1つの音楽、2つの態度、3つの視点、4つの関係(卒業に寄せて③)

 

はじめに

 この記事では、音楽が好きと感じるとは一体どういう事態なのかを考えていきたいと思います。まず、なぜこのテーマを選んだかについて説明させていただこうと思います。

 

 私は高校生の時分までさほど軽音楽に興味がありませんでした(ベースとギターの違いが曖昧なくらいでした)。しかし、大学でひょんな事から軽音楽部に所属し、数年間活動し、お気に入りのバンドもたくさんでき、そのライブに通うことも大好きになりました。

 

 しかし、その中でも何か言葉にできない違和感をずっと抱えていました。それは音楽が好きという感覚についてです。

 入部当時から、部活では、到底プロレベルではない演奏、好きでもない(もしくは知らない)曲のコピーに盛り上がる*1姿に馴染めないものの、これが音楽が好きということなのだろうと漠然と思っていました。

 さらに言えば、沢山の音楽を聴き、もっと上手に演奏するようになれば、その感覚が理解できるだろうと考えていました。

 しかし、卒業を間近に控えた時になっても、その違和感は消えませんでした。それでは私は音楽が好きではないのか、それとも彼らの「音楽が好き」と質的な違いがあるだけなのか、あるとしたらどんなものなのか、について考えるために、このテーマについて書いてみようと思いました。

1つの音楽

 はじめに、この記事で分析の対象とする音楽の範囲を明確にしておきたいと思います。

 先述のような動機があったため、この記事においてカギカッコ付きの「音楽」という表現はいわゆる歌曲、特に邦ロック、J-POPを指しています。

 

2つの態度

 まず、最初の手がかりとして、かつて提唱された絶対音楽と、それに対立する標題音楽いう概念から出発したいと思います。

 

 絶対音楽は、絵画的情景や文学的内容など音楽以外の内容と直接結び付くことなく、音そのものの構成面に集中しようとする純粋器楽であり、したがって、同じ器楽でありながら、標題や説明文をつけて物語や特定の情景を表現しようとする標題音楽とは、対立する音楽用語として使用される。

                    小学館 『日本大百科全書

 

 このように、絶対音楽芸術としての音を意識して作られたのもので、標題音楽メディアとしての音を意識して作られたもの(歌詞が脚本で、音が演出という言い方もできるかもしれません)でした。さらに単純に言えば、前者は「目的としての音」、後者は「手段としての音」と言い換えることも可能かもしれません。

 

 当初、これら2つの概念は製作者の意図によって分類されていました。しかし、鑑賞者の立場から見れば、製作者が「メディア」に乗せて伝えたかったものを無視することで、標題音楽絶対音楽としても聞くことが可能です(その逆も可能ですが、独りよがりな解釈になって一笑に付される可能性もあります)。

 つまり、これら2つの区分を最終的に決定するのは鑑賞者の態度であり、絶対的な標題音楽は存在しないことになります。

 

 これを応用すると、歌詞があり、極めて標題音楽的な「音楽」の鑑賞においても、「音楽」を「絶対音楽的=アート的」に解釈する態度と「標題音楽的=メディア的」に解釈する態度が存在する、と言えるかもしれません。もちろん、これらは製作者の意図とは独立して存在します。そして、1つの「音楽」に対してどちらかの態度しかとらない鑑賞者もいれば、両方の態度をとる鑑賞者もいることが想定されます。

 

3つの視点

 次に、各々の態度をとった時に生じる鑑賞者の視点、立場について考えます。ここでは、1人称,2人称,3人称の考え方を手がかりにしていきます。

絶対「音楽」的な態度をとった場合

  この場合は比較的シンプルです。絶対音楽には伝えるべきテーマも表現すべき風景もありません。そのため、基本的に鑑賞者は三人称の視点、つまり傍観者の視点をとることになります。

 その視点の鑑賞者は、音楽の中の物理的な要素(音・身振り・手振り・言葉(シニフィアン)の連なり)を主に感じ取ることになります。そこから表現者の楽曲の解釈(ジャズやクラシックなどでは顕著です)を共有したり、ダンスを観るように表現者身体性を感じたり、それらの要素に誘発される内的な感情や肉体感覚などを楽しんだり、それらの感情や感覚を踊りや振りのような形で発散することもできるかもしれません。

 ただし、これは「音楽」の一要素を鑑賞しているに過ぎませんし、タンゴや民族音楽など、あらゆる音楽について共通している現象と言えるかもしれません。そもそも音楽に限らずあらゆる物の鑑賞は、鑑賞の対象をきっかけに個人の心身が参照される、内的対話とも言える出来事であり、特殊なことが起こっているとは言えません。

 

 では、その中でだけでなく、意味を持たざるを得ない(=シニフィエを伴う)言葉が融合した形態である「音楽」の絶対「音楽」的な鑑賞はどのようなものになるのでしょうか。

 もちろん、シニフィアンではなく、シニフィエを捉えている時点で言葉を「表題的」に捉えており、その時点で「絶対的」でないという意見は至極当然のものです。

 しかし、我々が

www.youtube.com

 のような曲を聴いていない限り、我々の意識はシニフィエを全く無視することはできません。

 その中で、どんな視点が相対的に絶対「音楽」的と言えるのかについて考えた時、それは「音楽」を日常の中で繰り返し鑑賞し、心身両面*2「思い出/コンテクスト」の記憶/再生装置として機能させる、つまり個々人の「思い入れ」を作る視点なのかな、と思っています

 実際、大学の友人が「思い出を詰め込み、再生できること」が音楽の好きな点だ、と言っていたことが思い出されます。

 では、繰り返し鑑賞しやすいこと以外に「音楽」が記憶装置として機能しやすい理由としては何があるのでしょうか。

 端的に言えば、それは「音楽」のいい意味での曖昧さや余白の多さなのだと思います。

 まず、「音楽」を構成する音自体は、少なくとも個人の思い出と直接の関係はないはずで、そこに見出される意味はすべて鑑賞者が付け加えた物です。この時、音自体の性質(激しさ・大きさ・抑揚)などは、個人の思い出との親和性を左右するパラメータとして機能しています。

 そして「音楽」を構成する言葉も同様に、個人の思い出との親和性左右するパラメータとして機能しているのではないかと思います。しかし、「音楽」の言葉は、映画や演劇、小説の言葉に比べると、短く、曖昧で、解釈のための余白が大きいものになっています。別の言い方をすれば、取り回しが良く、多くの「思い出」と結合できる(基質特異性が低い)ものと言えるでしょう。「思い出の曲」という表現の「普通さ」に比べ「思い出の小説」というと重苦しい印象を受けるのはそのせいかもしれません(「思い出の詩」はその中間くらいしょうか)。

 そんな「音楽」をを繰り返し鑑賞し、その音・言葉の「余白」部分思い出など自らの内的対話のきっかけを詰め込むこのような視点は、内的対話のきっかけとして「意味を持たないもの」を利用するという点で絶対音楽的と言えるのではないでしょうか。

 そして、だけではなく言葉(シニフィエ)も鑑賞の対象としつつ、内容ではなく内面をひたすらに見据えるこの視点が、絶対「音楽」的な態度に基づく視点として、最も包括的なものと言えるのかもなと思っています。

 

標題「音楽」的な態度をとった場合

 この場合は少し複雑です。前述の通り、標題「音楽」的な態度では、テーマやメッセージ、情景を観賞者は感じ取ります。

 それらの「音楽」の中に描かれる内容は千種万様であり、厳密に分類することは不可能かもしれません。

 しかし、その中で、鑑賞者が曲中で描かれるものをどの視点から捉えるか、ということで大まかな分類は可能なのではないかと思いました。それを具体的な例を用いながら説明していきます。

 もちろん、一人称の例として挙げた楽曲を三人称的な視点から鑑賞することも、その逆も可能です。鑑賞という出来事は、作品・表現者と鑑賞者との間にとある関係が結ばれることを指します。そのため、どのような鑑賞が引き起こされるかは、作品・鑑賞者どちらか一方の要素で決定されるわけではない、という点は常に心に留めておく必要があります。

一人称的な視点

 まずは一人称的な視点についてです。この視点は、アーティスト本人もしくは曲中の「私」に近い位置から「音楽」を鑑賞する視点です。

 場合によっては、カラオケやコピーバンドなどで実際に歌うという形で鑑賞することもあるかもしれません。

 後述しますが、「カラオケで歌って気持ちいい曲」「共感できる曲」と呼ばれる曲は、このような視点を誘発しやすい気がします。

具体例

  •  Green Day『American Idiot』を聞いて「俺もAmerican Idiotにはならないぞ!」と思う
  •  阿部真央『あなたの恋人になりたいのです』を聞いて「この曲は共感できる」と思ってカラオケで歌う
  •  μ's 『僕らは今のなかで』を聞いて、提示される「僕らの物語」に一員として参加する
二人称的な視点

 次は二人称的な視点についてです。この視点は、アーティストが呼びかけている「あなた」(=曲を聞いている「私」)、もしくは曲中の「あなた」に近い位置から「音楽」を鑑賞する視点です。

 「応援歌」、「ファンへの感謝を歌った」、「メッセージを込めた」と評される曲がこのような視点を誘発しやすい気がします。

具体例

三人称的な視点

 最後に三人称的な視点についてです。この視点は、アーティストによって投影された物語や風景を一人称・二人称的な視点以外から眺める視点です。

 この視点は、自らの視点の距離感を取ることができるという点で他の視点と少し異なります。「音楽」がどのように現実に作用しているかについて考えるこの記事も、ひねくれた形の三人称的な視点からの鑑賞と言えるかもしれません。

具体例

  •  童謡『夕焼けこやけ』を聞いて自分の田舎の懐かしい風景を思い出す
  •  Linked Horizon『紅蓮の弓矢』を聞いて『進撃の巨人』の物語やそのメッセージを感じる
  •  黒うさP『千本桜』を聞いて雰囲気を想像する

4つの関係

  これまでは、1つの楽曲に対して、2つの鑑賞態度があり、その中で標題音楽的な態度をとった場合、一人称、二人称、三人称に倣う3つの視点があることを述べてきました。

 これからは、それぞれの視点に立つ鑑賞者と楽曲・表現者との間に結ばれる関係の形について考えていきたいと思います。

 この問題を論じる上で、まず触れておかなければならない問題は、歌詞の中の「私」歌っている「私」と一致しているか、という点です。前章の具体例では、意図的に両者を混同させていましたが、この点は関係性においては大きな違いをもたらします。

 

 もし両者が一致している場合、前述の3つの視点がそのまま適応できます。この時鑑賞者が観るのは「自分自身の主張・感情を音楽というメディアを通して主張する主体としてのアーティスト」です。それでも単数・複数の問題は残りますが、こちらに関しては後述します。

 

 一方で、一致していない場合は問題は少し複雑です。その場合、鑑賞者は直接的には「純粋な光景もしくは他者の物語・意見を朗読・描写・主張するアーティスト」、つまり「メディアとしての楽曲を、客の前で演奏するメディアとしてのアーティスト」の姿を観ることとなります。

 これは少々厄介な問題です。

 本来的に言えば、印刷される前の新聞紙や電源の消えたテレビがほとんど意味を持たないのと同様に、極論を言えば、メディアそれ自体は方向性を持ち得ません

 そんなメディアを純粋に一人称的・二人称的な視点から鑑賞することは、なかなか困難であり、基本的には、属人的な評価から離れた三人称的な視点をとることになります。それはつまり、「人」ではなく「光景・物語・主張」を評価する視点です。

 もちろんこの三人称にも、一人称的だったり、二人称的な視点は内在しています。それは小説を読んで、共感したり、怒ったり、感動したりするのと同じと言って差し支えないでしょう。

