『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(後編)

はじめに

 この記事は

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(前編) - Trialogue

の続きです。

 前半では、映画『レヴュースタァライト』について、その物語構造について検討しつつ、芝居という表現形式や舞台という場がどのような効果・作用を持っているかという点について考えました。

 言い換えるならば前半では、舞台上での出来事に集中して述べてきました。後半は、その舞台が観客に提示される「上演」という出来事から始めたいと思います。

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バミリ

上演形式の妙

Wi(l)d-screen baroqueという「私小説的演劇」、当事者性について

 ここで、第3層(心象風景を舞台とした私小説的演劇)のレヴュー、Wi(l)d-screen baroqueを取り扱うにあたって対比させて考えたいのが、ゆうめいの『姿』という作品です。

 ゆうめいは東京で活動する団体で、彼らは彼ら自身のことを「自身の体験や周囲の人々からの「自分のことを話したい」という声を出発点として、生々しくも多種多様に変化していく環境と可能性を描き、その後、表現によってどのように現実が変化したかを『発表する』までを行う」団体であると表明しています。

 彼らの上演する演劇は、そのコンセプト通り私小説的です。彼らの作品は、主宰する池田亮のいじめられ体験・同じ傷を負った仲間の交歓と別れ、そして加害者や生まれ育った街への怒りを高らかに叫ぶ 『弟兄』や、「今度両親が離婚するのでその話をします」というあらすじで、実父=物語の当事者が本人役で出演する『姿』など、いずれも物語の当事者性を押し出します。

 

 では、演劇において当事者性はどのような効果を持つのでしょうか?『姿』を例にして考えてみます。

 第2層(劇中)における言動は第1層(現実)を基にして再構成したと宣言されています。さらにこの作品に限っては第1層(現実の父)、第2層(父役の父)は物理的には同一です。

 そのため、観客は、第2層(『姿』という創作)で描かれる登場人物の内面や葛藤(表面化されない第3層)を、第1層(現実の人間)の出来事であると錯覚してしまうのです。

 

 もちろん、我々は第1層(舞台の外の現実)での出来事を知っていません。しかし、「当事者性がある」という宣言や、本人が本人役で出演するという出来事だけで、我々は目の前に提示された第2層が、第1層の出来事であるように感じてしまうのです。


 そして、第1層の出来事を知ったように錯覚した我々は彼らに感情移入し、「彼らの物語(第1層)」の続きを知りたいという欲望を持つに至ります。

 彼らにとって当事者性を主張するのは、深い没入や強い関心を惹く代わりに、どんな第2層(表現)も第1的(属人的)に解釈されるという代償を支払う行為と言えるでしょう。

 

 そして、そんな錯覚の場(スクリーン)となるのが、役/役者の肉体、そしてそれを我々が観た結果イメージとして残る『姿』なのかもしれません。


 逆に第2層(虚構性)が強い作品(SF作品などが顕著でしょう)ほど、第1層に我々の目線は届きません。つまり、第2層は我々の第1層への眼差しに対するフィルターとなっている、と言えるかもしれません。逆に言えば、第2層が薄ければ薄いほど我々の眼差しは第1層を直接捉えることとなります。


 そしてその仕組みは、第2層がほとんど描かれない『レヴュースタァライト』にて最も発揮されることとなります。この作品においては、第1層と第3層を重ね合わせることは、こちらの勝手な錯覚でなく、明確に演出と脚本で誘導された結果であるからです。


 そして第3層と第1層を見通す中で生じた、「舞台をおりた(=虚構を取り払われた=野生むきだしの)彼女たちの物語を知りたい・観たい」といった観客の欲望(おそらくトマトなど、キリンを構成する野菜として描かれています)こそが、再度第3層・wi(l)d-screen baroqueを出現させるのです。

 

 ちなみに、葛藤が第1層の出来事して描かれる見学前日のシーン(京都弁で「しょうもな」と言い放つシーン)が鮮烈な印象を残さないことも、第3層への欲望をかき立てているようにも感じます。

 

レヴューの観客は誰か?

 前半の最後で「この物語からは意図的に観客の存在が排除されている」と述べました。これはある意味で正しく、ある意味で間違っていたと言えます。

 第2層=劇中劇を直接観る観客は一切描かれません。そして第3層=レヴューは心象風景を舞台とした実演を伴わない舞台であるため、もちろん第1層の観客のまなざしは届きません。

 そもそもレヴューに観客は必要なのでしょうか?舞台少女たちにとってレヴューは内的葛藤を解決するための儀式で、誰かの目に晒す意義は乏しい物のようにみえます。言い換えるならば、レヴューは舞台上で完結しており、客席に開かれていないようにみえます。 
 つまり本来レヴューの筋書きの中に観客の介入する余地は一切ない、という点でも観客は排除されていると言えるかもしれません。

 

 しかし、「観たい」という観客の欲望がレヴュー/wi(l)d-screen baroque上演のトリガーになっているということがキリン自身によって劇中で述べられています。そういう面では、やはりレヴューにも観客が存在することになります。


 では、実際にレヴューを「観たい」観客=「観ている」観客は一体誰なのでしょうか?ここまで言えばもう迷うことはないでしょう。
 それは、「物語/キャラクターを観たい・知りたい」欲望を持ち、その欲望がレヴュー自体の私小説的構造によって、「レヴューを観たい」という欲望に置換された「私たち」そのものです。

 

 もちろん、ほとんどの場面において私たちの存在は意識されず、ましてや描かれることもありません。
 しかし、この作品の中で一度だけ、レヴューの外に観客がいること、舞台の外に客席があることを演者が自覚する瞬間、つまり私たちのまなざしが物語に介入する瞬間が描かれます。

 

演出の妙

一度きり、致死的なまなざし

 その場面は最後のレヴューである、愛城と神楽のレヴュー中に訪れます。(おそらく)神楽が帰国したことで、愛城は再度『スタァライト』の舞台に立ちます。

 その上演の様子がレヴューという形で描かれますが、愛城の調子はどこか狂っていて、観客がいることに気づいている様子です。そして、「舞台に立つのが怖い」と神楽に打ち明け、そのまま愛城は神楽と戦うことなく、突然倒れ込み死んでしまいます。これまでの愛城の内面は私たちのまなざしによって文字通り殺されてしまったのです。

 

 では、なぜ私たちの眼差しはそのような威力を持っているのでしょうか?この点に関して、フランスの映画監督、ブレッソン「カメラの前に立った時、身体はわたしのもので無くなり、如何様にも意味付けられ、切り取られる」と述べています。

 言い換えるならば、自分に向けられるまなざしを自覚する瞬間は、自らが何者であるかという点に関する自己決定権を失う、つまり自分が今まで抱いていた自己像を手放す瞬間なのです。そしてそれこそが劇中で華々しく提示される「ワタシ再生産」の最初のステップに他ならないのかもしれません。

 

舞台上でのワタシ再生産、演劇の支持体について

 ここからはこれまでの議論を踏まえ、「ワタシ再生産」というこの作品独特の言い回しについて検討します。

 

 第1層のところで述べたように、この物語は「目標としてきた他人との約束を達成した愛城が、他の生徒のように自らが立とうとする場所を自ら決め、新たな一歩を踏み出す物語」だと感じました。
 おそらくその変化は第2層=劇中劇『スタァライト』の上演中に起こってはいるのですが、その光景は第3層の「レヴュー」に置換されています。
 そしてそのレヴューでは、第3層を直接鑑賞できる唯一の観客である私たちのまなざしは、それだけで愛城を死へ至らしめる(=これまでの自己を放棄させる)ほどの威力を持っていたのでした。

 

 ここで参考となるのは、『皆殺しのレヴュー』で同じように訪れるレヴュー中の死が持つ意味です。このシーンは新国立歌劇団の見学に向かう際に、見学気分で覚悟が定まっていないクラスメイト達に対して、一人の生徒が糾弾する場面をレヴューとして描いています。

 そのレヴューの中で生徒達は皆殺しに(=第1層では喝破)されてしまいます。これは、これまでの自己を否定するという点で愛城のケースと共通しています。
 興味深いのはその後の展開です。皆殺しにされた彼女達は、自らその死体を眺め(第1層では過去の自分を反省し)、弔うよう(第1層では過去の自分に別れを告げるよう)にして新たな歩を進めていきます。これは第1層でも「新しい自分に生まれ変わった」よばれる出来事を、第3層では「死ぬ→生まれ変わる」と文字通りに表現する、かなりあからさまな表現のように思いました。これが「ワタシ再生産」の一面でしょう。

 

 では、前述のように「舞台に立つ理由も覚悟も決まっていなかった無邪気な舞台少女としての自分」を観客のまなざしの中で自覚した愛城は、どんな存在に生まれ変わったのでしょうか?

