『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(前編)

はじめに

 2日前の8月7日、周囲で話題になっていたアニメ映画を観ました。終映間近ということもあり、わざわざ川崎に出向いた苦労が報われるような素晴らしい映画でした。
 この映画について考えることで、「どうして演劇が好きなの?」という問いに対する一つの答えを提示できるのではないかと思い、一つの記事にまとめることを試みます。

 

 多くのファンもいる中で、TV版含め何も事前情報がない自分が新しい視点を提示できるかは分かりませんが、なるべく平易に述べることができればと考えています。

f:id:stmapplier:20210809210229j:plain

新国立劇場・オペラパレス内観

 

物語構造について

 この作品では劇中劇の構造が巧みに使われています。まずは、その構造を解きほぐすことから始めていきたいと思います。

第1層:劇中の「現実」


 この層はとてもシンプルです。宝塚音楽学校のような場所を舞台として、9人の少女が切磋琢磨していますが、すでに『ガラスの仮面』的な演劇ドラマは終わった後のようです。


 その結果、ほとんどの生徒たちが将来の行き先、自らが立とうとする場所を自ら決めています。しかし、その中で主人公格である愛城だけは将来を決めきれていません。さらに自らの指針となっていた幼馴染の神楽はイギリスへ旅立ち、愛城の前から姿を消してしまいました。


 愛城と神楽の2人は幼馴染で、愛城は児童劇団に所属していた神楽に連れられて観劇した『スタァライト』という演目で舞台の魅力に取りつかれます。しかし、演劇の魅力を愛城に伝えた神楽は演劇留学のためイギリスに旅立つこととなり、幼稚園生の時、2人は舞台の上での再会を誓い合って別れます。


 その後、愛城は神楽に再会するという目的のためにひたすらに演劇に打ち込み、児童劇団で主役を努めるほどに成長し、音楽学校で神楽と再会を果たしています。そして、劇中では明確には描かれませんが、『スタァライト』という思い出の演目で共演を果たし目標を達成したのでしょう。

 

 この物語で描かれるのはここからの姿です。愛城以外の8人は、同級生の存在と彼女たちとの別れを通して自らの覚悟を再確認し、愛城は最後の学園祭での『スタァライト』の再演を通して自らの生き方を自ら決定する過程が描かれます。


 つまりこの層の内容を端的に表せば「目標としてきた他人との約束を達成した主人公が、他の生徒のように自らが立とうとする場所を自ら決め、新たな一歩を踏み出す物語」と言えるかもしれません。


第2層:劇中の現実における「劇」


 この層は、作中で実際に上演される劇、いわゆる「劇中劇」にあたります。この作品が興味深いのは、演劇をテーマとしているのにも関わらずこの層がとても希薄なことです。
 基本的に演劇ドラマでは、主人公の葛藤が「劇中」の人物(=自らの役)と共鳴し「劇」を演じる中で間接的に解決される、というパターンが多いように思います。

 

 これは野球漫画で登場人物の葛藤が、試合や一打席勝負のような形で間接的に解決される構造と似ています。野球は個人の内面を直接表現することはできず、あくまで他者と別のモードで関わるための媒体として野球は機能しています。

 

 しかし、この作品ではそのような場面はほとんど描かれません。
 主人公・愛城が劇の練習中に「なぜ行ってしまうんだ、友よ」というセリフにひどく感情移入して泣いてしまう、という場面がわずかに描かれますが、序盤に軽く消化されてしまいます。
 学園祭の演目として『スタァライト』が再演される、愛城にとって決定的な場面でさえも、その上演の様子が直接描写されることはありません。

 

 物語としては、『スタァライト』の中のセリフを、愛城・神楽、2人の役者の(第1層における)心情に近づけ、その上演の中で「限りなく直接に近い間接的な形」で愛城の葛藤を解決する様子を表現する「演劇ドラマ」風の展開も取れたと思います。

 

 しかし、観客は学園祭で上演された『スタァライト』がどんな物語なのかを直接知ることはできません。

 なぜならそれは、葛藤や内面を直接描写し、対話-対決を経て解決するプロセスを別の「劇」の形で表現する「レヴュー」に置き換えられ、観客である我々に提示されているからです。
 そして、そのレヴューこそが演劇の大きな機能の一つの現れであるように思うのです。

 

第3層:劇中の心象風景としての「レヴュー」


 ここからがこの作品のミソかもしれません。
 前述のように、レヴューは自意識や感情などの内面がむき出しとなり、他者と対決するプロセスが本人たちによる「劇」という形で直接表現されたもののように思えました。


