2021年5月 観劇記

 

はじめに

 季節は夏真っ盛りですが、仕事がなかなか忙しく、今更5月の観劇記になります。

 もはや観劇体験を記録すると言うより、観劇の記憶を記録する形になってしまっていますが、せっかく始めたので内容の不正確さは承知でなんとか続けていきたいと思っています。

  これは余談ですが、当直の暇な時間を使って文章を書く精神科医という一つのステレオタイプにいざ自分がなってみると、何だか不思議な気分がしてしまいます。

5/15 彩の国シェイクスピアシリーズ『終わりよければすべてよし』@彩の国さいたま芸術劇場・大ホール

 歴史あるシリーズが完結するとのことで観劇しました。藤原竜也長澤まさみ吉田鋼太郎など名前だけで客を呼べる俳優陣の演技を生で観ることも楽しみの一つでした。
 今回の演目はシェイクスピアの中でも「問題劇」とカテゴライズされる作品で、『真夏の夜の夢』『ロミオとジュリエット』に代表される恋愛讃歌のイメージとは一味違っています。

 この作品でも孤児ヘレンと公爵貴族のバートラムという身分違いの恋、という題材は共通しています。しかし、最大の違いは、この結婚が王や両家から望まれたものである(社会的な障壁はない)こと、バートラム個人はヘレンのことを露とも思っておらず、王の不興を買ってまで結婚を拒否する(個人の感情の障壁がある)というという点です。
 この物語構造では、ヘレンはバートラムを「落とす」ことに集中します。しかし、その方法も個人の情念に訴えるものではありません*1。詳細は省きますが、ヘレンは社会的にバートラムが「自分と結婚する」と言わざるを得ない状況まで追い込み、その宿願を成就させるのです。

 長澤まさみの「自分を見ろ!!!」と言わんばかりの派手な演技が、他人の気持ちや状況をほとんど顧みず、バートラムと結婚するという目標に邁進するヘレンの態度とマッチしていて素晴らしいものに感じたのは意外でした。むしろこの熱量がなければ、ヘレンの自分勝手さだけが際立ち、後味が悪い結末となっていたかもしれません。
 藤原竜也のしょうもない男の演技も相まって、個人の感情が社会的な要素に圧倒されるという結末も「終わりよければすべてよし」と心の底から思える舞台でした。

 

5/16 新国立劇場・シリーズ「人を想うちから」Vol.2 『東京ゴッドファーザーズ』@新国立劇場・小劇場

 新国立劇場の主催公演ということで観劇しました。アニメ映画の舞台化、主演はTOKIOの松岡さん、助演にマキタスポーツとやや不安もありましたが華やかな物語を目撃することができました。
 心配していた演技面も気になる点はなく(こちらの解像度が低いせいかもしれません)、主演の松岡さんもドラァグクイーンかつホームレスという特徴的な役柄を上手く演じきっていたように感じました。
 しかし、引っ掛かる点が多かったのが脚本と演出でした。2時間のストレートプレイにしてはとにかく場面転換が多く、情報が飽和していた印象でした。そして、その場面同士をつなぐ役割の「偶然/奇跡」が安い形で連発されていて、途中で興が醒めてしまったのはとても残念でした。
 未見ではありますが、映画版では「場面転換」「奇跡の必然性」が映像の力で説得力あるものになってるのかなと感じました。
 ただ、こういう分かりやすく、別のジャンルのファンにも間口が開かれたこのような作品が、権威を帯びた劇場で上演されることそれ自体が意義深いのかもしれないなと思いました。

 

5/16 演劇集団Ring-Bong 『みえないランドセル』@こまばアゴラ劇場

 支援会員プログラムの対象であり、精神科医としても参考になると思って観劇しました。
 作品のあらすじは、簡潔に述べれば、「虐待された子が親になると子を虐待しやすい」という定説通りのものでした。その中で時より複雑性PTSD*2風味の苦しみや本人の知的/問題対処能力の低さが生む問題が描かれ、その中でも周囲の人間の有形無形のサポートを受けて親として回復していくという結末までストレートに進んでいった印象でした。

