Trialogueについて

 

ご挨拶に代えて

 まずはこの場に訪れ、さらにはこの記事に目を通して頂いたあなたに最大限の感謝を申し上げます。初めまして、私はらりー(id:stmapplier )と申します。

 

 ここは「私と誰か、そしてあなた、その3者間の対話(Trialogue)の場」にしていきたいと私は考えています。

 

 ブログという性質上、「私と誰か(の文学、音楽、演劇、サービス、製品)」という記事が多くなりますが、同時に「"誰か"を介して私とあなたの間」に、そして「"私と誰かの対話"を介して誰かとあなたの間」に生まれる対話も志向しています。時には「誰か」を乗り越え、 「私とあなたの間」の直接的な対話を目指すこともあるでしょう。

 

ただ一つ求められるもの・守るべきもの

 

 対話の本質はその双方向にあります。コメントやトラックバックを頂いた際には、その内容をできるだけ真摯に受け止め、打ち返したいと思っています。

 

 対話が続いていくのに必要なことはただ一つ、思うままにあなたの言葉を、物語を表出することです。そこには義務も倫理も役割もありません。しかし、それが快適に続くためには、ある程度共通した「作法」が必要です。そのヒントとなりうる記述を一部引用したいと思います。

 

  • 「世のため人のため」ならず。まずは「自分のため」にすべし。
  • 自分に閉じ込めるべからず。開いて他者と共有すべし。
  • 自分にとって痛いことこそ要点なり。
  • 他者の表出はていねいに扱うべし。
  • おためごかしは無用のこと。
  • 自他を混同しないように気をつけるべし。

          貴戸理恵『「コミュ障」の社会学青土社 pp.191

 

 万人に優しく開かれた対話の場を保つためにも、このシンプルな「作法」は非常に有用であると感じます。自分の物語を語る時、誰かの物語を聞いた時、突発的に言葉を発する時、この「作法」を守れているか、自分に問い続けたいと思わされます。

 

もう一つのTrialogue

 Trialogueという言葉にはもう一つの対話への願いを込めました。「なるべき」自分、「なりたい」自分、「今ここにある」自分の3者の間に起こる対話です。

 

 社会・都市が「なるべき」姿を明示的、黙示的に与える、その圧力をひしひしと感じながら私は、「私は生きていくため、欲望を叶えるため、自由を勝ち取るためには意識的にその姿に迎合しないといけないタイプの人間である」とこれまで思ってきました。

 そして、そんな圧に身を委ねるうち、目的だった「なりたい」を忘れ、手段であったはずの「なるべき」姿に「なりたい」といつの間にか錯覚していました。

 

 しかし、「なるべきだった」自分と「今ここにある」自分が一致していること/その認識は、他人/他人がどう思っているかという自分の認識」というひどく操縦性が悪い(ごく稀に完璧に乗りこなせる人もいますが)、努力量と強くは相関しないものに依存します。

 そのため、否応なしに「なるべきだった」自分と「今ここにある」自分のギャップを認識することになります。しかし、自省的で悲観的な性格は、そのギャップの原因を「私のせいだ」と曖昧に捉え、「今ここにある」自分が志向する姿の再検討ではなく、努力*1することで縮めようとしてしまいました。

 そんな中で「なるべき」姿は再強化され、努力に限界が来たときに訪れるであろう、「なるべき」私になれない私はもう無価値である、という絶望の足音も感じていました。

 

 しかし、私が大好きで大嫌いだった、人、小説、音楽、映画、漫画、演劇、評論、工業製品、サービス、都市、社会といったありとあらゆる事物は「私の物語」を受け止め、その解釈を、ずっと前から提示してくれていました。そして、彼らはそれだけではなく、分析するための言葉、立ち向かうための戦略、勇気、武器までも密かに与えてくれようとしていたのです。

 それなのに私は心を閉ざし、自分自身の「あるべき」姿だけを見ていたために、それらが全く見えていなかった、そのことに最近ようやく気づくことができました。

 

未だ見えない、しかし「今ここにある」あなたへ

 そのような経緯で、私はこの場で「なるべきだった」「なるべき」姿から少しだけ自由になり、「これまであった」自分、「今ここにある」自分を見つめていきたいと感じています。それによって「今ここにある」自分が志向する姿*2が、「なるべき」自分と、「なりたい」自分、どちらの方角を向いているのかを認識し、調整し続けることが、少し楽に人生を過ごすコツなのではないかと考えています。

 

 そして、自分の物語を相対化し、向かう方向を少しずつ書き換えるための方法として、「私と誰か、そしてあなたとの対話( Trialogue )」の試み( Trial )をおっかなびっくりでもはじめてみたい、そしてその過程( log )を残したい、そう思ったのです。

