2021年10月 観劇記

はじめに

 もはや8ヶ月も前のことなので、かなり曖昧な部分はありますが、記録や資料をもとに当時の感想をなんとか残しておこうと思います。1年遅れたら一度諦めて最新版から消化していきますが、まだ大逆転を狙ってこのペースでやっていきます。

 

 ただ、8ヶ月前のことなのに鮮明に覚えている舞台や場面も多く、これが目の前で起こることの一つの効果なのかなとも覆っています。

 

10/1 幻灯劇場『盲年』@こまばアゴラ劇場

 劇場支援会員プログラムで観劇しました。
 劇団というよりアーティスト集団といった雰囲気とのことで、どんなものが観られるのかとても楽しみにしていました。
 過去に秘密を抱える男と、一度袂を分かったはずの盲目の息子との奇妙な同居関係を軸に、「毎日自白をしにくる女」「盲目の人の検品作業」といったスラップスティック的なエピソードを交えながらその周辺の人間の思いが描かれます。特筆すべきは、そのどれもが「ギャグのためのギャグ」に堕しておらず、物語の中で意味を持っているということかもしれません。
 全体を通して、嫉妬や後悔など人間の負の感情に焦点が当たっており、あらすじ(息子が盲目になったのは、亡くなった妻の姿を“見てしまう”息子が男が疎ましく感じ、眼球を傷つけたからだった)だけだとダークで救いのない物語のように感じますが、映像(プロジェクターで背景や舞台装置を映すのはかなり効果的でした)や振り付けを用いた華やかな演出で楽しく観ることができました。
 やりたいことがたくさんある若者の情熱が詰まった印象的な舞台でした。

 

10/3 KAKUTA『或る、ノライヌ』@すみだパークシアター・倉

 好きな劇団の一つなので観劇しました。劇団員だけの公演というのも久々らしく、どんな作品になるのか楽しみにしていました。
 物語の前半は新大久保を舞台として、社会から程度の差こそあれ疎外された存在である、ノライヌと在日外国人の姿が並行して描かれます。
 当初は都市における「アウトロー」の存在を描くのかなと思っていたのですが、徐々に各々の登場人物が”不倫相手に逃げられる”、”恋人に逃げられる””妹をカルト共同体に連れ去られる”という喪失を抱えていたことが明らかになり、その回復のために3人が北海道へ向かう、というロードムービーの様相を呈します。
 その様子はアクションあり、笑いありとエンタメタッチで描かれるのですが、その中でも人生の苦味ややるせなさが顔を覗かせる場面も多いのはKAKUTAらしさでしょうか。
 結末もハッピーエンドとまではいえませんが、生きていくことには肯定的なもので、最後までじっくりと楽しみながら観ることが出来ました。

 また、その旅に乗り合わせたノライヌ(拾われてはいるのですが、彼のメンタリティーは安住を彼に許していません。それ故に彼はまだノライヌなのだと思います)のカツオも”今はそこにはいない”師匠ジョージの影を追い、その先でジョージも”母”を喪失していることが明らかになります。これは、”人間編”のメタファーとして機能しており、物語のテーマをシンプルに伝えることに成功していたと感じました。

 観劇をはじめておおよそ3年、段々と2回目,3回目の劇団も多くなってきたせいなのか、徐々に物語だけでなく演者にも意識が向くようになってきたことに気づけたのもこの舞台でした。

 

10/8 あまい洋々『besideU:わたしいましたわ』@新宿眼科画廊

 あらすじや、『痴人の愛』を現代のアイドルに翻案するという試みに興味を持って観劇しました。また、「さまざまな負荷と対峙した(している)少年少女の精神活動に興味があり、同テーマで作品を作り続ける」という団体コンセプトにも強い関心がありました。

 この作品で取り組まれている問題意識を極めて陳腐化して述べれば、アイデンティティの形成(=自分が何者かを自分で定めること)ではないかと感じました。
 しかし、資本主義社会や周囲の大人ははアイデンティティが未熟な少年少女を放っておいてはくれません。周囲の欲望は少年少女に作用し、「欲望に応える」ことが仮のアイデンティティとして機能してしまうことも多いように思います。

 主人公ナオミも、”私は空っぽ””透明な私”と自らの存在の不確かさや不安定さの自覚を述べ、アイドルという資本主義の仕組みや、ファンである譲治の唐突なプロポーズに応じて同棲するなど周囲の欲望に極めて従順です。ちなみに、譲治をおじさんではなく若い女性が演じたのはキャスティングの都合もあるでしょうが英断だったと思います。”暴力”の影は薄くなりますが、その分ナオミ本人の問題が浮かび上がっているように感じたからです。

 当初は2人の関係は歪ながらも安定した形で描かれますが、『痴人の愛』同様、そこに内在する支配-被支配/みる-みられるの関係や、その逆転が描かれていきます。しかし、最後まで原作通りというわけではないのがこの作品の美点です。そのキーとなるのがもう一人の少女ノラです。
 イプセンの『人形の家』から名前をとられた彼女は、『人形の家』の結末で家の支配から抜け出し出奔した主人公ノラと同じように、『痴人の愛』的な支配-被支配の関係から抜け出し(日雇いで働く)自由な存在として描かれます。
 そして、ナオミはノラとの交歓や文学や芸術*1通して癒され、自分と向き合います。そして、ナオミは譲治の元に戻るのですが、原作とは異なり、譲治を支配下に置こうとはしません*2
 ここには、作者の『痴人の愛』のナオミは譲治を支配したが、それは譲治を自由できるステータス=自分の価値を再確認する作業にしか過ぎず、アイデンティティを他人に依存している状態から脱していられないのではないかという批判意識があるように思いました。

