2021年1月 観劇記

はじめに

 1月からは精神科でした。年度末までの在籍になる上、来年度からは精神科の後期研修をすることになっているので、実質的には精神科医としての人生のスタートになりました。

 観劇で養った他者の文脈を読み取る力、抽象的なものを具体的なものに落とし込む事なく把握する力、曖昧なものをなるべく厳密に言語化する力は確実に臨床に役立っていると思います。

 1月は緊急事態宣言の関係で、中止になる舞台、上演時間が変更になり観れなくなった舞台も多かったですが、その中でもいくつかの作品を観ることができました。

 

1/7 青年団『コントロールオフィサー』+『百メートル』@アトリエ春風舎

 2年連続のオリンピックイヤーの幕開けに、スポーツをテーマにした舞台をということで観劇した。

 30分の短編演劇2本立ての公演で、2本とも東京オリンピックの代表決定戦を舞台とし、1本目の『コントロールオフィサー』で試合後の光景を描き、2本目の『百メートル』で試合前の光景を描くという構成。

 『コントロールオフィサー』は水泳の、これまで観た平田オリザの作品の中では最もユーモラスで華やかな作品だった。

 今作も「セミパブリックな場」を舞台とするという平田オリザの作風に違わず、ドーピング検査用の待合室(尿検査などで出入りがある)が舞台。部屋には、2大会連続出場を果たしていたが代表権を逃したベテラン水泳選手と同年代の選手、そして、彼らを破った若手選手2人の合計4人と監視役のコントロールオフィサー4人が登場する。

 序盤はやや屈折した形で表出されるベテラン選手のやるせなさややり場のない怒りやどこか気まずく、弛緩した雰囲気が流れる。しかし、物語が進むと、若手選手がベテラン選手から代表権でなく、彼女も奪っていたことが明らかになる。

 普段であれば浮気をした彼女、間男となった若手選手に物語のフォーカスが当たり、観客も義憤のようなものを覚えるかもしれない出来事だ。だが印象的なことに、この物語の流れでは男が「敗者」だから仕方ない、と観客とコントロールオフィサーから思われてしまう。

 男は人間的に明確な劣っているわけでもない。ただ泳ぐのが日本で一番早くないだけ、それだけの理由で、何もかも奪われていい滑稽な存在と看做されてしまうのだ。

 そんな男になんの救済も与えられず、彼を笑ったコントロールオフィサーが「コントロールオフィサーはいつだって中立」(≒彼の状況は中立的に観ても悲惨で笑える)と宣言する結末も印象的だった。

 

 そんな敗者のシビアな境遇を見せつけられた後だからか、『百メートル』では、全てを失うかもしれない、という切実さに基づいた選手たちの緊迫感をより一層感じることができた。

 取り止めも無い具体的な会話から、「陸上ってニヒリズムだよな」といった抽象的な対話が浮かび上がってくるのはいつもの平田オリザの作劇という印象。その「ニヒリズム」は究極的には無意味な競争に命を賭ける選手たちだけでなく、それに熱中する我々の中にもあるのかもしれないと感じた。

 1作だけで観ても微妙な印象だっただろうが、2本立てになることで面白く観ることができた。

 

1/10 KAAT『セールスマンの死』@神奈川芸術劇場 大ホール

 ”All my sons”などが有名なアーサー・ミラーの代表作で「大人になりきれない大人を描く」という内容にも興味を持ち観劇。

 "Death of a salesman"というタイトルが示すとおり、この芝居は平凡な男が一人のセールスマンとして生き、夢に破れるままに自ら死を選ぶ物語だ。

 

 初老のセールスマン、ウィリー・ローマンの人生、当初、彼と家族の生活は幸せなフィクションに満ち溢れていた。それは、自分はセールスで大成功しており、息子のビフはアメフトのスター選手、まさしくスクールカースト最上位のジョックで、夫婦と2人の息子仲良く暮らしているという信仰にも似た自己像である。

 現実、セールスの仕事では大成功と言えないものの最新家電を買えるそこそこの生活を送れているし、ビフは数学で落第寸前だが、アメフトのニューヨーク州選抜には選ばれている。多くを望まなければ幸せな家庭だった。

 ボタンの掛け違いが起こるのは、ビフが数学の試験で実際に落第してからだ。ビフはフィクションを守ろうと父に助けを求め、セールスに出ている父の元を訪れる。そこでビフはウィリーが不貞を働く現場を目撃してしまう。そこで、ビフはフィクションを守ることを諦める(「何かが壊れた」)。

 その後、ウィリーはは広がり続ける現実と理想のギャップに苦しむ事になる。ウィリーは心身の老い、職場環境の変化についていけず、ついには会社からクビを宣告される。ビフの成功を信じる反面、不甲斐ないビフに起こり散らし、関係は破綻する。ビフの弟ハッピーは「家庭」というフィクションを諦め、即物的な女漁りに浸る。妻は真実を指摘することもなく、虚構の心地よさに浸り続ける。