 しかし、音楽が面白いのは、メディアとしてのアーティストにも「Xに共感する!」「Yは僕たちの代弁者!」「Zに救われた!」という一人称的・二人称的な「人」にまつわる評価がつくことが往々にしてある点です。そしてそのアーティストが作詞・作曲すらしていないこともあるかもしれません。

 これは、冷静に考えるとやや不自然なように思えます。三人称的な「彼の物語は面白い」「彼女の描く光景は綺麗だ」「彼らは表現が上手い」という内容ならまだしも、メディアとしてのアーティスト自身は鑑賞者と直接の関係を結んでいるわけではないのです。

 それでも、鑑賞者は擬似的にアーティストに「共感」などの関係を結んでいるように見えます。やや難しい話になりますが、これは本来交流が行われていない(もしくは極めて乏しい)相手とのコミュニケーションを錯覚するというパラソーシャルインタラクションと呼ばれる現象(詳しくはググってください)の一種と言えるかもしれません。

 

 このように、メディアそれ自体への評価軸を持たない三人称の視点が属人的な一人称・二人称の視点に巻き込まれたともいえるこの状態をひとまず「巻き込まれた三人称」と定義します。

 なぜ「音楽」において、巻き込まれが起きやすいのか、巻き込まれるとは具体的にどのような関係なのか、という点については後ほど述べていきます。

 これからは、これらの関係について個別に述べていこうと思います。

一人称の場合の関係

一人称単数の場合

 この場合は歌っている「私」の立場に立って鑑賞することは難しいと考えられます。カラオケやコピーのような形で表現する立場を追体験し、一人称単数の視点からの鑑賞的な体験をすることはできるかもしれません。

一人称複数の場合の関係

 この場合は、歌詞中の「We」「僕たち」「我々〇〇」のような表現、もしくは共有されている性質(君が代における日本人という性質)をトリガーににして関係が結ばれます。

 そのため、その関係の第一には、同一化や同意が必要です。その同一性を前提として、自分達の意見が代弁されることなどに快感などを覚える、共感するというのが予想される関係です。

 また、共有されている性質として「〜のファン」というものを利用するのも典型的かもしれません。

 例えば、『American Idiots』を一人称的に鑑賞することを想像してみます。 

 まず、前提として、反戦意識やメディアへの懐疑を持つこと、"not a part of a redneck agenda"であることなどへの同意が必要です。そして、その前提の下で社会に対して異議申し立てを一緒にするという関係が成り立っていることがわかります。

 このような関係は、特定の文化を背景にもつ音楽ジャンル、具体的に言えばパンクロックやヒップホップなどで多く結ばれることも予想されます。

 

二人称の場合の関係

 ここで問題になる関係をを簡潔に言い換えると、歌詞中の「私」=歌っている「あなた」と、歌詞中の「あなた」=歌われている「私」の関係です。

 二人称が特殊なのは、歌詞中に「あなた」が存在しない場合など、二人称的な視点をとり得ない曲(例えば、『夕焼けこやけ』の例)が多い点です。

二人称単数の場合の関係

  この場合も、二人称単数の「あなた」になることは難しいかもしれません。現実的なレベルで唯一と言ってもいいパターンは「アーティストがある人のために作曲し、その人の前で演奏している」と言ったところでしょうか。

 しかし、一人称単数では許されない解決策が二人称単数にはあります。

 それは「この曲を聞いている人」というメタ的なものです。これは前の具体例ではももいろクローバー『行くぜっ!怪盗少女に当てはまります。

 この楽曲は「この曲を聞いているあなた」に対して、グループの説明、メンバーの自己紹介をしつつ、「私たち」と「あなたたち」の関係を「アイドル」と「ファン」の関係へ変化させようとする試みです。

 厳密にはこの変化は「二人称複数」として制作された「あなた」を聞き手が「二人称単数」と混同することで起こっています。このような混同が音楽における「巻き込まれ」の根底にある、ということは後述します。

二人称複数の場合の関係

 この場合、歌う=作る「私」は「音楽」を通して、聞いている「あなたたち」へ、何らかのメッセージを伝えたり、意見を伝えたりしようとします。

 この構造は簡単なように見えて少し厄介です。大きな問題となるのが、どんな「あなたたち」へ向けて曲が作られるのか、という点です。なぜなら、この関係は、メッセージを向ける「あなたたち」とメッセージを受け取る「私たち」が一致していること、つまり当事者性がないと本来は成り立たないものだからです。

 簡単な例としては、熱狂的なファンも多い椎名林檎が率いる東京事変『女の子は誰でも』を女の子ではない男の子が聞いても、二人称な視点はとれず、後述する三人称的な視点に追いやられてしまいます。そこには、熱狂的なファンが感じているような強固な関係は成立しません。ただその分、成立したときの両者の関係は「救済」「(理解者としての)信仰」「利用」「応援」など強固なものになることが予想されます。

 この問題を解決するため、多くの場合は、「あなたたち」の位置に「人間全部」「日本人」「若者」「男性」「女性」「男の子」「女の子」といった抽象名詞(明示されない場合も多いです)を据えることで普遍性を確保しようとします。ただ、難しいのは、「あなたたち」の対象が広ければ広いほど、一般的に説得力を欠き、前述のような強固な関係は築けなくなる傾向があるからです(広い「あなたたち」をとりつつ別の要素で説得力を上げ、強い関係を築ける人をカリスマと呼ぶのかもしれません)。

 上にあげた具体例ではウルフルズ『ガッツだぜ』がこれに当てはまります。

 

 別の解決策として一人称複数の時と同様、「あなたたち」を「私のファン」としている場合も見受けられます。この場合は、ファンへの感謝などを語る場合がほとんどです。

 ただ、特殊な関係として、特撮『林檎もぎれビーム!』のように「君が想う そのままのこと歌う誰か 見つけてもすぐに恋に落ちてはダメさ『お仕事でやってるだけかもよ』」と一人称的な語り口で三人称的な分析をするケースもあります。

 

三人称の場合の関係

 三人称の場合も、歌詞の中の「私」は歌っている「私」と一致しているかという場合分けは有効です。ただ、その2つに加え、『夕焼けこやけ』の場合のように、「私」が歌詞中に存在しない場合が存在します。

歌詞中の「私」=歌っているアーティストと、聞いている「私」の関係

 この場合は、「音楽」の標題する「感情」や「主張」などの内容に関して「賛同/批判」、「解釈」「分析」と言った関係が結ばれることになります

 もちろん、「感情」「主張」の対象に聞いている「私」が含まれる場合は二人称的な関係が結ばれることは言うまでもありません。

 これは、政治家の演説や、学術論文などと視聴者・読者たる私たちの間に結ばれる関係に近しいものがあるかもしれません。

 前述した『女の子は誰でも』の例のように二人称的鑑賞を意図した曲の「あなた達」から排除された場合も、このような視点を取ることになります。

 

歌詞中に「私」が不在の時、「描かれた情景」と聞いている「私」との関係

 この場合は、「音楽」の標題する「風景」などの「特定の人称が明示されない」内容に関して「想像」「共有」と言った関係が結ばれることとなります

 これは、誰かが撮った写真や、描いた絵画と、鑑賞者たる私たちの間に結ばれる関係に近しいものがあるかもしれません。

 

歌詞中の「私」≠歌っているアーティストと、聞いている「私」との関係

 この場合、「音楽」が標題する、歌詞中の「私」「あなた」「彼/彼女」の物語や感情と言った内容に関して一度は「想像」「共有」といった関係が結ばれますそしてその後、共有・想像されたものに応じて「賛同/批判」、「解釈」「分析」と言った関係が二次的に結ばれます。

 これは、監督が撮った映画や、作家が書いた小説、俳優が演じる演劇と観客・読者たる私たちの間に結ばれる関係に近しいものがあるかもしれません。

 

 しかし、問題はこれだけで終わりません。「音楽」が複雑なのは、「私」「あなた」「彼/彼女」の物語、感情と私たちを直接繋ぐのは、歌手と言う肉体を持ち、歌詞中の「私」と同じレベルで語りうる(=「私」を完全に演じられる)存在だからです。

 我々は映画を観るとき、物語が映るスクリーンの存在を強く意識することはありません。同様に小説を読むときも、手に残る紙の束を意識することはありません。

 それと同様に、iPodで「音楽」を聴いたり、Youtubeで「音楽」を聴くときにイヤホンやスマホの画面を意識することもほとんどありません。その時は、歌手の肉体性は希薄になり、純粋に「物語」「感情」を楽しむことができるかもしれません。

 しかし、演劇を観るときに俳優の肉体性を全く意識しないことは難しいように、ライブといいう形で歌手が目の前にいる時、その存在、肉体性は到底無視できるものではなくなってしまうという点です。

 

 さらに問題はややこしくなります。俳優達は自分自身の人格を表出せず、その肉体の佇まいを「私」「あなた」「彼/彼女」に寄せるなど、メディアとして「透明になる」(=役になりきる)努力をしています。

 しかし、多くの歌手達はMCという形で自分自身の人格を積極的に表出し、舞台上でも歌っている「私」の存在を強力に主張します。しかし、そんな存在が歌う歌詞の中の「私」は依然として虚構の中の「私」であって、歌っている現実の「私」ではないのです。

 同じようにそんな存在が声を掛ける「あなた」は歌詞中の「私」が声をかける「あなた」であって、聴いている「私」を直接指しているわけではありません。

 

 これは『私小説的な小説(小説中の「私」は作者の「私」と重なっている)』『俳優が本人役で出演する演劇(物語中の「私」は俳優の「私」と重なっている)』のように、かなり複雑で高度な構造を持っています。つまり、観客にとっては、歌詞という虚構の中の言語的な「私」と肉体と顔を持つ現実の歌手が一人称で語る、肉体的な「私」とが峻別できないほどに重なった形で認識されるという構造です。

 

 これが、この論考最大の話題である「巻き込まれ」の原因となっているのです。

巻き込まれた三人称の場合の関係

 ここからが「音楽」の要点ですが、これまでの議論もだいぶ煩雑になってきたので、ここで一度整理します。

  1.  「音楽」に対し、標題音楽的な鑑賞態度をとった時、その視点は一人称的、二人称的、三人称的な視点に分類される
  2. 厳密に議論すると、一人称、二人称は「歌っている私」=「歌詞中の私」の場合にしか成立しない。一人称的な視点からは楽曲=歌手との間に「同一化」「共感」という関係、二人称的な視点からは楽曲=歌手との間に「信仰」「救済」「応援」という関係が結ばれやすい
  3. 「歌っている私」=「歌詞中の私」の場合にも三人称的な視点を取ることができる。それは一人称にも、二人称にも含まれなかった場合に生じることが多い。
  4. 「歌っている私」≠「歌詞中の私」の場合は厳密に言えば三人称的な視点しか取ることができない。その視点からの眼差しは、本来メディアを通りぬけ、メディアによって投影された内容と関係を結ぶことになる。
  5. しかし、現実問題としては、メディアたる歌手に対して、本来一人称的な視点から生じる「同一化」「共感」という関係、二人称的な視点から「信仰」「救済」「励まされる」という関係が結ばれていることがある。
  6. このような関係を「三人称が一人称/二人称に巻き込まれた状態」と定義した。これはメディア論において論じられるパラソーシャルインタラクションの一種である。
  7. その一因として、固有の肉体と顔と人格を主張しつつ、「私」と言う一人称で語る現実の歌手と歌詞という虚構の中の「私」が峻別できないほどに重なった形で提示される「音楽」独特の形式にあるのではないかと主張する。

 以上がこれまでの内容です。これからは

  1. 「巻き込まれる」過程の中で何が起こっているのかを検討し、「巻き込まれ」が起きるための必須条件について考える。
  2. 必須条件の他に、「巻き込まれ」を起こしやすい楽曲はどんな要素を持つのかについて、純粋な一人称・二人称、巻き込まれていない三人称的な視点からの鑑賞を誘発する楽曲を含めて検討する。