 その手始めに、おそらく人生で初めて「発したい」言葉を使い、おそらく人生で初めて「語りたい」物語を語りましたが、その体験は充実したものになっています。

 

 私と違う、だけど似ているかもしれない、未だ見えない「今ここにある」あなたがこれを読んで、内容の是非は別としても「今ここに」提示されたと認識したこと、それだけで私は十二分に幸せです。ただ、できればこの企みに乗っていただき、その結果として、あなたの中で、あなただけの対話(それはTrialogueではないかもしれません)が生まれれば、これに勝る喜びはありません。

*1:他人に与えられた姿であるために、調整が効かない上に、絶対的なゴールを定めることもできません。虹の根元を目指して走り続けるようなものです

*2:現実問題として、100%「なりたい」姿であることは不可能です。その姿を100%肯定するのは詐欺師か宗教家しかいません

2020年 8月 観劇記

 

はじめに

 8-9月はリハビリ科を選択しました。以前に読んだ『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』が興味深かったというだけのミーハーな理由ですが比較的楽しく過ごしています。

 8月に入り、徐々に公演も再開されてきました。演劇やクラシックコンサートの入場制限が緩和されるというニュース*1もあり、これからも安心して多くの芝居を観られる環境が維持されると良いなと思います。

 

8/16 深夜ガタンゴトン『消え残る』@王子スタジオ1

 これまで観劇したことのないカンパニーを観たくなり観劇。

 『「新しい気づきのプラットフォーム」をコンセプトに、「現代社会で本音で生きる」を合言葉に』と社会派で少し大仰なキャッチコピーでしたが、看板倒れのように感じてしまいました。

 作品のテーマは「嫉妬と覚悟」と明言されており、売れない口だけ俳優と同棲する後輩女子(舞台女優を目指していたが売れるためにAV女優へ転身)の同棲生活が描かれます。

 しかし「覚悟」のあらわれとして選んだAV女優というガジェットは安直ですし、下ネタのインパクトに比して先輩の嫉妬と葛藤の描かれ方が弱く、既視感のあるシーンが続いてしまう印象でした。俳優志望や作演として売れない/選ばれない経験をした人はその感覚の前提を共有しているかもしれませんが、部外者には切実さが足りないように感じてしまいました。

 少し辛辣な書き方にはなってしまいますが、演劇関係者の井戸端会議/傷の舐め合いレベルの内容を「新しい気づき」と宣言してしまうのは作者が「こんなことにすら気付いてませんでした」と自らの浅はかさを告白していることに等しいと感じました。

 

8/18 スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』@こまばアゴラ劇場

 3月の『ウエア』が印象的だったスペースノットブランクの代表作とのことで観劇。

 このカンパニーの公演は、オフィシャルのイントロダクション(

フィジカル・カタルシス|植村朔也:イントロダクション __ 小野彩加 中澤陽 / スペースノットブランク)が素晴らしいのであまり語ることはありません。

 今回もステートメント

『それは多様な選択ができるものとする。
それは躰の内在と外在から構築される。
それは作家のためだけのものではない。』

 と抽象的。「それ」の指すものは「動作」ではないかと踏み舞台に臨みました。

 イントロにあるように、提示されるのは単なる動作の連続がほとんどです。PHASE 4の"Music"を除いてはほとんど言語による情報提示もなされません。

 しかし、1時間以上その動きを観ている私たちはそこに何らかの意味を見出してしまいます。動きが同期したり、身体がわずかに触れ合う瞬間に感情が揺れ動くこともありました。それは普段の演劇ではあまりにありふれていて見逃してしまうような身体の交歓であり、対話であるように感じました。その時感じた爽快感や”結末に辿り着いた感”が個人的*2な『フィジカル・カタルシス』なのかな、と思いました。

 また、PHASE4とエンディングで流れる『フィジカル・カタルシスのテーマ』はテーマに触れつつも遊び心に富んでいて、ストイックさだけでない彼らの魅力を垣間見た気がしました。

 

8/27 東京夜光『BLACK OUT -くらやみで歩きまわる人々とその周辺-』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

 今年のMITAKA ”NEXT” SELECTION第1弾として観劇。この企画は、芸術監督が小劇場を回って”ピンときた”劇団を3つ選んで上演させるというもので、公共劇場らしからぬチャレンジングな内容が魅力的で毎年楽しみにしていました。

 実家から徒歩圏内にあった関係で、小劇場系演劇に最初に触れたのもこの企画で上演されていたぱぷりか『きっぽ』でした。去年のゆうめい『姿』、犬飼勝哉『ノーマル』、第27班『潜狂』どれも面白く、ハズレがない印象を受けました。

 