 

 矛盾しているように思われるかもしれませんが、彼女に新しい自己像を提示し「再生産」させたのもまた、舞台上の神楽のまなざしと、客席からの観客のまなざしではないかと思うのです。

 

 舞台上において、役柄を規定するものは一体なんでしょうか?セリフ、衣装、照明や音楽、大道具、さまざまな答えがあるかと思います。私はその中でも最も決定的なのは共演者と観客だと考えています。

 

 舞台上に一人で愛の言葉を叫んでいる女がいるとしましょう。

 その立ち位置を変えないまま、舞台上に他に誰もいない時、女の共演者が目の前に向かい合って立っていた時、男の共演者が目の前に向かい合って立っていた時、同じ共演者が背を向けて立っていた時、彼を物陰から覗いていた時、そこに我々が感じ取る関係は大きく異なるはずです。このように彼女の存在が持つ意味は共演者という他者との関係に大きく左右されます。

 そして、舞台をまなざし、その関係を感じ取った観客は、彼女がどんな人間であるかを解釈する、つまり観客なりの彼女の役柄を決定することとなるのです。

 誤解を恐れず端的に述べるならば、彼女が舞台に立ち続け、共演者と関わり、観客を拒否しない限り、常に新たな役柄が与え続けられる(再生産され続ける)と言えるのかもしれません。

 

瓦解するタワー、出現するバミリ

 ここからは、レヴューが上演される=観客のまなざしに晒されることによって、愛城の内面にどの様な変化が生じたのかを検討します。

 前半の記事で述べた通り、愛城が演劇に徹する理由は「神楽に舞台上で再会する」という約束を達成することだけです。愛城にとって演劇は目的でなく手段でしかありません。
 それでも、おそらく才能に恵まれていた愛城は、舞台に上がることが自分や観客にとってどの様な意味・効果を持つのか全く省察することなく、目的を達成してしまいます。
 
 そんな愛城の内面は、砂漠の中にそびえ立つ一本のタワーという形で描かれています。そしてこの映画は、(おそらく愛城が目的を達成し)タワーが崩壊する、つまり虚無だけが残される場面から始まるのです。
 印象的なのは、この冒頭の場面、タワーはTの字形のブロックに瓦解することです。この映画、特にレヴューの場面においてこのTの字のモチーフは頻回に象徴的に用いられています。

 

 では、Tの字が意味するものとは一体なんなのでしょうか。
 前述のように今作においてほとんどのレヴューは「本音の表明と対話→対決→決意と別れ」という流れを持っています。その最後の場面でTの字が何度も出現していることを見て、最後のレヴューまではT字路=わかれ道を意図した演出なのかなと思っていました。
 特に舞台エリートっぽい少女が文学少女っぽい少女に自決を迫るレヴュー(タイトルを失念しました)の最後のシーンはあからさまでしょう。

 

 しかし、最後のレヴューでTの字が地面(舞台上)に出現した時にようやくそのモチーフに思い当たりました。演劇、舞台上、Tの字といえば答えはシンプルです。それは「バミリ」なのではないかと思いました。やや専門的な知識なので、TV版などですでに説明されているのかもしれません。

 バミリは舞台上、役者や舞台装置などの配置の目安となるもので、×の字、Lの字、Tの字など様々な形があります(大体はビニールテープで作られます)。×の字は小道具、Lの字は机や椅子など移動させる舞台装置など各々特定の意味を持っています。そしてTの字のバミリは大まかに2つの意味を持っています。
 一つは演者の立ち位置の中心を示すバミリ、もう一つは「センターバミリ」と呼ばれる舞台の中心*1を示す(=そこが舞台であることを最も端的に示す)バミリです。
 どちらが意図されているのかは正直わかりませんでしたが、この立ち位置の中心/舞台の中心が劇中で何度か言及される「ポジションゼロ」なのかなと思いました。

 

 ただどちらにしろ、ラストシーンに至り、愛城の荒涼とした心象風景になんらかの目印が刻まれたことは間違いありません。前者の意味なら「自分の立つべき場所を見つけた」という解釈ができるでしょうし、後者であれば「自分が立つ場が舞台であると改めて認識した」=「まなざされる自分というアイデンティティを受け入れた」いう解釈になるでしょう。
 どちらにしても大きな変わりはありませんが、後者の方がより演劇論風な解釈に繋がるかもしれません。

 

 なぜなら、自分の存在が常に更新される場所である舞台に立ち、他者ががもたらす役柄の器として表現し続けるという覚悟が決まった人のことを我々は俳優と呼ぶからです。

 そして「俳優となる瞬間」は、観客という他者(観客)の一部(トマト)を引き受ける(体内に取り込む)瞬間なのかもしれません。

 これを踏まえると、この物語は「無邪気な舞台少女が女優として生きる覚悟を決める」物語とも表現できるのかもしれません。

 そんな俳優の性を端的に表したとある戯曲の一場面を引用してこのセクションの締めとしたいと思います。

 

 「だって、そういうことでしょ、撮られるって。撮り手のフィルターにかけられて、あたしがどんな人間か画面の中では全く意味を持たなくなって、好きなように切り刻まれて、あたしはあたしじゃなくなるの。あたし、まことさんのフィルターにかけられたかった…、あたしはあの瞬間のあたしの全てをあげたかった…!」
 「…あんた、まるっきり女優じゃん。つまんないこと言ってないで、素直に撮られたいっていいなよ。」
 少女都市『光の祭典』より

 

広がる物語


 ここからは彼女達の物語を日常を生きる我々に適用することを試みます。

 この試みは好き嫌いが大きく分かれる部分だとは思います。虚構を虚構のままとして楽しみたい人にとっては余計なお世話かもしれません。

 しかし、演劇が古代ギリシャ時代から観客に求められていた理由は、役者の内面やゴシップを知りたいという欲望を我々が持っているからではありません。演劇の本質は対決かもしれませんが、対決を観ることがが好きならボクシングやコロッセオでの剣闘でもいいはずです。

 それでは、登場人物が対決するプロセスである「演劇」を我々が観るという「観劇」の本質はいったいなんなのでしょうか?
 それは舞台上の出来事(を作り出す作家や俳優という他者)と客席の我々が空間や虚構を共有することで対話し(「演劇とは観客との対話だと私は考えている」谷賢一『アンチフィクション』より)、時には対決するというプロセスと言えるのではないでしょうか。そしてそんな体験を人間が2000年以上も求め続けた理由は、その体験を通して我々の人生がほんの少しでも変わる/再生産される*2ことにあるのかもしれません。

 そんな「レヴュー」のような関係が観客と作品の間で成立するということ主張するため、もう少しだけ考えを進めたいと思います。

 

現実でのワタシ再生産について


 まずこの動画をご覧ください。Eテレピタゴラスイッチで流された『ぼくのおとうさん』という1分ちょっとの曲です。

www.nicovideo.jp


 そして、一つの問いを立てたいと思います。「おとうさん」はこの曲を聴く我々にとって何者なのでしょうか?*3

 動画にもあるとおり、「おとうさん」はお父さんだけでなく、会社員、課長、通勤客、患者、生徒、通行人などさまざまな役割を帯びています。もちろん、私たちもさまざまな役割を背負ってきました。息子、娘、生徒、受験生、バイト、会社員…挙げればキリがありません。

 そして、その役割は「おとうさん/私」本人が決定しているわけではなく、周囲の人間との関係によって決定されます。そして「おとうさん/私」自身の振る舞いも、その役割に応える形で規定されることになれます。
 これは、舞台上で役柄が他者の言動や他者との関係によって決定されたことと似ている気がします。

 そしてその場面の全てを目撃/経験した私たちにとって、「おとうさん/私」が何者であるかを決定することは極めて困難です。
 これは、複数の舞台で同じ人が別の役柄を演じた時、その人が何者かを断じることが難しいのと似ている気がします。