 という形で進めていきます。

一人称に巻き込まれた三人称

 まずは、三人称が一人称に巻き込まれる状態、つまりメディアたる歌手と擬似的な「共感」「同一化」の関係が結ばれる状態についてです。

 結論から述べると、これには、歌詞中の「私」と聞いている「私」が「似ている」と感じている、という一人称的な三人称の視点から結ばれる関係が必要です。

 これは純粋な一人称の時のように、ある要素を必ず共有していなければならない、同一でなければならない、というわけではありません。

 詩の特徴として、特定の「感情」「物語の流れ」だけをその場面や設定・文脈に依存しない形で切り出せるというものがあります。それは前述(「絶対音楽的な態度からの視点」)のように、実際にBGMとしてかけることすらできる取り回しのいいものと言えます。

 そして、鑑賞者は、虚構から切り出され、何度でも再生でき、取り回しのきく「感情」や「物語の流れ」を自分がおかれている環境に当てはめて理解しようとします。

 それが成功し(そのためには両者の文脈がある程度共有されているか、おかれている場面自体が似ていることが必要です)、かつ、肯定的な結果が得られた時に、歌詞中の「私」と聞いている「私」が「似ている」と感じ、巻き込まれが始まると考えています。

 そこから起こることを以下のように想像してみます。

  前提1:歌詞中の「私」に対する共感的な感情移入

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「私」という混同、前提1に代入

  →解釈1:歌っている「私」に対する共感的な感情移入

 これは、とてもシンプルな構図で、細かく見れば、もっと複雑なことが起こっているのだと思います。ただ、重要な特徴は、一人称の巻き込まれには、「歌う-歌われる関係が必要ない」ことです。つまり「歌っている姿を見る」「一緒に歌う」だけで巻き込みが完成するのです。

上の具体例の中では、阿部真央『あなたの恋人になりたいのです』の例が一人称巻き込まれの例になります。

二人称に巻き込まれた三人称

 次に、三人称が二人称に巻き込まれる状態、つまりメディアたる歌手と擬似的な「尊敬」「信仰」「救済」の関係が結ばれる状態についてです。

 まず試しに、これも一人称への巻き込みのように、歌詞中の「あなた」≒聞いている「私」という共感的な感情移入を前提として巻き込まれの形が導けるか検討してみます。

  前提1:歌詞中の「あなた」≒聴いている「私」という共感的な感情移入

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「あなた」という混同

  →解釈に行き詰まる(代入できる項目がない)

 というように、これだけでは二人称の巻き込まれの形は説明できません。

 では、ここで何を導入すれば、二人称の巻き込まれの形が導かれるのでしょうか。ここでヒントになるのが、純粋な二人称単数では可能で、純粋な一人称では不可能だった、「この曲を聞いている人」に対するメッセージという視点です。

 つまり、歌っている「あなた」が聞いている「私たち/私」に語っているという事実/認識を導入したら巻き込まれの形が導かれる可能性があります。実際にやってみましょう。

  前提1:歌っている「あなた」が聴いている「私たち/私に」語っている

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「あなた」という混同

  →解釈1:歌詞中の「私」が聴いている「私たち/私に」語っている

  前提3:歌詞中の「私」は歌詞中の「あなた」に語っている

  →解釈2:歌詞中の「あなた」≒聴いている「私」という混同

 このように、「歌詞中の「あなた」は聴いている「私」のことだ」という巻き込まれまでは導けました。

 ここまでが上の例で挙げたSnow Man『君の彼氏になりたい。』の例で起こっていることだと推定されます。ただ、これではまだ、歌っている「あなた」との関係にまで巻き込まれが及んでいません。さらに解釈を続けます。

  前提3':歌詞中の「私」と歌詞中の「あなた」は特定の場面におかれている

      歌詞中の「私」と歌詞中の「あなた」との間には特定の関係がある 

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「あなた」という混同

  解釈2:歌詞中の「あなた」≒聴いている「私」という混同

  →解釈3:歌っている「あなた」と聴いている「私」は特定の場面におかれている

       歌っている「あなた」と聴いている「私」との間には特定の関係がある 

 ここまできてやっと、歌手とリスナーの間に擬似的な関係が結ばれました。つまり、歌っている「あなた」が聞いている「私たち/私」に語っているという事実と内容がある程度整えられた「音楽」さえあれば、二人称の巻き込まれが起こりうるということです。

 そして興味深いのが、この関係の内容は、前提3'にあるように楽曲における「私」と「あなた」の関係を反映する、ということです。そして、楽曲における「私」と「あなた」の関係がリスナーにとって快楽をもたらすものであればあるほど、解釈3にあるような巻き込まれが起こりやすい、という点には異論はないでしょう。

 アイドルビジネスは、理想的なラブソングを多く歌い、前提3'の関係として、恋愛関係を利用し、歌手とリスナーの間に擬似的な恋愛関係を成立させることで成り立っているのかもしれません。

 ちなみに、これを応用すると、『あなたの恋人になりたいのです』にアイドルソング的な二人称的な巻き込まれがほとんど見られず、Snow Man『君の彼氏になりたい。』は男性の一人称的な巻き込まれが見られないことも理解できるはずです。

 お節介にも自分の解釈を述べると、前者は「私」が「あなたの恋人になりたい」という感情を歌ったもので、「私」と「あなた」の間の具体的な関係は全く示されていないため、後者はSnow Manと自分の間、そして『君の彼氏になりたい。』な内容と、自らの環境との間にある類似点を積極的に見出すことができないため、ではないかなと思っています。

 これをさらに展開すると、「同性ファンが多いアーティスト」「異性のファンが多いアーティスト」の差も、どちらの巻き込まれが多く起こっているか、という点に起因するという仮説も導けるかもしれません。

 

 

f:id:stmapplier:20210227013737j:plain

  

終わりに

 これまで、1つの音楽に対して鑑賞者がとりうる態度、視点とその視点から曲の内容、そしてその曲を表現するアーティストととの間で結ばれる関係をできる限り体系的に考えてきました。

 まず、アーティスト自身の意見や言葉が直接語られる場合は、普通の対話と同じように「現実的な」一人称、二人称、三人称の視点のいずれも取ることができることを指摘しました。

 それに対し、誰かの物語や、人格を持たない純粋な光景が語られる場合などは、読書をするときと同様、基本的には三人称の視点しか取ることができないこと、アーティストはメディアとして機能していることを指摘しました。

 

 その中でも、物語に没入する「一人称的な三人称」「二人称的な三人称」的な視点だけでなく、「擬似的な一人称/二人称」的な視点からメディアたるアーティストとの擬似的な関係(アイドルなどが顕著な例です)が結ばれている現実に注目しました。

 そして、テレビや新聞紙それ自体に感情移入できない、という現実に反するこの事態が起こった状態を「一人称/二人称に巻き込まれた三人称」と定義しました。

 

 それに引き続き、「音楽」のどの要素が小説や映画、演劇などに比べ「巻き込まれ」を生じやすくさせているのかを考えました。

 それは、小説における紙、映画におけるスクリーンとは違い、演劇と音楽のメディアは人格と肉体と顔を持つ人間であること、そのため物語中の(言語的な)「私」と表現している(肉体的な)「私」が重なりあっていることが、第一にあると主張しました。

 次に、演劇と「音楽」における違いは演者の態度にあるものと主張しました。

 俳優は物語の中の人物を演じることに心身を集中させており、「素」を見抜かれることは「大根役者」と蔑みの視線を浴びる行為でした。ましてや、演技を中断し、「素」で語ることはほぼありません。 

 一方、「音楽」のアーティストは歌っている「私」の存在を強く主張し、あまつさえMCといった形で上演を中断し、「素」の自分で観客に語りかけます。

 このことが、「音楽」において、重なり合っている2つの「私」の混同を助長させており、それが第二の要素になっていることを主張しました。

 

 この事実から、歌詞中の「私」への共感を前提として、その共感が歌っている「私」への共感へと巻き込まれる「一人称への巻き込まれ」の仕組みを想定することができました。

 しかし、同様に歌詞中の「あなた」への共感を前提としても、「二人称への巻き込まれ」の仕組みを推定することはできませんでした。

 その仕組みを想定するために必要だったのが、歌っている「あなた」が聞いている「私たち/私」に語っている、つまり「音楽」が上演されているという事実でした。

 そして、その仕組みを想定する中で、その上演内容が、「私」と「あなた」といった2者の関係について語るものであるとき、その関係が現実の「あなた」と「私」の間にあると擬似的に認識されている可能性も示唆されました。

 

 これまでの議論を踏まえて自分が「音楽」の何が好きだったのかについて自己分析してみたいと思います。

 自分はある「音楽」を「電化された朗読劇」と定義していました(②

追いコン用スピーチ原稿 (卒業によせて②) - Trialogue

)。これは、大体の場合において、誰かの物語や、人格を持たない純粋な光景が語られる「音楽」を標題音楽的な態度で三人称的な視点から鑑賞すること指していたのだと思います。

 

 そして、自分が「特定のアーティストが好き」と述べるとき、それはそのアーティストが提供する作品、もしくは鑑賞体験が好きなのであって、アーティストの人格や身体について述べたものではありませんでした。つまり徹頭徹尾、三人称の中でも「巻き込まれない三人称」から鑑賞していたのだと思います。

 この原因が、自分の言語に対する鋭敏さか、肉体に対する愚鈍さ、もしくはテーマパーク的なるもの(①

テーマパーク的なるものについて (卒業によせて①) - Trialogue

)への親和性によるものなのかなと思っていますが、どれも全てを語り尽くすものではないのだろうな、と思っています。

 

 大学の軽音部にまつわる一連の記事はこれで終わりです。これらの記事が、自分が「音楽」をどう鑑賞し、その何が好きなのか、ということを考える補助線になっていればいいな、と思います。

 今後は試論、もしくは人気取りとして、最近並べ立てられて語られることも多いYOASOBI, ずっと真夜中ならいいのに。, ヨルシカの3団体の作品について検討しつつ、夜というキーワードは何を表象しているのか、そしてその夜的なものの行方について考えてければと思っています。

  
補遺:5つの要素

 最後に、おまけとして、これまでの議論を踏まえ、どんな曲のどんな要素が、どんな視点・関係を誘発しやすいのかということに関して無根拠に並べ立てておきたいと思います。

描かれている対象の虚構性/現実性

  虚構性が高い場合は、より純粋な三人称の視点のみを誘発できます(黒うさP『千本桜』)。うまく調整すれば一人称巻き込みすら完全に排除できるはずです。虚構性と具体性を「音楽」を両立させることは難しいですが、うまく行けば普遍的に説得力を持つ曲を生むことができるかもしれません。

 もちろん外部の要素を利用したりして、情報を補完し、抽象性に流れても普遍的な説得力を保っている例も多く見受けられています(Linked Horizon『紅蓮の弓矢』)。

  現実性が高い場合は主語・対象の範囲を調整すれば純粋な一人称・二人称を誘発できる可能性が高まります。また、三人称的な視点を取られた時も、より説得力が出るはずです(Green Day 『American idiot』)。

 ただ、同じ時代の同じ現実を共有していない人にはほとんど届かない、という弱点はあります。

 

描かれている内容の抽象性/具体性

 抽象性が高ければ、自分の文脈への当てはめがやりやすくなり、一人称/二人称一人称的/二人称な三人称一人称への巻き込みを起こしやすいはずです(ウルフルズ『ガッツだぜ』)。一方で、曲への愛着や巻き込まれの強さは下がりやすいので別の方法で補完する必要があるかもしれません。

 具体性が高い場合は、純粋な三人称がほとんどになりますが、曲中で「私」と「あなた」との関係が明確に示される分、二人称への巻き込みを起こしやすい(Snow Man『君の彼氏になりたい。』)と考えられます。

