2021年 2月観劇記

 

はじめに

 2月も引き続き精神科でした。仕事にも徐々に慣れてきて、事務的な面などで苦労することも少なくなってきました。慣れることと愚鈍になることの違いを意識しつつ、繊細なままで仕事をしていければな、と思っています。

 緊急事態宣言中の2月も比較的多くの作品を観ることができました。観客数制限により、民間劇場で思い切った公演が打ちにくくなっている中で、前回緊急事態宣言の時とは異なり公共劇場が頑張っているのが印象的でした。

 

2/7 FURUTAMARU. 『豚の砦 -Pig Fort-』@「劇」小劇場

  設定の面白さに惹かれ、1回きりの公演ということもあり観劇。

 『三匹の子豚』の主人公3匹の中年時代を描くというユニークな設定で、過去/老いとの向き合い方が、退治した狼の子供らとの対決などのエピソードを通じてユーモラスかつポップに描かれる。序盤は、社会の厳しさを知り悪い意味で大人*1になった長男・次男と、人生がそれなりに軌道に乗っており子供の頃の思い出もいい思い出として消化できている三男との対立が描かれる。

 彼らはは親の仇討ちに来た3匹の狼達が現れても対立を続ける。しかし、中盤から終盤にかけては、自分たちの姿を克明に記録する不思議な絵本がもたらす見栄によって団結し、狼を再び退治することとなる。

 狼退治の方法も、長男が藁、次男が煉瓦を使って狼を懲らしめ、三男も兄弟愛によって狼の謀略から逃れるというかなりご都合主義的なものだが、無理筋ではなく、暖かさすら感じるものだった。

 「人生の物語」の力はあるにしろ、中年の自己実現が過去の栄光となぞることで成し遂げられる構造は、老いにまつわる問題の先延ばしに過ぎないのでは、など深く考えるとスッキリしない点もある。しかし、そんな些事を気にさせないほど勢いのある舞台で楽しむことができた。

 キャスト陣では、ナレーターの篠原友紀さんの絵本の読み聞かせ然とした演技が、舞台上の中年俳優たちの演技を引き立てていたのも印象的だった。

 終演後の挨拶によると、今後はツアー作品として上演していく予定とのこと。大人から子供まで楽しめる舞台だと思うので、多くの人の目に触れることを期待したい。

2/11 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』@あうるすぽっと

 過去の戯曲を雑誌で読んで以来気になっていた劇団だったため観劇。

 「人間中心の演劇」ではなく「モノの演劇」を意図された上演とのことで、舞台上の様々なオブジェクトの質感や佇まいを前面にに押し出したものとなっていた。

 舞台上の俳優も、佇まいをモノにあわせようとしたり、モノに対して語りかける仕草をみせたりなど、「モノによる演劇」に留まらない「モノのための演劇」となっていた。

 この作品は金沢21世紀美術館でも展示の形で上演されたとのことだが、回遊などの方法である程度能動的に関わり方を決定できる美術館での展示と、客席という視点を固定されてしまう劇場での上演という違いがあるのかもしれないと感じた。

 作家の意図がより純粋に表現されているのは、より「関わりを持つ」ことができない後者なのだろうが、前者の方がきっと楽しかったんじゃないか思うのはまだ「人間中心主義」から抜け出せていないからなのだろう。

 そういった事情もあり、破格の現代アートとしては面白い面もあるが、演劇の上演としてはあまり面白くはなかった、というのが正直な感想だ。「人間に無関係な出来事」を傍観するのに時間とお金をかけるほど、人間は自分に無関心ではいられないのだ。

 

2/13 DULL-COLORED POP 『福島三部作 第一部 1961年:夜に昇る太陽』@神奈川芸術劇場・大スタジオ

 震災後10年間の6年を仙台で過ごした者として、震災演劇にも触れておきたいと思って観劇。第一部から第三部までどれも素晴らしい作品だった。

 原発と震災というテーマは一歩間違えればイデオロギーに傾倒し、観客/作家が「作家/観客も同じ意見を持っている」ことを確認し、間主観的に成立した「正しさ」に安住してしまう危険なテーマと言えるかもしれない。しかし、これらの作品全体を貫いているのは冷静な切実さと、切実さからくるほんのちょっとの遊び心というのが印象的で、作演出の谷賢一が福島生まれで原発の技術者を父にもつ、という当事者性を帯びていることを考えると驚異的なことのようにすら思えた舞台だった。