 そして、「独立」を宣言し、他者に認められずとも、友人がそばにいなくとも、自分で生きていけるようになったナオミは海に向かい、冒頭のセリフを引用しながら、自らが存在していることを宣言できるようになります。ここで起こった変化は、「わたしいましたわ」という過去形のタイトル/台詞が示すように、それは「すでに存在していたもの」を認めるか認めないかという態度や姿勢の問題であり、ナオミは世界や他者、自分を肯定的に受け止められるようになったのだと思います。
 それはまなざしの象徴たるカメラ*3を持ち、それを世界/観客という他者に向けた後の最後の台詞である「きれい」というセリフに集約されているように感じました。

 『痴人の愛』を下書きとしているようにこのプロットや問題意識自体は、何度も何度も繰り返されてきており、決して新しいものではないように思います。このブログで取り上げた音楽

や、演劇などともテーマは通底しているように感じます。
 しかし、この悩みはほとんどの人が通るものです。そして、その悩みの渦中にある人により新しい作品が作られ、その少し下の人を導くという構図は必要であり、美しいものだとも思うのです。そんな点では、今をもがく誰かにとってのマスターピースになりうる作品だと思いました。
 個人的にも去年でベストの観劇体験でしたし、唯一観劇後に映像を買った作品です。

 

10/15 ロロ『Every Body feat. フランケンシュタイン東京芸術劇場 シアターイース

 過去作を含めてあまりピンとはこない団体なのですが、どこが人気なのかを理解したくて再度観劇しました。

 この作品も『二つの小さい四角い窓』と同様、劇団や作演の個人的な歴史を参照しつつ、演劇や物語ることの力強さや効果を描いているように感じました。
 やりたいことはわかるのですが、ファン以外には伝わらないであろう部分が多いですし、過去のサブカルチャーのパッチワーク的な引用(過去=死体=Body((

bodyの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

)))を繋ぎ合わせ、作られた新しい演劇がフランケンシュタインということでしょう)も総体として特段の効果は発揮していないように思いました。

 戯画的な優しい雰囲気が好きな人にはいいかもしれませんが、この作品からは「物語/演劇最高!」という自己言及的な主張しか感じ取れませんでした。
 そして、本来は目的ではなく手段であるはずのメディアを賞賛する声を聞き続けるのは、”BBQに行かず、肉も食べられないのにバーベキューの話だけを聞かされる””テレビ最高と言っているテレビマンの話をテレビで聞かされる”という非常につまらないものになっていたように感じます。

 穿った見方をすれば、”物語にはまった過去の自分”や”今この演劇を見ている自分”を肯定してもらえるような感覚を持てるという一点で人気なのかもしれないなと思いました。

 

10/17 東京芸術祭『野外劇 ロミオとジュリエット イン プレイハウス』@東京芸術劇場・プレイハウス

 500円で芸劇プレイハウスに入れるという希少性に惹かれて観劇しました。
 男女別のキャスティングなどは全く効果を発揮できておらず、俳優の演技も稚拙なものが多く観るに耐えない場面もありましたが、実は初『ロミジュリ』だったこともあってプロットに集中して楽しめました。シェイクスピアの偉大さを知る貴重な体験でした。

 ただ、作品の巧拙とは別に、演劇が町ゆく人の目に止まる、演劇が街中にあるという光景はみてみたかったなと感じました。

 

10/17 ぐうたららばい『海底歩行者』@こまばアゴラ劇場

 一風変わった作品が支援会員で観られるとのことで観劇しました。
 子供を若くして亡くした夫婦の、「これまで」と「それから」が描かれるのですが、特筆すべきはその動と静のコントラストかもしれません。
 前半は、「普通の」子育ての大変さや喜びが描かれるのですが、子供役を夫婦が交互に2人1役の形でシームレスに演じる場面など、技術に裏打ちされた奇妙な感覚を楽しめました。
 後半は、本来ドラマティックに描かれてもいいはずの痛切な感情が淡々と描かれており、前半の賑やかさとのコントラストがとても印象的でした。

「いる」と「いない」の間を易々と乗り越えるような演技が素晴らしく、演劇の力を感じた舞台でした。

 

 無料でオンライン公開されているようなので紹介しておきます。
 https://www.youtube.com/watch?v=yARnw1Zm-ks

 

10/22 ヌトミック『ぼんやりブルース』@こまばアゴラ劇場

 これまた変わり種の作品が支援会員で観られるとのことで観劇しました。
 楽器以外・日常の音というぼんやりしたものから音楽というまとまりを作って提示する試みだとは思うのですが、これが脚本としてプログラムされていることを岸田國士戯曲賞にノミネートされた時に知って驚きました。
 選評でも指摘されていたように、それがどう「コロナ禍の日常」と接続されているのか、戯曲として何か有意なものがあるのかは曖昧な印象も受けましたが、パフォーマンスとしてはとても楽しめました。

 

10/28 ほろびて『ポロポロ、に』@北千住BUoY

 前作『コンとロール』が素晴らしかったので観劇しました。今作も現実に起こっていることを直視しようとする姿勢を感じ、そこは共感できました。
 一方で、前作にあった劇的/抽象的な部分はなりをひそめ(ホームレスの生活が最後まで”キャンプ”として描かれなかったことが象徴的です)、個人の心情がモノローグの形で吐露される場面が増えた印象がありました。これは痛切な効果も示す一方で、安直な印象も受けてしまいました。

 個人的には直視したものを直視したままに描くのはドキュメンタリーの仕事であって、それを誰かが物語とする以上は工夫や企みが欲しいと思ってしまうのもあり、正直好みとは異なる一作になってしまいました。

