2021年10月 観劇記

はじめに

 もはや8ヶ月も前のことなので、かなり曖昧な部分はありますが、記録や資料をもとに当時の感想をなんとか残しておこうと思います。1年遅れたら一度諦めて最新版から消化していきますが、まだ大逆転を狙ってこのペースでやっていきます。

 

 ただ、8ヶ月前のことなのに鮮明に覚えている舞台や場面も多く、これが目の前で起こることの一つの効果なのかなとも覆っています。

 

10/1 幻灯劇場『盲年』@こまばアゴラ劇場

 劇場支援会員プログラムで観劇しました。
 劇団というよりアーティスト集団といった雰囲気とのことで、どんなものが観られるのかとても楽しみにしていました。
 過去に秘密を抱える男と、一度袂を分かったはずの盲目の息子との奇妙な同居関係を軸に、「毎日自白をしにくる女」「盲目の人の検品作業」といったスラップスティック的なエピソードを交えながらその周辺の人間の思いが描かれます。特筆すべきは、そのどれもが「ギャグのためのギャグ」に堕しておらず、物語の中で意味を持っているということかもしれません。
 全体を通して、嫉妬や後悔など人間の負の感情に焦点が当たっており、あらすじ(息子が盲目になったのは、亡くなった妻の姿を“見てしまう”息子が男が疎ましく感じ、眼球を傷つけたからだった)だけだとダークで救いのない物語のように感じますが、映像(プロジェクターで背景や舞台装置を映すのはかなり効果的でした)や振り付けを用いた華やかな演出で楽しく観ることができました。
 やりたいことがたくさんある若者の情熱が詰まった印象的な舞台でした。

 

10/3 KAKUTA『或る、ノライヌ』@すみだパークシアター・倉

 好きな劇団の一つなので観劇しました。劇団員だけの公演というのも久々らしく、どんな作品になるのか楽しみにしていました。
 物語の前半は新大久保を舞台として、社会から程度の差こそあれ疎外された存在である、ノライヌと在日外国人の姿が並行して描かれます。
 当初は都市における「アウトロー」の存在を描くのかなと思っていたのですが、徐々に各々の登場人物が”不倫相手に逃げられる”、”恋人に逃げられる””妹をカルト共同体に連れ去られる”という喪失を抱えていたことが明らかになり、その回復のために3人が北海道へ向かう、というロードムービーの様相を呈します。
 その様子はアクションあり、笑いありとエンタメタッチで描かれるのですが、その中でも人生の苦味ややるせなさが顔を覗かせる場面も多いのはKAKUTAらしさでしょうか。
 結末もハッピーエンドとまではいえませんが、生きていくことには肯定的なもので、最後までじっくりと楽しみながら観ることが出来ました。

 また、その旅に乗り合わせたノライヌ(拾われてはいるのですが、彼のメンタリティーは安住を彼に許していません。それ故に彼はまだノライヌなのだと思います)のカツオも”今はそこにはいない”師匠ジョージの影を追い、その先でジョージも”母”を喪失していることが明らかになります。これは、”人間編”のメタファーとして機能しており、物語のテーマをシンプルに伝えることに成功していたと感じました。

 観劇をはじめておおよそ3年、段々と2回目,3回目の劇団も多くなってきたせいなのか、徐々に物語だけでなく演者にも意識が向くようになってきたことに気づけたのもこの舞台でした。

 

10/8 あまい洋々『besideU:わたしいましたわ』@新宿眼科画廊

 あらすじや、『痴人の愛』を現代のアイドルに翻案するという試みに興味を持って観劇しました。また、「さまざまな負荷と対峙した(している)少年少女の精神活動に興味があり、同テーマで作品を作り続ける」という団体コンセプトにも強い関心がありました。

 この作品で取り組まれている問題意識を極めて陳腐化して述べれば、アイデンティティの形成(=自分が何者かを自分で定めること)ではないかと感じました。
 しかし、資本主義社会や周囲の大人ははアイデンティティが未熟な少年少女を放っておいてはくれません。周囲の欲望は少年少女に作用し、「欲望に応える」ことが仮のアイデンティティとして機能してしまうことも多いように思います。