 さて、この作品はいわゆる「演劇の演劇」に分類される作品ですが、その中でも演出助手という一般の観客にとっては馴染みが薄い仕事を取り上げているのが新鮮でした。

 そして、演劇を題材にし、癖のある人たちの人間模様を描くだけに留まらず、自意識の割に自信がなく、周囲に迎合してしまいがち、そして「上手くできてしまう」若者の葛藤や決意、成長が細やかに、切実に描かれていて好印象でした。コロナを背景として「この公演」にかける想いが強く描かれた上での、この作品のエンディングはとても見事だと感じました。この覚悟を見せた上で、次にどんな作品を観せてくれるのかが今から楽しみです。

 また、メインテーマではないですが、コロナに対する十人十色の反応もリアリティに富んでいて、4月の混乱した雰囲気が強く思い出されました。

 

 ここからはこの作品とは関係のない予測と勝手な願望です。

 劇団・劇場・観客の数だけ”再開”があり、「演劇ができることについての演劇」が多いのも仕方ないのかもしれまんし、これだけのことがあれば話したくなるのも当然かもしれません。

 しかし、こういった作品はメタフィクション的な飛び道具に頼らざるをえず、えてして結末も「それでも私たちは続けていく/生きていく」と似通いがちです。もう早い者勝ちの期間は過ぎようとしているように感じますし、極論を言えば観客にとって俳優や演劇関係者は知り合いでもない限り”どうなろうと知ったこっちゃない”存在です。観客が興味があるのは作品や思考なのであって、”演劇をしていることそれ自体”ではない、ということを忘れず、観客に甘えず作品を作って欲しいと思いました。そして今後はコロナを取り扱うにしても「コロナ禍と”演劇以外の何か”に関する演劇」を観たいなと感じました。

*1:

映画、演劇で定員50%以内の制限緩和へ(共同通信) - Yahoo!ニュース

*2:普段の演劇以上にどこでどんなカタルシスを感じるかは鑑賞者によって大きく異なると思います

2020年 7月 観劇記

 

はじめに

 7月は訪問診療を行うクリニックでの地域研修でした。小劇場や映画館が多いエリアでの研修となり、当初はアフター5を楽しみにしていたのですが、この状況ではあまり楽しめなかったのが残念でした。

 

 6月に緊急事態宣言が解除され、演劇の公演も再開されました。ただ、当初は商業主義的な作品(クラスターが発生した『THE★JINRO イケメン人狼アイドルは誰だ!!』などは最たる例です)が多く、この状況下でなくても全く観劇する気が起きないようなものでした。

 しかし、そのような中でも興味深い作品が徐々に上演されるようになってきました。ルーティンワークとして、いくつかの作品の感想を残しておきます。

 

7/20 DULL-COLORED POP 『アンチフィクション』@シアター風姿花伝

 

 観劇を再開するにあたり、作品のテーマである「今の時代にどんな物語が可能なのか? コロナ禍の中、演劇は一体どんな物語を生きるべきか? 劇場とはどうあるべきか?*1」という問いはとても重要であると感じたため観劇。予想以上に素晴らしい作品でした。

 作品は、主宰・谷賢一が、作・演出・出演・音響・照明をこなすという徹底的な一人芝居の形式で上演されます。

 作品冒頭で「私(「演じる私」であり「書いている私」でないことを強烈に留意する必要があります)が語ることは全て本当であり、私が語ったことは全て本当になる。私は本当のことしか喋らない。フィクションを喋らない」と宣言されるように、序盤はコロナ禍という濃厚な現実を前にして物語が書けなくなった劇作家(「書いている私」)の懊悩*2がやや大袈裟に描かれます。  

 この時点では観客は、これは「書いている私」が実際に経験したことかもしれないと思うことができるかもしれません。

 しかし、徐々にファンタジックな方向へ物語は進み、鈴木福を名乗る怪しい男性が差し出すMDMAの亜種の手助けも借り、「演じる私」は死の象徴であるユニコーン*3に直面し、人生とは何かという問いに一定の答えを見出します。

 この作品の中で語られることは、もちろん「書いている私」「観ている観客」にとってはフィクションでしかありません。しかし、「演じる私」にとってはそれは紛れもない現実=「アンチフィクション」であるということが宣言され、それを受けて「書いている私」がそれでも物語を描き続けようとする姿が提示され、舞台は幕を閉じます。

 

 この作品で印象に残ったことは、物語、フィクションとは何か、なぜこの環境下で無効となる物語が多いのかという問いに対する作者の考えでした。

 作者は、本来カオスである自然状態に耐えることができない私たちが、それを理解しようと考え出した強い「だから」が物語の本質であると述べます。

 しかし、「通り雨に降られるようにして人が疫病にかかり、偶然に死んでいく現在、時として現実には「だから」がない、ということが強烈に示されてしまっています*4。そんな現実を目の前にし、作者は新しい「だから」を生み出す必要があるのだと述べています。

 

