『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(後編)

はじめに

 この記事は

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』について(前編) - Trialogue

の続きです。

 前半では、映画『レヴュースタァライト』について、その物語構造について検討しつつ、芝居という表現形式や舞台という場がどのような効果・作用を持っているかという点について考えました。

 言い換えるならば前半では、舞台上での出来事に集中して述べてきました。後半は、その舞台が観客に提示される「上演」という出来事から始めたいと思います。

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バミリ

上演形式の妙

Wi(l)d-screen baroqueという「私小説的演劇」、当事者性について

 ここで、第3層(心象風景を舞台とした私小説的演劇)のレヴュー、Wi(l)d-screen baroqueを取り扱うにあたって対比させて考えたいのが、ゆうめいの『姿』という作品です。

 ゆうめいは東京で活動する団体で、彼らは彼ら自身のことを「自身の体験や周囲の人々からの「自分のことを話したい」という声を出発点として、生々しくも多種多様に変化していく環境と可能性を描き、その後、表現によってどのように現実が変化したかを『発表する』までを行う」団体であると表明しています。

 彼らの上演する演劇は、そのコンセプト通り私小説的です。彼らの作品は、主宰する池田亮のいじめられ体験・同じ傷を負った仲間の交歓と別れ、そして加害者や生まれ育った街への怒りを高らかに叫ぶ 『弟兄』や、「今度両親が離婚するのでその話をします」というあらすじで、実父=物語の当事者が本人役で出演する『姿』など、いずれも物語の当事者性を押し出します。

 

 では、演劇において当事者性はどのような効果を持つのでしょうか?『姿』を例にして考えてみます。

 第2層(劇中)における言動は第1層(現実)を基にして再構成したと宣言されています。さらにこの作品に限っては第1層(現実の父)、第2層(父役の父)は物理的には同一です。

 そのため、観客は、第2層(『姿』という創作)で描かれる登場人物の内面や葛藤(表面化されない第3層)を、第1層(現実の人間)の出来事であると錯覚してしまうのです。

 

 もちろん、我々は第1層(舞台の外の現実)での出来事を知っていません。しかし、「当事者性がある」という宣言や、本人が本人役で出演するという出来事だけで、我々は目の前に提示された第2層が、第1層の出来事であるように感じてしまうのです。


 そして、第1層の出来事を知ったように錯覚した我々は彼らに感情移入し、「彼らの物語(第1層)」の続きを知りたいという欲望を持つに至ります。

 彼らにとって当事者性を主張するのは、深い没入や強い関心を惹く代わりに、どんな第2層(表現)も第1的(属人的)に解釈されるという代償を支払う行為と言えるでしょう。

 

 そして、そんな錯覚の場(スクリーン)となるのが、役/役者の肉体、そしてそれを我々が観た結果イメージとして残る『姿』なのかもしれません。


 逆に第2層(虚構性)が強い作品(SF作品などが顕著でしょう)ほど、第1層に我々の目線は届きません。つまり、第2層は我々の第1層への眼差しに対するフィルターとなっている、と言えるかもしれません。逆に言えば、第2層が薄ければ薄いほど我々の眼差しは第1層を直接捉えることとなります。


 そしてその仕組みは、第2層がほとんど描かれない『レヴュースタァライト』にて最も発揮されることとなります。この作品においては、第1層と第3層を重ね合わせることは、こちらの勝手な錯覚でなく、明確に演出と脚本で誘導された結果であるからです。


 そして第3層と第1層を見通す中で生じた、「舞台をおりた(=虚構を取り払われた=野生むきだしの)彼女たちの物語を知りたい・観たい」といった観客の欲望(おそらくトマトなど、キリンを構成する野菜として描かれています)こそが、再度第3層・wi(l)d-screen baroqueを出現させるのです。

 

 ちなみに、葛藤が第1層の出来事して描かれる見学前日のシーン(京都弁で「しょうもな」と言い放つシーン)が鮮烈な印象を残さないことも、第3層への欲望をかき立てているようにも感じます。

 

レヴューの観客は誰か?