 しかし、私たちはこれまでの議論を通して、そんな「おとうさん/私」を定義する言葉を見つけています。さまざまな役柄を、その場で積極的に引き受ける存在、それは「俳優」と呼ぶことができるのではないのでしょうか。
 そして「俳優」に役柄が付与される、つまり他者にまなざされる場(それは他者がいる全ての場=世界)を「劇場」と呼ぶことにも異論はないでしょう。

 

Theatrum Mundiについて


 この議論については、社会学者のゴフマンがドラマツルギー論という形で精密に理論化していますが、ここでは触れません。彼らが精密な理論を組み立てるずっと前に、劇作家達はその事実に気づいているからです。

 古代ローマの詩人ペトロニウスはTotus mundus agit histrionem.(世界は全て劇場)と残しています。
 そしてその言葉を自らの劇場に掲げたW.シェイクスピアはその作品の中でシンプルに物事を表現しています。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players;
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
 この世界すべてが一つの舞台、
人はみな男も女も役者にすぎない。
それぞれに登場があり、退場がある、
出場がくれば一人一人が様々な役を演じる、
 W.シェイクスピア,松岡和子訳『お気に召すまま』

 この考え方は中世ヨーロッパではTheatrum mundi (世界の劇場)と呼ばれ、ある程度の市民権を得ていたようです。

 

 ここまでの議論をまとめます。
 現代社会においても、我々はいくつかの役割を演じています。しかし、それは我々が能動的に選択できるものではなく、他者の存在があって初めて生まれものであり、”どんな役か”を判断するのも他者です。
 そして、舞台においても、役者がさまざまな役を演じます。しかし、役が舞台上の他者によって規定される以上、役者は自らだけで能動的に決断することができません。そしてそれが”どんな役か”判断するのも観客なのです。

 

舞台人の物語、『私たちはもう舞台の上』

 

 ことここに至ると、「俳優としての覚悟なく、約束によって劇場に引き摺り出された」舞台少女・愛城が葛藤する物語は「俳優(間主観的な存在)としての覚悟なく、出生という形でこの世界という劇場に投げ出された」私たちと対比することができるのではないでしょうか。

 そして劇中で舞台少女たちに幾度も投げかけられる「列車は必ず次の駅へ では舞台は? あなたたちは?」という問いは私たちにも有効な問いかもしれません。

 

 劇中で答えは示されています。「舞台は続かなれけばならない」(前述したように、舞台のルールは”Show must go on”です)、そして「舞台少女は次の舞台へ進まなければならない」。

 

 そうして辿り着いた舞台で愛城は俳優としての覚悟を手に入れます。

 そして、彼女と同じように、私たちも人生というショウを続け、他者と交わり続けることで、いつかどこかの舞台で、俳優としての覚悟を手に入れるのでしょう(「我々は現在、いまを<演じる>ことの呪縛」の中にいる。だがしかし、その呪縛を解き放つのも、いま、ここで<演じる>ことなのだ」 吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』)。
 そんな私たちに9人の女優たちは、カーテンコールで『私たちはもう舞台の上』と声をかけます。そして、この物語を目撃した私たちも知っているはずです。そこで行われる『ショウほど素敵な商売はない』と。

www.youtube.com

 

追記:この記事を構想した後、舞台少女心得という曲があることを知りました。この記事のほとんどはこの曲の歌詞にあるとおり「世界はわたしたちの大きな舞台だから」「私たちは生まれながら舞台少女」と要約可能です。全体を通して懇切丁寧に描かれている印象なので、演出の意味ほとんどはTV版などで明確に示されているのかもしれません。映画版だけを観た人の感想ということでご容赦いただければ!

*1:舞台はセンターバミリを中心に下手-上手に分かれます

*2:対話はお互いが影響し合うことを前提としたプロセスです

*3:子供番組に何ムキになってんの、という声もあるでしょう。権威を奉信するわけではないですが、この単純な歌詞を書いたのは東京藝大の教授、と聞くと印象が変わるかもしれません。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(前編)

はじめに

 2日前の8月7日、周囲で話題になっていたアニメ映画を観ました。終映間近ということもあり、わざわざ川崎に出向いた苦労が報われるような素晴らしい映画でした。
 この映画について考えることで、「どうして演劇が好きなの?」という問いに対する一つの答えを提示できるのではないかと思い、一つの記事にまとめることを試みます。

 

 多くのファンもいる中で、TV版含め何も事前情報がない自分が新しい視点を提示できるかは分かりませんが、なるべく平易に述べることができればと考えています。

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新国立劇場・オペラパレス内観

 

物語構造について

 この作品では劇中劇の構造が巧みに使われています。まずは、その構造を解きほぐすことから始めていきたいと思います。

第1層:劇中の「現実」


 この層はとてもシンプルです。宝塚音楽学校のような場所を舞台として、9人の少女が切磋琢磨していますが、すでに『ガラスの仮面』的な演劇ドラマは終わった後のようです。


 その結果、ほとんどの生徒たちが将来の行き先、自らが立とうとする場所を自ら決めています。しかし、その中で主人公格である愛城だけは将来を決めきれていません。さらに自らの指針となっていた幼馴染の神楽はイギリスへ旅立ち、愛城の前から姿を消してしまいました。


 愛城と神楽の2人は幼馴染で、愛城は児童劇団に所属していた神楽に連れられて観劇した『スタァライト』という演目で舞台の魅力に取りつかれます。しかし、演劇の魅力を愛城に伝えた神楽は演劇留学のためイギリスに旅立つこととなり、幼稚園生の時、2人は舞台の上での再会を誓い合って別れます。


 その後、愛城は神楽に再会するという目的のためにひたすらに演劇に打ち込み、児童劇団で主役を努めるほどに成長し、音楽学校で神楽と再会を果たしています。そして、劇中では明確には描かれませんが、『スタァライト』という思い出の演目で共演を果たし目標を達成したのでしょう。

 

 この物語で描かれるのはここからの姿です。愛城以外の8人は、同級生の存在と彼女たちとの別れを通して自らの覚悟を再確認し、愛城は最後の学園祭での『スタァライト』の再演を通して自らの生き方を自ら決定する過程が描かれます。


 つまりこの層の内容を端的に表せば「目標としてきた他人との約束を達成した主人公が、他の生徒のように自らが立とうとする場所を自ら決め、新たな一歩を踏み出す物語」と言えるかもしれません。


第2層:劇中の現実における「劇」


 この層は、作中で実際に上演される劇、いわゆる「劇中劇」にあたります。この作品が興味深いのは、演劇をテーマとしているのにも関わらずこの層がとても希薄なことです。
 基本的に演劇ドラマでは、主人公の葛藤が「劇中」の人物(=自らの役)と共鳴し「劇」を演じる中で間接的に解決される、というパターンが多いように思います。

 

 これは野球漫画で登場人物の葛藤が、試合や一打席勝負のような形で間接的に解決される構造と似ています。野球は個人の内面を直接表現することはできず、あくまで他者と別のモードで関わるための媒体として野球は機能しています。

 

 しかし、この作品ではそのような場面はほとんど描かれません。
 主人公・愛城が劇の練習中に「なぜ行ってしまうんだ、友よ」というセリフにひどく感情移入して泣いてしまう、という場面がわずかに描かれますが、序盤に軽く消化されてしまいます。
 学園祭の演目として『スタァライト』が再演される、愛城にとって決定的な場面でさえも、その上演の様子が直接描写されることはありません。

 

 物語としては、『スタァライト』の中のセリフを、愛城・神楽、2人の役者の(第1層における)心情に近づけ、その上演の中で「限りなく直接に近い間接的な形」で愛城の葛藤を解決する様子を表現する「演劇ドラマ」風の展開も取れたと思います。

 

 しかし、観客は学園祭で上演された『スタァライト』がどんな物語なのかを直接知ることはできません。

 なぜならそれは、葛藤や内面を直接描写し、対話-対決を経て解決するプロセスを別の「劇」の形で表現する「レヴュー」に置き換えられ、観客である我々に提示されているからです。
 そして、そのレヴューこそが演劇の大きな機能の一つの現れであるように思うのです。

 

第3層:劇中の心象風景としての「レヴュー」


 ここからがこの作品のミソかもしれません。
 前述のように、レヴューは自意識や感情などの内面がむき出しとなり、他者と対決するプロセスが本人たちによる「劇」という形で直接表現されたもののように思えました。


 より端的に述べるならば、「レヴュー」=「心象風景を舞台とした私小説的演劇」と言えるかもしれません。それは物理的な基盤*1を必須としない、内面を表現する場としての劇です。