 描かれているのも原発の是非、というYES-NOで語られるようなシンプルなものではない。原発建設というリスクをなぜ福島の人々は取らざるを得ず、そのリスクを受け入れ続けたのか、そこにはどんな力学が働き、いかなる葛藤があったのか、といった解釈は可能だが反駁はできない光景が描かれる。

 詳しいあらすじは戯曲が出版されているためここでは述べないが、第一部では双葉町民が原発誘致を「決定」するまでの数日が描かれる。

 もちろんこの「決定」は自発的な物ではなく、第二部の言葉を借りるなら非本来的な選択をせざるを得ない状況に被投されたために行った「仕方のない」選択である。第一部でも「これは本当に自分たちで決めたと言えんのか。決めさせられたんでねぇか。目の前に札束ぶら下げられて、そうとしかならねえように、仕向けられたんでねのか」と述べられており、問題意識は第一部と第二部はある程度共有されているように思われた。

 その中でも第一部は、浜通りの人々が被投された状況や関係にフォーカスが当たっており、三部作の中では「社会派」よりで「政治的」、いわば叙事的な作品のように感じられた。

 もちろんこの作品一作でも十分楽しめる。招致の是非をめぐって繰り広げられる対話は苛烈で、十分にドラマチックであったし、2回繰り返される「おめは反対しねがった」のセリフも重い。無論田舎/父権主義的な世界-都会/「自由」な世界の対立を巡る若者の葛藤も切実さがあったし、そして、綿密な取材に基づいた「原発建設を推進する国家の暴力的な姿」にまつわる政治ドキュメンタリーとしても面白い作品と言える。

 しかし、この叙事的とも言える第一部が、第二部で描かれる人間個人のドラマを引き立たせている機能を持ち合わせているというのが素晴らしいと感じられた。

2/13 DULL-COLORED POP 『福島三部作 第二部 1986年:メビウスの輪』@神奈川芸術劇場・大スタジオ

 第二部では、社会的に大きな決断や事件が描かれることはない。チェルノブイリ原発事故は間接的に影響を及ぼすが、劇中の出来事として舞台に現前することもない。強大な国家権力は影を潜めているし、そもそも福島県外の人物は登場すらしない。

 そんな第二部では、第一部で描かれたような社会環境を前提として、忠という個人(実在した双葉町長・岩本忠夫をモデルとしている)の葛藤、転向を描くことにほぼ全ての労力が割かれており、その分力強い作劇になっていたように感じた。

 原発反対派のリーダー格であった忠が、なぜ原発容認派として町長選挙に立候補し、チェルノブイリの事故があっても原発を擁護し、「日本の原発は安全です」というお題目を唱えるだけの人間に成り果てたのか。そのねじれ、不合理さが演劇の虚構性や、突飛とも言える演出とも相まって痛烈に描かれていた。

 また、非本来的な判断をするダス・マン(世人)へと頽落する人間に対して、常に本来的とも言える動物的な生を生きる犬、モモの存在がさらに人間の不合理さを強調する、という構造も興味深く観ることができた。

 そして、そんなモモが発するからこそ、最終盤の「これが人間というもんですか!おらたちの声は、聞こえませんか?」というセリフは、ずっしりとした重さとやるせなさを伴って観客たる我々の心に強く残り続けるものになったのだと思った。

 

2/13 DULL-COLORED POP『福島三部作 第三部 2011年:語られたがる言葉たち』@神奈川芸術劇場・大スタジオ

 第三部では震災後の世界が描かれる。これまでの2作で、原発の存在は「私たち」が皆共犯者として加担していたことが痛いほどに示され、劇作家の谷賢一の特権のように思えた当事者性を観客は自覚しはじめているように思えた。

 そして、開演と同時に地震が発生し、原発は爆発する。「私たちの一部」は避難を余儀なくされ、放射性物質放射線の恐怖に怯える生活を始める。主題となるのは、彼らの苦悩それ自体であり、「私たち」がいかに彼らを扱おうとしていたのかという点で、テレビ局で繰り広げられる報道姿勢に関する対話は根深い問題を見事に抉り出していたように感じられた。

 

 その中で印象的だったのは、第二部の主人公で、「責任を取らせる」「謝らせる」にはうってつけの存在であるはずの忠を作家が何も語らせずに最終盤まで舞台に留め置いたことだった。それは安易な「解決」をプロットから排除しようとしたからか、認知症になり、実際何も語ることがなかったという現実のエピソードを参照したからか、そもそも「語られるべき言葉を持ち合わせていない」という作者の批評的な目線があったからなのかはわからないが、彼の存在が第三部の現実的な内容をより味わい深いものにしていた。

