2021年3月 観劇記

 

はじめに

 3月も引き続き精神科でした。無事初期研修も終え、2021年度からは首都圏で精神科専攻医としての研修を始めることとなりました。コロナウイルスワクチンの副反応でダウンし、予定していた作品が観られないなどのトラブルもありましたが、3月も多くの作品を観ることができました。

 このシリーズは研修医の頃の思い出を記録する目的もあり書いていたのですが、今振り返ると、東京に戻ってきて本格的に演劇を見始めてからというもの、様々な作品を観ることができた恵まれた2年間だったなと思います。

 研修医は忙しい(4月からは『泣くな研修医』なんてドラマが始まるそうです)なんてよく言われますが、2年間で111本の観劇と確かに忙しくも楽しい日々を過ごすことができました。4月からも公私ともに楽しく過ごせればと思っています。

 

3/3 MONO 『アユタヤ』@あうるすぽっと

 前作、『その鉄塔に男たちはいるという+』を予約していたもののコロナの影響で観劇できなかったため観劇。
 江戸時代のタイの日本人街を舞台とした、いわゆる「辺境のユートピア」もの。この系統の作品はユートピアを求めざるを得なかった人間の姿や、「辺境」の中で「中心」ができていく過程、そしてユートピアの虚構性がその崩壊をもって描かれるのが定石のように思える(演劇ではKAKUTA 『らぶゆ』、小説では村田沙耶香『地球星人』など)。
 ただこの作品では、どれも徹底されておらず、当日パンフにもある「甘さ=ヌルさ」を感じさせられた。
 すでに彼らはタイに渡って、共同体は形成されており、彼らが日本を離れなければならなかった詳細な過程は描かれない。日本の身分制度を引きずる形でヒエラルキーが形成されており、そこに対する反抗の形も日本と同じ「世直し」になっている。
 放火や現地政府からの迫害など、「ユートピア」を崩壊へ追い込む要素は散りばめられているものの、具体的な崩壊の過程や瞬間は描かれない。
 彼らがカンボジアに向けて出発する最終盤に至り、闖入者であったショウエモンが「また癇癪を起こしてみんなに迷惑をかけるといけないから」と言って共同体からの離脱を試み、対話によって引き止められるシーンが描かれる。ただ、ショウエモンの葛藤があまり描かれてこなかったため、あまりにも唐突かつ説得力に乏しい印象を受けた。数分の簡単なやりとりで翻意してしまうのもよりその軽薄さを際立たせていた印象を受けた。
 つまり、場所としての「ユートピア」は崩壊するが、(ほぼ)同じメンバーで旅を続けるという共同体としてのユートピアはその軽薄さを見せつけた上で存続する、という曖昧な結末になっているのだ。
 もちろん、日本人の現地人に対する態度など、社会批評として機能している部分もあった。ただ、倫理的であることを志向するのであれば、「ズレた」侍が取り残される、という誰か一人を貶めるというオチで笑いをとりにいくのは矛盾していると感じ、その面でも中途半端に思えてしまった。
 30年もやっている劇団とのこと、流石にこれが筆力の限界ではないと思うので、「甘さ」がない本気の作品をもう一度観たいと感じた。

 

3/6 オパンポン創造社『オパンポン★ナイト 〜ほほえむうれひ〜』@こまばアゴラ劇場

 アゴラ劇場のプログラムに入っていたので観劇。死刑とマスコミリンチという重いテーマを扱っているが、基本的にはコントの延長線上で、気づきや発見はあまり得られなかった。
 コント風の軽い笑いと重めのテーマ、というコントラストが好きな人はハマるだろうが、個人的にこの試みにのることはできなかった。ただ、こういった真面目な内容を扱うコントがテレビなどで大勢の目に触れることは有意義だと思うので、今後の活躍を期待したいと感じた。

 

3/11 FUKAIPRODUCE羽衣『おねしょのように』@東京芸術劇場・シアターイース

 引っ越しが思ったより順調に進んで暇になったため観劇。「妙ージカル」と称する音楽劇を上演する団体とのことだった。
 全体としては濃淡が少ない、いい意味での曖昧さがある作品で印象に残る作品だった。
 自分は認知症で介護されている老人とその死を、老人の世界に寄り添いつつダンスと音楽で表現されていると受け取った。体験することも、理解することもできず、言葉にも表されない世界を音楽と身体で冒険する1時間は前衛的ではあったが、十分に楽しめるものだった。