 ただ、インダストリアルな地下空間の使い方は素敵で、この劇場で別の作品も是非みてみたいと感じました。

 

10/30 岡田利規演出オペラ『夕鶴』@東京芸術劇場 コンサートホール

 岡田利規がオペラを演出するという斬新さに惹かれて観劇しました。当代きっての演出家が飛び道具を駆使しつつ、名作オペラに挑む姿はとても印象的でした。

 ただ、その結果は危惧された通りで、もはや集合的無意識というまでに刷り込まれた『鶴の恩返し』をはじめとする「昔話」のイメージに勝てるほどの強度がなく、どこか空回りの末に空中分裂してしまったような印象を受けました。

 音楽は素晴らしかったので、またオーセンティックな演出の舞台を観に行きたいと感じました。

 

*1:これは他者であれば何でもいいのだと思います

*2:もちろん支配することも可能でした

*3:ナオミは当初”撮られる”存在でした

2021年 9月 観劇記

 

はじめに

 2022年も5月に入り、もう1/3が過ぎてしまいました。年々1年が早く過ぎるようになる、とは聞いていましたが、ここまでのものとは思ってみませんでした。

 老いを想定することと実際に経験することにはやはり大きなギャップがあるのかもしれません。

 この記事ももう200日以上前の記録になりますが、これも実際に経験したことなのでなるべく当時の記憶そのままに残しておこうと思います。

 

9/4 桃尻犬『ルシオラ、来る塩田』@三鷹市芸術文化センター・星のホール

 MITAKA ”NEXT” SELECTIONの一作だったので観劇しました。
 初観劇の劇団で、そのチラシのデザインやビジュアルに相容れなさを感じていましたが、その不安は的中してしまいました。
 前半は母に捨てられ、牧場に居候するきょうだいと取り巻く周りの大人たちの姿が描かれます。当初はやや牧歌的に過ぎるほど、周囲の大人は“いい人”に描かれ、きょうだい感の葛藤にフォーカスがあたります。
 しかし、徐々に子を捨てた母、金を無心する親族など、徐々に大人の汚い部分が描かれ、徐々に物語は不穏な雰囲気を帯びていきます。ここまででも登場人物のヤンキー的で浅い人物造形や下品でうるさい言葉遣いに辟易していましたが、さらに物語は悪い方向に展開していきます。
 突然、隣人の中に殺人鬼が紛れているという設定が明かされ、そこからパニックスリラー的な物語が始まります。おそらく、この展開はこれまでのドラマ/大人に潜む欺瞞性を暴き、その中で残るきょうだいの絆を描く、というものを意図したものではないかと感じましたが、その絆も説得力をもって描かれているようには感じられませんでした。 
 「砂場で作ったお城を自分で壊して悦にいっている大人」を眺める程度のカタルシスしか得られず、何も残らない時間でした。
 ここまで「次はみない」と確信できる芝居も珍しいので、逆に印象に残っています。

 

9/5 うさぎ庵『山中さんと犬と中山くん』@アトリエ春風舎

 支援会員制度で観劇しました。
 5人の俳優による企画で、2作の短編と5人の朗読というカラフルな小品集といった舞台でした。

 個々の物語としても、全体の舞台としても刺激的というよりはまったりとした作りで、幕間のゆるっとした雰囲気と合わせてリラックスすることができました。

 個人的にはキャラメルボックスの西川さんの飄々としているが芯が通っている演技が昔から好きだったので、小劇場という狭い空間で演技を観られて嬉しかったです。

 

9/11 KAATプロデュース『湊横濱荒狗挽歌』@神奈川芸術劇場・大スタジオ

 KAATのプログラムを信頼しているため観劇しました。
 タイトルは「みなとよこはま あらぶるいぬのさけび」と読み、歌舞伎『三人吉三』を下敷きにした舞台とのことです。

 そのため、大筋は任侠もの/アウトローものなのですが、その血生臭さが若者のエネルギーや、機械人形や謎のマスター、ファンタジックな設定で中和されており、最後まで楽しく観ることができました。また、銃撃戦や殺陣の演出も面白く、観客を惹きつけるもののように感じました。

 ホテルのロビーを舞台にした一幕ものなのですが、このレトロモダンな雰囲気の物語を成立させているのは舞台の外に拡がる横浜という都市やそのイメージであり、この土地ならではの作品だなぁと面白く観ていました。
 警察の腐敗を描くのも、神奈川*1ならではだなと思ったのは穿った見方が過ぎるかもしれません。

 

9/11 KAATプロデュース『近松心中物語』@神奈川芸術劇場・ホール

 『湊横濱〜』と立て続けに観劇しました。こちらの作品も古典(『冥途の飛脚』)を題材としていますが、『湊横濱〜』とは異なり原作と同じ時空で描かれています。もはや近代演劇の古典とも言える作品とのことですが、その名に恥じない強度がある作品だなと感じました。
 いわゆる心中ものは、恋人同士の情念の強さ、身分制度からの逃避の終着点を心中という形で表現してカタルシスを得るものと思っているのですが、その単純さに安易に同意できない点もあったことも事実でした。
 この作品では、2組のカップルの心中が描かれているのですが、一方は「従来の」心中ストーリーが描かれます。しかし、白眉なのがそれと対比して「心中をしたい」、「恋に恋している」といった感情にドライブされる形での心中未遂が描かれるという点です。これは、ある意味どうしようもない結果であった心中を他の選択肢もある中であえて選択する、そのことで自己憐憫に浸るという歪んだプロセスであり、その純粋な歪みというべき感情とそれに振り回される男の姿がコミカルに描かれているのです。
 そして、「『曽根崎心中』に憧れている」というセリフが作中にあるように、心中を理想化し、そこにさらなる意味を付加してきた物こそ、人形浄瑠璃と言う演劇であり物語であることは言うまでもありません。