 主人公ナオミも、”私は空っぽ””透明な私”と自らの存在の不確かさや不安定さの自覚を述べ、アイドルという資本主義の仕組みや、ファンである譲治の唐突なプロポーズに応じて同棲するなど周囲の欲望に極めて従順です。ちなみに、譲治をおじさんではなく若い女性が演じたのはキャスティングの都合もあるでしょうが英断だったと思います。”暴力”の影は薄くなりますが、その分ナオミ本人の問題が浮かび上がっているように感じたからです。

 当初は2人の関係は歪ながらも安定した形で描かれますが、『痴人の愛』同様、そこに内在する支配-被支配/みる-みられるの関係や、その逆転が描かれていきます。しかし、最後まで原作通りというわけではないのがこの作品の美点です。そのキーとなるのがもう一人の少女ノラです。
 イプセンの『人形の家』から名前をとられた彼女は、『人形の家』の結末で家の支配から抜け出し出奔した主人公ノラと同じように、『痴人の愛』的な支配-被支配の関係から抜け出し(日雇いで働く)自由な存在として描かれます。
 そして、ナオミはノラとの交歓や文学や芸術*1通して癒され、自分と向き合います。そして、ナオミは譲治の元に戻るのですが、原作とは異なり、譲治を支配下に置こうとはしません*2
 ここには、作者の『痴人の愛』のナオミは譲治を支配したが、それは譲治を自由できるステータス=自分の価値を再確認する作業にしか過ぎず、アイデンティティを他人に依存している状態から脱していられないのではないかという批判意識があるように思いました。

 そして、「独立」を宣言し、他者に認められずとも、友人がそばにいなくとも、自分で生きていけるようになったナオミは海に向かい、冒頭のセリフを引用しながら、自らが存在していることを宣言できるようになります。ここで起こった変化は、「わたしいましたわ」という過去形のタイトル/台詞が示すように、それは「すでに存在していたもの」を認めるか認めないかという態度や姿勢の問題であり、ナオミは世界や他者、自分を肯定的に受け止められるようになったのだと思います。
 それはまなざしの象徴たるカメラ*3を持ち、それを世界/観客という他者に向けた後の最後の台詞である「きれい」というセリフに集約されているように感じました。

 『痴人の愛』を下書きとしているようにこのプロットや問題意識自体は、何度も何度も繰り返されてきており、決して新しいものではないように思います。このブログで取り上げた音楽

や、演劇などともテーマは通底しているように感じます。
 しかし、この悩みはほとんどの人が通るものです。そして、その悩みの渦中にある人により新しい作品が作られ、その少し下の人を導くという構図は必要であり、美しいものだとも思うのです。そんな点では、今をもがく誰かにとってのマスターピースになりうる作品だと思いました。
 個人的にも去年でベストの観劇体験でしたし、唯一観劇後に映像を買った作品です。

 

10/15 ロロ『Every Body feat. フランケンシュタイン東京芸術劇場 シアターイース

 過去作を含めてあまりピンとはこない団体なのですが、どこが人気なのかを理解したくて再度観劇しました。

 この作品も『二つの小さい四角い窓』と同様、劇団や作演の個人的な歴史を参照しつつ、演劇や物語ることの力強さや効果を描いているように感じました。
 やりたいことはわかるのですが、ファン以外には伝わらないであろう部分が多いですし、過去のサブカルチャーのパッチワーク的な引用(過去=死体=Body((

bodyの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

)))を繋ぎ合わせ、作られた新しい演劇がフランケンシュタインということでしょう)も総体として特段の効果は発揮していないように思いました。

 戯画的な優しい雰囲気が好きな人にはいいかもしれませんが、この作品からは「物語/演劇最高!」という自己言及的な主張しか感じ取れませんでした。
 そして、本来は目的ではなく手段であるはずのメディアを賞賛する声を聞き続けるのは、”BBQに行かず、肉も食べられないのにバーベキューの話だけを聞かされる””テレビ最高と言っているテレビマンの話をテレビで聞かされる”という非常につまらないものになっていたように感じます。