描かれている内容の主観性・客観性

 主観的な場合、内容の「理解」は容易です(どう感じ、どう判断しているかは把握できる)が、内容の「共有」は困難(何について言っているのかわからない)です。

 この場合、純粋な三人称的なな視点を取るのは難しく、三人称の中でも一人称、二人称的な三人称のどちらかに偏ることが多いと思います(Snow Man『君の彼氏になりたい。』、阿部真央『あなたの恋人になりたいのです』)。

 興味深いのは、主観的になればなるほど、主語として「私」とあえて表現する必要がなくなるといいう点です。虚構の中での主観性が強くなればなるほど、虚構の中の「私」の影は薄くなり、現実の「私」の身体がより強く浮かび上がってきます。

 このようなメカニズムも、巻き込まれやすさに影響しているのではないかと思っています。

 

 客観的な場合は、内容の「共有」(何について言っているのかは把握できる)は容易ですが、多くの場合「理解」(どう感じ、判断しているかは把握できない、もしくはそもそもない)は完璧になされません。

 この場合、純粋な三人称的な視点をとることが多いと思います。そのため、巻き込まれ(特に一人称)もあまり起こりません。最も顕著な例は、童謡『夕焼けこやけ』でしょうか。

 

描かれている内容の指向性

 これは少し解説が必要かもしれません。

 これは、曲中の「私」もしくはアーティスト自身の「私」の言葉が向けられる対象が明らかになっているか、ということを指しています。

 言い換えれば、独白調か会話調か、独白調の場合は言葉が差し向けられる対象はいるかという点です。以下に具体例を示します。

 「あー疲れた」という言葉は独白調で対象はいません。純粋な独り言に近い言葉で、指向性は低いと言えるでしょう。

 「あなたが嫌いだ」という言葉自体は独白調ですが、明確な対象を伴います。中程度の指向性を持っていると言えるでしょう。

 「誰か私を助けてよ」という言葉自体は会話調ですが、明確な対象をとりません。これも中程度の指向性を持っていると言えるでしょう。

 「あなたに聞いてほしい」という言葉は会話調で、高い指向性を持っています。

 

 これは、一人称/二人称どちらの視点を取りやすいかということを決定するとともに、三人称的な視点をとった時、巻き込みの起こしやすさ、並びに一人称/二人称のどちらに巻き込みやすいかを決定するパラメータになります。

 

 指向性が低い場合は、巻き込まれはほとんど起こりません。

 指向性が中程度の場合「感情」「物語の流れ」だけが切り出されているため、自らの文脈に当てはめ、勝手に自分のこととして「共感」することができます。そのため一人称の巻き込まれを引き起こしやすいといえるかもしれません。

 一方で、指向性が高い場合は、物語の中で「誰に何とといっているか」という構造が明確になります。そのため、二人称的な巻き込まれが起りやすく、起こった時に擬似的な関係が結ばれやすいと考えられます。

曲中に使われる代名詞の種類と、その現実との一致度

 これについては上記の議論で言い尽くしているため省略します。

 

上記の例を分析するなら、

 『American Idiot』の例

  現実性:極めて高い、現実に端を発した作品

  具体性:中程度、現実を反映

  主観性:中程度、主観的な決意表明あり

  指向性:中程度、社会に対するメッセージ、大きな対象をとる会話調 

  代名詞:一人称複数・極めて高い、ファンも含まれる

         (We're not the ones who're meant to follow)

  →「デモ隊に参加する」一人称複数からの関係

   「デモ隊を見かける」三人称からの関係

 

 『あなたの恋人になりたいのです。』の例

  現実性:中程度、現実的な物語

  具体性:中程度、ある程度の状況は推定できる

     「恋人になりたい」「あなた」は「私」の想像の中にしか出てこない

  主観性:極めて高い、個人の心情の吐露

  指向性:中程度、内容は「あなたへの気持ち」で指向性が高いが

          形式はひとりごとで指向性が低い

  代名詞:一人称単数・中程度、一致している要素は多い

      二人称単数・低い、存在しない可能性すらある

→「他人が恋心を語る様子を見る」三人称の視点

→「他の人の恋バナを聞き、自分の経験との共通点を感じて親近感を覚える」一人称的三人称の視点

→「阿部真央は私の気持ちをわかってくれてる」という一人称に巻き込まれた視点

 

『僕らは今の中で』の例

  現実性:

   物語の階層:高い、物語の中での現実に即した内容

   現実の階層:低い、純粋なフィクション

  具体性:曲単体では極めて低い具体性を他の文脈(アニメーション)に依存

  主観性:かなり高いが、「僕ら」の範囲は曖昧

  指向性:低い、「僕ら」による一方的な抽象論・意見の表明

  代名詞:

   物語の階層

    一人称複数・高い(キャラクタ自身が歌っている)、ファンも含まれている

   現実の階層

    一人称複数・演者のレベルでは低い(声優が演じている)

         ファンのレベルでは中程度、一致していると見なすことも可能

①現実の階層で「無根拠に前向きな抽象論を聴く」としての純粋第三者としての視点

②テレビの中から「キャラたちが歌っている」としての二人称複数的な視点からの関係

 →現実の階層「キャラが自分たちへ歌っている」で二人称巻き込まれ?

③物語の階層で「アイドルを推す」という同一化、一人称複数的な視点からの関係

 →現実の階層でも一人称複数的な視点が持ち越されている?

 

行くぜっ!怪盗少女

  現実性:高い、歌う-歌われる関係を明確に語る

  具体性:高い、シチュエーションが明確

  主観性:基本は高い、時折一般的な抽象論が混入

  方向性:高い

  代名詞:一人称複数・極めて高い (『We are ももいろクローバー』)

      二人称単数・極めて高い

 →「ももクロに歌われている私」という二人称複数的な視点を明確化

  →今後の二人称巻き込まれを強力に誘発

 

『君の彼氏になりたい。』

  現実性:低〜中程度、現実的な物語だが、やや虚構性が高い

  具体性:高い、シチュエーションが明確

  主観性:高い、

  方向性:極めて高い一緒にいる「君」へのメッセージ

  代名詞:一人称/二人称単数・低い

「ドロドロした男の陳述を聞く」三人称の視点

「こんなふうに求められてみたいなぁ」という二人称的な三人称からの視点

「格好いいアイドルにこんな風に求められてる気がして嬉しい」という二人称に巻き込まれた視点

 

『ガッツだぜ‼︎』

 現実性:極めて高い

 具体性:極めて低い、抽象的な一般論

 主観性:極めて高い、歌詞から「私」が消えている

 指向性:極めて高い、「男」を対象に取った、呼びかけ

 代名詞:ほぼなし

 →「ウルフルズから人生論の講義を受けている」二人称単数の視点

  「それを側で聞いている」三人称の視点

 

『夕焼けこやけ』

 現実性:極めて高い

 具体性:高い 具体的性と普遍的性 性質を両立

 主観性:極めて低い

 指向性:極めて低い、徹底した情景描写

 代名詞:なし

 →「夕焼けの写真を眺める」三人称の視点

 

『紅蓮の弓矢』

  現実性:低い、進撃の巨人』の存在という現実で補完可能

  具体性:曲単体では比較的低い、進撃の巨人』の内容で補完

  主観性:低い、情景描写メイン

  指向性:低いが、時折「お前」に向けたメッセージあり

  代名詞:まれに二人称単数・極めて低い、進撃の巨人』の登場人物を指している

 →「他人の『進撃の巨人』の感想を聞く」三人称の視点

 

 

『千本桜』

  現実性:極めて低い、完全なフィクション

  具体性:極めて低い、何が起こっているのか理解できない

      視覚的要素、聞き手が参照する他の作品の設定で補完

  主観性:極めて低い、光景の断片的な連続

  指向性:極めて低い

  代名詞:まれに二人称単数・低い

 →「イラスト集を眺める」三人称の視点

*1:もちろん、それが部活のマナーだった、という面はありますが、それを差し置いても音楽で一つになっているように思われました

*2:歌詞が心理的な面、音が肉体的な面を担当します

2021年1月 観劇記

はじめに

 1月からは精神科でした。年度末までの在籍になる上、来年度からは精神科の後期研修をすることになっているので、実質的には精神科医としての人生のスタートになりました。

 観劇で養った他者の文脈を読み取る力、抽象的なものを具体的なものに落とし込む事なく把握する力、曖昧なものをなるべく厳密に言語化する力は確実に臨床に役立っていると思います。

 1月は緊急事態宣言の関係で、中止になる舞台、上演時間が変更になり観れなくなった舞台も多かったですが、その中でもいくつかの作品を観ることができました。

 

1/7 青年団『コントロールオフィサー』+『百メートル』@アトリエ春風舎

 2年連続のオリンピックイヤーの幕開けに、スポーツをテーマにした舞台をということで観劇した。

 30分の短編演劇2本立ての公演で、2本とも東京オリンピックの代表決定戦を舞台とし、1本目の『コントロールオフィサー』で試合後の光景を描き、2本目の『百メートル』で試合前の光景を描くという構成。

 『コントロールオフィサー』は水泳の、これまで観た平田オリザの作品の中では最もユーモラスで華やかな作品だった。

 今作も「セミパブリックな場」を舞台とするという平田オリザの作風に違わず、ドーピング検査用の待合室(尿検査などで出入りがある)が舞台。部屋には、2大会連続出場を果たしていたが代表権を逃したベテラン水泳選手と同年代の選手、そして、彼らを破った若手選手2人の合計4人と監視役のコントロールオフィサー4人が登場する。

 序盤はやや屈折した形で表出されるベテラン選手のやるせなさややり場のない怒りやどこか気まずく、弛緩した雰囲気が流れる。しかし、物語が進むと、若手選手がベテラン選手から代表権でなく、彼女も奪っていたことが明らかになる。

 普段であれば浮気をした彼女、間男となった若手選手に物語のフォーカスが当たり、観客も義憤のようなものを覚えるかもしれない出来事だ。だが印象的なことに、この物語の流れでは男が「敗者」だから仕方ない、と観客とコントロールオフィサーから思われてしまう。

 男は人間的に明確な劣っているわけでもない。ただ泳ぐのが日本で一番早くないだけ、それだけの理由で、何もかも奪われていい滑稽な存在と看做されてしまうのだ。

 そんな男になんの救済も与えられず、彼を笑ったコントロールオフィサーが「コントロールオフィサーはいつだって中立」(≒彼の状況は中立的に観ても悲惨で笑える)と宣言する結末も印象的だった。

 

 そんな敗者のシビアな境遇を見せつけられた後だからか、『百メートル』では、全てを失うかもしれない、という切実さに基づいた選手たちの緊迫感をより一層感じることができた。

 取り止めも無い具体的な会話から、「陸上ってニヒリズムだよな」といった抽象的な対話が浮かび上がってくるのはいつもの平田オリザの作劇という印象。その「ニヒリズム」は究極的には無意味な競争に命を賭ける選手たちだけでなく、それに熱中する我々の中にもあるのかもしれないと感じた。

 1作だけで観ても微妙な印象だっただろうが、2本立てになることで面白く観ることができた。

 

1/10 KAAT『セールスマンの死』@神奈川芸術劇場 大ホール

 ”All my sons”などが有名なアーサー・ミラーの代表作で「大人になりきれない大人を描く」という内容にも興味を持ち観劇。

 "Death of a salesman"というタイトルが示すとおり、この芝居は平凡な男が一人のセールスマンとして生き、夢に破れるままに自ら死を選ぶ物語だ。

 

 初老のセールスマン、ウィリー・ローマンの人生、当初、彼と家族の生活は幸せなフィクションに満ち溢れていた。それは、自分はセールスで大成功しており、息子のビフはアメフトのスター選手、まさしくスクールカースト最上位のジョックで、夫婦と2人の息子仲良く暮らしているという信仰にも似た自己像である。