 つまり、この作品は従来の心中ものを精密な筆致で描くと同時に、心中ものの構造や、作品がもたらす効果までを冷静な目線で描くことで相対化しているのだと感じました。
 また、 2つの物語は、その動機だけでなく結果も異なります。前者は期待される通りのドラマチックな死を描き、後者は男の方だけ生き残り、そしてみすぼらしくも生きる道を選びます。物語としては「例外的」であるこの男の、みっともなさ、割り切れなさ、複雑さこそが描かれるべきリアルな人間の姿であるのかもしれないななんてことを思いました。

 名作には名作と言われるだけの理由があることを実感した作品でした。

 

9/25 アンカル『昼下がりの思春期は漂う狼のようだ』@東京芸術劇場・シアターイース

 モダンスイマーズの蓬莱竜太さんが始める新しいプロジェクトとのことで鑑賞しました。
 若手俳優のショーケース企画*2ではあるのですが、それにとどまらない充実した作品になっていました。
 家庭の事情で広島に転入してきた「はだしのゲン」と呼ばれる女子を主軸にとある中学3年生が送る1年が描かれる群像劇なのですが、そのエピソードがどれも粒揃いで、一人もないがしろにされていないのがとても印象的でした。
 家庭環境からグレる男子、女子同士の微妙な権力争い、文化部というアジール(「私が演劇を好きな理由」のスピーチは鬼気迫るものがありました)、さらにあぶれたもののためのウサギ小屋/オカルトというより辺境のアジールなどなど、言葉にするとどれもありふれたものなのですが、そのどれもが細やかにかつみずみずしく描かれていました。

 観客一人一人が各々の思春期を想起できるような、普遍性を持った作品のように感じました。2021年ベスト候補の一つです。

 

9/26 コトリ会議『スーパーポチ』@こまばアゴラ劇場

『おみかんの明かり』が印象的だったため楽しみにしつつ観劇しました。
 正直、年老いた父母のもとに娘が帰って「エモくなっている」、ということ以外はほぼ分かりませんでした。
 劇中の「非現実的な」出来事が、劇中においてはほとんど意味を持たず、観客にコンテクストを参照させ、感情や台詞に説得力を持たせる目的で使われている印象がありました。そのせいか、「劇での出来事」のつながりはほぼ離断しており、もはや破綻しているレベルだと感じました。
 自分の認知様式とは全く反りが合わない劇団でしたが、「演劇を通して自分を知りたい人*3」にとっては良い演劇になるのかもしれません。

*1:神奈川県警は不祥事が多いことで有名です

*2:ご多分にもれず、初演時は役名=芸名という設定でした

*3:それはむしろ演劇を上演する側のニーズのような気はしますが

2021年8月 観劇記

はじめに

 早いもので今年も6分の1が過ぎようとしています。書きたいテーマは色々溜まっているのですが、まずは観劇記の負債を返済することから始めようとしています。

 精神科医として働き始めて1年、仕事が好きだなと思いながら働けているのは、観劇などでリフレッシュできているおかげかもしれません。

 

8/1 gekidanU『リアの跡地』@アトリエ5-22-6

 以前に観た『光の祭典』の作・演出の方による久々の作品とのことで観劇しました。南千住の一軒家を拠点とする、バジェット・環境的に恵まれた劇団に加入した後にどんな作品を作るのか楽しみにしていました。

 作品はシェイクスピアリア王』を下敷きとして、「なぜリア王は娘に美辞麗句を求めたのか、なぜコーディリアの実直さを信じられなかったのか」という問いを立て、それを現代の南千住の物語として解答を模索するという刺激的な試みでした。
 南千住駅集合で、我々観客も地上げのためのサクラと位置づけるなど、距離感の近さやロケーション(言うなれば我々は家という舞台セットの中に存在していました)を活かす取り組みも印象的でした。

 内容自体も、ファロセントリズムや家庭内に潜む主従関係・権力関係など暴き立て、そこからの解放を謳い上げる作品で力強さが印象的でした。野球ボールという父の象徴を家/自らの身体の中から投げ捨て、プレイボールを宣言する(「ほんとうの自分」の開幕を告げる)ラストは清々しさすら感じるものでした。

 

 ただ、我々の世界はもっと複雑で、清々しいことのみに依拠してはいられません。この作品でも、「ほんとうの自分」を縛るルールや法則、大きな他者としての父/男性を拒絶した後に何が残るのかは描かれません。そして、その秩序なき後に、どのように新たな秩序を打ち立てるのか、他者と関わるのか、という問題は残るように思えました。

 

 ちなみにフランスの精神分析ジャック・ラカンは、「父の名の排除」(=言語体系など所与のルールの受け入れに失敗すること*1 )は精神病(代表的なのものは妄想などです)の原因となる、と述べています。
 もちろん「父の名の排除」は能動的に行えるものではないように、そもそもこの男性性/所与のルールの排除(否定とは違う、というところに留意する必要があります)というのを完璧に行うことも困難でしょうし、この後にこの主人公が精神病状態になる、ということも想像できません。
 ただ、いろいろなものを否定した時に、最後の拠り所となるのは他者なき自分の考えで、それはもはや訂正不可能で了解不能な妄想に近いものとなる、という示唆はは共通してるのかなと感じました。
 それを考えると、今後は「自分で自分をどう律し、正しく制御していくか」という課題を取り扱ったの作品を観てみたいような気もします。