 物語は穏当で理路整然としており、演劇としては上手くまとまっていました。ただ、病的なレベルに達した人間の行動を、ここまでわかりやすい形で説明するのが本当に正しいのか疑問に思う面もありました。この感想は、精神病圏のような「わからないもの」の存在を前提として臨床にあたる精神科医と、神経症圏という「わかるはずのもの」だけを対象とするゆえに「わからない」ものを認められない臨床心理士(アフタートーク信田さよ子さんでした)の違いかもしれないなと感じました。
 また、当事者の回復過程も「傾聴して解釈はするが、サイコロジカルトークはしない」という東畑開人の『平成のありふれた心理療法』そのもので、前時代的なものを感じてしまったのも事実です。
 ただ、こういう出来事が世の中には多い、ということが2時間のパッケージという形で綺麗にまとめられたことの意義は少なくないとも思いました。この先を考えるのは観客の私たちの仕事なのかもしれません。
 
 ちなみに発達障害バブルも落ち着いた今、次に来るのは境界知能バブルか複雑性PTSDバブルなんじゃないかと思っています。その中でも、主観によって「自己診断もどき」ができてしまう後者の方が流行るのだろうなと正直少し憂鬱な気分になっています。

 

5/23 ゆうめい『姿』@東京芸術劇場・シアターイース

 一昨年の初演が素晴らしかったため友人も誘って観劇しました。
 コロナのご時世を穏当に反映したり、母方の人物の描き方が少し柔らかくなったりなど細かい修正はあるものの、物語の大枠はほとんど変わっていない印象でした。
 しかし、面白かったのは作品から受ける印象が、「家族を探求し、時に糾弾する」という厳しいものから「人間としての家族に寄り添う」という優しいものになっていたことでした。
 そして、この変化の原因となったのは、観客である自分の変化なのかもしれないなと思いました。
 『姿』の初演後、「ゆうめいの座標軸」、特に『弟兄』を観たたこと、初演の時にはマイナーで「わからない」ものだったVTuberや『ウマ娘』がある程度の市民権を得ていることを知っていることなど、知識レベルでの変化ももちろんあります。しかし、さらに大きいのは自分が約2年間生きる中で自分や周囲の人間関係が否応なく変化したことが受け取り方に大きく左右したのだと感じました。
 そのような体験も込みで、2回目の鑑賞を深く楽しむことができました。

 ちなみに衝撃的だったのはアフタートークです。詳細は省きますが、「流石に脚色だろ」、と思っていたこと(包丁を持ち出した話や、母が本当に「次のステージ」を目指していることなど)が現実だったことが家族から直接語られます。ここまで台本、という可能性は否定できません。しかし、この虚実が渾然一体となり、幻惑されるような感覚も演劇の一つの魅力だと思うのです。

5/29 ひなた旅行舎『蝶のやうな私の郷愁』@こまばアゴラ劇場

 支援会員プログラムで観劇しました。

 「人生色々あった後」の夫婦のやや気怠げな、しかししっかりした関係が細やかなタッチで描かれていました。「色々」の内容も断片的には示されますが、明確にならない分、今ここの2人のすれ違いや愛情が際立って感じ取ることができました。
 ミニマルな小道具や舞台装置も含め、全体的に「大人のための」舞台といった印象でした。「色々ある前」の自分にはまだ感じ取れない部分もあると感じたので、もっと大人になった時にもう一度観たいと感じました。

5/29 小松台東『てげ最悪な男へ』@三鷹市芸術文化センター・星のホール

 前作『シャンドレ』が面白かったため観劇しました。劇団員が中年男性だけということもあり、前作は大人の男の情念やしょうもなさが丹念に描かれているのが興味深かったのですが、今作はそれ以上の深さを感じさせつつも、意表をつく企みに溢れた素晴らしい舞台でした。

 

 キャッチコピーは『てげ男運のない私だけど、てげ好きな男がまた出来た。
てげ幸せになりたい次こそは。』で、事前に提示されるあらすじは「(前略)だから女はまた恋をする。“次こそは”と期待を込めて。そうして新たに出会ったのは都会から越してきたという男。女は惹かれる。かつてないほど恋に溺れる。ようやく幸せを掴んだかに思えたその時、てげ最悪な男の姿が剥き出しになる。」というもの。
 このように観客は、「女がダメ男に引っかかり続け、破滅する」という「よくある」ストーリーを想像するように観劇前から誘導されています*3

 