 現実、セールスの仕事では大成功と言えないものの最新家電を買えるそこそこの生活を送れているし、ビフは数学で落第寸前だが、アメフトのニューヨーク州選抜には選ばれている。多くを望まなければ幸せな家庭だった。

 ボタンの掛け違いが起こるのは、ビフが数学の試験で実際に落第してからだ。ビフはフィクションを守ろうと父に助けを求め、セールスに出ている父の元を訪れる。そこでビフはウィリーが不貞を働く現場を目撃してしまう。そこで、ビフはフィクションを守ることを諦める(「何かが壊れた」)。

 その後、ウィリーはは広がり続ける現実と理想のギャップに苦しむ事になる。ウィリーは心身の老い、職場環境の変化についていけず、ついには会社からクビを宣告される。ビフの成功を信じる反面、不甲斐ないビフに起こり散らし、関係は破綻する。ビフの弟ハッピーは「家庭」というフィクションを諦め、即物的な女漁りに浸る。妻は真実を指摘することもなく、虚構の心地よさに浸り続ける。

 フィクションに頼ってしまう人間の弱さ、フィクションを守るため共犯関係を結ぶ家族の姿がこれでもかという解像度で描かれていてひたすらに感服した3時間だった。

 

 ウィリーがそのギャップに圧倒され、錯乱のままに自殺するという結末は「現実を直視しないと後で何倍も痛い目を見る」というお決まりのパターンだが、現実を直視できない理由を、セールスマンという職業の虚構性(ハッタリに近いものをかまして物を買わせる)、何も生み出さない空虚さ(ビフのたどり着いた職業が農家というのも示唆的だ)、さらにはそんな職業を生み出した資本主義的な社会に求めるというのはとても興味深かった。

 

1/16 KAAT『アーリントン[ラブ・ストーリー]』@神奈川県芸術劇場 大スタジオ

  KAATのプログラムを信頼しているため観劇。芸術監督の白井さんが直々に演出するというのも楽しみだった。

 

 物語は何らかの理由で人間が「管理される側」と「管理する側」に二分されたディストピア的な世界が舞台だ。「管理する側」は数多のタワーを建設し、そこに「管理される側」を収容する。そんなディストピア的な管理社会/全体主義に対照して、描かれるのが「する側」の男と「される側」の女のラブストーリーだ。

 

 全体主義に対して究極的に個人的な出来事(と考えられている)である親愛を描くというのは極めて典型的かもしれない。ただ、この物語の面白い点は、彼らは、ディストピア的社会を所与のものとして半ば受け入れており、力を合わせて社会構造を変革しようとも、タワーを壊そうともしない点だ。さらに言えば、両者の物理的接触はほとんど(おそらく全く)無く、彼らの交流は常にモニターとスピーカーを介してしか行われていない。それだけの関係にも関わらず、男は女を死から救い、その代償として致死的な拷問を受けることとなる。 

 

 この物語の解釈はさまざまだろう。男がディストピアの現実に嫌気がさして虚像と心中したというシビアなものから、そんなバーチャルな交流の中でも抑圧に耐えるだけの真の情愛が生まれた、という暖かい解釈ももちろん可能だ(この物語の副題は"A Love story"だ)。

 

 この作品は2020年の4月に上演予定であった。約1年間で、すっかりオンライン公演は広がり、友人や恋人などのプライベートな関係においても実際会うより、通話やビデオ会議を選択せざるを得ないことも増えてきた。これはまさに、劇中で描かれる二人の関係とほぼ同じだ。

 こんな環境の中では、やはりどちらかといえば後者の解釈の肩を持ちたくなってしまうのが人情だろう。言うまでもないことだが、フィクションは現実と無関係に存在する訳ではないのだ。

 

1/17 青年団『眠れない夜なんてない』@吉祥寺シアター

  毎年恒例(らしい)青年団の吉祥寺公演。マレーシアの日本人居留地を舞台に立場・過去が異なる人々の間での対話が描かれる。平田オリザの舞台は掴みどころがない、ドラマがないと言う向きもあるが、ヒーローが一方的に大活躍するハリウッド映画よりも、異なる考えの人間が対話し、対立し、対決する姿の方がよっぽどドラマチックだと思うのは少数派なのだろうか。

 

 昭和の終わりという時代設定は平成生まれの自分にとっては直感的には理解できなかったが、自粛を強いられる窮屈な雰囲気は今と変わらないのだろうなと思った。天皇の死というコロナよりも非合理的なものが原因なのだから尚更だ。

 

 去年の『東京ノート』で形にならないような義母と娘の親密さが印象的だった2人が、高校の時代の因縁を抱えるギスギスした関係を自然に演じるのは見事。

 今年は脚本・演出だけではなく、役者の演じ方・身体性にも興味を持って観ていきたいと思った。

1/24 ほろびて『コンとロール』@OFF・OFFシアター

 抽象的なテーマを真剣に扱っていそうなチラシや謳い文句に惹かれて観劇した。

 

 舞台の序盤は2つの物語が交互に描かれる。一つは、ゲームを遊ぶカップル、もう一つはスーパーの上司とアルバイトを軸とした物語だ。

 ゲームを遊ぶ女は自らの体をうまくコントロールできず、その結果として、うまくゲームをプレイすることができない。その一方で男は身体のコントロールが効き、ゲームをプレイすることができる。 ゲームのコントローラーが、不思議なことに近くにいる人間と接続され、他者の身体をコントロールできるようになっても、その傾向は変わらない。ただ、そのせいもあってか、2人の遊戯の間に静かに権力・暴力の芽が育っていく。

 

 もう一つの場面の権力構造は雇用関係/指示関係という形をとる分シンプルだ。

 スーパーの店長は経営的な理由による「本社(=上位権力)の指示」でパートの女を解雇しようとする。女は言うなれば不法移民で、仕事をクビになると路頭に迷ってしまうと男に泣きつく。男は下心丸出しで、女を自宅に住まわせる。ここで行使されているのは、職務上の権力ではなく、職務によってもたらされた金銭という権力であると言えるかもしれない。

 女とその妹、男とその弟の4人の奇妙な共同生活は、男の古風な支配者意識などの噴出はあるものの、比較的穏やかなものだった。

 

 ここまでは、他者/身体の完璧なコントロールの不可能性、みたいなところから中動態周辺の話題に行くのかと思った。『中動態の世界』でも幾度も取り上げられた「カツアゲに遭ってお金を渡すのは自発か受動か」という問いがやや唐突に挟まれるものだから尚更だ。

 しかし、2つの穏やかな物語は急激に『夜と霧』のような凄惨な展開を見せる。コントローラーをもった男が、奇妙な同居関係に闖入し、その力を持って家族を支配し、虐待する。思ってもみないスプラッターのような展開だった分、その衝撃は大きかった。客席にも「とんでもないものを観せられている」「こんなはずじゃ」的な雰囲気が漂っていたのは気のせいではないはずだ。

 虐待は一人の犠牲者(犠牲者が、エリアマネージャとしての権力に酔っていた男だというのも示唆的だ)を出したところで唐突に終わりを迎える。コントローラーの力が失われ、男は「コントローラーに支配されていただけ」との言い訳と共にその場を立ち去る。

 そして、コントローラー男から同じように虐待を受けていたカップルの女が、男に別れを告げ、支配から解放されるというラストシーンで幕を閉じる。

 

 基本的には権力の本質を突いた、よく考えられた舞台だったと思う。1月の時点だが、今年ベストクラスの観劇体験をすることもできたと思う。

 ただ、誤解しやすい点をあげるならば、この結末は”被権力者”の解放のみを述べているので遭って、”権力者”の解放は全く別の問題ということだ。

 ここを混同すると、自らを無意識に縛り、他者に権力をふるわせる環境から自らの意思で抜け出せるという素朴すぎる考えに落ち着いてしまう。男による虐待がコントローラー(=権力)の故障によってしか終えられなかったように、この作品でもその不可能性は示されてしまっている。

 そこの問題から目を逸らし、”被権力者”の自由を高らかに宣言するというのは演劇として物語をまとめ、観客を納得させるためにはベストな選択だと思う。これから先はおそらく哲学者の仕事だ。

 ただ、それでも「人はいかに権力を行使するか」という問いは我々にとっても重要であると思う。フーコーの言葉をひくまでもなく権力は不可避の存在で、それなのにおそらくこの問いに永遠に答えは出ない。我々にできることは、誰もが内心に劇中の男、もしくはアイヒマンのような凡庸さを持っていることを自覚し、頭を使い続けることだけなのかもしれないと思った。

 

 これは余談にななるが、精神医療には精神保健指定医と言う資格がある。誤解を恐れずに言えば、これはある人間を治療が必要な「狂人」と判断し、強制力を持って入院・投薬・身体拘束をできる権力を伴う。悲しいことに、この力に起因する環境である精神病院で、今にもなって尚、この作品に描かれたようなことが起こってしまっている(神出病院虐待事件)。

 おそらく、私も数年後には指定医の資格を得る。その時、道を踏み外さないようにするために、この作品のことをできる限り覚えていようと思った。

 

1/29 日韓演劇交流センター『加害者探求‐付録:謝罪文作成ガイド』@坐・高円寺

 リーディング公演を一度観てみたかったこと、脚本家が主催する"theatre, definitely."という劇団名に惹かれたことから観劇。

 芸術界における暴力をテーマに、加害者について糾弾でも断罪でもなくその背景も含めて「探究」をしていくというコンセプトの舞台。元々、発話を元に本を編纂していくという形式の脚本であったため、リーディングでも不足感はなかった。 

 この権力による加害とそれを黙殺する構造は、劇中で語られる詩人たちの「この世界」だけでなく、生活者たる我々の世界である「あちらの世界」にも存在しているのだと思った。

 

  作品の「価値」が他者の評価に全て依存してしまう上に、万人に理解できるものはつまらないとされ(それゆえ芸術家はこの上ない孤独を感じる)、権威による評価が影響力を持ちすぎてしまうという「芸術家の世界」特有の問題を描きすぎると普遍性を失い、普遍性を求めるとあえて芸術家をテーマにする理由がなくなるという難しい舵取りを上手くこなす手腕は見事だった。

2020年 12月 観劇記

 

はじめに

 12月は救急外来での勤務でした。4月と6月に引き続き、今回もまたコロナの感染が拡大しつつある時期の勤務となり、終始陰鬱な気分でしたが、自分が遊んだ分の尻拭いくらいはしようと頑張りました。

 準夜勤と夜勤の合間を縫って今月もある程度の数の作品を観ることができたので感想を残しておこうと思います。

 2021年は観劇記だけでなく、もう少ししっかりした記事も書いていければなと思っています。

 

12/3 KAAT『オレステスとピュラデス』@神奈川芸術劇場

 KAAT、以前観て印象的だった『あの出来事』の瀬戸山美咲*1さん、『少女仮面』の杉原邦生さんがチームを組むとのことで観劇しました。

 物語をシンプルに要約すると、ギリシャ悲劇『オレステイア』と『タウリケのイピゲネイア』との間を埋めるストーリーで、ギリシャ悲劇を基にした二次創作とも言える作品です。タイトルにもあるとおり、トロイア戦争でのギリシャ軍大将、アガメムノンの息子オレステスとその従兄弟ピュラデスの2人の旅路が描かれます。

 彼らの行き先はタウリケ(現在のクリミア半島)です。オレステスは父を殺めた情夫アイギストスと実母クリュタイムネストラに復讐を果たしますが、その後復讐の女神の呪いのため定期的に解離症状を呈するようになってしまいます。

 その呪いを解くため、2人は神託に従い女神アルテミスの神殿*2のあるタウリケに向かう、という枠組みです。

 

 演出も脚本もとにかく素晴らしく、自らの国が戦争で踏み荒らした土地を巡る中で、彼らが自らたちの過去と向き合ったり、オレステスとピュラデスがお互いと向き合い、自分たちの感情と向き合う(彼らが直面するものは作中では「炎」という形で表現されています)様子が華やかかつ丁寧に描かれていて、 終始ドキドキしながら観劇することができました。 