 前半の最後で「この物語からは意図的に観客の存在が排除されている」と述べました。これはある意味で正しく、ある意味で間違っていたと言えます。

 第2層=劇中劇を直接観る観客は一切描かれません。そして第3層=レヴューは心象風景を舞台とした実演を伴わない舞台であるため、もちろん第1層の観客のまなざしは届きません。

 そもそもレヴューに観客は必要なのでしょうか?舞台少女たちにとってレヴューは内的葛藤を解決するための儀式で、誰かの目に晒す意義は乏しい物のようにみえます。言い換えるならば、レヴューは舞台上で完結しており、客席に開かれていないようにみえます。 
 つまり本来レヴューの筋書きの中に観客の介入する余地は一切ない、という点でも観客は排除されていると言えるかもしれません。

 

 しかし、「観たい」という観客の欲望がレヴュー/wi(l)d-screen baroque上演のトリガーになっているということがキリン自身によって劇中で述べられています。そういう面では、やはりレヴューにも観客が存在することになります。


 では、実際にレヴューを「観たい」観客=「観ている」観客は一体誰なのでしょうか?ここまで言えばもう迷うことはないでしょう。
 それは、「物語/キャラクターを観たい・知りたい」欲望を持ち、その欲望がレヴュー自体の私小説的構造によって、「レヴューを観たい」という欲望に置換された「私たち」そのものです。

 

 もちろん、ほとんどの場面において私たちの存在は意識されず、ましてや描かれることもありません。
 しかし、この作品の中で一度だけ、レヴューの外に観客がいること、舞台の外に客席があることを演者が自覚する瞬間、つまり私たちのまなざしが物語に介入する瞬間が描かれます。

 

演出の妙

一度きり、致死的なまなざし

 その場面は最後のレヴューである、愛城と神楽のレヴュー中に訪れます。(おそらく)神楽が帰国したことで、愛城は再度『スタァライト』の舞台に立ちます。

 その上演の様子がレヴューという形で描かれますが、愛城の調子はどこか狂っていて、観客がいることに気づいている様子です。そして、「舞台に立つのが怖い」と神楽に打ち明け、そのまま愛城は神楽と戦うことなく、突然倒れ込み死んでしまいます。これまでの愛城の内面は私たちのまなざしによって文字通り殺されてしまったのです。

 

 では、なぜ私たちの眼差しはそのような威力を持っているのでしょうか?この点に関して、フランスの映画監督、ブレッソン「カメラの前に立った時、身体はわたしのもので無くなり、如何様にも意味付けられ、切り取られる」と述べています。

 言い換えるならば、自分に向けられるまなざしを自覚する瞬間は、自らが何者であるかという点に関する自己決定権を失う、つまり自分が今まで抱いていた自己像を手放す瞬間なのです。そしてそれこそが劇中で華々しく提示される「ワタシ再生産」の最初のステップに他ならないのかもしれません。

 

舞台上でのワタシ再生産、演劇の支持体について

 ここからはこれまでの議論を踏まえ、「ワタシ再生産」というこの作品独特の言い回しについて検討します。

 

 第1層のところで述べたように、この物語は「目標としてきた他人との約束を達成した愛城が、他の生徒のように自らが立とうとする場所を自ら決め、新たな一歩を踏み出す物語」だと感じました。
 おそらくその変化は第2層=劇中劇『スタァライト』の上演中に起こってはいるのですが、その光景は第3層の「レヴュー」に置換されています。
 そしてそのレヴューでは、第3層を直接鑑賞できる唯一の観客である私たちのまなざしは、それだけで愛城を死へ至らしめる(=これまでの自己を放棄させる)ほどの威力を持っていたのでした。

 

 ここで参考となるのは、『皆殺しのレヴュー』で同じように訪れるレヴュー中の死が持つ意味です。このシーンは新国立歌劇団の見学に向かう際に、見学気分で覚悟が定まっていないクラスメイト達に対して、一人の生徒が糾弾する場面をレヴューとして描いています。

 そのレヴューの中で生徒達は皆殺しに(=第1層では喝破)されてしまいます。これは、これまでの自己を否定するという点で愛城のケースと共通しています。
 興味深いのはその後の展開です。皆殺しにされた彼女達は、自らその死体を眺め(第1層では過去の自分を反省し)、弔うよう(第1層では過去の自分に別れを告げるよう)にして新たな歩を進めていきます。これは第1層でも「新しい自分に生まれ変わった」よばれる出来事を、第3層では「死ぬ→生まれ変わる」と文字通りに表現する、かなりあからさまな表現のように思いました。これが「ワタシ再生産」の一面でしょう。

 

 では、前述のように「舞台に立つ理由も覚悟も決まっていなかった無邪気な舞台少女としての自分」を観客のまなざしの中で自覚した愛城は、どんな存在に生まれ変わったのでしょうか?