 これは、第2層(劇中劇)が存在する場として第1層(劇中の現実)という物理的な基盤(=支持体)を必要とすることと対照的です。

 

 もちろん、「演劇における葛藤や悩み(第1層)を、主に演劇(第2層)を通して解決する」舞台少女達のドラマとして最低限のラインを守るため、まさに劇的な内面を劇として表現するレヴュー(第3層)は、内面が最も揺れ動く時、この物語においては彼女たちが出演する演劇(第2層)を背景に持つ事が多いでしょう。そして、レヴュー(第3層)と全く同じ内容の舞台が、劇中劇(第2層)として上演されている設定にすることももちろん可能です。

 

 では、演劇のどんな機能が、内面の劇的なぶつかり合いを演劇(レヴュー)として表現すること可能にしているのでしょうか。


 演劇の性質について、劇作家の木下順二*2「演劇とは対立である」、また同じく劇作家の谷賢一*3は演劇とは「価値観や考え方や生き方の違う2人以上の登場人物(=他者)が出会い、対話するプロセス 」と述べています。これはまさに、作中におけるレヴューの役割と一致しているように思います。

 

 しかし、これだけでは「野球も対決である」という反論が成り立ちます。では、なぜ演劇(=レヴュー」がより内面のぶつかり合いを直面化できるのでしょうか。
 ここからは個人的な意見ですが、簡潔にいえば、それはルール/目的の違いだけのような気がしています。

 

 野球には明確なルールがあります。そして、そのルールのなかで相手に勝つという目的への合意がゲームの前提になっています。マウンドでどんなかっこいい踊りを披露しても、バットで相手を殴り倒しても、野球をする目的は達成されず、かえってゲームから追放されてしまいます。言い換えれば、野球という形式・野球場という場、それ自体が価値判断の基準を内包していて、それが内面の自由さを縛っていると言えるかもしれません。

 一方で、舞台という場はルールが務めて排除された場です。舞台はあらゆる物語の器となる潜在能力を持つ、最も自由で安全な空間の一つと言えるでしょう。舞台を縛るルールは物理法則と、有名な格言”Show must go on”くらいかもしれません。
 しかもアニメーションでは、物理法則すら完全に無視できるのですから、形式面では飛び抜けて自由と言えるでしょう。
 

 個人的に興味深い点は、そんな自由な空間で多くのレヴューが上演される中で、最初の『皆殺しのレヴュー』以外は、1対1で行われ、「本音の表明と対話→対決→決意と別れ」という同じ展開をすることです。
 キャラクターの物語をまとめ上げるという要請があるにしろ、これは、レヴューのルール(外套についたボタン?を剣で切り取れば勝ち)に縛られた結果なのかなとも思います。このルールは物語を拘束するよりもむしろ、名だたる劇作家が述べて来た演劇の機能を際立たせる効果を発揮していたように思います。

 もちろんルールが生む拘束についても作者は自覚的で、ルール破りの実例や、ルールを破ったことが「演技」の一環として包摂される(=ルールを絶対化していない)場面があることが深みを出していると感じました。


各層を分けること・つなげること


 ここまでは、物語の構造を3層に分けつつ、第1層では自己実現に関するシンプルなストーリーが展開され、第2層の「劇中劇」の内容自体はほとんど語られず、そのかわりに第3層として心象風景を舞台とする「レヴュー」が、第2層の「劇中劇」が上演される時などに生じる、感情のぶつかりなどを反映する形で描かれていると整理しました。

 普段の演劇や映画では、我々が直接観ることができるのはせいぜい第2層までで、多くの場合第3層は提示された演出や演技を我々が解釈し、想像することで浮かび上がってきます。演劇でもごく稀に第3層が直接表現されることもありますが、物理的な制約のため、観客はどの層を観ているかわからなくなり、混乱することも多いように思います。

 

 それを考慮すると、この作品の構造における美点は、衣装やキャプション、背景などで今画面にあるのがどの層なのかをしっかり切り分けてわかりやすく提示する一方、映像の力で各層をシームレスに移動し、各層の関連を明確にしていることなのかなと感じました。

 もちろん、構造自体だけでなく、構造と内容の相乗効果や演出の妙など他にも魅力は様々あると感じたので、この点に関しては後述します。

 

 また、このシームレスな移動に我々が違和感を感じずについていけるのはさらに3つの要因があると感じました。

 

 1つは、第2層と第3層が両方とも同じ「演劇」という作法で描かれていることです。このことにより、第2層が第3層によって置換される、つまり、「舞台少女が演劇の悩みを演劇(第2層)を解決する様子を演劇(第3層)で表現する」時にも、大きな違和感を生じずに済みます。

 もし、野球漫画で、各々の内面に野球で決着をつけるシーンが突然「野球に関する演劇」で表現されたら大ブーイングでしょう*4

 

 そして、その構造を担保しているのが、演劇が我々の「現実」に最も近い自由度と実在性を持った表現形態である*5こと、それゆえ「演劇に関する演劇」*6という自己言及が最も簡単にできることなのだと思います。「小説に関する小説」「映画に関する映画」は成立する一方で、「野球に関する野球」「BBQに関するBBQ」は意味不明であることと対照的です。

 

 もう1つは彼女たちが「劇」を日常にしていることです。こちらに関しても説明は不要でしょう。それによって日常(第1層)に「劇」(第2層もしくは第3層)が常に侵入してくる余地があるのです。


 明らかに「劇」が上演されていない*7地下鉄の場面で唐突に『皆殺しのレヴュー』が始まった時(第1層が第3層で直接置換された時)は驚きましたが、この設定のおかげでなんとか食らいつくことができました。


 ちなみに、第2層をできるだけ薄くする試みは現代演劇にもあり、「ポストドラマ」*8と呼ばれる潮流となっています。
 ただし、もちろんそこにレヴューのようなルールは導入されません。その結果、より原始的な舞台芸術、「演じることと見ることが同時に起こる空間であり、その空気をともに吸いながら、俳優と観客に共同に過ごされ、共有で消費される生の時間」とレーマンが表現した空間が残るとされています(詳しくは新国立劇場の解説をご覧ください)。
 

 これは余談ですが、第3層(=対決を表現する手法としての虚構)の力を借りずに、前述した「本音の表明と対話→対決→決意と別れ」が日常に存在する光景を描こうとすると、「生きること(第1層)は是戦う事(第2層)なり」といった時代劇的な世界観が導かれるかもしれません。

 彼らの戦いにも特定のルールが無く、戦いの中で対話することも可能であり、そして彼らの日常のあらゆる場面に対話の場である戦いが侵入してくる余地があります。
 そういったことを考えても、この物語の構造は複雑ですが、内容は極めてシンプルと言えるのかもしれません。

 

第0層:『レヴュースタァライト』が上演される現実


 ではこれまでの議論から、演劇の魅力はレヴューのように、生身の人間が感情と言葉で殴り合うことにある、とまとめてしまっていいのでしょうか?もちろんそれも魅力の一つだと思います。特に舞台芸術を属人的なものとして捉えた場合、この映画は1つの素晴らしい解答となりうるものだと思います。

 しかし、個人的にはそれはあまりに乱暴な議論のように思います。舞台が舞台として認識されるための条件、演劇が上演されるための条件について、ここまで触れることができていないからです。それは、彼女たちの世界やこの映画から意図的に省かれているからかもしれません。
 一体それは何でしょうか?答えは極めてシンプルで当たり前のもののはずです。

 それはおそらく観客の存在、そして観客からのまなざし(「演劇の支持体は『まなざす』ことにあります。」ムニ『忘れる滝の家』*9当日パンフレットより)だと思うのです。 
 

ここまでのまとめ

 ここまでの前半では、映画の中での出来事に集中して考えを進めてきました。
 後半では、単なる映像を「歌劇/レヴュー」たらしめる観客とこの作品/出演者との関係、そしてその関係を密かに、ただ幾度となく主張する演出の妙について考えていけたらと思っています。

 

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(後編) - Trialogueに続きます。

*1:もちろんレヴューにも基盤=支持体は必要です、このことについては後編で言及します

*2:代表作:『夕鶴』『子午線の祀り』(2021年 2月観劇記 - Trialogue)など

*3:代表作:『福島三部作』(2021年 2月観劇記 - Trialogue)など

*4:それを考慮すると『シン・エヴァンゲリオン』は親子葛藤(第1層)を壮大なSF的設定(第2層)を経て到達した、エヴァンゲリオンイマジナリーにおける「親子喧嘩劇」(第3層)で解決させるという荒技と言えるかもしれません

