頑張りました。

 準夜勤と夜勤の合間を縫って今月もある程度の数の作品を観ることができたので感想を残しておこうと思います。

 2021年は観劇記だけでなく、もう少ししっかりした記事も書いていければなと思っています。

 

12/3 KAAT『オレステスとピュラデス』@神奈川芸術劇場

 KAAT、以前観て印象的だった『あの出来事』の瀬戸山美咲*1さん、『少女仮面』の杉原邦生さんがチームを組むとのことで観劇しました。

 物語をシンプルに要約すると、ギリシャ悲劇『オレステイア』と『タウリケのイピゲネイア』との間を埋めるストーリーで、ギリシャ悲劇を基にした二次創作とも言える作品です。タイトルにもあるとおり、トロイア戦争でのギリシャ軍大将、アガメムノンの息子オレステスとその従兄弟ピュラデスの2人の旅路が描かれます。

 彼らの行き先はタウリケ(現在のクリミア半島)です。オレステスは父を殺めた情夫アイギストスと実母クリュタイムネストラに復讐を果たしますが、その後復讐の女神の呪いのため定期的に解離症状を呈するようになってしまいます。

 その呪いを解くため、2人は神託に従い女神アルテミスの神殿*2のあるタウリケに向かう、という枠組みです。

 

 演出も脚本もとにかく素晴らしく、自らの国が戦争で踏み荒らした土地を巡る中で、彼らが自らたちの過去と向き合ったり、オレステスとピュラデスがお互いと向き合い、自分たちの感情と向き合う(彼らが直面するものは作中では「炎」という形で表現されています)様子が華やかかつ丁寧に描かれていて、 終始ドキドキしながら観劇することができました。 

 その中でもやはり、両者の強い信念に基づいて生まれる対決にも近い対話が、ラップバトルという形で表現される最終盤のトロイアでのシーンは印象に残っています。

 ピュラデスがタウリケに行こうとする理由はオレステスのためだけであり、ピュラデスはオレステスの幸せを自らの幸せと設定*3しています。

 しかし、オレステストロイアで「復讐をしない」と宣言をするラテュロスと出会い、恋に落ち、彼女と一緒に住むので旅を止めると言い出してしまいます。

 ピュラデスは半ば逆ギレのような形でオレステスと別れ、トロイアの海に身を投げようとしますが、そこで彼の死を止めようとするラテュロスとの対決が始まります。

 ラテュロスは「いやそれダメな形ってわかってたでしょ」とピュラデスの欺瞞*4を暴き、彼の自覚と自立を促そうとします。

 その対決はピュラデスが古代ギリシャでは絶対的なものであったアポロン神への侮辱を行うまでにエスカレートし、ピュラデスがラテュロスを海に(偶発的に)突き落としてしまうという不幸な結末を迎えかけます。ただその後は、デウスエクスマキナ(「火」を人間に与えたプロメテウスというのも面白いです)で「火を消すのではなく鎮めるのだ」という宣言がなされ穏やかなフィナーレを迎える、というのもギリシャ悲劇へのリスペクトを強く感じて興味深く見ることができました。 

 

 また、裏方の道具を使ったインダストリアルな大道具/小道具やポップダンスのような振り付け、広いホール縦横無尽に使った演出など舞台を構成する要素どれも素晴らしく、今でも「いざタウリケへ」というリフレインが頭から離れないほどに強烈な印象を残した一作でした。

 

 余談にはなりますが、アフタートークで登場人物の名前に込められた意図を知ることができ、その作り込みの深さにさらに感服するばかりでした。

 

 

12/5 空宙空地『その鱗、夜にこぼれて』@こまばアゴラ劇場

 愛知の劇団がどのようなローカリティを持って芝居をしているのか気になって観劇しました。
 「スーパーマーケットを舞台としたジェットコースターヒューマンサスペンス」とのことで、どのような作品かワクワクしていましたが、思ったよりも規模が小さく、静かなストーリーでした。

 人生の「こうあって欲しかった」という後悔、「別の形*5があり得たかもしれない」という取り返しのつかなさに対する後悔未満の無念さにも似た感情が静かに、丁寧に描かれていて興味深く見ることができました。

 物語や登場人物に秘められた謎は「サスペンス」とするにはあまりにもシンプルでフックがないように感じましたが、それゆえにじっくりと感情に寄り添うことができたのかもしれません。