 より端的に述べるならば、「レヴュー」=「心象風景を舞台とした私小説的演劇」と言えるかもしれません。それは物理的な基盤*1を必須としない、内面を表現する場としての劇です。

 これは、第2層(劇中劇)が存在する場として第1層(劇中の現実)という物理的な基盤(=支持体)を必要とすることと対照的です。

 

 もちろん、「演劇における葛藤や悩み(第1層)を、主に演劇(第2層)を通して解決する」舞台少女達のドラマとして最低限のラインを守るため、まさに劇的な内面を劇として表現するレヴュー(第3層)は、内面が最も揺れ動く時、この物語においては彼女たちが出演する演劇(第2層)を背景に持つ事が多いでしょう。そして、レヴュー(第3層)と全く同じ内容の舞台が、劇中劇(第2層)として上演されている設定にすることももちろん可能です。

 

 では、演劇のどんな機能が、内面の劇的なぶつかり合いを演劇(レヴュー)として表現すること可能にしているのでしょうか。


 演劇の性質について、劇作家の木下順二*2「演劇とは対立である」、また同じく劇作家の谷賢一*3は演劇とは「価値観や考え方や生き方の違う2人以上の登場人物(=他者)が出会い、対話するプロセス 」と述べています。これはまさに、作中におけるレヴューの役割と一致しているように思います。

 

 しかし、これだけでは「野球も対決である」という反論が成り立ちます。では、なぜ演劇(=レヴュー」がより内面のぶつかり合いを直面化できるのでしょうか。
 ここからは個人的な意見ですが、簡潔にいえば、それはルール/目的の違いだけのような気がしています。

 

 野球には明確なルールがあります。そして、そのルールのなかで相手に勝つという目的への合意がゲームの前提になっています。マウンドでどんなかっこいい踊りを披露しても、バットで相手を殴り倒しても、野球をする目的は達成されず、かえってゲームから追放されてしまいます。言い換えれば、野球という形式・野球場という場、それ自体が価値判断の基準を内包していて、それが内面の自由さを縛っていると言えるかもしれません。

 一方で、舞台という場はルールが務めて排除された場です。舞台はあらゆる物語の器となる潜在能力を持つ、最も自由で安全な空間の一つと言えるでしょう。舞台を縛るルールは物理法則と、有名な格言”Show must go on”くらいかもしれません。
 しかもアニメーションでは、物理法則すら完全に無視できるのですから、形式面では飛び抜けて自由と言えるでしょう。
 

 個人的に興味深い点は、そんな自由な空間で多くのレヴューが上演される中で、最初の『皆殺しのレヴュー』以外は、1対1で行われ、「本音の表明と対話→対決→決意と別れ」という同じ展開をすることです。
 キャラクターの物語をまとめ上げるという要請があるにしろ、これは、レヴューのルール(外套についたボタン?を剣で切り取れば勝ち)に縛られた結果なのかなとも思います。このルールは物語を拘束するよりもむしろ、名だたる劇作家が述べて来た演劇の機能を際立たせる効果を発揮していたように思います。

 もちろんルールが生む拘束についても作者は自覚的で、ルール破りの実例や、ルールを破ったことが「演技」の一環として包摂される(=ルールを絶対化していない)場面があることが深みを出していると感じました。


各層を分けること・つなげること


 ここまでは、物語の構造を3層に分けつつ、第1層では自己実現に関するシンプルなストーリーが展開され、第2層の「劇中劇」の内容自体はほとんど語られず、そのかわりに第3層として心象風景を舞台とする「レヴュー」が、第2層の「劇中劇」が上演される時などに生じる、感情のぶつかりなどを反映する形で描かれていると整理しました。

 普段の演劇や映画では、我々が直接観ることができるのはせいぜい第2層までで、多くの場合第3層は提示された演出や演技を我々が解釈し、想像することで浮かび上がってきます。演劇でもごく稀に第3層が直接表現されることもありますが、物理的な制約のため、観客はどの層を観ているかわからなくなり、混乱することも多いように思います。

 

 それを考慮すると、この作品の構造における美点は、衣装やキャプション、背景などで今画面にあるのがどの層なのかをしっかり切り分けてわかりやすく提示する一方、映像の力で各層をシームレスに移動し、各層の関連を明確にしていることなのかなと感じました。

 もちろん、構造自体だけでなく、構造と内容の相乗効果や演出の妙など他にも魅力は様々あると感じたので、この点に関しては後述します。

 

 また、このシームレスな移動に我々が違和感を感じずについていけるのはさらに3つの要因があると感じました。

 