 もちろん、作中でも述べられるように、他者の物語に興味や共感、感情移入を抱くためにはある種の心理的な安全が必要であるから*5というのも理由の一つではありますが、それだけではないのだろうなぁと思いました。

 ちなみに、個人的には「アンチフィクション」を特徴付けているのは、解釈の余地はあるが反駁の余地はない、ということなのかな、と思っています。

 

 この作品を観てもう一つ考えたことは、作品がある、というアンチフィクションについてでした。もし、ある作品が、観客や作者が体験している現実と独立に存在しているなら、「面白い作品はいついかなる状況、誰が観ても面白い」となり、この作品中で語られるような苦悩は生まれないはずです。しかし、作品の意義、受け取られ方はその環境によって大きく変容していきます。言うまでもなく、それは作品自体が私たちの現実の中に存在しているからです。そして、その存在は私たちにとって突然、どうしようもなく(「だから」がなく)もたらされる物です。音楽はイヤホンを外せば、テレビはリモコンを操作すれば、本は閉じてしまえば、映画は電気が消えてしまえば、その存在から距離をとることができます。しかし、演劇を始めとした舞台芸術(ライブやコンサート、ダンスも含まれます)は他の現実と同レベルの確かさを持ってその場に存在し、観客は心身全てで作品と向き合い、反駁せずに解釈し続けることができます。それが自分が思う演劇の魅力なのかもしれないなと今は思っています。

 

 

7/27 屋根裏ハイツ『ここは出口ではない』@こまばアゴラ劇場

 今年度からこまばアゴラ劇場の支援会員になった関係で観劇。会員はアゴラ劇場+連携劇場での作品を原則無制限に観劇することができる制度の中、4月以来初めての公演となりました。

 年会費も3万円と一回公演が3-4000円することを考えると格安なことはメリットの一つですが、自分から探して予約しようとは思わない作品、よく観る作品とはテイストが違う作品との出会いとのハードルが格段に低くなるのが最大の魅力だと感じています。

 芸術監督の平田オリザさんが「作品が面白くないと感じても、なぜ面白くなかったのかを考えるのは面白い」と述べるとおり、作品自体の面白さと鑑賞体験の面白さはまた違ったところにあるのかもしれません。

 

 この作品は再建設ツアーと題され、過去2作品を再演する企画のうちの1作でした。当日パンフレットにもあるよう、小部屋での会話を屋根裏から覗き見るような作品でした。

 作品は何らかの災害*6を背景としていますが、静かな、方向性が薄い会話が大半を占めており、エキサイティングなものではありません。

 

 テーマは死者、喪失とどう向き合うかということのように感じましたが、明確な機転(「だから」)がなく「いたじゃなくて今もいる」という結論にたどり着きます。そもそも、死者役の生者が舞台上にあがり、生者役の生者と同様に扱われるという舞台構成が雄弁なこの作風であれば、結論を作中で言葉にせず、ふんわりと着地させてもいいんじゃないかとは感じました。独特の味わいがある作品で興味深く見ることができました。

 

7/29 屋根裏ハイツ『とおくはちかい(Reprise)』@こまばアゴラ劇場

 こちらも同系統の作品ですが、震災を背景にしていることが明確にされています。こちらは過去と向き合うか、といったテーマについてですが、「思い出すとかじゃなくてある」といった結論がやや唐突*7に明示されます。2作続けてみることで、このカンパニーに漂う空気感を少し掴めたような気がしました。

*1:公式HPより引用

*2:解題より引用:「恋に落ちたり、青春を燃やしたり、人生の選択に迷ったりする物語はどうしても今書く気になれない。現実で生きるか死ぬかをやってる時に、そんなことを長々と時間をかけて観客と語り合う気にはなれないのだ(演劇とは観客との対話だと私は考えている)」

*3:解題によると12-3世紀の中世ヨーロッパで実際に語られた伝説だそうです

*4:その状態をシェイクスピアを引用して『世界の関節が外れてしまった』と述べています

*5:個人的な考え(

テーマパーク的なるものについて (卒業によせて①) - Trialogue

)と同意見で膝を打つ思いでした

*6:このカンパニーは仙台出身だ

*7:なくしたと思っていた物が出てきたというエピソードに呼応する形はあります

2020年3月 観劇記

 

はじめに


 研修も1年がすぎ、ついに後輩ができる時期になってしまいました。
 3月は消化器内科で忙しい日々を過ごしていました。自分ではあまり進歩していないと思った1年でも、できないことができるようになり、出来ることはより簡単に出来るようになっていると実感できたのは有意義な1ヶ月でした。
 3月はコロナウイルスの影響で観劇予定の作品が何本*1も中止になりましたが、それでもそれなりに作品を観ることができました。
 観劇は不急かもしれませんが、不要な活動ではない、と小さな声でここに主張しておきます。