 

 矛盾しているように思われるかもしれませんが、彼女に新しい自己像を提示し「再生産」させたのもまた、舞台上の神楽のまなざしと、客席からの観客のまなざしではないかと思うのです。

 

 舞台上において、役柄を規定するものは一体なんでしょうか?セリフ、衣装、照明や音楽、大道具、さまざまな答えがあるかと思います。私はその中でも最も決定的なのは共演者と観客だと考えています。

 

 舞台上に一人で愛の言葉を叫んでいる女がいるとしましょう。

 その立ち位置を変えないまま、舞台上に他に誰もいない時、女の共演者が目の前に向かい合って立っていた時、男の共演者が目の前に向かい合って立っていた時、同じ共演者が背を向けて立っていた時、彼を物陰から覗いていた時、そこに我々が感じ取る関係は大きく異なるはずです。このように彼女の存在が持つ意味は共演者という他者との関係に大きく左右されます。

 そして、舞台をまなざし、その関係を感じ取った観客は、彼女がどんな人間であるかを解釈する、つまり観客なりの彼女の役柄を決定することとなるのです。

 誤解を恐れず端的に述べるならば、彼女が舞台に立ち続け、共演者と関わり、観客を拒否しない限り、常に新たな役柄が与え続けられる(再生産され続ける)と言えるのかもしれません。

 

瓦解するタワー、出現するバミリ

 ここからは、レヴューが上演される=観客のまなざしに晒されることによって、愛城の内面にどの様な変化が生じたのかを検討します。

 前半の記事で述べた通り、愛城が演劇に徹する理由は「神楽に舞台上で再会する」という約束を達成することだけです。愛城にとって演劇は目的でなく手段でしかありません。
 それでも、おそらく才能に恵まれていた愛城は、舞台に上がることが自分や観客にとってどの様な意味・効果を持つのか全く省察することなく、目的を達成してしまいます。
 
 そんな愛城の内面は、砂漠の中にそびえ立つ一本のタワーという形で描かれています。そしてこの映画は、(おそらく愛城が目的を達成し)タワーが崩壊する、つまり虚無だけが残される場面から始まるのです。
 印象的なのは、この冒頭の場面、タワーはTの字形のブロックに瓦解することです。この映画、特にレヴューの場面においてこのTの字のモチーフは頻回に象徴的に用いられています。

 

 では、Tの字が意味するものとは一体なんなのでしょうか。
 前述のように今作においてほとんどのレヴューは「本音の表明と対話→対決→決意と別れ」という流れを持っています。その最後の場面でTの字が何度も出現していることを見て、最後のレヴューまではT字路=わかれ道を意図した演出なのかなと思っていました。
 特に舞台エリートっぽい少女が文学少女っぽい少女に自決を迫るレヴュー(タイトルを失念しました)の最後のシーンはあからさまでしょう。

 

 しかし、最後のレヴューでTの字が地面(舞台上)に出現した時にようやくそのモチーフに思い当たりました。演劇、舞台上、Tの字といえば答えはシンプルです。それは「バミリ」なのではないかと思いました。やや専門的な知識なので、TV版などですでに説明されているのかもしれません。

 バミリは舞台上、役者や舞台装置などの配置の目安となるもので、×の字、Lの字、Tの字など様々な形があります(大体はビニールテープで作られます)。×の字は小道具、Lの字は机や椅子など移動させる舞台装置など各々特定の意味を持っています。そしてTの字のバミリは大まかに2つの意味を持っています。
 一つは演者の立ち位置の中心を示すバミリ、もう一つは「センターバミリ」と呼ばれる舞台の中心*1を示す(=そこが舞台であることを最も端的に示す)バミリです。
 どちらが意図されているのかは正直わかりませんでしたが、この立ち位置の中心/舞台の中心が劇中で何度か言及される「ポジションゼロ」なのかなと思いました。