 1つは、第2層と第3層が両方とも同じ「演劇」という作法で描かれていることです。このことにより、第2層が第3層によって置換される、つまり、「舞台少女が演劇の悩みを演劇(第2層)を解決する様子を演劇(第3層)で表現する」時にも、大きな違和感を生じずに済みます。

 もし、野球漫画で、各々の内面に野球で決着をつけるシーンが突然「野球に関する演劇」で表現されたら大ブーイングでしょう*4

 

 そして、その構造を担保しているのが、演劇が我々の「現実」に最も近い自由度と実在性を持った表現形態である*5こと、それゆえ「演劇に関する演劇」*6という自己言及が最も簡単にできることなのだと思います。「小説に関する小説」「映画に関する映画」は成立する一方で、「野球に関する野球」「BBQに関するBBQ」は意味不明であることと対照的です。

 

 もう1つは彼女たちが「劇」を日常にしていることです。こちらに関しても説明は不要でしょう。それによって日常(第1層)に「劇」(第2層もしくは第3層)が常に侵入してくる余地があるのです。


 明らかに「劇」が上演されていない*7地下鉄の場面で唐突に『皆殺しのレヴュー』が始まった時(第1層が第3層で直接置換された時)は驚きましたが、この設定のおかげでなんとか食らいつくことができました。


 ちなみに、第2層をできるだけ薄くする試みは現代演劇にもあり、「ポストドラマ」*8と呼ばれる潮流となっています。
 ただし、もちろんそこにレヴューのようなルールは導入されません。その結果、より原始的な舞台芸術、「演じることと見ることが同時に起こる空間であり、その空気をともに吸いながら、俳優と観客に共同に過ごされ、共有で消費される生の時間」とレーマンが表現した空間が残るとされています(詳しくは新国立劇場の解説をご覧ください)。
 

 これは余談ですが、第3層(=対決を表現する手法としての虚構)の力を借りずに、前述した「本音の表明と対話→対決→決意と別れ」が日常に存在する光景を描こうとすると、「生きること(第1層)は是戦う事(第2層)なり」といった時代劇的な世界観が導かれるかもしれません。

 彼らの戦いにも特定のルールが無く、戦いの中で対話することも可能であり、そして彼らの日常のあらゆる場面に対話の場である戦いが侵入してくる余地があります。
 そういったことを考えても、この物語の構造は複雑ですが、内容は極めてシンプルと言えるのかもしれません。

 

第0層:『レヴュースタァライト』が上演される現実


 ではこれまでの議論から、演劇の魅力はレヴューのように、生身の人間が感情と言葉で殴り合うことにある、とまとめてしまっていいのでしょうか?もちろんそれも魅力の一つだと思います。特に舞台芸術を属人的なものとして捉えた場合、この映画は1つの素晴らしい解答となりうるものだと思います。

 しかし、個人的にはそれはあまりに乱暴な議論のように思います。舞台が舞台として認識されるための条件、演劇が上演されるための条件について、ここまで触れることができていないからです。それは、彼女たちの世界やこの映画から意図的に省かれているからかもしれません。
 一体それは何でしょうか?答えは極めてシンプルで当たり前のもののはずです。

 それはおそらく観客の存在、そして観客からのまなざし(「演劇の支持体は『まなざす』ことにあります。」ムニ『忘れる滝の家』*9当日パンフレットより)だと思うのです。 
 

ここまでのまとめ

 ここまでの前半では、映画の中での出来事に集中して考えを進めてきました。
 後半では、単なる映像を「歌劇/レヴュー」たらしめる観客とこの作品/出演者との関係、そしてその関係を密かに、ただ幾度となく主張する演出の妙について考えていけたらと思っています。

 

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(後編) - Trialogueに続きます。

*1:もちろんレヴューにも基盤=支持体は必要です、このことについては後編で言及します

*2:代表作:『夕鶴』『子午線の祀り』(2021年 2月観劇記 - Trialogue)など

*3:代表作:『福島三部作』(2021年 2月観劇記 - Trialogue)など

*4:それを考慮すると『シン・エヴァンゲリオン』は親子葛藤(第1層)を壮大なSF的設定(第2層)を経て到達した、エヴァンゲリオンイマジナリーにおける「親子喧嘩劇」(第3層)で解決させるという荒技と言えるかもしれません

*5:さらに舞台という自由を確保された器がある

*6:メタシアターと呼びます

*7:ただしドラマトゥルギーの観点にたてばあらゆる場面は劇的であるとも言えます、詳しくは後半で

*8:スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』(2020年 8月 観劇記 - Trialogue)などは顕著です

*9:2021年3月 観劇記 - Trialogue