3/4 ゆうめい『弟兄』@こまばアゴラ劇場

 前作『姿』が素晴らしかったため、「ゆうめいの座標軸」と称して代表作3作を再演する試み全作品を予約していた。

 この劇団は「作・演出の池田亮の実体験を元にした作品」という触れ込みで、かなり現実に近しい作品を、技巧が尽くされた舞台芸術とともに上演するのが特徴的。しかし、池田亮として登場する人物が「池田亮役」の別の役者であることから分かるように、その全てが真実ではなく、真偽がごちゃ混ぜになった不思議な観劇体験ができると感じている。

 前作『姿』は「両親が離婚するので両親の話をします」という内容で、実父・実母を出演させるというかなり派手な演出が印象的な作品だ。しかし、それだけではなく、両親への愛憎入り混じった感情や、離婚してしまうやるせなさが笑いや明るさ*2の裏に滲み出ていて非常に好印象だった。

 『弟兄』は『姿』にも登場していた「弟」、そして2人を繋ぐ「いじめ被害」というテーマにフォーカスが当たり、池田亮の中学〜大学時代が描かれる。

 前半は池田のいじめ被害、そしてその環境下で生き延びていくための池田の空想*3がポップなタッチで描かれる。

 しかし、そのいじめは池田が長距離走で学内1位になったことで唐突な終わりを迎える。

 中盤はその後に高校に進学した先で出会った「弟」との交歓が描かれる。「兄」池田と「弟」はいじめから自由になった環境で、初めて信頼できる他者と出会い、コンビニでたむろしたり、川べりではしゃいだりなど、たわいもないが幸せな時間を過ごす。

 しかし、卒業式の出し物で弟と兄が『悲愴感』という曲を披露させられたことをきっかけにその蜜月は終わってしまう。兄が「あんなものただ人前で踊るだけじゃん」と捉え、前向きに物事に取り組めたのに対し、弟はいじめ(他者に自尊心を侵害された)体験がフラッシュバックしてしまい、うまく踊れない。さらにその後、「これ以上のことがあるなんて、無理だろそんなの…」と将来を悲観するまでに至ってしまう。

 そんな弟の感情を兄は理解できず、励まそうとして「あんだけでそんなに考える?」「え、俺はそんなに辛くないけど」という言葉をかけてしまう。

 両者はこのすれ違いをきっかけにほとんど連絡を取らなくなってしまうが、弟は池田が教えたアニメーションなどの娯楽に没頭し、問題を先送りしてしまう。

 終盤では、大学に進学したり、異性とパートナーシップを結んだりと、社会的にある程度立ち直ったに見える池田が、過去のいじめ体験に囚われる姿、そして、同様にトラウマによって大学に通えなくなった「弟」が最終的に自死したというエピソードが描かれる。

 そしてクライマックスでは、「現在」におけるいじめた側(前回までは伊藤華石という名が明かされていたそうだ)と池田の対話が描かれる。しかし、例によっていじめた側は大したことと捉えておらず、池田は「弟」のエピソードもあり、激昂し伊藤を詰る。その声も届かず伊藤は「もっと深い話したかったんだけどな」と立ち去ってしまう。

 しかし、芝居はここで終わらない。「弟」が好きだった東京事変の『女の子は誰でも』をバックに、最後の数分でいじめに対する空想の憂さ晴らしと同様、「こうであって欲しかった」風景が描かれる。それは伊藤へ直接反撃することであり、「生まれ故郷の春日部と伊藤が最低であるという告発」によって間接的に反撃すること*4であった。

 祝祭的なBGMと逝ってしまった「弟」や自分の過去などに対するやるせなさが対照的で印象的なラストシーンだった。


3/12 ゆうめい『俺』@こまばアゴラ劇場

 時系列としては『弟兄』の大学生以降にあたる作品。今作品は「俺」の一人芝居であるが、「『斎藤さん』という匿名通話アプリでこういう話を聞いたのでそれを再現する」という設定で上演された。そのため、スマートフォンで常に自撮りをしながら演技し、かつその映像が舞台上のスクリーンにリアルタイムで投影されるというなかなかテクニカルな作品。

 物語は「俺がアニメ『ストライクウィッチーズ』の二次創作で好き勝手やっていたら警察に呼び出された」という奇抜なシーンから始まるが、全体のテーマは「物語は誰のものか」、「切実な当事者性・事情のない物語*5への怒り」と明確になっている。

 しかし、そういった真面目な見方だけではなく、派手にうごく舞台美術を眺めたり、スクリーンの画面のみを観て劇中で「俺」がしたものと同じ体験をするなど、様々な楽しみ方ができて非常に興味深かった。