 その中でもやはり、両者の強い信念に基づいて生まれる対決にも近い対話が、ラップバトルという形で表現される最終盤のトロイアでのシーンは印象に残っています。

 ピュラデスがタウリケに行こうとする理由はオレステスのためだけであり、ピュラデスはオレステスの幸せを自らの幸せと設定*3しています。

 しかし、オレステストロイアで「復讐をしない」と宣言をするラテュロスと出会い、恋に落ち、彼女と一緒に住むので旅を止めると言い出してしまいます。

 ピュラデスは半ば逆ギレのような形でオレステスと別れ、トロイアの海に身を投げようとしますが、そこで彼の死を止めようとするラテュロスとの対決が始まります。

 ラテュロスは「いやそれダメな形ってわかってたでしょ」とピュラデスの欺瞞*4を暴き、彼の自覚と自立を促そうとします。

 その対決はピュラデスが古代ギリシャでは絶対的なものであったアポロン神への侮辱を行うまでにエスカレートし、ピュラデスがラテュロスを海に(偶発的に)突き落としてしまうという不幸な結末を迎えかけます。ただその後は、デウスエクスマキナ(「火」を人間に与えたプロメテウスというのも面白いです)で「火を消すのではなく鎮めるのだ」という宣言がなされ穏やかなフィナーレを迎える、というのもギリシャ悲劇へのリスペクトを強く感じて興味深く見ることができました。 

 

 また、裏方の道具を使ったインダストリアルな大道具/小道具やポップダンスのような振り付け、広いホール縦横無尽に使った演出など舞台を構成する要素どれも素晴らしく、今でも「いざタウリケへ」というリフレインが頭から離れないほどに強烈な印象を残した一作でした。

 

 余談にはなりますが、アフタートークで登場人物の名前に込められた意図を知ることができ、その作り込みの深さにさらに感服するばかりでした。

 

 

12/5 空宙空地『その鱗、夜にこぼれて』@こまばアゴラ劇場

 愛知の劇団がどのようなローカリティを持って芝居をしているのか気になって観劇しました。
 「スーパーマーケットを舞台としたジェットコースターヒューマンサスペンス」とのことで、どのような作品かワクワクしていましたが、思ったよりも規模が小さく、静かなストーリーでした。

 人生の「こうあって欲しかった」という後悔、「別の形*5があり得たかもしれない」という取り返しのつかなさに対する後悔未満の無念さにも似た感情が静かに、丁寧に描かれていて興味深く見ることができました。

 物語や登場人物に秘められた謎は「サスペンス」とするにはあまりにもシンプルでフックがないように感じましたが、それゆえにじっくりと感情に寄り添うことができたのかもしれません。

12/8 阿佐ヶ谷スパイダース『ともだちが来た』@小劇場 B1

 前作が印象的だったため観劇しました。
 1994年初出の戯曲とのことですが、古さを感じさせない芝居でした。

 あらすじは夏休みをダラダラと過ごす大学生「私」の元に高校生時代の同窓生「友」が突然現れ、別れの挨拶をするといったものです。

 「死者との対話」というテーマや話の進め方は以前観た屋根裏ハイツの『とおくはちかい』,『ここは出口ではない』と似ている気がしましたが、こちらの作品の方がより登場人物の情念や感情が深く描かれていて好みでした。
 特に終盤の剣道のシーンは、2人の間にある時間の流れや生活史の差、起こってしまったことの取り戻せなさから生じる、やるせなさ、悼みなど、情念のぶつかり合いが強烈な印象を残しました。それでも物語は後悔や諦観だけにとどまらず、やはり彼らの間にあった友情というものもしっかり心に残る、素敵な芝居でした。

 

12/15 KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』@神奈川芸術劇場

 KAATのプログラムを信頼しているため観劇しました。
 韓国人の劇作家、ソンギウンがチェーホフの『三人姉妹』を日本統治下の朝鮮半島を舞台に翻案し、日本人が演出するという企画でした。
 ストーリーは日本軍人の父に連れられ、清津に移住したの3人姉妹と現地の人々を軸に進んでいきます。民族/国家を扱う物語において、両方にルーツを持つ者を界面活性剤として進めていくのは常套手段ですが、今作はそれにとどまらず、日本人の男と現地人の女の結婚、日本人の女と現地人の男(この人物がいわゆる「界面活性剤」ですが、最後にはナショナリスティックな男の嫉妬により殺害されてしまいます)の結婚など、種々の交流が描かれます。
 また、日本/朝鮮の二項対立の外側の存在としてエスペラントを配置したり、非常に多面的でどちらにも肩入れしないようにと細心の注意を払って作られた作品のように感じました。

 ナショナリズムによる断絶や不幸を描いたのちに、韓民族としてのナショナリズムの勃興を示唆する結末には違和感を覚える観客もいたかもしれません。しかし、その毒々しさは前半で描かれる彼らの抑圧に比べれば遥かに妥当なもののように思えましたし、現にお互いの国がナショナリズムの高まりを見せている中で曖昧な結末を描くよりも、お互いを理解する上で有用なもののように思いました。
 

 

12/20 てんらんかい『講談 マクベス夫人』@アトリエ春風舎

 これまで触れたことがなかった講談を支援会員プログラムで観られる貴重な機会だったので観劇しました。

 青年団所属の俳優かつ上方講談師の旭堂南明さんと、その姉弟子で初の外国人講談師旭堂南春さんが、シェイクスピアの『マクベス』を題材にした講談を2ヶ国語で上演するという企画でした。

 初めての講談は新鮮で、特に前座として披露された修羅場読みは特に印象に残っています。緊迫した雰囲気を語調と僅かな効果音、身振りで伝える技術には驚かされました。
 時節の話題だと、駅伝の中継場の早口実況とも似ているかも、というのは失礼な冗談でしょうか。

 本編はなぜマクベス夫人がマクベス以上の野心を抱くに至ったか、という2次創作のような作品です。
 大枠のあらすじは日英で共通でしたが、細かい表現や動きの違いを楽しむことができました。また、話の締めが日本語では「マクベス夫人が世界や周囲からの認知に飢えていた(名前を呼ばれていない)から」、英語では"She was a marionette of herself"と大きく異なっていたのがやはり印象的でした。これは文化というよりは個人差による部分も多いかもしれませんが、アイデンティティの問題につなげるのは日本演劇界っぽいな、とは感じました。

 

12/30 女の子には内緒『老いは煙の森を駆ける』@こまばアゴラ劇場

 去年から老いについて考える機会が多く、プログラムが発表された当時から楽しみにしていました。
 「自然」と「人間」の過去・現在・未来をテーマに、自然との向き合い方を再考する、という触れ込みの作品でしたが、個人的にはその目論見は達成されていないように思いました。
 簡潔に言えば、人間も生物であり自然に包摂されるものである、という極めて当たり前の認識を再確認したに過ぎないという印象でした。

 物語は文明が衰退した後の世界において、息子を山のケモノに殺されて以来復讐に燃えケモノを探し続ける猟師シラスを軸に舞台は進みます。
 そもそも、老いを一つのテーマにするのであれば文明衰退という老いのプロセスがほぼ終わった後の世界を舞台にし、なぜ衰退したのかにも全く触れないのは少し逃げているのではないかと思いました。
 また、演出は人工的でポップ(ナキアミの出現時のアラームなどが顕著です)で新鮮さはありましたが、脚本など含めた必然性や切実さが一切感じられず、白けた気分になってしまいました。

 そもそも鹿やミミズ、石などの「自然」に人格を付与し、ましてや人間のように発話をさせることは「自然」を「人間」の方に引き寄せ、「脱自然化」させてしまっているように思い、強い違和感を感じました。より根源的で超越的な「自然」であるはずのケモノも人の言葉で話し、シラスに息子の死の真相を伝えてしまいます。
 その内容は、シラスは自然に復讐されたと思っていた息子の死は、ケモノがくしゃみをして生まれた風に煽られただけの事故死だったというものでした。
 おそらく脚本の意図としては、ここで目的や意思を持たない「自然」の性質を明らかにするということなのだと思いましたが、やはり自然が喋りすぎている印象を受けました。
 換言すれば、この芝居では自然は終始人間の言葉で理解可能で、物語や理由があり、人間の認知に属するものとして描かれてしまっています。この枠組みでは、人間の認知する「自然」の外に到達し、「自然」との新しい向き合い方を発見することは難しいのではないかと思いました。
 
 さらに、地球の自転に引っ張られるナキアミという登場人物が物語に闖入してきます。
 こちらは「自然」の中に漂う存在であり、作者が発見したところの「新しい向き合い方」を体現している存在として描かれていると感じました。

 しかし、地球上の静止する物体が自転に引っ張られるという状況が自然にはありえない状況と言えます(慣性の法則くらいは常識だと信じています)。
 3000年後も生き延びているような描写があることを鑑みると、彼女は「風」に準じる存在で、自転はコリオリの力を意図したもの、という解釈は可能です。ただ、コリオリの力は動体にしか働かないのでやや無理があります。
 もし彼女が「大気/遺灰」で引っ張っているのが風だったとしたら、それでは「自転に引っ張られる」ことにはなりません。
 そんな「自然ではあり得ない」存在が自然と一番うまく付き合えていると言われても全く同意も共感も理解もできない、というのが正直な感想です。もし、この「理解できなさ」が「自然」の本質である、という演出意図であるならその深さには感服しますが、きっとそんなことはないでしょう。
 
 全体として、散漫でありきたりで不正確な、空回りの産物のような作品のように感じてしまいました。期待との落差もあり、今年ワースト候補の一つになってしまいました。

 この作品の纏まらなさの原因についても考えてみましたが、作者の生物学や科学一般に対する知識の薄さ(WIPのアンケートの軽薄さには驚きました)もあるのではないかと思いました。
 自分のバックグラウンドもあり、こういうサイエンスを扱った作品に対する評価は普通の人よりも厳しくなっているのは承知しています。作者が、各論ではなく総論を、具体的な内容ではなく抽象的なテーマについて語ろうとしていることも重々分かっています。ただ、各論/具体のレベルで大きく踏み外した後に導かれる総論/抽象にはどうしても説得力を感じることができませんでした。
 これは個人の嗜好レベルの話ですが、こういった科学哲学的な話題を扱うなら、やはりもう少し科学にリスペクトがあっても良いのではないかと思いました。それを言い換えれば、科学について考える前に、科学について学ぶ(scienceの語源はラテン語で「知識」です)ことだと思います。

 また、この辺りの問題については科学教育の敗北も強く感じ、文句を言うだけでなく自分もより知識をつけないといけないなと思った一作でした。

 

*1:今回は脚本を担当

*2:そこには父によって生贄に捧げられたはずの実妹イピゲネイアがいることを2人は知りません

*3:「これが俺の愛の形」

*4:過去の記事で言えば「少女性(

アーバンギャルド 『少女都市計画』について - Trialogue

)」にあたるかもしれません

*5:ここが明確になっていないのがとても印象的です

2020年11月 観劇記

はじめに

 11月も引き続き内科でした。新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、11月も予定していた通りの作品を見ることができました。個人的には、感染症拡大に関して確実にアウト(大人数での会食など)の行為はあれど、確実にセーフな行為がない以上、確実なアウトを避けて普通に生活していくしかないのかな、と思います。

 

11/3 『人類史』@神奈川芸術劇場

 作演出を務める谷賢一の『アンチフィクション』が素晴らしく、この人が書いた「普通」の作品を観てみたいと思ったため観劇しました。

 少し前に話題になった『サピエンス全史』を叩き台として、人類史を2時間半で語り切るという壮大な試みの舞台です。大風呂敷をどう畳むのだろうと思っていたのですが、その試みは焦点を「人類を人類たらしめる要素」にあてることで成功していたと感じました。