 フィクションに頼ってしまう人間の弱さ、フィクションを守るため共犯関係を結ぶ家族の姿がこれでもかという解像度で描かれていてひたすらに感服した3時間だった。

 

 ウィリーがそのギャップに圧倒され、錯乱のままに自殺するという結末は「現実を直視しないと後で何倍も痛い目を見る」というお決まりのパターンだが、現実を直視できない理由を、セールスマンという職業の虚構性(ハッタリに近いものをかまして物を買わせる)、何も生み出さない空虚さ(ビフのたどり着いた職業が農家というのも示唆的だ)、さらにはそんな職業を生み出した資本主義的な社会に求めるというのはとても興味深かった。

 

1/16 KAAT『アーリントン[ラブ・ストーリー]』@神奈川県芸術劇場 大スタジオ

  KAATのプログラムを信頼しているため観劇。芸術監督の白井さんが直々に演出するというのも楽しみだった。

 

 物語は何らかの理由で人間が「管理される側」と「管理する側」に二分されたディストピア的な世界が舞台だ。「管理する側」は数多のタワーを建設し、そこに「管理される側」を収容する。そんなディストピア的な管理社会/全体主義に対照して、描かれるのが「する側」の男と「される側」の女のラブストーリーだ。

 

 全体主義に対して究極的に個人的な出来事(と考えられている)である親愛を描くというのは極めて典型的かもしれない。ただ、この物語の面白い点は、彼らは、ディストピア的社会を所与のものとして半ば受け入れており、力を合わせて社会構造を変革しようとも、タワーを壊そうともしない点だ。さらに言えば、両者の物理的接触はほとんど(おそらく全く)無く、彼らの交流は常にモニターとスピーカーを介してしか行われていない。それだけの関係にも関わらず、男は女を死から救い、その代償として致死的な拷問を受けることとなる。 

 

 この物語の解釈はさまざまだろう。男がディストピアの現実に嫌気がさして虚像と心中したというシビアなものから、そんなバーチャルな交流の中でも抑圧に耐えるだけの真の情愛が生まれた、という暖かい解釈ももちろん可能だ(この物語の副題は"A Love story"だ)。

 

 この作品は2020年の4月に上演予定であった。約1年間で、すっかりオンライン公演は広がり、友人や恋人などのプライベートな関係においても実際会うより、通話やビデオ会議を選択せざるを得ないことも増えてきた。これはまさに、劇中で描かれる二人の関係とほぼ同じだ。

 こんな環境の中では、やはりどちらかといえば後者の解釈の肩を持ちたくなってしまうのが人情だろう。言うまでもないことだが、フィクションは現実と無関係に存在する訳ではないのだ。

 

1/17 青年団『眠れない夜なんてない』@吉祥寺シアター

  毎年恒例(らしい)青年団の吉祥寺公演。マレーシアの日本人居留地を舞台に立場・過去が異なる人々の間での対話が描かれる。平田オリザの舞台は掴みどころがない、ドラマがないと言う向きもあるが、ヒーローが一方的に大活躍するハリウッド映画よりも、異なる考えの人間が対話し、対立し、対決する姿の方がよっぽどドラマチックだと思うのは少数派なのだろうか。

 

 昭和の終わりという時代設定は平成生まれの自分にとっては直感的には理解できなかったが、自粛を強いられる窮屈な雰囲気は今と変わらないのだろうなと思った。天皇の死というコロナよりも非合理的なものが原因なのだから尚更だ。

 

 去年の『東京ノート』で形にならないような義母と娘の親密さが印象的だった2人が、高校の時代の因縁を抱えるギスギスした関係を自然に演じるのは見事。

 今年は脚本・演出だけではなく、役者の演じ方・身体性にも興味を持って観ていきたいと思った。

1/24 ほろびて『コンとロール』@OFF・OFFシアター

 抽象的なテーマを真剣に扱っていそうなチラシや謳い文句に惹かれて観劇した。

 

 舞台の序盤は2つの物語が交互に描かれる。一つは、ゲームを遊ぶカップル、もう一つはスーパーの上司とアルバイトを軸とした物語だ。

 ゲームを遊ぶ女は自らの体をうまくコントロールできず、その結果として、うまくゲームをプレイすることができない。その一方で男は身体のコントロールが効き、ゲームをプレイすることができる。 ゲームのコントローラーが、不思議なことに近くにいる人間と接続され、他者の身体をコントロールできるようになっても、その傾向は変わらない。ただ、そのせいもあってか、2人の遊戯の間に静かに権力・暴力の芽が育っていく。

