- はじめに
- 8/16 深夜ガタンゴトン『消え残る』@王子スタジオ1
- 8/18 スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』@こまばアゴラ劇場
- 8/27 東京夜光『BLACK OUT -くらやみで歩きまわる人々とその周辺-』@三鷹市芸術文化センター 星のホール
はじめに
8-9月はリハビリ科を選択しました。以前に読んだ『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』が興味深かったというだけのミーハーな理由ですが比較的楽しく過ごしています。
8月に入り、徐々に公演も再開されてきました。演劇やクラシックコンサートの入場制限が緩和されるというニュース*1もあり、これからも安心して多くの芝居を観られる環境が維持されると良いなと思います。
8/16 深夜ガタンゴトン『消え残る』@王子スタジオ1
これまで観劇したことのないカンパニーを観たくなり観劇。
『「新しい気づきのプラットフォーム」をコンセプトに、「現代社会で本音で生きる」を合言葉に』と社会派で少し大仰なキャッチコピーでしたが、看板倒れのように感じてしまいました。
作品のテーマは「嫉妬と覚悟」と明言されており、売れない口だけ俳優と同棲する後輩女子(舞台女優を目指していたが売れるためにAV女優へ転身)の同棲生活が描かれます。
しかし「覚悟」のあらわれとして選んだAV女優というガジェットは安直ですし、下ネタのインパクトに比して先輩の嫉妬と葛藤の描かれ方が弱く、既視感のあるシーンが続いてしまう印象でした。俳優志望や作演として売れない/選ばれない経験をした人はその感覚の前提を共有しているかもしれませんが、部外者には切実さが足りないように感じてしまいました。
少し辛辣な書き方にはなってしまいますが、演劇関係者の井戸端会議/傷の舐め合いレベルの内容を「新しい気づき」と宣言してしまうのは作者が「こんなことにすら気付いてませんでした」と自らの浅はかさを告白していることに等しいと感じました。
8/18 スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』@こまばアゴラ劇場
3月の『ウエア』が印象的だったスペースノットブランクの代表作とのことで観劇。
このカンパニーの公演は、オフィシャルのイントロダクション(
フィジカル・カタルシス|植村朔也:イントロダクション __ 小野彩加 中澤陽 / スペースノットブランク)が素晴らしいのであまり語ることはありません。
今回もステートメントは
『それは多様な選択ができるものとする。
それは躰の内在と外在から構築される。
それは作家のためだけのものではない。』
と抽象的。「それ」の指すものは「動作」ではないかと踏み舞台に臨みました。
イントロにあるように、提示されるのは単なる動作の連続がほとんどです。PHASE 4の"Music"を除いてはほとんど言語による情報提示もなされません。
しかし、1時間以上その動きを観ている私たちはそこに何らかの意味を見出してしまいます。動きが同期したり、身体がわずかに触れ合う瞬間に感情が揺れ動くこともありました。それは普段の演劇ではあまりにありふれていて見逃してしまうような身体の交歓であり、対話であるように感じました。その時感じた爽快感や”結末に辿り着いた感”が個人的*2な『フィジカル・カタルシス』なのかな、と思いました。
また、PHASE4とエンディングで流れる『フィジカル・カタルシスのテーマ』はテーマに触れつつも遊び心に富んでいて、ストイックさだけでない彼らの魅力を垣間見た気がしました。
8/27 東京夜光『BLACK OUT -くらやみで歩きまわる人々とその周辺-』@三鷹市芸術文化センター 星のホール
今年のMITAKA ”NEXT” SELECTION第1弾として観劇。この企画は、芸術監督が小劇場を回って”ピンときた”劇団を3つ選んで上演させるというもので、公共劇場らしからぬチャレンジングな内容が魅力的で毎年楽しみにしていました。
実家から徒歩圏内にあった関係で、小劇場系演劇に最初に触れたのもこの企画で上演されていたぱぷりか『きっぽ』でした。去年のゆうめい『姿』、犬飼勝哉『ノーマル』、第27班『潜狂』どれも面白く、ハズレがない印象を受けました。
さて、この作品はいわゆる「演劇の演劇」に分類される作品ですが、その中でも演出助手という一般の観客にとっては馴染みが薄い仕事を取り上げているのが新鮮でした。
そして、演劇を題材にし、癖のある人たちの人間模様を描くだけに留まらず、自意識の割に自信がなく、周囲に迎合してしまいがち、そして「上手くできてしまう」若者の葛藤や決意、成長が細やかに、切実に描かれていて好印象でした。コロナを背景として「この公演」にかける想いが強く描かれた上での、この作品のエンディングはとても見事だと感じました。この覚悟を見せた上で、次にどんな作品を観せてくれるのかが今から楽しみです。
また、メインテーマではないですが、コロナに対する十人十色の反応もリアリティに富んでいて、4月の混乱した雰囲気が強く思い出されました。
ここからはこの作品とは関係のない予測と勝手な願望です。
劇団・劇場・観客の数だけ”再開”があり、「演劇ができることについての演劇」が多いのも仕方ないのかもしれまんし、これだけのことがあれば話したくなるのも当然かもしれません。
しかし、こういった作品はメタフィクション的な飛び道具に頼らざるをえず、えてして結末も「それでも私たちは続けていく/生きていく」と似通いがちです。もう早い者勝ちの期間は過ぎようとしているように感じますし、極論を言えば観客にとって俳優や演劇関係者は知り合いでもない限り”どうなろうと知ったこっちゃない”存在です。観客が興味があるのは作品や思考なのであって、”演劇をしていることそれ自体”ではない、ということを忘れず、観客に甘えず作品を作って欲しいと思いました。そして今後はコロナを取り扱うにしても「コロナ禍と”演劇以外の何か”に関する演劇」を観たいなと感じました。