 穿った見方をすれば、”物語にはまった過去の自分”や”今この演劇を見ている自分”を肯定してもらえるような感覚を持てるという一点で人気なのかもしれないなと思いました。

 

10/17 東京芸術祭『野外劇 ロミオとジュリエット イン プレイハウス』@東京芸術劇場・プレイハウス

 500円で芸劇プレイハウスに入れるという希少性に惹かれて観劇しました。
 男女別のキャスティングなどは全く効果を発揮できておらず、俳優の演技も稚拙なものが多く観るに耐えない場面もありましたが、実は初『ロミジュリ』だったこともあってプロットに集中して楽しめました。シェイクスピアの偉大さを知る貴重な体験でした。

 ただ、作品の巧拙とは別に、演劇が町ゆく人の目に止まる、演劇が街中にあるという光景はみてみたかったなと感じました。

 

10/17 ぐうたららばい『海底歩行者』@こまばアゴラ劇場

 一風変わった作品が支援会員で観られるとのことで観劇しました。
 子供を若くして亡くした夫婦の、「これまで」と「それから」が描かれるのですが、特筆すべきはその動と静のコントラストかもしれません。
 前半は、「普通の」子育ての大変さや喜びが描かれるのですが、子供役を夫婦が交互に2人1役の形でシームレスに演じる場面など、技術に裏打ちされた奇妙な感覚を楽しめました。
 後半は、本来ドラマティックに描かれてもいいはずの痛切な感情が淡々と描かれており、前半の賑やかさとのコントラストがとても印象的でした。

「いる」と「いない」の間を易々と乗り越えるような演技が素晴らしく、演劇の力を感じた舞台でした。

 

 無料でオンライン公開されているようなので紹介しておきます。
 https://www.youtube.com/watch?v=yARnw1Zm-ks

 

10/22 ヌトミック『ぼんやりブルース』@こまばアゴラ劇場

 これまた変わり種の作品が支援会員で観られるとのことで観劇しました。
 楽器以外・日常の音というぼんやりしたものから音楽というまとまりを作って提示する試みだとは思うのですが、これが脚本としてプログラムされていることを岸田國士戯曲賞にノミネートされた時に知って驚きました。
 選評でも指摘されていたように、それがどう「コロナ禍の日常」と接続されているのか、戯曲として何か有意なものがあるのかは曖昧な印象も受けましたが、パフォーマンスとしてはとても楽しめました。

 

10/28 ほろびて『ポロポロ、に』@北千住BUoY

 前作『コンとロール』が素晴らしかったので観劇しました。今作も現実に起こっていることを直視しようとする姿勢を感じ、そこは共感できました。
 一方で、前作にあった劇的/抽象的な部分はなりをひそめ(ホームレスの生活が最後まで”キャンプ”として描かれなかったことが象徴的です)、個人の心情がモノローグの形で吐露される場面が増えた印象がありました。これは痛切な効果も示す一方で、安直な印象も受けてしまいました。

 個人的には直視したものを直視したままに描くのはドキュメンタリーの仕事であって、それを誰かが物語とする以上は工夫や企みが欲しいと思ってしまうのもあり、正直好みとは異なる一作になってしまいました。

 ただ、インダストリアルな地下空間の使い方は素敵で、この劇場で別の作品も是非みてみたいと感じました。

 

10/30 岡田利規演出オペラ『夕鶴』@東京芸術劇場 コンサートホール

 岡田利規がオペラを演出するという斬新さに惹かれて観劇しました。当代きっての演出家が飛び道具を駆使しつつ、名作オペラに挑む姿はとても印象的でした。

 ただ、その結果は危惧された通りで、もはや集合的無意識というまでに刷り込まれた『鶴の恩返し』をはじめとする「昔話」のイメージに勝てるほどの強度がなく、どこか空回りの末に空中分裂してしまったような印象を受けました。

 音楽は素晴らしかったので、またオーセンティックな演出の舞台を観に行きたいと感じました。

 

*1:これは他者であれば何でもいいのだと思います

*2:もちろん支配することも可能でした

*3:ナオミは当初”撮られる”存在でした