12/8 阿佐ヶ谷スパイダース『ともだちが来た』@小劇場 B1

 前作が印象的だったため観劇しました。
 1994年初出の戯曲とのことですが、古さを感じさせない芝居でした。

 あらすじは夏休みをダラダラと過ごす大学生「私」の元に高校生時代の同窓生「友」が突然現れ、別れの挨拶をするといったものです。

 「死者との対話」というテーマや話の進め方は以前観た屋根裏ハイツの『とおくはちかい』,『ここは出口ではない』と似ている気がしましたが、こちらの作品の方がより登場人物の情念や感情が深く描かれていて好みでした。
 特に終盤の剣道のシーンは、2人の間にある時間の流れや生活史の差、起こってしまったことの取り戻せなさから生じる、やるせなさ、悼みなど、情念のぶつかり合いが強烈な印象を残しました。それでも物語は後悔や諦観だけにとどまらず、やはり彼らの間にあった友情というものもしっかり心に残る、素敵な芝居でした。

 

12/15 KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』@神奈川芸術劇場

 KAATのプログラムを信頼しているため観劇しました。
 韓国人の劇作家、ソンギウンがチェーホフの『三人姉妹』を日本統治下の朝鮮半島を舞台に翻案し、日本人が演出するという企画でした。
 ストーリーは日本軍人の父に連れられ、清津に移住したの3人姉妹と現地の人々を軸に進んでいきます。民族/国家を扱う物語において、両方にルーツを持つ者を界面活性剤として進めていくのは常套手段ですが、今作はそれにとどまらず、日本人の男と現地人の女の結婚、日本人の女と現地人の男(この人物がいわゆる「界面活性剤」ですが、最後にはナショナリスティックな男の嫉妬により殺害されてしまいます)の結婚など、種々の交流が描かれます。
 また、日本/朝鮮の二項対立の外側の存在としてエスペラントを配置したり、非常に多面的でどちらにも肩入れしないようにと細心の注意を払って作られた作品のように感じました。

 ナショナリズムによる断絶や不幸を描いたのちに、韓民族としてのナショナリズムの勃興を示唆する結末には違和感を覚える観客もいたかもしれません。しかし、その毒々しさは前半で描かれる彼らの抑圧に比べれば遥かに妥当なもののように思えましたし、現にお互いの国がナショナリズムの高まりを見せている中で曖昧な結末を描くよりも、お互いを理解する上で有用なもののように思いました。
 

 

12/20 てんらんかい『講談 マクベス夫人』@アトリエ春風舎

 これまで触れたことがなかった講談を支援会員プログラムで観られる貴重な機会だったので観劇しました。

 青年団所属の俳優かつ上方講談師の旭堂南明さんと、その姉弟子で初の外国人講談師旭堂南春さんが、シェイクスピアの『マクベス』を題材にした講談を2ヶ国語で上演するという企画でした。

 初めての講談は新鮮で、特に前座として披露された修羅場読みは特に印象に残っています。緊迫した雰囲気を語調と僅かな効果音、身振りで伝える技術には驚かされました。
 時節の話題だと、駅伝の中継場の早口実況とも似ているかも、というのは失礼な冗談でしょうか。

 本編はなぜマクベス夫人がマクベス以上の野心を抱くに至ったか、という2次創作のような作品です。
 大枠のあらすじは日英で共通でしたが、細かい表現や動きの違いを楽しむことができました。また、話の締めが日本語では「マクベス夫人が世界や周囲からの認知に飢えていた(名前を呼ばれていない)から」、英語では"She was a marionette of herself"と大きく異なっていたのがやはり印象的でした。これは文化というよりは個人差による部分も多いかもしれませんが、アイデンティティの問題につなげるのは日本演劇界っぽいな、とは感じました。

 

12/30 女の子には内緒『老いは煙の森を駆ける』@こまばアゴラ劇場

 去年から老いについて考える機会が多く、プログラムが発表された当時から楽しみにしていました。
 「自然」と「人間」の過去・現在・未来をテーマに、自然との向き合い方を再考する、という触れ込みの作品でしたが、個人的にはその目論見は達成されていないように思いました。
 簡潔に言えば、人間も生物であり自然に包摂されるものである、という極めて当たり前の認識を再確認したに過ぎないという印象でした。