 昨今の状況や、スマートフォンで配信できるという特性を生かし、現在リモート公開稽古と称してほぼフル尺の作品を観ることができる*6スマートフォン/オンラインで観劇されることに最適化された演劇という特徴もあり、劇場で観るものと遜色ない観劇体験ができるはず。投稿日(4/12)16時から「本番」とのことなので、時間を持て余している方はぜひ。


3/16 ゆうめい『弟兄』@こまばアゴラ劇場

 『光の祭典』を一緒に観にいった友人と再び観劇。

 こちらはあまりお気に召さなかったよう。確かに、内容のダイナミズムという点では大したことない*7ため、やや形式や現前性を楽しむ要素が強いのが一つの要因かもなと感じた。


3/17 スペースノットブランク『ウェア』@新宿眼科画廊

ドラマとカオスを縦横するスペースノットブランク。CHAOTICなコレクティブによるDRAMATICなアドベンチャー。ダウンロードとアップロード。HIGH & LOW。物語とキャラクターと本人と別人が脱ぎ着する、母音だけでコミュニケーションできる「場所」。実存しない物語とキャラクターを、実存する本人が「上演」というシチュエーションを用いて実存する別人の目覚ましを鳴らそうとするための舞台。

  とのコンセプトの通り、かなり抽象的で前衛的な作品。

 ストーリーもかなり解体されている上、役者と登場人物が結びついていないため、筋書きを追うので精一杯だった。元々ダンスユニットということもあるのか、脚本はあくまで発話を含めた身体活動の題材と捉えているのだろうか。評論家による前説がないと全く理解できなかっただろう。

 不思議な作風なので、気になる方は期間限定公開されている別の作品の公演映像

(30分程度だ)を眺めてみると新しい体験ができるかもしれない。

*1:映画美学校『シティキラー』、True colors dialogue『All sex I've ever had』, ゆうめい 『あか』, PARCOプロデュース『ピサロ

*2:離婚が決定的になるシーンで、実父がモーニング娘。ハッピーサマーウエディング』を踊るなど

*3:桜庭一樹風に言えば「砂糖菓子の弾丸」

*4:こちらは作品を上演することで達成されている、というのがこの作品最大のギミックだろう

*5:ゆうめい は極めて当事者性の高い物語を上演している

*6:

田中祐希: "6回目の稽古配信です。よろしくお願いします。"

*7:実話の範疇を超えられていない

2020年 2月 映画について

はじめに

 先月から家の近くにある名画座の年間会員になりました。

 せっかくなのでこの1年だけは映画(劇場で観たものに限る)についても軽く記録を残しておこうと思います。


 これらの映画はAmazonプライムNetflixなどのおかげでいつでもどこでも観られるようになっているので、あらすじについて触れることはしません。興味が湧いた作品があれば是非観てみてください。


2/13 『幸福なラザロ(英題: Happy as Lazaro)』

 初っ端から濃厚な宗教映画を見せられてびっくりした。

 聖性を帯びる程の純朴さを見せつけられるのはどこか爽快で、幸福感のある体験だった。そして聖性が具体化したのが音楽であったり、狼であったりするのだろう。

 ただ、「復活後」の展開がご都合主義的なのは仕方ないと思いつつも、最後まで違和感が拭えなかった。きっとキリスト教徒はラザロの聖性による奇蹟と納得できるんだろうなとも思った。

 もちろん、中世的な小作農のシステムの被害者そして加害者までもが、都市のシステムによって搾取されるという社会批評的な側面があるが、どこか真剣に取り組みきれてない印象があったのが残念。

 


2/20 『存在のない子供たち(英題: Capernaum)』

 名画座のお作法として、「2本立て作品の場合はなんらかのリンクを持たせる」というものがあるらしい。

 この作品はレバノン映画で、イタリア映画の『幸福なラザロ』とは舞台も時代背景も大きく異なるが、「システムとそれに搾取される弱者、そしてその抵抗」というテーマは確かに似通っていた。


 『ラザロ』の場合はシステム=前半は地主・小作農/後半は都市・現代ビジネス、弱者=小作農・ラザロ/後半は元小作農・元地主、抵抗は「ひたすらに純朴であること」であったが、こちらはシステム=国家/家庭、弱者=難民/子供、抵抗は「親を「自分を産んだ罪」で訴える」といったもの。


 こちらはより社会派な作品で、ややドキュメンタリーチックに描かれていた。そのおかげか、シリアスな問題をしっかり伝えられるだけの強度がある作品になっていたと感じた。

 
 

2/24 『ミッドサマー』@TOHOシネマズ日比谷

 ネット上で評判が良かったため観賞。


 基本的には「トラウマからの解放+明るめのフォークホラー」といった内容で面白く観ることができた。

 牧歌的な風景、ポップな衣装や小道具と、丁寧に予告されたエログロ表現の対比というのもなかなか新鮮で、話題になるのも納得の出来だった。


 一方で、序盤、村にたどり着くまでの導入がやや雑で、「妹が両親と無理心中した」といった事実が主人公にとってどれほどトラウマになっていたか、なぜそうなのか、という点が観客と共有できていないという印象を受けた。

