2021年8月 観劇記

はじめに

 早いもので今年も6分の1が過ぎようとしています。書きたいテーマは色々溜まっているのですが、まずは観劇記の負債を返済することから始めようとしています。

 精神科医として働き始めて1年、仕事が好きだなと思いながら働けているのは、観劇などでリフレッシュできているおかげかもしれません。

 

8/1 gekidanU『リアの跡地』@アトリエ5-22-6

 以前に観た『光の祭典』の作・演出の方による久々の作品とのことで観劇しました。南千住の一軒家を拠点とする、バジェット・環境的に恵まれた劇団に加入した後にどんな作品を作るのか楽しみにしていました。

 作品はシェイクスピアリア王』を下敷きとして、「なぜリア王は娘に美辞麗句を求めたのか、なぜコーディリアの実直さを信じられなかったのか」という問いを立て、それを現代の南千住の物語として解答を模索するという刺激的な試みでした。
 南千住駅集合で、我々観客も地上げのためのサクラと位置づけるなど、距離感の近さやロケーション(言うなれば我々は家という舞台セットの中に存在していました)を活かす取り組みも印象的でした。

 内容自体も、ファロセントリズムや家庭内に潜む主従関係・権力関係など暴き立て、そこからの解放を謳い上げる作品で力強さが印象的でした。野球ボールという父の象徴を家/自らの身体の中から投げ捨て、プレイボールを宣言する(「ほんとうの自分」の開幕を告げる)ラストは清々しさすら感じるものでした。

 

 ただ、我々の世界はもっと複雑で、清々しいことのみに依拠してはいられません。この作品でも、「ほんとうの自分」を縛るルールや法則、大きな他者としての父/男性を拒絶した後に何が残るのかは描かれません。そして、その秩序なき後に、どのように新たな秩序を打ち立てるのか、他者と関わるのか、という問題は残るように思えました。

 

 ちなみにフランスの精神分析ジャック・ラカンは、「父の名の排除」(=言語体系など所与のルールの受け入れに失敗すること*1 )は精神病(代表的なのものは妄想などです)の原因となる、と述べています。
 もちろん「父の名の排除」は能動的に行えるものではないように、そもそもこの男性性/所与のルールの排除(否定とは違う、というところに留意する必要があります)というのを完璧に行うことも困難でしょうし、この後にこの主人公が精神病状態になる、ということも想像できません。
 ただ、いろいろなものを否定した時に、最後の拠り所となるのは他者なき自分の考えで、それはもはや訂正不可能で了解不能な妄想に近いものとなる、という示唆はは共通してるのかなと感じました。
 それを考えると、今後は「自分で自分をどう律し、正しく制御していくか」という課題を取り扱ったの作品を観てみたいような気もします。

 色々書きましたが、基本的にはハイレベルな作品で楽しく観ることができました。古典を下敷きにしたことで緩和はされているもののイデオロギーに傾倒する部分もあり、『光の祭典』から思索はあまり深まっていないように思える部分も多い作品でした。
 少なくとも、自分にとっての劇場は実験の場であって主張の場ではあってほしくないのだなと感じました。

 

8/8 さいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』@彩の国さいたま芸術劇場小ホール

今回の作・演を務める細川さんの前作『コンとロール』が素晴らしかったので観劇しました。また、蜷川幸雄さんのプロジェクトの幕切れも観たいと思ったことも理由の一つです。
 「富裕層が社会不適合者をペットとして飼う」というインパクトの強いあらすじも嘘ではなかったのですが、「ペット」の品評会として、「レシピ(台本)」に則った寸劇である「パドック」を行うというところが本題となっており、穿った見方をすれば、演劇を批判的に描く演劇とも言えるかもしれません。
 「権力/社会構造の歪さを出発点に捉えた作品」とのことでしたが、演出家としての権力を自在に強力に使った蜷川幸雄さんのホームグラウンドでこの作品が上演されるというのもなかなか挑戦的な試みなのかもしれないなと感じました。

 

 8/12 コメディアス『段差インザダーク』@こまばアゴラ劇場

支援会員プログラムで観劇しました。
 仙台出身、自分の出身大学の同門生らによるコメディ専門ユニットとのことで、どんな演劇になるのか気になっていました。事前のあらすじ(機密文書を盗み出す…)と当日パンフレットに掲載されていたあらすじ(古代遺跡から秘宝を運び出す…)が大幅に違い面食らいましたが、面白く見ることができました。
 白眉なのは前半のアスレチック的な、段差を台車が登っていくという言語を介さないような試みをみんなでハラハラしながら見守る部分でした。この瞬間は、観客と俳優と役柄が一体となって、同じ感情や目的を共有する稀有なものだったと感じました。どちらかというと演劇というよりスポーツ観戦に近い体験かもしれません。