*5:さらに舞台という自由を確保された器がある

*6:メタシアターと呼びます

*7:ただしドラマトゥルギーの観点にたてばあらゆる場面は劇的であるとも言えます、詳しくは後半で

*8:スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』(2020年 8月 観劇記 - Trialogue)などは顕著です

*9:2021年3月 観劇記 - Trialogue

2021年5月 観劇記

 

はじめに

 季節は夏真っ盛りですが、仕事がなかなか忙しく、今更5月の観劇記になります。

 もはや観劇体験を記録すると言うより、観劇の記憶を記録する形になってしまっていますが、せっかく始めたので内容の不正確さは承知でなんとか続けていきたいと思っています。

  これは余談ですが、当直の暇な時間を使って文章を書く精神科医という一つのステレオタイプにいざ自分がなってみると、何だか不思議な気分がしてしまいます。

5/15 彩の国シェイクスピアシリーズ『終わりよければすべてよし』@彩の国さいたま芸術劇場・大ホール

 歴史あるシリーズが完結するとのことで観劇しました。藤原竜也長澤まさみ吉田鋼太郎など名前だけで客を呼べる俳優陣の演技を生で観ることも楽しみの一つでした。
 今回の演目はシェイクスピアの中でも「問題劇」とカテゴライズされる作品で、『真夏の夜の夢』『ロミオとジュリエット』に代表される恋愛讃歌のイメージとは一味違っています。

 この作品でも孤児ヘレンと公爵貴族のバートラムという身分違いの恋、という題材は共通しています。しかし、最大の違いは、この結婚が王や両家から望まれたものである(社会的な障壁はない)こと、バートラム個人はヘレンのことを露とも思っておらず、王の不興を買ってまで結婚を拒否する(個人の感情の障壁がある)というという点です。
 この物語構造では、ヘレンはバートラムを「落とす」ことに集中します。しかし、その方法も個人の情念に訴えるものではありません*1。詳細は省きますが、ヘレンは社会的にバートラムが「自分と結婚する」と言わざるを得ない状況まで追い込み、その宿願を成就させるのです。

 長澤まさみの「自分を見ろ!!!」と言わんばかりの派手な演技が、他人の気持ちや状況をほとんど顧みず、バートラムと結婚するという目標に邁進するヘレンの態度とマッチしていて素晴らしいものに感じたのは意外でした。むしろこの熱量がなければ、ヘレンの自分勝手さだけが際立ち、後味が悪い結末となっていたかもしれません。
 藤原竜也のしょうもない男の演技も相まって、個人の感情が社会的な要素に圧倒されるという結末も「終わりよければすべてよし」と心の底から思える舞台でした。

 

5/16 新国立劇場・シリーズ「人を想うちから」Vol.2 『東京ゴッドファーザーズ』@新国立劇場・小劇場

 新国立劇場の主催公演ということで観劇しました。アニメ映画の舞台化、主演はTOKIOの松岡さん、助演にマキタスポーツとやや不安もありましたが華やかな物語を目撃することができました。
 心配していた演技面も気になる点はなく(こちらの解像度が低いせいかもしれません)、主演の松岡さんもドラァグクイーンかつホームレスという特徴的な役柄を上手く演じきっていたように感じました。
 しかし、引っ掛かる点が多かったのが脚本と演出でした。2時間のストレートプレイにしてはとにかく場面転換が多く、情報が飽和していた印象でした。そして、その場面同士をつなぐ役割の「偶然/奇跡」が安い形で連発されていて、途中で興が醒めてしまったのはとても残念でした。
 未見ではありますが、映画版では「場面転換」「奇跡の必然性」が映像の力で説得力あるものになってるのかなと感じました。
 ただ、こういう分かりやすく、別のジャンルのファンにも間口が開かれたこのような作品が、権威を帯びた劇場で上演されることそれ自体が意義深いのかもしれないなと思いました。

 

5/16 演劇集団Ring-Bong 『みえないランドセル』@こまばアゴラ劇場

 支援会員プログラムの対象であり、精神科医としても参考になると思って観劇しました。
 作品のあらすじは、簡潔に述べれば、「虐待された子が親になると子を虐待しやすい」という定説通りのものでした。その中で時より複雑性PTSD*2風味の苦しみや本人の知的/問題対処能力の低さが生む問題が描かれ、その中でも周囲の人間の有形無形のサポートを受けて親として回復していくという結末までストレートに進んでいった印象でした。

 物語は穏当で理路整然としており、演劇としては上手くまとまっていました。ただ、病的なレベルに達した人間の行動を、ここまでわかりやすい形で説明するのが本当に正しいのか疑問に思う面もありました。この感想は、精神病圏のような「わからないもの」の存在を前提として臨床にあたる精神科医と、神経症圏という「わかるはずのもの」だけを対象とするゆえに「わからない」ものを認められない臨床心理士(アフタートーク信田さよ子さんでした)の違いかもしれないなと感じました。
 また、当事者の回復過程も「傾聴して解釈はするが、サイコロジカルトークはしない」という東畑開人の『平成のありふれた心理療法』そのもので、前時代的なものを感じてしまったのも事実です。
 ただ、こういう出来事が世の中には多い、ということが2時間のパッケージという形で綺麗にまとめられたことの意義は少なくないとも思いました。この先を考えるのは観客の私たちの仕事なのかもしれません。
 
 ちなみに発達障害バブルも落ち着いた今、次に来るのは境界知能バブルか複雑性PTSDバブルなんじゃないかと思っています。その中でも、主観によって「自己診断もどき」ができてしまう後者の方が流行るのだろうなと正直少し憂鬱な気分になっています。

 

5/23 ゆうめい『姿』@東京芸術劇場・シアターイース

 一昨年の初演が素晴らしかったため友人も誘って観劇しました。
 コロナのご時世を穏当に反映したり、母方の人物の描き方が少し柔らかくなったりなど細かい修正はあるものの、物語の大枠はほとんど変わっていない印象でした。
 しかし、面白かったのは作品から受ける印象が、「家族を探求し、時に糾弾する」という厳しいものから「人間としての家族に寄り添う」という優しいものになっていたことでした。
 そして、この変化の原因となったのは、観客である自分の変化なのかもしれないなと思いました。
 『姿』の初演後、「ゆうめいの座標軸」、特に『弟兄』を観たたこと、初演の時にはマイナーで「わからない」ものだったVTuberや『ウマ娘』がある程度の市民権を得ていることを知っていることなど、知識レベルでの変化ももちろんあります。しかし、さらに大きいのは自分が約2年間生きる中で自分や周囲の人間関係が否応なく変化したことが受け取り方に大きく左右したのだと感じました。
 そのような体験も込みで、2回目の鑑賞を深く楽しむことができました。

 ちなみに衝撃的だったのはアフタートークです。詳細は省きますが、「流石に脚色だろ」、と思っていたこと(包丁を持ち出した話や、母が本当に「次のステージ」を目指していることなど)が現実だったことが家族から直接語られます。ここまで台本、という可能性は否定できません。しかし、この虚実が渾然一体となり、幻惑されるような感覚も演劇の一つの魅力だと思うのです。

5/29 ひなた旅行舎『蝶のやうな私の郷愁』@こまばアゴラ劇場

 支援会員プログラムで観劇しました。

 「人生色々あった後」の夫婦のやや気怠げな、しかししっかりした関係が細やかなタッチで描かれていました。「色々」の内容も断片的には示されますが、明確にならない分、今ここの2人のすれ違いや愛情が際立って感じ取ることができました。
 ミニマルな小道具や舞台装置も含め、全体的に「大人のための」舞台といった印象でした。「色々ある前」の自分にはまだ感じ取れない部分もあると感じたので、もっと大人になった時にもう一度観たいと感じました。

5/29 小松台東『てげ最悪な男へ』@三鷹市芸術文化センター・星のホール

 前作『シャンドレ』が面白かったため観劇しました。劇団員が中年男性だけということもあり、前作は大人の男の情念やしょうもなさが丹念に描かれているのが興味深かったのですが、今作はそれ以上の深さを感じさせつつも、意表をつく企みに溢れた素晴らしい舞台でした。

 