 

 ただどちらにしろ、ラストシーンに至り、愛城の荒涼とした心象風景になんらかの目印が刻まれたことは間違いありません。前者の意味なら「自分の立つべき場所を見つけた」という解釈ができるでしょうし、後者であれば「自分が立つ場が舞台であると改めて認識した」=「まなざされる自分というアイデンティティを受け入れた」いう解釈になるでしょう。
 どちらにしても大きな変わりはありませんが、後者の方がより演劇論風な解釈に繋がるかもしれません。

 

 なぜなら、自分の存在が常に更新される場所である舞台に立ち、他者ががもたらす役柄の器として表現し続けるという覚悟が決まった人のことを我々は俳優と呼ぶからです。

 そして「俳優となる瞬間」は、観客という他者(観客)の一部(トマト)を引き受ける(体内に取り込む)瞬間なのかもしれません。

 これを踏まえると、この物語は「無邪気な舞台少女が女優として生きる覚悟を決める」物語とも表現できるのかもしれません。

 そんな俳優の性を端的に表したとある戯曲の一場面を引用してこのセクションの締めとしたいと思います。

 

 「だって、そういうことでしょ、撮られるって。撮り手のフィルターにかけられて、あたしがどんな人間か画面の中では全く意味を持たなくなって、好きなように切り刻まれて、あたしはあたしじゃなくなるの。あたし、まことさんのフィルターにかけられたかった…、あたしはあの瞬間のあたしの全てをあげたかった…!」
 「…あんた、まるっきり女優じゃん。つまんないこと言ってないで、素直に撮られたいっていいなよ。」
 少女都市『光の祭典』より

 

広がる物語


 ここからは彼女達の物語を日常を生きる我々に適用することを試みます。

 この試みは好き嫌いが大きく分かれる部分だとは思います。虚構を虚構のままとして楽しみたい人にとっては余計なお世話かもしれません。

 しかし、演劇が古代ギリシャ時代から観客に求められていた理由は、役者の内面やゴシップを知りたいという欲望を我々が持っているからではありません。演劇の本質は対決かもしれませんが、対決を観ることがが好きならボクシングやコロッセオでの剣闘でもいいはずです。

 それでは、登場人物が対決するプロセスである「演劇」を我々が観るという「観劇」の本質はいったいなんなのでしょうか?
 それは舞台上の出来事(を作り出す作家や俳優という他者)と客席の我々が空間や虚構を共有することで対話し(「演劇とは観客との対話だと私は考えている」谷賢一『アンチフィクション』より)、時には対決するというプロセスと言えるのではないでしょうか。そしてそんな体験を人間が2000年以上も求め続けた理由は、その体験を通して我々の人生がほんの少しでも変わる/再生産される*2ことにあるのかもしれません。

 そんな「レヴュー」のような関係が観客と作品の間で成立するということ主張するため、もう少しだけ考えを進めたいと思います。

 

現実でのワタシ再生産について


 まずこの動画をご覧ください。Eテレピタゴラスイッチで流された『ぼくのおとうさん』という1分ちょっとの曲です。

www.nicovideo.jp


 そして、一つの問いを立てたいと思います。「おとうさん」はこの曲を聴く我々にとって何者なのでしょうか?*3

 動画にもあるとおり、「おとうさん」はお父さんだけでなく、会社員、課長、通勤客、患者、生徒、通行人などさまざまな役割を帯びています。もちろん、私たちもさまざまな役割を背負ってきました。息子、娘、生徒、受験生、バイト、会社員…挙げればキリがありません。

 そして、その役割は「おとうさん/私」本人が決定しているわけではなく、周囲の人間との関係によって決定されます。そして「おとうさん/私」自身の振る舞いも、その役割に応える形で規定されることになれます。
 これは、舞台上で役柄が他者の言動や他者との関係によって決定されたことと似ている気がします。