 色々書きましたが、基本的にはハイレベルな作品で楽しく観ることができました。古典を下敷きにしたことで緩和はされているもののイデオロギーに傾倒する部分もあり、『光の祭典』から思索はあまり深まっていないように思える部分も多い作品でした。
 少なくとも、自分にとっての劇場は実験の場であって主張の場ではあってほしくないのだなと感じました。

 

8/8 さいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』@彩の国さいたま芸術劇場小ホール

今回の作・演を務める細川さんの前作『コンとロール』が素晴らしかったので観劇しました。また、蜷川幸雄さんのプロジェクトの幕切れも観たいと思ったことも理由の一つです。
 「富裕層が社会不適合者をペットとして飼う」というインパクトの強いあらすじも嘘ではなかったのですが、「ペット」の品評会として、「レシピ(台本)」に則った寸劇である「パドック」を行うというところが本題となっており、穿った見方をすれば、演劇を批判的に描く演劇とも言えるかもしれません。
 「権力/社会構造の歪さを出発点に捉えた作品」とのことでしたが、演出家としての権力を自在に強力に使った蜷川幸雄さんのホームグラウンドでこの作品が上演されるというのもなかなか挑戦的な試みなのかもしれないなと感じました。

 

 8/12 コメディアス『段差インザダーク』@こまばアゴラ劇場

支援会員プログラムで観劇しました。
 仙台出身、自分の出身大学の同門生らによるコメディ専門ユニットとのことで、どんな演劇になるのか気になっていました。事前のあらすじ(機密文書を盗み出す…)と当日パンフレットに掲載されていたあらすじ(古代遺跡から秘宝を運び出す…)が大幅に違い面食らいましたが、面白く見ることができました。
 白眉なのは前半のアスレチック的な、段差を台車が登っていくという言語を介さないような試みをみんなでハラハラしながら見守る部分でした。この瞬間は、観客と俳優と役柄が一体となって、同じ感情や目的を共有する稀有なものだったと感じました。どちらかというと演劇というよりスポーツ観戦に近い体験かもしれません。

 また、実際に「段差文明人」が出現し、未知とのエンカウントが起こった途端に「普通の演劇」が始まるというギャップも印象的でした。典型的な博士-助手のドタバタ劇という感じで斬新なものはありませんでしたが、蘊蓄や知性によって補強されたとんでも論や、実際の経験に裏打ちされたアカデミアの面白エピソードが散りばめられていて、楽しく観ることができました。

 前半はコンテンポラリーダンスや無言劇に近い面白さを感じたので、そういったジャンルとのコラボレーションも観てみたいと思わせる団体でした。

 

8/19 ムニ『カメラ・ラブズ・ミー!(回る顔/真昼森を抜ける)』@こまばアゴラ劇場

 前作、『忘れる滝の家』が興味深かったため観劇しました。せんがわ劇場演劇コンクールでのこの作品をめぐる審査員とコンテスタントとによる論争*2についても興味があったのも理由の一つです。どちらも強い物語はなかったせいか、今思い出せることはあまり多くないので、観劇当時の短い感想を載せるだけとします。
 『回る顔』: 意識-無意識・忘却-死、今ここ-今ここ以外・想像-無といったグラデーションを時空間を飛び越えながら描いているように感じました。次はどこに連れていかれるのか、目が離せない舞台でした。音同士が応答するような無意識下の発語を再現する試みも楽しめました。
 『真昼森を抜ける』:こちらも時空間を曖昧にしつつ、仄かな温もりを残す作品でした。ただ、シーン間に何らかの因果があるかもと明言された途端、却って説明の乏しさが気になったのは意外でした。彼らの作品は、物語をあえて排し、純粋な提示として受け取れるかが鍵なのかもしれません。

 ちなみに、演劇コンクールの論評に関しては言葉遣いの問題はあるものの妥当なもののように感じました。
 この作品は、作・演をかねた宮﨑さんが俳優の身体や発話までコントロールしている点と、観客の存在が意識されていない(何も意識的に提示していない)という点の両方で自閉的であるというのは強く感じることができました。後者に関しても12月に上演された『東京の一日』に比べてもその傾向は強く、この舞台が観客に提示されるに至った理由がわからないなとも感じました。
 「本来的な芸術のあり方としてはそれでいい、芸術に理由や意図は必要ない」という意見もあるとは思います。ただ、こちらが積極的に触れたくなるような優れた芸術に内在する、内面を刺激し、積極的に何かを思い出させたり、発動させるような力はこの作品からは感じ取れませんでした。
 試みとしてはとても面白いと感じているので、これからも応援していきたいと感じました。

 

8/29 DULL-COLORED POP『丘の上、ねむの木産婦人科』@ザ・スズナリ

 お気に入りの劇団の最新作だったので観劇しました。
 「異なる性/生を想像する」というコンセプトで、とある産婦人科を舞台に、数組の男女の出産や結婚にまつわる物語が描かれるオムニバス的な作品でした。
 男女の俳優が逆の性別の役を演じる回もあり、そちらも観たかったのですがスケジュールの都合で泣く泣く「普通の劇」の回のみを観劇しました。