 

 ここからはより現実的な内容について少し述べようと思う。

 劇中でも描かれる放射能に対する異様な反応は、存在を目視することができず、定性的にも定量的にも正確な評価(放射線量は測定できるが、放射線の身体への影響は測定できない)もできず、影響が0か1では表せないアナログ的なものであるためリスクフリーという状況は実現し難く、リスクが現実のものとなった時のダメージが大きいといった要素が大きく寄与していると考えられる。

 昨今話題にのぼる病原体というリスク因子*2についても、ほぼ同じことが言える。そして、「民主主義とまじめな報道との相性が極めて悪い」という絶望的な状態は震災時から改善しないどころかより悲惨さを増しているような気がする。

 その状況において、劇中で語られているように「報道が正しいデータを出す」ことはもちろん重要で、議論の前提を共有する行為だと思う。しかし、科学という手続きは正しくあればあろうとするほど分かっていないことが浮き彫りになる性質がある。

 そして、データを解釈する個々人は概して「分かっていない」ことに耐えられず、「分かっていること」を無視し*3、短絡的な答えに飛びついてしまう。

 この状況に対しておそらく即効性のある対処はない。科学教育は有効であろうが、教育それ自体によって「分かっていること」「分かっていないこと」から生じる「合理的」な不安が消えるわけではない。どのようにしたら、人が不安を宥め、正しくあろうとし続けることができるのか、というテーマはとても大事なものだとは思うのだが、自分の中で答えを出すことがいまだにできていない。ただ、この「分かっていないこと」を考えるのは大変だが、とてもワクワクする行為なのだ。

 

 最後に、3作を通じた感想を述べる。

 戯曲のエッセイでも述べられているが、この作品の素晴らしい点は、政治的なテーマに触れつつも劇作家の演説に堕することなく、政治を生み出す人間の姿がひたすらフラットに、高い解像度で描かれていることだ。

 もちろん作家の問題意識は物語の進め方や題材の選び方を通して観客に共有はされるが、作家は答えを出すこともアドバイスすることもメッセージを述べることもしない。ただ、上演という「現実」を提示し、観客一人一人の思考を促し、それぞれの「答え」を導くのを手助けしている。

 このような作品を観ていると、作家が持つ観客への信頼をひしひしと感じて嬉しくなる。そして我々観客もそれに応え、安易に答えを求めることなく、しっかりと考え続けなければならないなと感じるのだ。 

 

 これは余談になるが、精神医療の現場でも「アドバイス」「指導」「教育」をすることは治療的効果を生みづらいとされていて、そのことを実感することも多い。

 本来そこにあるべきは「提案-合意」「相談」「対話」といった相互の関係であり、その根本には当事者に対する信頼*4が必要なんだろうと、この芝居を通して改めて信じることができた気がする。

2/23 新国立劇場演劇研修所第14期生修了公演『マニラ瑞穂記』@新国立劇場・小劇場

 久々の新国立劇場主催公演とのことで観劇。一昨年の「シリーズことぜん」がとても印象深く、主催公演はなるべく観に行きたいと思っている。

 1898-99年、独立運動に揺れるフィリピンの日本領事館を舞台とした群像劇で、人間関係としては、理想に燃え、マチズモを振りかざし、脆い虚栄を誇る男(軍人や女衒)たちと、現実的で独立心があり、真の強さを内に秘める女(からゆきさん)たちが対照的に描かれている。この描き方に関しては歌舞伎など日本の古典文学に通じるものを感じて興味深かった。

 一方で、この芝居が名作であると言われる所以であろう、国家を巡る思索や戦争の端緒を探る試みに関してはやや描き方が極端に感じたところもあってピンとくるところがなく、全体としては印象に残るところが少ない舞台だった。「政治の季節」を生きてきた世代にとっては刺さる作品なのかもしれないが、そもそも国家のイデオロギー的な面に興味を持っていない若者*5には普遍性を欠くローカルな内容に思えてしまったのかもしれない。

 

2/27 『子午線の祀り』@神奈川芸術劇場・大ホール

 KAATのプログラムを信頼しているため観劇(今作は世田谷パブリックシアター主催だが)。

 不朽の名作と呼ばれている作品のようで、大きな期待を抱いて観劇した。

 源平合戦を題材に、屋島の戦いの前から壇ノ浦の戦いまでが描かれているが、描かれる内容は「主戦論者」と「講和論者」との対立をはじめ、戦争ものとしては驚くべきところはないように感じられた。