 

3/12 『いとしの儚』@ザ・スズナリ

演出の川名さんが主宰する劇団の前作『BLACK OUT』が印象的だったため観劇。
 和風伝奇モノという近年ではアニメや漫画で使い尽くされた感もあるテーマを、どう演劇として説得力ある形で表現するかを楽しみにしていた。
 博徒・鈴次郎と鬼が作りだした絶世の美女・儚のラブストーリーが描かれる。もちろんただのラブストーリーではない。儚は赤ちゃんの魂を持って生まれ、急激に成長するということ、そして生まれて100日経たない間に抱くと水になってしまうことの2つが物語のフックとなっている。

 前者の要素によって、鈴次郎からどれだけ酷い仕打ちを受けても儚が鈴次郎を慕い続け、関係と物語が継続することに説得力が生まれている。儚にとって鈴次郎は親のような存在であり、他の誰よりも尊重される存在であるのだ。
 しかし、そんな儚の愛を鈴次郎は受け入れることができない。鈴次郎は生きるために全てを投げ払い、その代償として博打の才能を手に入れている。母をも手にかけた鈴次郎にとって、儚の一途な感情を受け取り、更生することはこれまでの人生を否定することにつながってしまうのだ。さらに後者の要素によって、鈴次郎は儚と肉体関係を結んで他の女と同じように消化することもできない。

 最終盤までは、儚のことを大切に思いながらも、その愛を受け入れられず、儚を女郎屋に売り払うなど酷い仕打ちをしたり、その葛藤のために勝てない博打にのめり込み続ける鈴次郎の姿が哀切に描かれていて印象的だった。
 結末に関しても、鈴次郎は鬼となり、儚も消えてしまうという結果だけ見れば不幸なものに思える。しかし、その過程で鈴次郎は儚の気持ちを受け入れ、その儚を自らの命に代えても救おうとする。儚も鈴次郎に抱かれるまでその身を守り、自らの願いを鈴次郎に聞き入れてもらう形で命を散らしている。
 つまり、鈴次郎は過去の呪縛を乗り越え、主体として新しく生きる*1ことに成功し、儚も本人の望む形で生を終えることができている、という面ではいずれも極めて本来的(後述する『是でいいのだ』でも引用される概念だ)であり、最も幸福な結末と言えるのかもしれない。最後まで、いい意味での曖昧さを残した描き方が印象的な脚本だったと思う。

 演出に関しても、あえて幕間にメタフィクションを挟む*2ことで、本編の虚構性を観客に強調し、非現実的な設定に違和感を抱かせないようになっていたと感じた。

 もちろん主演の藤間さん(阿佐ヶ谷スパイダース『桜姫』の吉田の演技も強く印象に残っている。役柄も今作とかなり似ている気がする)の幼女から花魁までを違和感なく演じ分ける熱演がなければこの舞台は成立していなかっただろう。
 ハイレベルな脚本、演出、演技の相乗効果で、あっという間の2時間だった。

 

3/15 小田尚稔の演劇『是でいいのだ』@SCOOL

 前作『罪と愛』がとても印象的だったので観劇。「2011年3月の東京での出来事とカントやフランクルの思索との接続」という狙い通り、難解で我々の生活には無関係なように思える思弁を我々の慎ましい生活に適用する舞台であった。
 作中でたびたび引用される『それでも人生とイエスという』には、「死は(本来的な生き方を完遂するのに必要な)贈り物」とまで描かれており、「それでも震災にイエスという」ことは東北を舞台にしても可能であっただろうと思う。
 ただ、この類の言説は、強制収容所を経験したフランクルのように、当事者性がないと猛烈な批判を生みうるものであろう。そこを考慮したのか、2011年3月の東北の出来事でなく、東京の出来事について語り、内容も人の生死などではなく、学生時代からの引きこもりや将来を憂う就活生、離婚寸前のカップルなどの人生に起こった内面の変化が描かれていた。このように登場人物らはいずれも人生に行き詰まりを感じており、震災をきっかけとして、境遇を受け入れ、歩を進めていくこととなる。
 この点に関しても、「順調な人生」に震災が打撃を加えたが、それを受け入れて進むケースが描かれないのは一面的だと批判する向きもあるかもしれない。しかし、これも前述の通り、固着した価値観に基づく無理解な批判を避け、「震災を受け入れる」というテーマに集中するためだろうと感じたし、その試みは成功していたように思えた。
 震災から10年、多かれ少なかれ我々の人生に傷を残した日のことを改めて振り返るとともに、その日から引き続いて生きる私たちをまなざすとてもいい舞台だった。
 個人的は、自分が生まれ育った街*3でこんな素敵な芝居が観られるということも新鮮だった。