 そしてその場面の全てを目撃/経験した私たちにとって、「おとうさん/私」が何者であるかを決定することは極めて困難です。
 これは、複数の舞台で同じ人が別の役柄を演じた時、その人が何者かを断じることが難しいのと似ている気がします。

 しかし、私たちはこれまでの議論を通して、そんな「おとうさん/私」を定義する言葉を見つけています。さまざまな役柄を、その場で積極的に引き受ける存在、それは「俳優」と呼ぶことができるのではないのでしょうか。
 そして「俳優」に役柄が付与される、つまり他者にまなざされる場(それは他者がいる全ての場=世界)を「劇場」と呼ぶことにも異論はないでしょう。

 

Theatrum Mundiについて


 この議論については、社会学者のゴフマンがドラマツルギー論という形で精密に理論化していますが、ここでは触れません。彼らが精密な理論を組み立てるずっと前に、劇作家達はその事実に気づいているからです。

 古代ローマの詩人ペトロニウスはTotus mundus agit histrionem.(世界は全て劇場)と残しています。
 そしてその言葉を自らの劇場に掲げたW.シェイクスピアはその作品の中でシンプルに物事を表現しています。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players;
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
 この世界すべてが一つの舞台、
人はみな男も女も役者にすぎない。
それぞれに登場があり、退場がある、
出場がくれば一人一人が様々な役を演じる、
 W.シェイクスピア,松岡和子訳『お気に召すまま』

 この考え方は中世ヨーロッパではTheatrum mundi (世界の劇場)と呼ばれ、ある程度の市民権を得ていたようです。

 

 ここまでの議論をまとめます。
 現代社会においても、我々はいくつかの役割を演じています。しかし、それは我々が能動的に選択できるものではなく、他者の存在があって初めて生まれものであり、”どんな役か”を判断するのも他者です。
 そして、舞台においても、役者がさまざまな役を演じます。しかし、役が舞台上の他者によって規定される以上、役者は自らだけで能動的に決断することができません。そしてそれが”どんな役か”判断するのも観客なのです。

 

舞台人の物語、『私たちはもう舞台の上』

 

 ことここに至ると、「俳優としての覚悟なく、約束によって劇場に引き摺り出された」舞台少女・愛城が葛藤する物語は「俳優(間主観的な存在)としての覚悟なく、出生という形でこの世界という劇場に投げ出された」私たちと対比することができるのではないでしょうか。

 そして劇中で舞台少女たちに幾度も投げかけられる「列車は必ず次の駅へ では舞台は? あなたたちは?」という問いは私たちにも有効な問いかもしれません。

 

 劇中で答えは示されています。「舞台は続かなれけばならない」(前述したように、舞台のルールは”Show must go on”です)、そして「舞台少女は次の舞台へ進まなければならない」。

 

 そうして辿り着いた舞台で愛城は俳優としての覚悟を手に入れます。

 そして、彼女と同じように、私たちも人生というショウを続け、他者と交わり続けることで、いつかどこかの舞台で、俳優としての覚悟を手に入れるのでしょう(「我々は現在、いまを<演じる>ことの呪縛」の中にいる。だがしかし、その呪縛を解き放つのも、いま、ここで<演じる>ことなのだ」 吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』)。
 そんな私たちに9人の女優たちは、カーテンコールで『私たちはもう舞台の上』と声をかけます。そして、この物語を目撃した私たちも知っているはずです。そこで行われる『ショウほど素敵な商売はない』と。

www.youtube.com

 

追記:この記事を構想した後、舞台少女心得という曲があることを知りました。この記事のほとんどはこの曲の歌詞にあるとおり「世界はわたしたちの大きな舞台だから」「私たちは生まれながら舞台少女」と要約可能です。全体を通して懇切丁寧に描かれている印象なので、演出の意味ほとんどはTV版などで明確に示されているのかもしれません。映画版だけを観た人の感想ということでご容赦いただければ!

*1:舞台はセンターバミリを中心に下手-上手に分かれます

*2:対話はお互いが影響し合うことを前提としたプロセスです

*3:子供番組に何ムキになってんの、という声もあるでしょう。権威を奉信するわけではないですが、この単純な歌詞を書いたのは東京藝大の教授、と聞くと印象が変わるかもしれません。