 キャッチコピーは『てげ男運のない私だけど、てげ好きな男がまた出来た。
てげ幸せになりたい次こそは。』で、事前に提示されるあらすじは「(前略)だから女はまた恋をする。“次こそは”と期待を込めて。そうして新たに出会ったのは都会から越してきたという男。女は惹かれる。かつてないほど恋に溺れる。ようやく幸せを掴んだかに思えたその時、てげ最悪な男の姿が剥き出しになる。」というもの。
 このように観客は、「女がダメ男に引っかかり続け、破滅する」という「よくある」ストーリーを想像するように観劇前から誘導されています*3

 

 前半はそのイメージに違わず、悲惨な家庭環境で育ち、恋に恋するようになる主人公の姿が描かれます。
 主人公の女子中学生は、父は不倫相手と密会中に火事で死亡、母は暴力的でモラハラチックな男にまとわりつかれるも断れず、酒に溺れてそのストレスを娘にぶつけているという悲惨な環境の中で育っています。唯一頼れて自分のことを大切にしてくれるのは、死んだ父の弟だけで、それ以外は皆「てげ最悪な人」たちという厳しい状況です。
 そんな中、学校で初恋の相手を見つけ、恋に落ちますが、相手方の反対や、モラハラ男の闖入によってなかなか成就しません。ついに成就した果てには、思わぬ形で妊娠が発覚し中絶を強いられます。本人は中絶したことに関して酷く思い悩みますが、相談に乗ってくれる人はいません。そして、ある日、母がモラハラ男に刺されて死ぬという追い討ちをかけるような出来事で前半の幕がおります。
 そんな厳しい設定を妙なディテールとユーモアで暗くなりすぎず観せるのは流石だと思いましたし、ユーモアを一手に引き受ける叔父の存在が頼もしく感じられた観客も多かったと思います。

 

 そして後半は、主人公が成人した後での、前述した「あらすじ」通りの展開が描かれます。主人公は叔父と共同生活を始めますが、叔父は父権的に振る舞い、主人公を束縛する場面もあるものの、生活は安定しているように見えました。

 その傍らで、主人公はダメ男に引っかかり続け、また新しい男を見つけます。この男も、東京から逃げてきたが詳細は語れないという何やら訳ありな男。そんな中で、母を殺した男の娘との対話などを通して、主人公自身も訳ありな過去を自覚している以上に気にしていることに気付きます。そんな2人はお互いに「昔よりもこれから」と言い、詳しい事情を話すことなく交際を始め、婚約までいたります。

 

 ここまであらすじ通りとなれば、残りは「てげ最悪な男」の姿が剥き出しになるのを受け止めるだけと心の準備をしていても、一向に相手の闇は見えてきません。
 予想に反し物事はトントン拍子に進みますが、10年以上同居する叔父に結婚の報告をした時、ついにその瞬間が訪れます。

 叔父は、主人公に対する恋愛感情をぶち撒け体の関係を迫り、断られるやいなやこれまでの恩を着せるように逆上したのです。「てげ最悪な男」は叔父であり、過去を隠すフィアンセではなかったのです。

 

 これには頭を殴られた気分でした。自分自身が持つ「過去に何かやらかした」人間に対して無意識的に持っていたバイアスが明確に自覚される瞬間は今も明確に覚えています。
 以前に「演劇で叙述トリックは難しいのでは」と述べましたが、その試みは内容面でも効果を発揮する最高の形で成功していると感じました。

 また、本人が気に病む「訳ありな過去」は親が2人とも死んでいることでも、母が殺されたことでもなく、妊娠中絶をしたことである、ということが最終盤で明らかになります。その際も驚きとともに自らの凝り固まった思考を自覚させられました。

 

 舞台はこれで終わらず、主人公達が家を出て行くシーンに移ります。「てげ最悪な」叔父は二人の幸せを祈り、シーガイアのペアチケットを手渡し主人公は「ありがとう」の一文だけを記した手紙を「てげ最悪な男へ」手渡すのでした。

 

 内容形式ともにとにかく素晴らしく、今のところ上半期ベストに近い観劇体験でした。次の作品も今から楽しみです。

 

5/30 NAPPOS PRODUCE『容疑者χの献身』@シアター1010

 キャラメルボックスの十八番的な演目が、ほぼ同じ座組みで上演されるとのことで観劇しました。
 超有名作の舞台化で、ほとんどの観客はトリックも結末も知っている中、彼らの掲げる「人が人を想う気持ち」を軸にすることで新しい体験を提供できていたと感じました。前作『かがみの孤城』と異なり、2時間という上演時間と原作の内容が釣りあっていて適切な濃度になっていたのも好印象でした。
 今年12月にはついにキャラメルボックスも復活するとのことで、今からとても楽しみにしています。

 

 

*1:結婚を嫌ったバートラムは初夜を断りひとり戦地に向かってしまいます

*2: https://www.rcpsych.ac.uk/mental-health/translations/japanese/post-traumatic-stress-disorder

*3:詳しくは公演ページをどうぞ https://mitaka-sportsandculture.or.jp/geibun/star/event/20210521/

2021年4月 観劇記

 はじめに

 4月からは 首都圏の精神科病院にて精神科研修を無事始めることができました。仕事を始めて数ヶ月ですが、観劇はもちろん、これまでの人生で得てきた文化資本を総動員して臨床にあたることができるのは楽しいなと感じています。

 3月中にコロナワクチン接種を完了したこともあり、4月もいくつかの作品を観ることができました。

 月末の緊急事態宣言でやしゃご『てくてくと』、ロロ『いつ小(略称)』が飛んだのは残念でした。特に『てくてくと』では「発達障害バブル」とも揶揄されるこの状況でいかに発達の凸凹がある当事者を描くのか興味があったのでなおさらでした*1

4/4 グループ・野原『自由の国のイフィゲーニエ』@こまばアゴラ劇場

  支援会員プログラムに入っていたため観劇。
 東ドイツの劇作家フォルカー・ブラウンが1992年に著した作品とのことで、相当政治的なのだろうと思っていたが、思ったよりも抽象的な舞台で驚いた。
 全ての社会・政治的な言説はギリシャ神話をリファレンスする形(オレステスに強制的に解放されたイフィゲーニエと、“民衆“や国際社会によって“解放”された東ドイツを重ねるなど)で比喩的に行われ、その真意を全て知ることは同時代性がないと難しいものだろうと感じた。ただ、当日パンフレットや彼らのWebサイト(

groupnohara3.wixsite.com)

で意図は説明されており、置いてきぼりにされることはなく楽しむことができた。
 また、演出・演技自体もかなり先鋭的な印象を受けた。特に、第一幕『鏡のテント』は顕著で、セリフはほとんど聞き取れない中、緑色の照明の中登場人物が苦しむ姿をひたすら提示されるなど、ただでさえ抽象的な戯曲の中身が抽象的な演出に覆われてあまり伝わってこなかったのは心残りだった。
 ただ、もちろん忠実に上演することだけが全てではないと思うし、制作者の方々の思索や格闘の跡をしっかり目撃することができたので十分満足できる体験だった。

4/4 ゴジゲン『朱春』@ザ・スズナリ

  前作『ポポリンピック』が印象的だったため観劇。

 上手くいかないクリエイターを主人公に据え、実際は何も問題が解決されない/破綻するが、心持ちの問題に還元して現状を肯定するというメンタリティは、ゴジゲンのメンバーの一人が主催する劇団献身『知らん・アンド・ガン』と共通していたように感じた。宇野常寛の述べるところの「ヒッピー・サブカル」の思想(世界は変わらないから世界の見方を変える)とも通底しているかもしれない。

 ただ、「しょうもなさ」も売りにできる芸人を主人公に据えたり、しっかりモラトリアムの終わり、そして希望に満ちたその始まりを同時に描くことで、「売れないけどいっか」という現状肯定に留まっていないのは大きな違いだろう。時間軸の使い方自体は部活ものや親子ものでよくあるものではある*2が、その楽観的な見方に説得力を持たせるものだったと感じた。
 前向きで分かりやすいが浅くはない、という丁度いい塩梅の舞台で、破天荒な『知らん〜』よりも好みだった。

 ただ、「好きなら良いじゃん」という客観性の欠如は前作『ポポリンピック』とも通底しているし、こういった作風の作品を仲間内で作り合っている点には不健全さも感じた。
 作劇者はかなりの才覚があり「好きなこと」で成功しているようだが、大体の人はそのような才覚はないことを自覚し、こういった作品に影響されすぎないようにすることも大事かもしれない。

 