 

3/16 佐藤滋とうさぎストライプ『熱海殺人事件』@こまばアゴラ劇場

  前作『あたらしい朝』も印象的で、3月の中では最も楽しみにしていた作品だったが、期待にそぐわず楽しめた。
 あらすじなどはここで改めて述べないが、刑事-容疑者という「真実」を探り当てる関係を演出家-役者という虚構を作り上げる関係になぞらえることにより、あらゆる「真実」の中に潜む虚構性を暴き出すところまで射程を伸ばせているのは本当に素晴らしいと感じた。
 初めてのつかこうへい作品だったこともあり、派手な演出や大仰な台詞回しには驚いた。ただ、このように演劇の中の不自然さを露悪的なまでに主張するからこそ、一見すると「自然」な現実に対する挑戦が際立っていたように思えた。
 演劇初心者にとって、過去の名作を観る機会は貴重なので、今後もこういった場に参加していきたい。

3/18 宮﨑企画『忘れる滝の家』@アトリエ春風舎

  会員プログラムに入っていたため観劇。
 かなり抽象的な内容で、はっきりとした劇中の出来事は思い出せないが、意味を削がれた言葉や境界を削がれた空間がどこか心地良かったことだけは覚えているという不思議な体験だった。
 親子関係を軸として、人間的な時間/価値観を超えた存在(と人間の限界)をふんわりとしたタッチで描くのは12月に観た『老いは煙の森を駆ける』にも似通う部分があったように思えた。同じ劇団所属で同年代の作家ということで、劇団内での流行りということもあるのかもしれない。  
 ただ、こちらの作品は、人間の側にも眼差しが向けられていて、親と子はいかに関係を結ぶのか、その中で自我や子としての自覚がどのように生まれるのかという問いまで射程を持っているように思えた。
 思索そのものは明らかではないものの、その痕跡が色濃く残り、観るものも作るものも明瞭さに安住することをよしとしない(が完全に理解不能というわけでもない)深みが感じられて好みだった。

3/26 青年団リンクキュイ『まだなにもはなしていないのに・音響上演』@アトリエ春風舎

 前作、『景観の邪魔』が興味深かったため観劇。舞台装置の中から登場人物の録音した音声が流れる、という独特な形式であった。作家の部屋をそのまま再現したような空間も相まって、演劇というよりも現代アートの展示といった趣だった。
 コロナワクチンの影響で倦怠感が残っていた事情を差し引いても、セリフを聞き取れない場面が多く、表現内容と形式の組み合わせを楽しみきれなかったのは心残りだった。
 ただ、コロナ禍においても演劇を続けるための実験として、とても興味深く観ることができた。次作『ダイレクト/ネグレクト』は相当な気合いが入っているとのことで、今から楽しみにしている。
 

3/31 近藤企画『更地の隣人』@アトリエ春風舎

 こちらも会員プログラムに入っていたため観劇。
 災害を背景として、思い出や信頼、日常の喪失、服喪、そして喪明けが描かれていたように感じた。
 チラシからしててっきり震災関連と勘違いしていたので、想定よりポップな作品で意外な印象だった。弱さを常に滲ませつつも、暗くはなりすぎない脚本と演出で喪失を背景とした日常を描き、悪夢や誰に向けるでもない超短波放送などで隠しきれない過去/日常の綻びを描くという対比は見事だった。また、過去と現在のどちらに振り切って生きることもできない、複雑な感情を表現する近藤さんと折笠さん2人の演技も素敵だった。

*1:すぐに死んでしまうのだが

*2:鬼が殿様の邸宅に儚を助けにいった際の一幕が意図された演出ならすごいと思う

*3:劇場の階下ある玩具屋には小学生の頃ベイブレード欲しさに通ったものだった