 そのため、解放への希求によってドライブされるはずの物語が、純粋にカルト村の設定をめぐる物語のみになってしまったのは片手落ちのように感じた。


 さらに残念な事に、その設定も日本の観客には横溝正史三津田信三のような民族ホラーでお馴染みのもので、最後まで特に驚くべき点はないように思えた。 

 そもそも、「主人公達と一緒に世界/舞台の謎を解き明かそう!」といった内容の作品は、作者が事前に準備していた各要素をどういう風に観客に呈示するか、というテクニックだけの勝負になってしまうのであまり面白くないと感じる。 それだけなら設定資料集で十分で、「その設定を用いて作者がいかに実験/冒険したのか」ということに興味があるのだなと感じた。

2020年 2月 観劇記

はじめに

 早いものでもう春の足音が聞こえてきました。日々をコロナウイルスの影響は医療現場*1よりも日常生活に色濃く出ている印象です。

 綺麗事かもしれませんが、こういう時だからこそ、舞台芸術や音楽、文学が人々の恐怖心を宥め、穏やかに諭す役割を果たせるのではないか、とも思っています。

 

2/8 可児文化創造センター&リーズプレイハウス『野兎たち』@新国立劇場

 国際色強い演劇を観ようということで観劇。

 こちらは岐阜県可児市とイギリス・リーズ市の共同制作。国際結婚を題材としているだけあって俳優陣も日英双方から出演という豪華な舞台。

 

 舞台は英国で出会った日本人・早紀子(可児出身)とその婚約者でイギリス人のダン(リーズ出身)とその母・リンダが可児市の両親を訪れるシーンから始まる。

 当初は「異文化間での対話」といったありふれたテーマが描かれるが、話題が早紀子の兄・弘樹に移ると舞台は不穏な雰囲気を帯びる。

 

 弘樹はこれまで親に敷かれたレールの上を上手に走り、弁護士としてある程度の成功を収めていた。しかし、その一方で弘樹の精神は消耗しており、些細なきっかけにより実家での退却的な生活を経て失踪してしまう。

 また、そんな弘樹を家族の恥として隠す両親によって醸し出された不穏な雰囲気の中で、早紀子とダンが結婚したきっかけが早紀子の失職に伴う滞在資格の問題である事、ダンとリンダの関係が破綻しかけていた事、リンダは旦那の喪失に苦しみ続けていることなど様々な問題が明かされる。

 その後は問題それ自体は解決しないものの、様々な人間が対話/対決を繰り返すことで何が問題なのか、何が大切なのかということが明瞭になってくる過程が描かれる。そして登場人物全員が現実/自らの感情を正しく認識した時に、自然と解決が訪れるのだが、これは個人の存在/思想よりも同一性や体面が重視され、社会が押し付ける虚構/嘘に苦しむ日本人に対するイギリスからのアドバイスなのかもしれないな、と感じた。もしかしたら日本人はとあるお題目に従順すぎるのかもしれないとも思った。

 失踪というのは日本特有の現象らしく、これを見たイギリス人は日本人について、そしてイギリス人についてどういった考えを巡らせるのか聞いてみたいと感じた。

 

2/9 青年団国際交流プロジェクト『東京ノート インターナショナルバージョン』@吉祥寺シアター

 昨年観劇した『その森の奥』において興味深かった、多言語同時多発演劇の最終形ということで観劇。

 近未来、ヨーロッパでの内戦により、多数の絵画が疎開して来た日本の美術館が舞台となっている。

 その待合室に出入りする人々の取り止めもない会話から、同文化内/異文化間での対話が浮かび上がってくる、という構図は前作と類似している。その一方で扱っているテーマは大きく異なるのが興味深いと感じた。今回は舞台設定もあり、「絵/世界をどのように/誰と見るのか」がテーマとなっている。

 フェルメールが描いた人が全て窓の方を向いている理由が複数人によって多様に解釈されたり、「画家が見ているものを見ているのか、画家を見ているのか、画家の世界を見ているのか」という複数の鑑賞姿勢が明言されているように、人は同じ対象を見ても違う捉え方をする、というのがこのテーマの根底に流れている。そして違うが故に、一人一人が見た/感じた内容には無条件の価値がある、ということを示唆する結末が導かれる。

 全体を通して、そんな違いをならすのでなはく、違いを違いのままにしつつ、共存するために必要な姿勢が後日に観た日本語版に比べても鮮明に描かれてたと感じた。

 こういった当たり前で、それが故に普段は照れ臭くて公言できない事を堂々と提示してくれるのが演劇の機能なのかな、とも感じた。

 