 

 もう一つの場面の権力構造は雇用関係/指示関係という形をとる分シンプルだ。

 スーパーの店長は経営的な理由による「本社(=上位権力)の指示」でパートの女を解雇しようとする。女は言うなれば不法移民で、仕事をクビになると路頭に迷ってしまうと男に泣きつく。男は下心丸出しで、女を自宅に住まわせる。ここで行使されているのは、職務上の権力ではなく、職務によってもたらされた金銭という権力であると言えるかもしれない。

 女とその妹、男とその弟の4人の奇妙な共同生活は、男の古風な支配者意識などの噴出はあるものの、比較的穏やかなものだった。

 

 ここまでは、他者/身体の完璧なコントロールの不可能性、みたいなところから中動態周辺の話題に行くのかと思った。『中動態の世界』でも幾度も取り上げられた「カツアゲに遭ってお金を渡すのは自発か受動か」という問いがやや唐突に挟まれるものだから尚更だ。

 しかし、2つの穏やかな物語は急激に『夜と霧』のような凄惨な展開を見せる。コントローラーをもった男が、奇妙な同居関係に闖入し、その力を持って家族を支配し、虐待する。思ってもみないスプラッターのような展開だった分、その衝撃は大きかった。客席にも「とんでもないものを観せられている」「こんなはずじゃ」的な雰囲気が漂っていたのは気のせいではないはずだ。

 虐待は一人の犠牲者(犠牲者が、エリアマネージャとしての権力に酔っていた男だというのも示唆的だ)を出したところで唐突に終わりを迎える。コントローラーの力が失われ、男は「コントローラーに支配されていただけ」との言い訳と共にその場を立ち去る。

 そして、コントローラー男から同じように虐待を受けていたカップルの女が、男に別れを告げ、支配から解放されるというラストシーンで幕を閉じる。

 

 基本的には権力の本質を突いた、よく考えられた舞台だったと思う。1月の時点だが、今年ベストクラスの観劇体験をすることもできたと思う。

 ただ、誤解しやすい点をあげるならば、この結末は”被権力者”の解放のみを述べているので遭って、”権力者”の解放は全く別の問題ということだ。

 ここを混同すると、自らを無意識に縛り、他者に権力をふるわせる環境から自らの意思で抜け出せるという素朴すぎる考えに落ち着いてしまう。男による虐待がコントローラー(=権力)の故障によってしか終えられなかったように、この作品でもその不可能性は示されてしまっている。

 そこの問題から目を逸らし、”被権力者”の自由を高らかに宣言するというのは演劇として物語をまとめ、観客を納得させるためにはベストな選択だと思う。これから先はおそらく哲学者の仕事だ。

 ただ、それでも「人はいかに権力を行使するか」という問いは我々にとっても重要であると思う。フーコーの言葉をひくまでもなく権力は不可避の存在で、それなのにおそらくこの問いに永遠に答えは出ない。我々にできることは、誰もが内心に劇中の男、もしくはアイヒマンのような凡庸さを持っていることを自覚し、頭を使い続けることだけなのかもしれないと思った。

 

 これは余談にななるが、精神医療には精神保健指定医と言う資格がある。誤解を恐れずに言えば、これはある人間を治療が必要な「狂人」と判断し、強制力を持って入院・投薬・身体拘束をできる権力を伴う。悲しいことに、この力に起因する環境である精神病院で、今にもなって尚、この作品に描かれたようなことが起こってしまっている(神出病院虐待事件)。

 おそらく、私も数年後には指定医の資格を得る。その時、道を踏み外さないようにするために、この作品のことをできる限り覚えていようと思った。

 

1/29 日韓演劇交流センター『加害者探求‐付録:謝罪文作成ガイド』@坐・高円寺

 リーディング公演を一度観てみたかったこと、脚本家が主催する"theatre, definitely."という劇団名に惹かれたことから観劇。

 芸術界における暴力をテーマに、加害者について糾弾でも断罪でもなくその背景も含めて「探究」をしていくというコンセプトの舞台。元々、発話を元に本を編纂していくという形式の脚本であったため、リーディングでも不足感はなかった。 

 この権力による加害とそれを黙殺する構造は、劇中で語られる詩人たちの「この世界」だけでなく、生活者たる我々の世界である「あちらの世界」にも存在しているのだと思った。

 

  作品の「価値」が他者の評価に全て依存してしまう上に、万人に理解できるものはつまらないとされ(それゆえ芸術家はこの上ない孤独を感じる)、権威による評価が影響力を持ちすぎてしまうという「芸術家の世界」特有の問題を描きすぎると普遍性を失い、普遍性を求めるとあえて芸術家をテーマにする理由がなくなるという難しい舵取りを上手くこなす手腕は見事だった。