 女性の社会進出の問題や、男女の基本的なすれ違い(もしかしたらそれは子育てへの当事者性の意識の差かもしれません)の問題は、一歩間違えば「男は結局何も分かってない」と一蹴されてしまうであろう難しいテーマだと思います。
 しかし、この作品では『福島三部作』でも発揮された抜群のバランス感覚や、「問題設定はするが、作中で明確な答えは出さず、答えを出そうとする過程を描く」というスタンスのおかげで、誰もが作中の問題を自分ごととして考えられるような作りになっていたと感じました。
 このテーマは「自分はこうしてきた、これが正しい」というポジショントークに終始しがちだからこそ、 パートナーがいる/いない、子供がいる/いないといった違いを乗り越えて、みんなで一つの問題を考えるという機会は貴重だと思いました。
 また、安易な解決は描かないものの、解決に向けた希望*3は示すというエンディングも素敵でした。

 多くの人がこれをみて、さまざまなケースを共有し、対話が生まれ、より良い関係性が社会に広がっていけばいいなと感じました。

*1:これがなぜ「父」と呼ばれるかは長い話なのでここでは省略します

*2:未だに往復書簡は公開されてないようですがどうなったのか気になります

*3:やや楽観的にすぎるきらいはありますが

2021年7月 観劇記

はじめに

 仕事が忙しいわけではないのですが、まとまった文章を書く時間がとれずどんどん先送りをしてしまい、今更7月分の記録になります。

 今年は2019,2020年の2年間にみた観劇本数とほぼ同じ本数を観ることができました。その中で、お気に入りの劇団や作家、役者を見つけることができたり、自分がどんな作品が苦手か、ということも知ることができたのは貴重な体験だったなと思います。

 

 来年も無理はせず、楽しく演劇を観られればいいなと思っています。

 

7/4 『シン・エヴァンゲリオン

精神科医としての基礎教養だよ」と言われ、ステイホーム期間に序・破・Qの三部作を動画配信サービスで観たこともあって鑑賞しました。

 

 超人気作であり今更自分が新しい感想を述べる必要もないと思いますが、全体の見立てだけ備忘録として残しておきます。

 

 まず感じたのは、作家本人にとって、この作品の本懐は「人類補完計画」「使徒」といったSF的なストーリーを大風呂敷を広げて描くことにはないのだろうな、ということでした。もちろん細かい作り込みやストーリーテリングの上手さは賞賛に値しますし、この大仰な雰囲気や派手なアクションに魅力を感じる人も多かったと思います。

 しかし、『シン・ゴジラ』の丁寧な物語展開に比べると、この作品はそのSF的なストーリーを観客を伝えることを目的としていない*1ような気がしました。そして、その物語は、作家個人の現実的な葛藤を解決するためのプロセスであるこの作品に人を惹きつけるフックでしかないのだろうなと感じました。

 

 この作品にあって『シン・ゴジラ』にないものは、「マイナス宇宙」と称された虚構と現実(ロボットでの肉体的対決=劇中での現実/現実での虚構のレベルと言葉での対話・対決=現実のレベルが並行して描かれます)が曖昧になった世界です。そこでは、「決着をつける手段は力ではない」と宣言された後、父との直接の対話によって葛藤の解決がされると同時に物語中での問題(=「アディショナル・インパクト」の阻止)がなされ、その後の実写で描かれる現実世界(作家の地元)への脱出につながります。

 

 物語の表象的な解決を放棄し、どんどんと思弁的な方向に進む終盤は痛快で楽しめましたが、物語それ自体の結末を楽しみにしていた人にとってはあまりに酷なのではないかとも感じました。長年のファンの意見もぜひ聞いてみたいと思いました。

 

7/10 Kawai Project 『ウィルを待ちながら~インターナショナル・バージョン~』 こまばアゴラ劇場

 支援会員制度で観劇しました。シェイクスピア研究の第一人者・河合祥一郎のソロプロジェクトとのことでした。

 

 シェイクスピアの名台詞を引用しながら、2人の名優が思い出話をするというあらすじの舞台で、明確なフィクションというよりも随筆調の演劇という不思議な感覚でした。

 寡聞にして、出演者のお名前は今回初めて知ったため、周囲の観客ほど思い入れを感じられていなかっただろうなと思いましたが、「こんな高齢の方が若い時から同じ脚本が同じように演じられ、魅力的と思われてきた」という歴史の重みは痛いほど伝わってきました。

 

 もちろん、ノスタルジーシェイクスピア礼賛だけで終わるはずもなく、演劇とは何か、演じるとは何か、役者とは何者かという深いテーマについても触れられていましたが、そんなことを気にせずとも楽しめる素敵な舞台でした。

 

7/17 『反応工程』@新国立劇場・小劇場

 イデオロギーに染まり切らない、上質な「社会派」演劇を観たいと思っていたので観劇しました。

 

 第二次世界大戦末期の軍需工場を舞台とした若者の群像劇で、コロナ禍だからこそ「個人と国家/社会」の対立というテーマがより浮かび上がっているように感じました。もしかしたらシリーズ「ことぜん」の年に企画された、という影響もあるかもしれません。

 

 やや説教臭かったり、今の時代としては不自然なまでの労働組合礼賛があったりと、古さを感じる場面もありましたが、戯曲に封じ込められた当時の雰囲気を感じることも、過去の戯曲を今上演することの楽しさなのかもしれないなと思いました。

 

7/22 「もしもし、こちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─」

 話題の若手劇団のショーケース企画とのことで観劇しました。「弱いい派」という括りは賛否ありますが、個人的には「弱いけど何とか(能動的に/楽しく)生きていく派」と言えばいいのかなぁなんて感じています。

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)

 「答えを出すことよりも、わたしとあなたの間にある応えを大切に、ともに考える「機会」としての演劇作品の上演を目指しています。」というプロフィールが以前から気になっていた団体の作品で楽しみにしていました。

 