 一方で表現の形式は面白く、壇ノ浦の戦いを潮目が左右したという史実から逆算したであろう宇宙的な視点や、群読と呼ばれる講談の発展系のような発話形式は印象的だった。40年以上前の作品とは思えない、新しさを感じさせる舞台だった。

2/28 しあわせ学級崩壊『幸福な家族のための十五楽章』@ウエストエンドスタジオ

 今までに観たことがないカンパニーを観ようと思い観劇。「ダンスミュージックのライブ演奏を軸として演劇を再構築」というコンセプトの面白さにも興味を惹かれた。

 まず特徴的なのがその上演形態。ミニマルなEDMに合わせて台詞が発せられるが、台詞自体に節がついているわけではない、というストレートプレイとミュージカルとの間のようなスタイルで、発話の内容・形式もストレートプレイほど自然ではないが、ミュージカルほど会話の成立に音楽の存在を必須としないもののように思えた。

 物語の内容も、複雑なストーリーの流れが存在するわけではなく、ある(非現実的な)シチュエーションにおける強めの感情の表出と対立がメインというのも興味深かった。

 今回はタイトルにもあるように家族にまつわる話で、父によって虐待されることでしか家族としてのアイデンティティを保てなかった13人の兄弟が、父亡き後にどのように共同体を再構築/離脱するのかという1点に絞り登場人物の対立が描かれている。

 13人は大まかに分けると、家族を再構築しようとする派閥と家族を解体し、新たな出立を志向する派閥に分かれる。前者は、一度家族から離脱した兄弟のうちの一人を共同体を破壊した主犯格と糾弾しつつも、新たな「父」として据えることによって以前と同じような共同性を構築しようとしている。それに対し後者は家庭が機能不全にあったことを指摘し、個として生きることを主張する。

 舞台の最終盤になり、後者の勢力が一旦は勝利し、家族は解体されて兄弟は家から出ていく。ただそこで物語は終わらず、ディストピア的な環境から抜け出せてよかったねという結末の代わりに、結局その試みは破綻し兄弟が家に戻ってくるという苦い終幕を迎えたのは意外性があった。

 うまく扱えば非常に面白いテーマだったと思う。ただ、登場人物が13人もいることでやや散漫な印象になった上、観客が持つ情報に比べて台詞が感情的にすぎ、説得力を感じられなかったのは残念だった。音楽も台詞から乖離しているように感じられ、説得力を増す作用を発揮できず、余計に台詞の軽薄さを際立せてしまった印象を持った。

 おそらく、これは脚本や演出の問題というより、客席の制約の問題であるように感じた。つまり、客席に座って鑑賞するスタイルでは音楽を「のる」のような形で肉体的に受容できないために、音楽に添えられた台詞も言葉だけの未消化な状態で解釈することになってしまった(そしてそれは知らないJ-Popの歌詞カードだけを眺めるにも似た無味乾燥な経験だ)ことが原因なのではないかと思った。

 少し狭い空間でスタンディングで観たら印象は大きく変わってくると思うので、コロナ禍が収まったら別の演目も観てみたいと感じた。

 

2/28 マチルダアパルトマン『すべての朝帰りがいつか報われますように』@OFF・OFFシアター

 過去作品も面白かったため観劇。戯画的な人物造形と設定、飄々とした言葉遣いの中にも切実な情念を忍ばせる油断ならなさは相変わらずで、今回の作品も楽しむことができた。

 この劇団のどこが好きか、と言われると明確な答えに窮する(無理矢理述べるなら「言葉によって劇世界や思考ががいろんな方向へ振り回されるドライブ感がなんとなく好き」だろうか)のだが、『ばいびー、23区の恋人』(2019年5月 観劇記)を観て以来お気に入りの劇団の一つだ。次回作も今から楽しみにしている。

*1:『中年とは責任転嫁するお年頃』みたいなナレーションがあった気がします

*2:病原体というリスク因子が引き起こす影響が感染症

*3:「分かっていること」を認識することは「分かっていないこと」を同時に認識させる

*4:自傷行為や触法行為などで完全に信頼するのが難しい場合もあるというのが問題をさらに難しくしている

*5:デジタルネイティブでありグローバルネイティブで、宇野常寛が述べるところのAnywhereな存在