4/10 ハコボレ『世別レ心中』@花まる学習会王子小劇場

 落語と演劇の融合という物珍しさに惹かれて観劇。
 古典落語の『鰍沢』を演じたのち、それを題材にして一人芝居をするという企画。演目は変わるものの、同じ表現手法を続けているとのことであった。
 笑うために来ている(=ある程度協力的である)観客の存在を前提として、空気を動かし、駄洒落レベルの「なんてことないこと」で観客を楽しませるのが落語の技法なのかもしれないと感じた。ただ、その作為性や侵襲性は、演劇的なもの(対話性や相互性)とは相容れない部分もあるように思えた。
 演者が自覚を持ち、技術を培っていけば、その作為を観客に悟られることなく巻き込むことができるのだろうが、今回はそのレベルに至っていなかったと感じた。
 表現手法としては面白い点も多々感じたので、今後の作品もチェックしていこうと思った。 

4/11 新国立劇場・人を想うちからVol.1『斬られの仙太』@新国立劇場・小劇場

 新国立劇場の今年のシリーズテーマは『ひとを想うちから』。日本の作品を3作選んで上演する企画とのこと。
 一作目となる本作は、幕末の水戸藩を舞台とした4時間超の大作。激動の時代を各々の信念(それは”個人/民衆への想い“だ)を貫きつつ行動し、時に対決する姿が印象に残る舞台だった。
 個人的に歴史物には苦手意識を持っていた(演劇だけでなくドラマ・小説でも、何に集中すればいいのかわからないのだ)が、銘打たれたテーマのおかげで鑑賞の軸が定まり
楽しく観ることができた。
 デタッチメントとコミットメントの間で揺れる主人公の姿を適切な熱量で演じた伊達暁さんの演技もとても印象的だった。
  

4/17 カクタラボ『明後日の方へ』@小劇場・楽園

 お気に入りの劇団の新企画とのことで観劇。
 劇団の若手が2人1組となり計5編の短編を上演する企画で、バラエティに富んだ作品を楽しむことができた。コント的な勢いを持ったコメディ調の作品が多かったが、その中でもしっかり感情や思考にフォーカスする瞬間があるのが印象的だった。本公演でヘビーな作風をこなしている賜物かもしれない。
 どの作品も面白かったが、特にコント版『熱海殺人事件』とも言える「海辺の二人」が妙な熱量に押し切られ、マスクの下でずっと笑っていた。 

4/18『ポルノグラフィ』@神奈川芸術劇場・中スタジオ

 去年から楽しみにしていた舞台だったので観劇。
 ロンドンオリンピック招致決定前後の日々を描くこの作品をはじめとして、オリンピックに合わせた形で挑戦的なプログラム(真の多様性を示す『虹む街』、ザハ・ハティドを題材にしつつ犠牲となったものの声を描く『未練の幽霊と怪物』)を組んでいるのは素敵というほかない。

 ロンドン同時多発テロの犯人のような極端に暴力的な形に至らずとも、その種のようなものが我々の中に潜んでいること、そしてそれらの一部は些細なきっかけで「黄色い線」を越え行動として現れてしまうことが淡々とした筆致で描かれていた。
 その中でやはり印象的なのは「黄色い線」を越えた=「潜んでいた感情を行動に移した」ことで、孤独に風穴を開けた老婆のエピソードだろう。その他の陰鬱*3なエピソードが「感情の発露や人間の相互作用は基本的にいい結果を産まない」という印象も残しうる中で、このエピソードを最後に据えることで、明るい後味の舞台に仕上げたのは御時世の影響も大いにありそうだと感じた。

 これは余談だが、原文でも「黄色い線」がyellow lineと表現されているのだとしたら、テロのように絶対超えてはいけない一線をred lineと呼ぶこととの関連もあるのかなと思った。

 

 

 

*1:『ののじにさすってごらん』で目立っていた人間の弱者性を強調する描き方がされていないといいなと思います

*2:ウェルダースオリジナルのCM「今では私がおじいさん、孫にあげるのはもちろんヴェルタースオリジナル。なぜなら、彼もまた特別な存在だからです 」と言えば分かりやすいか

*3:まさに「地獄のようなイメージ」だ

2021年3月 観劇記

 

はじめに

 3月も引き続き精神科でした。無事初期研修も終え、2021年度からは首都圏で精神科専攻医としての研修を始めることとなりました。コロナウイルスワクチンの副反応でダウンし、予定していた作品が観られないなどのトラブルもありましたが、3月も多くの作品を観ることができました。

 このシリーズは研修医の頃の思い出を記録する目的もあり書いていたのですが、今振り返ると、東京に戻ってきて本格的に演劇を見始めてからというもの、様々な作品を観ることができた恵まれた2年間だったなと思います。

 研修医は忙しい(4月からは『泣くな研修医』なんてドラマが始まるそうです)なんてよく言われますが、2年間で111本の観劇と確かに忙しくも楽しい日々を過ごすことができました。4月からも公私ともに楽しく過ごせればと思っています。

 

3/3 MONO 『アユタヤ』@あうるすぽっと

 前作、『その鉄塔に男たちはいるという+』を予約していたもののコロナの影響で観劇できなかったため観劇。
 江戸時代のタイの日本人街を舞台とした、いわゆる「辺境のユートピア」もの。この系統の作品はユートピアを求めざるを得なかった人間の姿や、「辺境」の中で「中心」ができていく過程、そしてユートピアの虚構性がその崩壊をもって描かれるのが定石のように思える(演劇ではKAKUTA 『らぶゆ』、小説では村田沙耶香『地球星人』など)。
 ただこの作品では、どれも徹底されておらず、当日パンフにもある「甘さ=ヌルさ」を感じさせられた。
 すでに彼らはタイに渡って、共同体は形成されており、彼らが日本を離れなければならなかった詳細な過程は描かれない。日本の身分制度を引きずる形でヒエラルキーが形成されており、そこに対する反抗の形も日本と同じ「世直し」になっている。
 放火や現地政府からの迫害など、「ユートピア」を崩壊へ追い込む要素は散りばめられているものの、具体的な崩壊の過程や瞬間は描かれない。
 彼らがカンボジアに向けて出発する最終盤に至り、闖入者であったショウエモンが「また癇癪を起こしてみんなに迷惑をかけるといけないから」と言って共同体からの離脱を試み、対話によって引き止められるシーンが描かれる。ただ、ショウエモンの葛藤があまり描かれてこなかったため、あまりにも唐突かつ説得力に乏しい印象を受けた。数分の簡単なやりとりで翻意してしまうのもよりその軽薄さを際立たせていた印象を受けた。
 つまり、場所としての「ユートピア」は崩壊するが、(ほぼ)同じメンバーで旅を続けるという共同体としてのユートピアはその軽薄さを見せつけた上で存続する、という曖昧な結末になっているのだ。
 もちろん、日本人の現地人に対する態度など、社会批評として機能している部分もあった。ただ、倫理的であることを志向するのであれば、「ズレた」侍が取り残される、という誰か一人を貶めるというオチで笑いをとりにいくのは矛盾していると感じ、その面でも中途半端に思えてしまった。
 30年もやっている劇団とのこと、流石にこれが筆力の限界ではないと思うので、「甘さ」がない本気の作品をもう一度観たいと感じた。

 

3/6 オパンポン創造社『オパンポン★ナイト 〜ほほえむうれひ〜』@こまばアゴラ劇場

 アゴラ劇場のプログラムに入っていたので観劇。死刑とマスコミリンチという重いテーマを扱っているが、基本的にはコントの延長線上で、気づきや発見はあまり得られなかった。
 コント風の軽い笑いと重めのテーマ、というコントラストが好きな人はハマるだろうが、個人的にこの試みにのることはできなかった。ただ、こういった真面目な内容を扱うコントがテレビなどで大勢の目に触れることは有意義だと思うので、今後の活躍を期待したいと感じた。

 

3/11 FUKAIPRODUCE羽衣『おねしょのように』@東京芸術劇場・シアターイース

 引っ越しが思ったより順調に進んで暇になったため観劇。「妙ージカル」と称する音楽劇を上演する団体とのことだった。
 全体としては濃淡が少ない、いい意味での曖昧さがある作品で印象に残る作品だった。
 自分は認知症で介護されている老人とその死を、老人の世界に寄り添いつつダンスと音楽で表現されていると受け取った。体験することも、理解することもできず、言葉にも表されない世界を音楽と身体で冒険する1時間は前衛的ではあったが、十分に楽しめるものだった。