 また、実際に「段差文明人」が出現し、未知とのエンカウントが起こった途端に「普通の演劇」が始まるというギャップも印象的でした。典型的な博士-助手のドタバタ劇という感じで斬新なものはありませんでしたが、蘊蓄や知性によって補強されたとんでも論や、実際の経験に裏打ちされたアカデミアの面白エピソードが散りばめられていて、楽しく観ることができました。

 前半はコンテンポラリーダンスや無言劇に近い面白さを感じたので、そういったジャンルとのコラボレーションも観てみたいと思わせる団体でした。

 

8/19 ムニ『カメラ・ラブズ・ミー!(回る顔/真昼森を抜ける)』@こまばアゴラ劇場

 前作、『忘れる滝の家』が興味深かったため観劇しました。せんがわ劇場演劇コンクールでのこの作品をめぐる審査員とコンテスタントとによる論争*2についても興味があったのも理由の一つです。どちらも強い物語はなかったせいか、今思い出せることはあまり多くないので、観劇当時の短い感想を載せるだけとします。
 『回る顔』: 意識-無意識・忘却-死、今ここ-今ここ以外・想像-無といったグラデーションを時空間を飛び越えながら描いているように感じました。次はどこに連れていかれるのか、目が離せない舞台でした。音同士が応答するような無意識下の発語を再現する試みも楽しめました。
 『真昼森を抜ける』:こちらも時空間を曖昧にしつつ、仄かな温もりを残す作品でした。ただ、シーン間に何らかの因果があるかもと明言された途端、却って説明の乏しさが気になったのは意外でした。彼らの作品は、物語をあえて排し、純粋な提示として受け取れるかが鍵なのかもしれません。

 ちなみに、演劇コンクールの論評に関しては言葉遣いの問題はあるものの妥当なもののように感じました。
 この作品は、作・演をかねた宮﨑さんが俳優の身体や発話までコントロールしている点と、観客の存在が意識されていない(何も意識的に提示していない)という点の両方で自閉的であるというのは強く感じることができました。後者に関しても12月に上演された『東京の一日』に比べてもその傾向は強く、この舞台が観客に提示されるに至った理由がわからないなとも感じました。
 「本来的な芸術のあり方としてはそれでいい、芸術に理由や意図は必要ない」という意見もあるとは思います。ただ、こちらが積極的に触れたくなるような優れた芸術に内在する、内面を刺激し、積極的に何かを思い出させたり、発動させるような力はこの作品からは感じ取れませんでした。
 試みとしてはとても面白いと感じているので、これからも応援していきたいと感じました。

 

8/29 DULL-COLORED POP『丘の上、ねむの木産婦人科』@ザ・スズナリ

 お気に入りの劇団の最新作だったので観劇しました。
 「異なる性/生を想像する」というコンセプトで、とある産婦人科を舞台に、数組の男女の出産や結婚にまつわる物語が描かれるオムニバス的な作品でした。
 男女の俳優が逆の性別の役を演じる回もあり、そちらも観たかったのですがスケジュールの都合で泣く泣く「普通の劇」の回のみを観劇しました。

 女性の社会進出の問題や、男女の基本的なすれ違い(もしかしたらそれは子育てへの当事者性の意識の差かもしれません)の問題は、一歩間違えば「男は結局何も分かってない」と一蹴されてしまうであろう難しいテーマだと思います。
 しかし、この作品では『福島三部作』でも発揮された抜群のバランス感覚や、「問題設定はするが、作中で明確な答えは出さず、答えを出そうとする過程を描く」というスタンスのおかげで、誰もが作中の問題を自分ごととして考えられるような作りになっていたと感じました。
 このテーマは「自分はこうしてきた、これが正しい」というポジショントークに終始しがちだからこそ、 パートナーがいる/いない、子供がいる/いないといった違いを乗り越えて、みんなで一つの問題を考えるという機会は貴重だと思いました。
 また、安易な解決は描かないものの、解決に向けた希望*3は示すというエンディングも素敵でした。

 多くの人がこれをみて、さまざまなケースを共有し、対話が生まれ、より良い関係性が社会に広がっていけばいいなと感じました。

*1:これがなぜ「父」と呼ばれるかは長い話なのでここでは省略します

*2:未だに往復書簡は公開されてないようですがどうなったのか気になります

*3:やや楽観的にすぎるきらいはありますが