 前半はそのイメージに違わず、悲惨な家庭環境で育ち、恋に恋するようになる主人公の姿が描かれます。
 主人公の女子中学生は、父は不倫相手と密会中に火事で死亡、母は暴力的でモラハラチックな男にまとわりつかれるも断れず、酒に溺れてそのストレスを娘にぶつけているという悲惨な環境の中で育っています。唯一頼れて自分のことを大切にしてくれるのは、死んだ父の弟だけで、それ以外は皆「てげ最悪な人」たちという厳しい状況です。
 そんな中、学校で初恋の相手を見つけ、恋に落ちますが、相手方の反対や、モラハラ男の闖入によってなかなか成就しません。ついに成就した果てには、思わぬ形で妊娠が発覚し中絶を強いられます。本人は中絶したことに関して酷く思い悩みますが、相談に乗ってくれる人はいません。そして、ある日、母がモラハラ男に刺されて死ぬという追い討ちをかけるような出来事で前半の幕がおります。
 そんな厳しい設定を妙なディテールとユーモアで暗くなりすぎず観せるのは流石だと思いましたし、ユーモアを一手に引き受ける叔父の存在が頼もしく感じられた観客も多かったと思います。

 

 そして後半は、主人公が成人した後での、前述した「あらすじ」通りの展開が描かれます。主人公は叔父と共同生活を始めますが、叔父は父権的に振る舞い、主人公を束縛する場面もあるものの、生活は安定しているように見えました。

 その傍らで、主人公はダメ男に引っかかり続け、また新しい男を見つけます。この男も、東京から逃げてきたが詳細は語れないという何やら訳ありな男。そんな中で、母を殺した男の娘との対話などを通して、主人公自身も訳ありな過去を自覚している以上に気にしていることに気付きます。そんな2人はお互いに「昔よりもこれから」と言い、詳しい事情を話すことなく交際を始め、婚約までいたります。

 

 ここまであらすじ通りとなれば、残りは「てげ最悪な男」の姿が剥き出しになるのを受け止めるだけと心の準備をしていても、一向に相手の闇は見えてきません。
 予想に反し物事はトントン拍子に進みますが、10年以上同居する叔父に結婚の報告をした時、ついにその瞬間が訪れます。

 叔父は、主人公に対する恋愛感情をぶち撒け体の関係を迫り、断られるやいなやこれまでの恩を着せるように逆上したのです。「てげ最悪な男」は叔父であり、過去を隠すフィアンセではなかったのです。

 

 これには頭を殴られた気分でした。自分自身が持つ「過去に何かやらかした」人間に対して無意識的に持っていたバイアスが明確に自覚される瞬間は今も明確に覚えています。
 以前に「演劇で叙述トリックは難しいのでは」と述べましたが、その試みは内容面でも効果を発揮する最高の形で成功していると感じました。

 また、本人が気に病む「訳ありな過去」は親が2人とも死んでいることでも、母が殺されたことでもなく、妊娠中絶をしたことである、ということが最終盤で明らかになります。その際も驚きとともに自らの凝り固まった思考を自覚させられました。

 

 舞台はこれで終わらず、主人公達が家を出て行くシーンに移ります。「てげ最悪な」叔父は二人の幸せを祈り、シーガイアのペアチケットを手渡し主人公は「ありがとう」の一文だけを記した手紙を「てげ最悪な男へ」手渡すのでした。

 

 内容形式ともにとにかく素晴らしく、今のところ上半期ベストに近い観劇体験でした。次の作品も今から楽しみです。

 

5/30 NAPPOS PRODUCE『容疑者χの献身』@シアター1010

 キャラメルボックスの十八番的な演目が、ほぼ同じ座組みで上演されるとのことで観劇しました。
 超有名作の舞台化で、ほとんどの観客はトリックも結末も知っている中、彼らの掲げる「人が人を想う気持ち」を軸にすることで新しい体験を提供できていたと感じました。前作『かがみの孤城』と異なり、2時間という上演時間と原作の内容が釣りあっていて適切な濃度になっていたのも好印象でした。
 今年12月にはついにキャラメルボックスも復活するとのことで、今からとても楽しみにしています。

 

 

*1:結婚を嫌ったバートラムは初夜を断りひとり戦地に向かってしまいます

*2: https://www.rcpsych.ac.uk/mental-health/translations/japanese/post-traumatic-stress-disorder

*3:詳しくは公演ページをどうぞ https://mitaka-sportsandculture.or.jp/geibun/star/event/20210521/