2020年 7月 観劇記

 

はじめに

 7月は訪問診療を行うクリニックでの地域研修でした。小劇場や映画館が多いエリアでの研修となり、当初はアフター5を楽しみにしていたのですが、この状況ではあまり楽しめなかったのが残念でした。

 

 6月に緊急事態宣言が解除され、演劇の公演も再開されました。ただ、当初は商業主義的な作品(クラスターが発生した『THE★JINRO イケメン人狼アイドルは誰だ!!』などは最たる例です)が多く、この状況下でなくても全く観劇する気が起きないようなものでした。

 しかし、そのような中でも興味深い作品が徐々に上演されるようになってきました。ルーティンワークとして、いくつかの作品の感想を残しておきます。

 

7/20 DULL-COLORED POP 『アンチフィクション』@シアター風姿花伝

 

 観劇を再開するにあたり、作品のテーマである「今の時代にどんな物語が可能なのか? コロナ禍の中、演劇は一体どんな物語を生きるべきか? 劇場とはどうあるべきか?*1」という問いはとても重要であると感じたため観劇。予想以上に素晴らしい作品でした。

 作品は、主宰・谷賢一が、作・演出・出演・音響・照明をこなすという徹底的な一人芝居の形式で上演されます。

 作品冒頭で「私(「演じる私」であり「書いている私」でないことを強烈に留意する必要があります)が語ることは全て本当であり、私が語ったことは全て本当になる。私は本当のことしか喋らない。フィクションを喋らない」と宣言されるように、序盤はコロナ禍という濃厚な現実を前にして物語が書けなくなった劇作家(「書いている私」)の懊悩*2がやや大袈裟に描かれます。  

 この時点では観客は、これは「書いている私」が実際に経験したことかもしれないと思うことができるかもしれません。

 しかし、徐々にファンタジックな方向へ物語は進み、鈴木福を名乗る怪しい男性が差し出すMDMAの亜種の手助けも借り、「演じる私」は死の象徴であるユニコーン*3に直面し、人生とは何かという問いに一定の答えを見出します。

 この作品の中で語られることは、もちろん「書いている私」「観ている観客」にとってはフィクションでしかありません。しかし、「演じる私」にとってはそれは紛れもない現実=「アンチフィクション」であるということが宣言され、それを受けて「書いている私」がそれでも物語を描き続けようとする姿が提示され、舞台は幕を閉じます。

 

 この作品で印象に残ったことは、物語、フィクションとは何か、なぜこの環境下で無効となる物語が多いのかという問いに対する作者の考えでした。

 作者は、本来カオスである自然状態に耐えることができない私たちが、それを理解しようと考え出した強い「だから」が物語の本質であると述べます。

 しかし、「通り雨に降られるようにして人が疫病にかかり、偶然に死んでいく現在、時として現実には「だから」がない、ということが強烈に示されてしまっています*4。そんな現実を目の前にし、作者は新しい「だから」を生み出す必要があるのだと述べています。

 

 もちろん、作中でも述べられるように、他者の物語に興味や共感、感情移入を抱くためにはある種の心理的な安全が必要であるから*5というのも理由の一つではありますが、それだけではないのだろうなぁと思いました。

 ちなみに、個人的には「アンチフィクション」を特徴付けているのは、解釈の余地はあるが反駁の余地はない、ということなのかな、と思っています。

 

 この作品を観てもう一つ考えたことは、作品がある、というアンチフィクションについてでした。もし、ある作品が、観客や作者が体験している現実と独立に存在しているなら、「面白い作品はいついかなる状況、誰が観ても面白い」となり、この作品中で語られるような苦悩は生まれないはずです。しかし、作品の意義、受け取られ方はその環境によって大きく変容していきます。言うまでもなく、それは作品自体が私たちの現実の中に存在しているからです。そして、その存在は私たちにとって突然、どうしようもなく(「だから」がなく)もたらされる物です。音楽はイヤホンを外せば、テレビはリモコンを操作すれば、本は閉じてしまえば、映画は電気が消えてしまえば、その存在から距離をとることができます。しかし、演劇を始めとした舞台芸術(ライブやコンサート、ダンスも含まれます)は他の現実と同レベルの確かさを持ってその場に存在し、観客は心身全てで作品と向き合い、反駁せずに解釈し続けることができます。それが自分が思う演劇の魅力なのかもしれないなと今は思っています。

 

 

7/27 屋根裏ハイツ『ここは出口ではない』@こまばアゴラ劇場

 今年度からこまばアゴラ劇場の支援会員になった関係で観劇。会員はアゴラ劇場+連携劇場での作品を原則無制限に観劇することができる制度の中、4月以来初めての公演となりました。

 年会費も3万円と一回公演が3-4000円することを考えると格安なことはメリットの一つですが、自分から探して予約しようとは思わない作品、よく観る作品とはテイストが違う作品との出会いとのハードルが格段に低くなるのが最大の魅力だと感じています。

 芸術監督の平田オリザさんが「作品が面白くないと感じても、なぜ面白くなかったのかを考えるのは面白い」と述べるとおり、作品自体の面白さと鑑賞体験の面白さはまた違ったところにあるのかもしれません。

 

 この作品は再建設ツアーと題され、過去2作品を再演する企画のうちの1作でした。当日パンフレットにもあるよう、小部屋での会話を屋根裏から覗き見るような作品でした。

 作品は何らかの災害*6を背景としていますが、静かな、方向性が薄い会話が大半を占めており、エキサイティングなものではありません。

 

 テーマは死者、喪失とどう向き合うかということのように感じましたが、明確な機転(「だから」)がなく「いたじゃなくて今もいる」という結論にたどり着きます。そもそも、死者役の生者が舞台上にあがり、生者役の生者と同様に扱われるという舞台構成が雄弁なこの作風であれば、結論を作中で言葉にせず、ふんわりと着地させてもいいんじゃないかとは感じました。独特の味わいがある作品で興味深く見ることができました。

 

7/29 屋根裏ハイツ『とおくはちかい(Reprise)』@こまばアゴラ劇場

 こちらも同系統の作品ですが、震災を背景にしていることが明確にされています。こちらは過去と向き合うか、といったテーマについてですが、「思い出すとかじゃなくてある」といった結論がやや唐突*7に明示されます。2作続けてみることで、このカンパニーに漂う空気感を少し掴めたような気がしました。

*1:公式HPより引用

*2:解題より引用:「恋に落ちたり、青春を燃やしたり、人生の選択に迷ったりする物語はどうしても今書く気になれない。現実で生きるか死ぬかをやってる時に、そんなことを長々と時間をかけて観客と語り合う気にはなれないのだ(演劇とは観客との対話だと私は考えている)」

*3:解題によると12-3世紀の中世ヨーロッパで実際に語られた伝説だそうです

*4:その状態をシェイクスピアを引用して『世界の関節が外れてしまった』と述べています

*5:個人的な考え(

テーマパーク的なるものについて (卒業によせて①) - Trialogue

)と同意見で膝を打つ思いでした

*6:このカンパニーは仙台出身だ

*7:なくしたと思っていた物が出てきたというエピソードに呼応する形はあります