 タイトルから、メンタルヘルスに関連するテーマかなと思っていましたが、予想通り社交不安障害もしくは全般性不安障害の当事者と思しき人物が主人公で、その描写は露悪的になることなくしっかりとした人間的な目線で描かれていて好印象でした。

 

 この舞台では、その主人公が、薬がなく不安に囚われて外に出られなくなっていたところを、知人の助けを借りて恋人を空港に迎えに行く、という決意をする*2までの過程が描かれます。

 

 精神科医療では、周囲の支援者や時間の経過がもたらす回復を「人薬」「時薬」と呼ぶことがありますが、まさにここで描かれているのも「薬をもらいに行くための人薬」なのだろうなと思いました。全体としては、穏当で曖昧さが保たれていて、メンタルヘルスを題材にした物語の中ではかなりよく考えられた作品のように感じました。

 唯一の残念な点をあげるとすれば、おそらく「対話」の実践が意図された、行動療法的なシーンがセラピスト役の男性による一方的な「アドバイス・指導」になってしまっていて、「対話」の双方向性・共同性が見られなかったことかもしれません。もちろんテンポや作劇の都合上仕方ないことだとは思います。

 精神療法の中で「アドバイス・指導」の形で答えを与えると、一見良くなるように思えて、セラピスト側も「うまく治療できた感」で満足できるのですが、内実はなにも変わっていないことが多いのが現実の難しいところでしょう。

 答えを渡さず、その人の答えを見つけてもらうまでを援助し続ける、というのが対人援助の難しさの一つなのかもしれません。

 

ウンゲツィーファ『Uber Boyz』 

 ウンゲツィーファはもちろん、スペースノットブランク、ゆうめい、ヌトミックとアーティスティックな上演を指向する団体に所属する方々が共同脚本や音楽を務めるという豪華な企画でしたが、もちろん一筋縄ではいきませんでした。
 
 船頭多くして船山にのぼるより前にに沈没する、といったサブカルパロディのごった煮のような舞台で一見すればふざけているだけのように思えたかもしれません。

 ただ、これは必死に自らの叫びや苦しみを真面目に描いても「こちらが聴いてあげる」「かそけき声」として切り捨てられてしまうこの企画へのせめてもの反抗のように思えました。他者を「弱者」として扱うフレームワークの暴力性を指摘する、批評性の高い舞台のように感じた…、というのは穿った見方ではないように思います。
 彼らがプレイハウスの舞台に立つまでに「強く」なることを願わずにはいられない舞台でした。

 

コトリ会議『おみかんの明かり』

 宇宙警察など不可思議な要素はあるものの、喪失を受け入れられない人(と宇宙人)の性がやわからかなタッチで描かれていて安心して観ることができました。
 彼岸と此岸のみせかたが綺麗で、それゆえに両者の交わりが劇的なもののように思えました。

 

7/24 東京夜光『奇跡を待つ人々』@こまばアゴラ劇場

 前作『BLACK OUT』が印象的だったため観劇しました。今回はうって変わって、AI、コールドスリープバーチャルリアリティなどのSF的なガジェットをふんだんに盛り込んだ派手な内容で楽しく観ることができました。きっと観客一人一人が、好きな作品を思い出しながら観ていたのではないかと思いました*3
 1つ1つの要素は他の作品で馴染みがあるものですが、それを組み合わせて全く新しい物語を生み出すことに成功しているように感じました。

 また、同じく川名さんが演出を務めた『いとしの儚』同様、こういった非現実的な内容を、観客を興醒めさせることなく描ききる演出は見事でした。

 次回作はもう本多劇場進出とのことで、とんとん拍子で人気を集めるのも納得の劇団だと思います。

 

7/31 劇団普通『病室』@三鷹市芸術文化センター・星のホール

 評判が非常に良い舞台であったため観劇しました。茨城の急性期病院の一室を舞台とする群像劇なのですが、医療職からみても自然な形で現場の姿を描くのは見事だと思いました。
 ただ、それだけと言えばそれだけで、演劇としては軸や焦点がはっきりせず、集中して観る事が出来ませんでした。
 さらに言えば、この舞台が上演される意義、動機はいったい何で、我々はそこから何を得て帰ればいいのかが正直全くわかりませんでした。作者のフィルターを通さない、ありのままの世界を見たいのなら、数千円払って演劇を観にいかずとも、目の前の世界を眺めたり、カフェでお茶をしながら周りの話を盗み聞きするだけでいいはずです。

 少なくとも自分は、作者のフィルターや頭脳を通して再構築された世界や物語を観に舞台に通っているので、趣向が全く合わない舞台でした。

 職業柄新鮮さも感じられず、粗だけが目立ってしまった事も、期待外れに感じた一因かもしれません。今年のMITAKA “NEXT” selectionは両方とも「次はない」と感じてしまう舞台で、少し残念でした。

*1:特に『Q』はその傾向が強いでしょう

*2:実際の過程は(序章)の後に描かれるのでしょう

*3:個人的にはビデオゲーム『十三機兵防衛圏』を思い出しながら観ていました

2021年6月 観劇記

はじめに

 だいぶ間隔が空いてしまいましたが、6月分の観劇記録です。精神科医療を本格的に始めてから1年弱、観劇で培った言葉や動きに込められた意図や情動を捉える力、相手の文脈にスムースに乗っかり対話を行う力はかけがえのないものとなって自らを助けているような気がしています。

 

6/5 隣屋『オイディプス』@こまばアゴラ劇場

 劇場会員プログラムに入っていたため観劇しました。この演目は仕事においても基礎教養のようなものとなっているので、是非1度上演を観てみたいと思ったのも理由の一つです。