 作品は大きく3パートに分かれます。最初は哺乳類/類人猿から、ホモ・サピエンスが分化する原始時代が描かれます。二足歩行→発声の変化→言語の獲得→概念の誕生、といった各ステップが描かれますが、このパートでは非言語的(言語獲得前なので当然といえば当然ですが)な身体表現が印象的でした。言語以前のコミニュケーションが上手く表現されていましたし、劇団四季の『ライオンキング』のような動物の表現も面白く見ることができました。ただ、上記のステップが、合目的な行動の結果、「達成されたもの」と描かれているのはラマルクの要不要説的で、少し違和感を感じました。ただ、科学的には「正しい」自然選択/中立説的描き方をしようとすると演劇としては成立しづらいと思うので、しょうがないかなとも思いました。

 

 2つ目のパートは、農耕が始まり、身分の差が生じた古代の風景が描かれます。

 『サピエンス全史』では、人間は虚構を信じる唯一の動物であるが故に覇権を握ったと主張されています。ここで指し示される虚構は幅広く、言語により文節された概念という虚構、国家という虚構、権力という虚構、宗教という虚構などさまざまです。前のパートでは、それらを共有するメリットが楽観的に描かれましたが、このパートでは虚構が人々を抑圧する光景が描かれます。

 宗教を背景とした王政に対し、男は“なぜ王は偉いのか”、”戦争をするのは誰のためなのか”など素朴な疑問を次々と投げかけていきます。当初は徴税に対する役人への不満から始まり、一度は処刑されかけます。通りかかった王女の手助けで一命を取り留め、王宮へ招かれますが、王の目の前でも同様の発言を繰り返し、最終的に舌を抜かれるという刑に処されます。

 男は国家という虚構も王権という虚構も理解・共有することができていません。虚構は同じ虚構内にいる存在は理論を持って裁くことができますが、虚構の外にいる人間に対しては無力です。それゆえ、虚構側のシステムにとっては合理的な理由なく排除しなければならない*1存在なのかもしれません。


 そして3つ目のパートは中世、つまり宗教という虚構と好奇心や向学心、知識といった個人の思想が拮抗する時代が描かれます。

 その中でも主題になるのは、ガリレオ・ガリレイやその周囲の人々です。ガリレオのエピソードは我々がよく知っているものです。しかし、これまでのパートで虚構の力強さを見せつけられている観客にはよりその偉大さが伝わるのではないかと感じました。

 また、敬虔な信者で保守的な両親の反対を押し切り、好奇心に従い望遠鏡を覗く子の姿はこの芝居のハイライトにふさわしいものだったと感じました。


 2時間半の長尺でしたが、ストーリーテリングの上手さも相まってあっという間に過ぎた印象でした。コロナの状況下で描かれるであろう新作もとても楽しみです。

 


11/10 小松台東『シャンドレ』@こまばアゴラ劇場

 宮崎の劇団、という物珍しさに惹かれて観劇しました。東京の人からするとコマツ/タイトウと読んでしまいそうですが、読みはコマツダイ/ヒガシだそうです。

 宮崎のスナック、シャンドレを軸にして男と酒、男と女、そして男と男を描く舞台ですが、その根底に流れるのは男の孤独だと感じました。

 ある男は孤独ゆえに酒に溺れ、ある男は孤独ゆえにスナックのママと恋に落ちていきます。そんな風に、居場所を求めてシャンドレに夜な夜な通っている男たちの姿と、最近所帯持ちとなった男、つまり家庭という居場所を見つけてシャンドレが必要なくなった男が対比されて描かれます。

 舞台は所帯持ちの男が「面倒臭い」といったことに逆上した酒浸りの男がナイフで相手を刺してしまう、というバイオレンスな展開で幕を閉じます。最初に観た時は、ただ詰られたことに男がキレて刺したように思え、刃傷沙汰に至る必然性があまりないように思いました。ただ、男の一撃は孤独や後悔、嫉妬などが積み重なった末の一撃であったのだろうと思います。

 スナックという場所自体馴染みがなかったので、そのシステムも含めて面白く観ることができました。若手が多い小劇場シーンにて、中年男性を描く劇団はなかなか新鮮に感じられたので、ぜひ次も観てみたいと思いました。

 


11/14 堀企画『水の駅』@アトリエ春風舎

 青年団の若手が過去の名作を上演するという似た企画だった『マッチ売りの少女』が素晴らしかったため観劇しました。このような企画は、演劇を体系的に履修していない自分にとってはとても勉強になると感じています。


 今回は太田省吾の無言劇の名作『水の駅』とのことでしたが、人間の身体に対するこちらの解像力が低いこともあって、「面白い」と感情を動かされる場面はあまり多くありませんでしたし、この作品が上演される意義や意図に関しても分からずじまいでした(もしかしたらそんなものないのかもしれませんが)。ただ、天井から床に落ちる水の美しさ、水音の逆説的な静謐さ、水と人の交歓の姿など、いくつかの光景は強く印象に残っています。

 

 演劇という仕組み上、何らかの出来事を描くことになり、それはいくら無言で上演されようとも観る側は「〜が起こっている」という言語に還元しようと思えばできてしまいます。個人的には、目の前の造形それ自体に注目する、という「肉体派な」楽しみの前に、情報を言語に還元して意味を考えるという思考がほぼ自動的に走ってしまっているんだなぁとつくづく自覚しました。今後もダンス公演やこういった作品を観て、認知のモードを切り替えられるようになっていきたいと思いました。


 ちなみに「言語派」としては、この作品がどう再現性を確保しているのかについて強い興味が湧きました。台本として各々の動きや感情が一度言語化されているのか、それともビデオか何かで記録されているのか、どちらにしても面白いと思います。


11/17 新宿梁山泊『唐版・犬狼都市』@下北沢線路街特設紫テント

 一度野外演劇を観てみたいと思っていたため観劇しました。

 澁澤龍彦の短編小説を下敷きにした作品で(といっても、犬狼貴族の魂を結晶に詰めるというコアの部分のみ共通しているがほとんどオリジナル作品です)、大田区の地下に広がる犬田区を舞台をした冒険が描かれます。過去の唐十郎作品*2の演劇論・身体論的な思索の跡は窺えず、派手でアングラな演出とスピーディなやりとりをサーカスの様に楽しむ作品なのかな、と感じました。


11/19 小田尚稔の演劇『罪と愛』@こまばアゴラ劇場

 以前から気になっていたユニットの作品ということで観劇しました。

 フライヤーや過去作品からは、哲学/文学の影響が強く窺われますし、今回の作品もドストエフスキーの引用から物語は始まります。ただ、小難しい形而上の話に留めるのではなく、それらのテーマと我々の日々の生活や体験とを、演劇の説得力と切実さによって接続するというとても面白い演劇でした。


 本作は、どん底の貧乏という罪*3と、「周囲に愛情を持って接することが出来るのか」というテーマが接続されて描かれます。


 舞台は何人もの男(と少数の女)の独白を軸として進んでいきます。何かを執筆しながら困窮に喘ぐ男と困窮している上に借金をしてギャンブルにのめり込み、大家に逆上して刺殺に至る男2人が「罪」サイド、孤独と疎外のままにお台場の自由の女神を燃やそうとする男、そして彼女を裏切ったと懺悔する男2人が「愛」サイドとすることができるかもしれません。

 もちろん主役は「執筆する男」です。そして、残りの男たちは主役が金銭/愛の不足の中で部屋を這い回る蜘蛛、ネズミを眺めながら想像した話や、自らがその境遇に陥ってしまうかもしれないと想像した話なのだと私は解釈しました。

 扱う内容、描き方は基本的に暗いテンションながらも、露悪的なほどにライトな言葉選びや飛び道具的な音響、スモークやプロジェクタを使った派手な演出などで彩りを添えており、切実ながらも楽しく観ることができました。

 また、滔々と語られるモノローグの醸し出す薄寒い孤独感は、作品の内容と合っているだけでなく、個人的に好みのテイストでした。青年団リンク キュイの『景観の邪魔』も同系統の作品で良い印象だったので、今後もこういった作品を見ていきたいと思いました。


 そして、テーマである「周囲に愛情を〜」というテーマにも「愛を求めるのは何かに成功できないための代償行為」といった趣旨の一文が引用され幕がおります。穿った見方をするなら「男が蜘蛛の動きにすら愛を見出すほど餓えているのは、男が演劇で成功できていないことの代償行為にしかすぎず、本当に愛情なんてものは男にはない」となるのかもしれません。ただ、こんな安易で単純な内容だけには終始せず、荒涼とした東京の光景、孤独に差し込む光の暖かさなど、さまざまな心象・光景が焼きつく舞台でした。


 実家の近くの玩具屋さん(小学校の時ベイブレード欲しさに通ったことを覚えています)の上のスペースで上演などもしているようで、そういった小規模な公演も是非観てみたいと思いました。

*1:『こいつの言葉は毒だ』

*2:『少女都市から呼び声』、『少女仮面』

*3:「貧は罪ならず、これは真理ですよ。〔略〕しかし、貧乏もどん底になると、いいですか、このどん底というやつは――罪悪ですよ。」ドストエフスキー罪と罰』(工藤精一郎訳、新潮文庫、1987年、22頁)

2020年 10月 観劇記

はじめに

 10月からはまた内科に場所を移し、研修最終盤をこなしていました。ほとんど定時で上がることができることもあって、これまでで一番多い8本の芝居を観る事ができました。

 徐々に「コロナ禍で演劇できなくて辛かった」系の作品も減ってきて、バラエティに富んだ1ヶ月でした。

 

10/4 櫻内企画『マッチ売りの少女』@アトリエ春風舎

 アゴラ劇場の支援会員プログラムに入っていたため観劇しました。

 『かつてマッチを売っていた、という少女の「記憶/体験」を軸に、現実と幻想、忘却と回想、招きいれるものと招かれるものの関係を再考していくための、室内劇。』というコンセプトで、別役実による戦後不条理劇の傑作と呼ばれている作品を再演するという企画でした。

 まず、傑作と呼ばれるだけあって脚本がとにかく素晴らしいと感じました。あらすじはこのページ( http://8youth.cocolog-nifty.com/hachigeki/2020/08/post-651a55.html )がよく纏まっていたため引用させていただきます。より簡潔に述べると、”戦後”を清算し小市民的に生きる初老夫婦の元に、”戦後”の化身たる*1女が現れ、過去を突きつけ、そして自壊していくというストーリーでしょうか。

 この戯曲が約50年前、東京オリンピックをへて高度経済成長を続け、戦後の痕跡が消えつつあった東京で発表された時は現在よりも強烈な印象を放ったことだと思います。また、全編を通してやや文語的とも言える丁寧語で描かれていることも戯曲の内容と相まって不気味な穏やかさを演出していると感じました。

 そして、演出・演技からも脚本に負けない強さを感じ取ることができました。フィジカルディスタンス確保のため、女と夫婦が近づかなかったり、「弟」役が音声でのみ出演だったりいう演出が、過去という物理的には現代を脅かすことのできないものを表現する上でピッタリはまっていたように感じました。

 特に印象に残ったのは、「弟」が出されたクッキーを2枚食べたというだけの理由で女が激昂し、彼をなじり続けた後に自責へと雪崩れ込んでいくシーンでした。音声では「現在」の状況を提示しつつ、舞台上では過去に囚われる女が独白を続けるという逆転した演出は、この芝居のベースである過去と現在の対立を端的に表しているようでゾクゾクしながら観ることができました。

 

10/5 五反田団『いきしたい』@こまばアゴラ劇場

 こちらも会員プログラムに入っていたため観劇しました。期せずしてこちらもサイコ/不条理系の作品でしたが、こちらの方がよりユーモラスな作品かもしれません。「この度のコロナを語る演劇は今後、飽きるほど目にすると思うので、コロナに全く関係のない個人的な出来事について書くつもりです。」とのステートメント通りの作品でした。