2/15 ロロ『二つのさみしい窓』@こまばアゴラ劇場

 知り合いが今月の一押しに選んでいたため観劇。

 劇団の10周年公演ということもあり、劇団の過去や存在理由を総括し、主張するような内容。タイトルも劇団名を示唆するものになっているのはそのためか。

 内容は、旅劇団*2の歴史を軸に、東北の風景や震災とは違う*3別れなどがやや抽象的かつファンタジックに描かれるというもの。

 情念が強すぎるためか、やや地に足がついていない印象だったが、「境界を溶かして透明にする*4」/その先にある出会いというコンセプトと、それをうまく体現した舞台美術は素晴らしかった。また、抽象的な展開の中で唐突に挟まれる具体的な笑いが、場を和ませるだけでなく観客の舞台への集中を高める方向に作用されるのは見事だと感じた。そのようにコミカル/シリアスを両立させる役者各々の演技のうまさも印象的だったが、劇団として舞台という場を作るのがとても上手だと感じた。

 過去作品を観ていればもっと面白く感じたと思うだけに、今後も新作を追っていきたい劇団になった。

 

2/16 烏丸ストロークロック『まほろばの景 2020』@東京芸術劇場

 日本各地でのワークショップを重ねて数年かけて一つの作品を作るというスタイルに興味を惹かれて観劇。

 テーマは東日本大震災山岳信仰、もしくは「どうしようもない過去+ひたすらな祈り」。当日パンフレットにもあったように、覚えているだけで辛い過去を否応にも悔恨/回顧し、現在を縛ってしまう人間の性が描かれる。

 主人公は大震災による実家/故郷の喪失、過去の女、自分が手を離してしまって以来行方不明の義理の息子*5など、様々な過去に囚われて、苦しんでいる。義理の息子が行方不明になったのは数ヶ月以上も前だが、男は探すために山を歩き続ける。

 その山行が徐々に修行、山岳信仰的なものになっていくというあらすじはもちろん、ひたすらな祈りとしての「懺悔、懺悔、六根清浄」の掛け声、顔の見えない神楽と飛び散る水しぶき、祭壇に縋り付くように山を登る姿など、様々な感覚に強く焼き付く舞台だった。

 脚本としては「どうしようもなさ」を言語的に解決しない、という点で似た作品として第27班『潜狂』が思い出されたが、こちらの方が圧倒的に好みだった。

 その差は、向き合う方法(音楽/祈り)によるかもしれないし、その過去の切実さ・当事者性*6によるものかもしれないし、脚本・演出の巧さで説得されただけかもしれないと感じた。

 

2/28 KAKUTA presents Monkey Biz #1『往転』@本多劇場

 桑原裕子の代表作の1つを本人の劇団で上演するとのことで観劇。

 東京発福島・仙台行きのバス*7横転事故にまつわる4つの物語が代わる代わる上演されるという凝った設定の舞台。

 作者の作風は今作でも健在で、なんらかの負い目(パンフレットで作者が「つまずき」と表現しているのが印象的だった)を抱えている登場人物達が、お互いの手を借りて、孤独だったり空虚さを埋めようと足掻く姿が描かれる。

 舞台自体は確かに良くできていたし、「つまずき」ながらも転ばぬように歩き続けないといけないという内容も印象的だったが、少し作者の手法に飽きてきたことは事実。別のテイストの作品が上演される機会があれば是非観たいと感じた。

 

2/29 青年団東京ノート』@吉祥寺シアター

 コロナウイルスの影響で、チケットが余ってしまった*8ため観劇。

 脚本という面ではインターナショナルバージョンとの違いが思ったより小さかったが、演じるのが日本語話者の日本人になるだけでほとんど別の舞台のように感じられたのは興味深かった。

 一緒に観劇した人の舞台美術に関する解像度の高さに、自分は全く気に留めていなかっただけにより一層驚かされた。やはり見ている物は人によって違い、それ故に一緒に何かを見る/観ることは一層意味があることなんだろうなと実感した。

*1:嵐の前の静けさと言えるほどに来院数が減っています

*2:もちろん自分たちが投影されているのだろう

*3:ここも安易に震災にたよならいのが好印象だ

*4:「愛情も友情も性愛も全部まとめて「親密度1000%」、それが溜息座流さ」といったセリフや、溜息座最後の演目、『綱渡り師の慧眼』が生と死を乗り越えるものであったりなど、このモチーフが繰り返される

*5:自閉症のためコミュニケーション不能であった

*6:少なくとも関東圏の人は東日本大震災の当事者性を持っていると感じる

*7:実在しており、自分も過去に幾度となく使用した

*8:先にこちらを購入していたが、別の用事があって2/9のチケットを予約→コロナによってその用事が消えた