 今回は「為すことと選択すること。自由に回遊してお楽しみください。」というコンセプトを掲げて、回遊形式での上演となっていました。

 ただ、実際に演技をするのはオイディプス役の1人のみで、その他のシーンは、劇場内に設置されたプロジェクタやモニタで映し出される、という現代アートの展示に近い形になっていました。
 そのため、パフォーマンスまでの時間をどのように過ごしても結局オイディプス本人の物語にたどり着く、という体験になっていたように感じました。
 これを、「選択する能動性が制限されていて、コンセプトを表現しきれていない」と評するか、「選択しても、最終的に運命になされるがままになる、という物語の形式と一致している」と評するかは人それぞれだと感じました。

 ちなみに自分は、たとえ買い被りだとしても、全てが想定されていた後者の見方の方が面白いなと感じました。

 

6/6 隣屋 『コロノスのオイディプス』@こまばアゴラ劇場

 前作の続きということで観劇しました。基本的な上演形式は『オイディプス』と同じですが、オイディプス自身よりも、その周囲の人間の姿に焦点がこちらの作品の方が、より能動的に鑑賞の態度を選択し、集中できた気がしました。

 

6/6 イキウメ『外の道』@シアタートラム 

 前作『獣の柱』のチケットが取れず、いつか観てみたいと思っていた劇団だったため観劇しました。
 『引っかかっている、なにかが。気にしないで進む方が、かしこいにきまっている。だが、そのかしこさの先に何があるのか。小さな釣り針のような違和感で糸をたぐる。道を、外れる。』というコンセプトの通り、こちらの概念認知を揺さぶるような作品でした。

 おそらく描かれているのは、現象学におけるエポケーを強いられた2名の大人の姿だと感じました。
 そして、そのきっかけは、「無」と書かれた荷物を開ける、脳内に氷の塊を侵入させられた(ように感じる)、など無意味だが圧倒的で、侵入的な体験となっているようです。

 そのように描かれた現象は、職業柄どうしても統合失調症にみえてしまうというのが正直なところです。
 
 精神病理学者のブランケンブルグは統合失調症の基底症状を『自明性の喪失』であると述べています。症例アンネの「世界に根を下ろすことができていない」、「生活世界が疑わしくなっている」とも言える症状の徹底的な考察を経て、彼が辿り着いた結論を、日本の精神病理学者の松本卓也は「アンネはエポケーを生きざるを得ない。この生きられたエポケーこそが統合失調症の基底症状である」と述べています。

 そして、そのきっかけとなるのが、要素現象と呼ばれる体験であると松本は主張しています。その要素現象は、ヤスパースによると、


・先立つ心的体験から導出されない
・意味のわからない体験としてあらわれる
・患者にとって直接無媒介に体験される
・圧倒的な力を帯びた異質な体験としてあらわれる
・のちの症状進展の基礎となる


ことを特徴とする現象と述べられています。

 つまり、そのような現象ののちに、撤回不可能なエポケーが出現し、独自の世界を生きる(「道を外れる」)状態を我々は統合失調症と呼んでいるのです。

 

 脚本家が哲学の素養がある、という事実を知らなければ当事者が書いたとしか思えない解像度で病理が描かれていて、勉強になるなぁと思いつつも、正直背筋が凍る思いをしました。

 

6/12 ゼロコ『silent scenes』@こまばアゴラ劇場

 支援会員制度で鑑賞しました。物語が比較的薄いコントに近い内容を、基本的には無声で上演するという取り組みでした。
 声が介在しないからこそ、身体の動きという形で表現される人間の意思や意図、静寂を壊す無機質な騒音の面白さが際立っていて、とても楽しく観ることができました。
 また、どの短編も違った味わいがあり、観客を飽きさせることがほとんどなかったのには驚きました。
 こういった典型的な演劇以外の演目も気軽に観られるのが支援会員制度のメリットの一つだなぁと実感しました。


6/19 KAATプロデュース『虹む街』@神奈川芸術劇場・大スタジオ

 同じ業界の大先輩でもあり、ずっと気になっていた作家の作品だったため観劇しました。
 まず印象的だったのが、その舞台装置でした。横浜にある多様な街を凝縮したようなセットは影のある華やさを放っていて、とても魅力的に感じました。
 そして、その舞台上で動くのも、モデルとなった街で生活している人々が選ばれており、相乗効果もあってそのリアリティは抜群でした。
 ただ、この作品がさらに素晴らしいのは、ただ生活を模写するだけでなく、そこにどんな人間の心の動きがあるのか、どんな場面で染み出すのかに極めて自覚的に描かれていたことでした。これを作為という向きもあるでしょう。しかし、我々が定点カメラの映像ではなく芝居を観に行くのは、作家や演者によって再構成された世界の姿を目撃するためではないかと感じていて、そんな欲望をこれでもかというほど満たせる舞台でした。
 随筆調の上演台本(?)も独特で、家に帰った後まで楽しめる、長旅をした後のような感覚を味わえる独特の舞台でした。

 ちなみに、谷野先生は北陸にある精神科の大病院の御曹司のようで、血は争えないが、濃すぎると道を違えてしまうのだなと感じました。

 

6/25 このしたやみ『猫を探す』@こまばアゴラ劇場

 支援会員制度で観劇しました。
 オープンな物語を会話劇とも朗読劇とも言えないスタイルで上演する、観客の能動性を刺激するような舞台でした。俳優の動きや台詞回しも、「あからさまに面白くしようとしてはいないがおかしみがある」という絶妙なラインで楽しむことができました。
 5月に観劇した『蝶のやうな私の郷愁』と似た雰囲気ではありますが、個人的にはこちらの方が好みでした。