 舞台はあるマンションの一室、若いカップルが引越そうとする場面から始まります。同棲していた彼らは別れることになり、各々の荷物を整理しています。しかし、そんな中、女は自分の荷物として男の死体を引きずり出してきます。そして、どうやら女の前の旦那であった死体はあろうことかまるで生きているように喋り、動き、考えているように見える、といった様に物語は派手に展開していきます。

 男と女は「生き死体」を「遺棄」しに旅に出ます。その道中、女は男ではなく「死体」と仲睦まじくし、男と「死体」、女と男の間に険悪な空気が生まれてしまいます。そして、女は「死体」の手を取ることを選び、男から離れていきます。しかし、「死体」は女を黄泉比良坂のような場所へ連れ込み、女を死へ導こうとします。そこで男が帰ってきて一件落着といった雰囲気になった束の間、男と女がすでに別れていて、男も死体ももう「そこにはいない存在」であることが明かされます。そして彼らは海の中へと消えていき、女が1人取り残されて舞台は幕を閉じます。

 女が過去の旦那との思い出を捨てきれなかったことが原因で、新しいパートナーとの関係が破綻し、傷心のままに旅に出たというのが「現実」に起こっていた事なのだと思います。その旅の中で女は絶望のままに自殺を考えるものの、思い出*2が彼女を引き留め、そして未練を捨てるといった結末なのでしょう。

 こういったシビアな話を、やや突飛でコミカルな表象で提示するのは新鮮でとても面白く感じました。前者はまさに、女が孤独の苦しみの中でも生きたい、「息したい」と願う話であり、後者は思い出という「生き死体」を「遺棄したい」と願う話なのかもしれないなと思いました。

 1時間とは思えないほど濃密な体験ができました。また別の作品も観に行きたいと思いました。

 

10/10 青年団プロデュース公演『馬留徳三郎の一日』@座・高円寺

 こちらも会員プログラムの作品。認知症の高齢者をテーマにした珍しい作品でした。

 かなりしっかりとした取材がなされているようで、違和感なく観ることができました。結末もいわゆる「支持的な傾聴」へ繋がるようなもので妥当に纏めてきたなという印象でした。

 

10/21  CHAiroiPLIN『三文オペラ』@三鷹市芸術文化センター星のホール

 劇場のプログラムを信頼しているため観劇しました。

 ブレヒトの音楽劇をダンス、歌唱、演技などを組み合わせて上演するという試みで、興味深く観劇することができました。

 脚本にはほとんど脚色はなく、大悪党メッキースと奴隷商人ピーチャムの娘ポーリーとのラブストーリー、娼婦の裏切りによるメッキースの逮捕、処刑寸前での無根拠な恩赦(「このオペラでは正義よりも慈悲が重んじられるのだ」というセリフは有名です)からの大団円という流れを踏襲しています。ただ、大団円を導く力として音楽を前面に押し出したというのは、無理筋な脚本を音楽劇にすることで大ヒット作となった原作への批評性が込められていると感じ、非常に興味深いと思いました。

 ただ個人的には、道理に合わないことや考えを尽くされていないことを音楽で飲み込ませるというそもそものコンセプトに違和感を拭えなかったのも事実です。この作品はミュージカルの源流ともいわれており、ミュージカルに対する違和感と同じようなものを感じたのかもしれません。

 演出は派手で、大掛かりな舞台装置はもちろん、スナック菓子の袋でできた衣装、ビニールシートにガムテープで描かれたキャプションなど豪華さとチープさを上手く組み合わせていた印象でした。ただ、演出、主宰、主役を1人で兼ねてしまうのは、その人のテイストが強すぎて観ていて疲れてしまったというのも正直な感想です。

 

10/23 Awhooo『パンと日本酒』@スタジオ空洞 

 西日本のカンパニーを観る機会があまりなかったため観劇しました。

 舞台設定は「カガチミムス」と呼ばれる水棲動物による感染症、通称大津病が蔓延した近未来の日本で、「カガチミムス」を隔離・保管する施設の一室での風景が描かれます。

 最初は「お仕事演劇」によくある新人と経験者のミスコミュニケーション、仕事に対する態度の違いなどが描かれていきます。しかし、上の階や周囲から本来聞こえないはずの「カガチミムス」の気配が漂ってくるところから疫病SFチックな展開へと進んでいきます。

 どこか表向きは常識人のボケ*3と一見破天荒なツッコミ*4という役割分担が明確になっているのはやはり関西の文化なのかな、と思いました。

 やはりこの時期に感染症、となるとコロナを強く連想させますが、うまく現実の後追いにならないよう、要所がアレンジされていたうえ、ポップな仕上がりであまり深刻にならずに観ることができました。

 

10/26 青年団リンクやしゃご『ののじにさすってごらん』@こまばアゴラ劇場

 こちらも支援会員プログラムで観劇しました。

 コロナ禍における国際シェアハウスが舞台で、いわゆる技能実習生問題が主題として取り上げられています。他にもコロナ失業した中年フリーター、キャバ嬢など、劇団の表現を引用すると、『社会の中層階級の中の下』の姿が描かれます。

 その中でも物語の核になるのが、2人の技能実習生にかけられた農作物盗みの疑惑です。彼らが本当に盗んだかどうかは明確には示されていませんが、ストーリー上は冤罪の可能性が高い描かれ方をしています。

 ただ、野菜が売れなくなっただけでベトナム人に盗みの疑いをかけるヒステリックな農家、というのはかなり無理筋な人物造形で、そこからゼノフォビアを見出すのは恣意的かつ露悪的に過ぎるのではないかと感じました。

 コロナによって追い詰められた弱者がさらなる弱者を迫害する、という構図はわかりやすく糾弾することができ、きっと書いている側も見ている側も「外国人との共生」を推進する正義の側に浸って気持ちよくなれる作品かもしれません。

 

 前作『アリはフリスクを食べない』もわかりやすい弱者*5を取り扱っているようですし、今作も技能実習生の他にも、強迫性障害を伺わせる中年男性など、弱者性が決定付けられた人物が出てきます。

 彼らに向けられるメッセージは一見暖かいですが、その背後や描き方には彼らを自分たちよりも弱い者とみなす不遜な見下しがあるように感じられ、あまり愉快なものではありませんでした。


 さらに観劇した当日、ベトナム人技能実習生が豚を違法に解体した疑いで逮捕された、というニュース*6が流れました。彼らは結局釈放されたようですが、現実問題として、窃盗などで逮捕されるベトナム人は多いようです。

 それを解決するためには、「清く正しく生きているのにゼノフォビアによって迫害されるベトナム人」像を描いて「共生は大事だ、彼らは悪くない」と悦に入るのではなく、実際に犯罪に手を染めるに至った理由を知り、「彼らとどう共生していくのか」ということを理知的に考えることではないかと思いました。

 有り体に言えば、エビデンスやファクトが最も重視される領域*7に、いわゆる「お気持ち正論」を一方的に述べて気持ちよくなる*8のはあまり賢い行動とは思えないと感じました。

 

10/27 うさぎストライプ『あたらしい朝』@アトリエ春風舎

 『「どうせ死ぬのに」をテーマに、演劇の嘘を使って死と日常を地続きに描く作風が特徴。』というコンセプトを知って以来、ずっと気になっていた劇団の新作ということで観劇しました。

 今回の作品は「どこかに行きたいと思っていた。でも、そのどこかはどこにもない。」というキャッチコピーで「旅」を軸として、あったかもしれない旅、あって欲しかった旅、もうできない旅が渾然一体となって描かれます。その旅は、どこか切なさを湛えつつも明るいテイストで祝祭的に描かれます。そんな中でも『あいのり』や昭和歌謡など様々な時代背景を窺わせる事物が参照されるのが印象的です。


 作中の「もうできない旅」は「もういない人*9との旅行」を念頭に置いて描かれていますが、その状況と4-5月の「どこにも行けない」状況が重なり合って切実な効果を醸し出していました。


 「どうせ死ぬのに」という逆説の先に続きうる「どうして生きるのか」、「何をするのか」、「何を喜ぶのか」という問いは、「どうせ旅は終わるのに」の後に置いてもいいものなのかもしれないと思いました。ネガティブな現実を背景に置くことで、それでも生きる私たちの営みが普段より少しだけ輝く、そんな作品でした。

 ちなみに、彼女らの作品のキャッチコピーはいつも投げやりでうっすらとした諦めに満ちていて、不思議な魅力を感じます*10。もちろん、これらのキャッチコピーは前述の「ネガティブな現実」を端的に表したもので、その後に差し込む一筋の光はとても美しい物なのだと思います。

 

10/30 iaku『The Last Night Recipe』@座・高円寺

 好評だった前作の『あつい胸さわぎ』が個人的には楽しめず、別の作品を観たいと思っていたため観劇しました。

 メインテーマは「一緒にいるだけの相手に愛が芽生えうるか」という内容なのですが、このテーマを置いた時点で、NOという結末はほとんどあり得えないように思いますし、実際予定調和的なYESに向かって物語が進んでいきます。そして、その愛に照らされてこれまで自我をほとんど持たなかった男が自我を獲得していくという結末を迎えます。

 このストーリーだけであれば、同居のきっかけが出世心だけであることや、結婚へ踏み切るにはあまりに逡巡が描かれないという点、結婚に必然性がない点、「単純接触の法則というくらいだし、少しは情は移るだろ」というツッコミはあれど、御伽噺的なラブストーリーとして楽しめたかもしれません。

 

 しかし、これは作者が意図したことかはわかりませんが、ストーリーをコロナにめちゃくちゃにされてしまった印象を強く受けました。物語の本筋とは関係なくコロナ禍の風景が挿入されるのもいまいちだと感じましたし、作者の不安が先走っている印象を受けました。

 前作も、標準治療が定まっており、おそらく温存手術でできる症例を科学的に扱うことなく、がんという単語だけをややヒステリックに取り上げた印象がありましたが、今作もあまり理知的な取材をされずに医療の問題に首を突っ込んできたのは残念でした。さらに今回はワクチンというエビデンスを無視した「お気持ち」がすでに有害な影響を及ぼしている分野に、無意味かつ不用意に踏み込んできたのはかなり印象が悪かったです。

 「妻」が死ぬのは交通事故でも心筋梗塞でもなんでもいいはずで、コロナワクチンを打った当日に不審死、という設定の意義が全くわかりませんでした。ワクチン副作用の有無は科学的に明らかになる前ですし、そもそもワクチンの成分がどんなものか我々医療従事者もわかっていない状況です。

 確かに、ある程度リスク-ベネフィットが明らかになった状況で、リスクを大きく評価して個人的に打たない、というのは仕方ないかもしれません*11。しかし、何もわからない現状で「ワクチンで死ぬかも、ワクチンの裏には汚い利権構造がある」という設定を持ち出すのはあまりに無遠慮なのではないかと感じました。

 個人的には、科学というエビデンスやファクトが物をいう領域に対して芸術の皮を被った無知で殴り込みをかけたつもりになっている人は、もう少し身の程を弁えたほうがいいのではないかなと思っています。

*1:もちろん初老夫婦の娘ではありません。共通点は同じ時代を生きたということだけなのでしょう

*2:光るパンツ/戯曲では火と表現されています

*3:新興宗教、テロリストなど

*4:物語の進行役

*5:知的障害者

*6:https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21275

*7:最近はEBPMという言葉もやや廃れてきましたが

*8:宇野常寛『母性のディストピア』に詳しいです

*9:作中ではペストマスクで示唆されるのがさらに印象的です

*10:『いないかもしれない』:「かつて教室の隅っこにいた私たちは、いまも世界の隅っこにいる。」、『ハイライト』:「おめでとう、そしてさようなら。もう、こんなところにはいたくない。」

*11:本来ワクチンは集団免疫効果を期待するものなので大手を振って是認はできませんが