 

3/12 『いとしの儚』@ザ・スズナリ

演出の川名さんが主宰する劇団の前作『BLACK OUT』が印象的だったため観劇。
 和風伝奇モノという近年ではアニメや漫画で使い尽くされた感もあるテーマを、どう演劇として説得力ある形で表現するかを楽しみにしていた。
 博徒・鈴次郎と鬼が作りだした絶世の美女・儚のラブストーリーが描かれる。もちろんただのラブストーリーではない。儚は赤ちゃんの魂を持って生まれ、急激に成長するということ、そして生まれて100日経たない間に抱くと水になってしまうことの2つが物語のフックとなっている。

 前者の要素によって、鈴次郎からどれだけ酷い仕打ちを受けても儚が鈴次郎を慕い続け、関係と物語が継続することに説得力が生まれている。儚にとって鈴次郎は親のような存在であり、他の誰よりも尊重される存在であるのだ。
 しかし、そんな儚の愛を鈴次郎は受け入れることができない。鈴次郎は生きるために全てを投げ払い、その代償として博打の才能を手に入れている。母をも手にかけた鈴次郎にとって、儚の一途な感情を受け取り、更生することはこれまでの人生を否定することにつながってしまうのだ。さらに後者の要素によって、鈴次郎は儚と肉体関係を結んで他の女と同じように消化することもできない。

 最終盤までは、儚のことを大切に思いながらも、その愛を受け入れられず、儚を女郎屋に売り払うなど酷い仕打ちをしたり、その葛藤のために勝てない博打にのめり込み続ける鈴次郎の姿が哀切に描かれていて印象的だった。
 結末に関しても、鈴次郎は鬼となり、儚も消えてしまうという結果だけ見れば不幸なものに思える。しかし、その過程で鈴次郎は儚の気持ちを受け入れ、その儚を自らの命に代えても救おうとする。儚も鈴次郎に抱かれるまでその身を守り、自らの願いを鈴次郎に聞き入れてもらう形で命を散らしている。
 つまり、鈴次郎は過去の呪縛を乗り越え、主体として新しく生きる*1ことに成功し、儚も本人の望む形で生を終えることができている、という面ではいずれも極めて本来的(後述する『是でいいのだ』でも引用される概念だ)であり、最も幸福な結末と言えるのかもしれない。最後まで、いい意味での曖昧さを残した描き方が印象的な脚本だったと思う。

 演出に関しても、あえて幕間にメタフィクションを挟む*2ことで、本編の虚構性を観客に強調し、非現実的な設定に違和感を抱かせないようになっていたと感じた。

 もちろん主演の藤間さん(阿佐ヶ谷スパイダース『桜姫』の吉田の演技も強く印象に残っている。役柄も今作とかなり似ている気がする)の幼女から花魁までを違和感なく演じ分ける熱演がなければこの舞台は成立していなかっただろう。
 ハイレベルな脚本、演出、演技の相乗効果で、あっという間の2時間だった。

 

3/15 小田尚稔の演劇『是でいいのだ』@SCOOL

 前作『罪と愛』がとても印象的だったので観劇。「2011年3月の東京での出来事とカントやフランクルの思索との接続」という狙い通り、難解で我々の生活には無関係なように思える思弁を我々の慎ましい生活に適用する舞台であった。
 作中でたびたび引用される『それでも人生とイエスという』には、「死は(本来的な生き方を完遂するのに必要な)贈り物」とまで描かれており、「それでも震災にイエスという」ことは東北を舞台にしても可能であっただろうと思う。
 ただ、この類の言説は、強制収容所を経験したフランクルのように、当事者性がないと猛烈な批判を生みうるものであろう。そこを考慮したのか、2011年3月の東北の出来事でなく、東京の出来事について語り、内容も人の生死などではなく、学生時代からの引きこもりや将来を憂う就活生、離婚寸前のカップルなどの人生に起こった内面の変化が描かれていた。このように登場人物らはいずれも人生に行き詰まりを感じており、震災をきっかけとして、境遇を受け入れ、歩を進めていくこととなる。
 この点に関しても、「順調な人生」に震災が打撃を加えたが、それを受け入れて進むケースが描かれないのは一面的だと批判する向きもあるかもしれない。しかし、これも前述の通り、固着した価値観に基づく無理解な批判を避け、「震災を受け入れる」というテーマに集中するためだろうと感じたし、その試みは成功していたように思えた。
 震災から10年、多かれ少なかれ我々の人生に傷を残した日のことを改めて振り返るとともに、その日から引き続いて生きる私たちをまなざすとてもいい舞台だった。
 個人的は、自分が生まれ育った街*3でこんな素敵な芝居が観られるということも新鮮だった。

 

3/16 佐藤滋とうさぎストライプ『熱海殺人事件』@こまばアゴラ劇場

  前作『あたらしい朝』も印象的で、3月の中では最も楽しみにしていた作品だったが、期待にそぐわず楽しめた。
 あらすじなどはここで改めて述べないが、刑事-容疑者という「真実」を探り当てる関係を演出家-役者という虚構を作り上げる関係になぞらえることにより、あらゆる「真実」の中に潜む虚構性を暴き出すところまで射程を伸ばせているのは本当に素晴らしいと感じた。
 初めてのつかこうへい作品だったこともあり、派手な演出や大仰な台詞回しには驚いた。ただ、このように演劇の中の不自然さを露悪的なまでに主張するからこそ、一見すると「自然」な現実に対する挑戦が際立っていたように思えた。
 演劇初心者にとって、過去の名作を観る機会は貴重なので、今後もこういった場に参加していきたい。

3/18 宮﨑企画『忘れる滝の家』@アトリエ春風舎

  会員プログラムに入っていたため観劇。
 かなり抽象的な内容で、はっきりとした劇中の出来事は思い出せないが、意味を削がれた言葉や境界を削がれた空間がどこか心地良かったことだけは覚えているという不思議な体験だった。
 親子関係を軸として、人間的な時間/価値観を超えた存在(と人間の限界)をふんわりとしたタッチで描くのは12月に観た『老いは煙の森を駆ける』にも似通う部分があったように思えた。同じ劇団所属で同年代の作家ということで、劇団内での流行りということもあるのかもしれない。  
 ただ、こちらの作品は、人間の側にも眼差しが向けられていて、親と子はいかに関係を結ぶのか、その中で自我や子としての自覚がどのように生まれるのかという問いまで射程を持っているように思えた。
 思索そのものは明らかではないものの、その痕跡が色濃く残り、観るものも作るものも明瞭さに安住することをよしとしない(が完全に理解不能というわけでもない)深みが感じられて好みだった。

3/26 青年団リンクキュイ『まだなにもはなしていないのに・音響上演』@アトリエ春風舎

 前作、『景観の邪魔』が興味深かったため観劇。舞台装置の中から登場人物の録音した音声が流れる、という独特な形式であった。作家の部屋をそのまま再現したような空間も相まって、演劇というよりも現代アートの展示といった趣だった。
 コロナワクチンの影響で倦怠感が残っていた事情を差し引いても、セリフを聞き取れない場面が多く、表現内容と形式の組み合わせを楽しみきれなかったのは心残りだった。
 ただ、コロナ禍においても演劇を続けるための実験として、とても興味深く観ることができた。次作『ダイレクト/ネグレクト』は相当な気合いが入っているとのことで、今から楽しみにしている。
 

3/31 近藤企画『更地の隣人』@アトリエ春風舎

 こちらも会員プログラムに入っていたため観劇。
 災害を背景として、思い出や信頼、日常の喪失、服喪、そして喪明けが描かれていたように感じた。
 チラシからしててっきり震災関連と勘違いしていたので、想定よりポップな作品で意外な印象だった。弱さを常に滲ませつつも、暗くはなりすぎない脚本と演出で喪失を背景とした日常を描き、悪夢や誰に向けるでもない超短波放送などで隠しきれない過去/日常の綻びを描くという対比は見事だった。また、過去と現在のどちらに振り切って生きることもできない、複雑な感情を表現する近藤さんと折笠さん2人の演技も素敵だった。

*1:すぐに死んでしまうのだが

*2:鬼が殿様の邸宅に儚を助けにいった際の一幕が意図された演出ならすごいと思う

*3:劇場の階下ある玩具屋には小学生の頃ベイブレード欲しさに通ったものだった