 物語は文明が衰退した後の世界において、息子を山のケモノに殺されて以来復讐に燃えケモノを探し続ける猟師シラスを軸に舞台は進みます。
 そもそも、老いを一つのテーマにするのであれば文明衰退という老いのプロセスがほぼ終わった後の世界を舞台にし、なぜ衰退したのかにも全く触れないのは少し逃げているのではないかと思いました。
 また、演出は人工的でポップ(ナキアミの出現時のアラームなどが顕著です)で新鮮さはありましたが、脚本など含めた必然性や切実さが一切感じられず、白けた気分になってしまいました。

 そもそも鹿やミミズ、石などの「自然」に人格を付与し、ましてや人間のように発話をさせることは「自然」を「人間」の方に引き寄せ、「脱自然化」させてしまっているように思い、強い違和感を感じました。より根源的で超越的な「自然」であるはずのケモノも人の言葉で話し、シラスに息子の死の真相を伝えてしまいます。
 その内容は、シラスは自然に復讐されたと思っていた息子の死は、ケモノがくしゃみをして生まれた風に煽られただけの事故死だったというものでした。
 おそらく脚本の意図としては、ここで目的や意思を持たない「自然」の性質を明らかにするということなのだと思いましたが、やはり自然が喋りすぎている印象を受けました。
 換言すれば、この芝居では自然は終始人間の言葉で理解可能で、物語や理由があり、人間の認知に属するものとして描かれてしまっています。この枠組みでは、人間の認知する「自然」の外に到達し、「自然」との新しい向き合い方を発見することは難しいのではないかと思いました。
 
 さらに、地球の自転に引っ張られるナキアミという登場人物が物語に闖入してきます。
 こちらは「自然」の中に漂う存在であり、作者が発見したところの「新しい向き合い方」を体現している存在として描かれていると感じました。

 しかし、地球上の静止する物体が自転に引っ張られるという状況が自然にはありえない状況と言えます(慣性の法則くらいは常識だと信じています)。
 3000年後も生き延びているような描写があることを鑑みると、彼女は「風」に準じる存在で、自転はコリオリの力を意図したもの、という解釈は可能です。ただ、コリオリの力は動体にしか働かないのでやや無理があります。
 もし彼女が「大気/遺灰」で引っ張っているのが風だったとしたら、それでは「自転に引っ張られる」ことにはなりません。
 そんな「自然ではあり得ない」存在が自然と一番うまく付き合えていると言われても全く同意も共感も理解もできない、というのが正直な感想です。もし、この「理解できなさ」が「自然」の本質である、という演出意図であるならその深さには感服しますが、きっとそんなことはないでしょう。
 
 全体として、散漫でありきたりで不正確な、空回りの産物のような作品のように感じてしまいました。期待との落差もあり、今年ワースト候補の一つになってしまいました。

 この作品の纏まらなさの原因についても考えてみましたが、作者の生物学や科学一般に対する知識の薄さ(WIPのアンケートの軽薄さには驚きました)もあるのではないかと思いました。
 自分のバックグラウンドもあり、こういうサイエンスを扱った作品に対する評価は普通の人よりも厳しくなっているのは承知しています。作者が、各論ではなく総論を、具体的な内容ではなく抽象的なテーマについて語ろうとしていることも重々分かっています。ただ、各論/具体のレベルで大きく踏み外した後に導かれる総論/抽象にはどうしても説得力を感じることができませんでした。
 これは個人の嗜好レベルの話ですが、こういった科学哲学的な話題を扱うなら、やはりもう少し科学にリスペクトがあっても良いのではないかと思いました。それを言い換えれば、科学について考える前に、科学について学ぶ(scienceの語源はラテン語で「知識」です)ことだと思います。

 また、この辺りの問題については科学教育の敗北も強く感じ、文句を言うだけでなく自分もより知識をつけないといけないなと思った一作でした。

 

*1:今回は脚本を担当

*2:そこには父によって生贄に捧げられたはずの実妹イピゲネイアがいることを2人は知りません

*3:「これが俺の愛の形」

*4:過去の記事で言えば「少女性(

アーバンギャルド 『少女都市計画』について - Trialogue

)」にあたるかもしれません

*5:ここが明確になっていないのがとても印象的です