1つの音楽、2つの態度、3つの視点、4つの関係(卒業に寄せて③)

 

はじめに

 この記事では、音楽が好きと感じるとは一体どういう事態なのかを考えていきたいと思います。まず、なぜこのテーマを選んだかについて説明させていただこうと思います。

 

 私は高校生の時分までさほど軽音楽に興味がありませんでした(ベースとギターの違いが曖昧なくらいでした)。しかし、大学でひょんな事から軽音楽部に所属し、数年間活動し、お気に入りのバンドもたくさんでき、そのライブに通うことも大好きになりました。

 

 しかし、その中でも何か言葉にできない違和感をずっと抱えていました。それは音楽が好きという感覚についてです。

 入部当時から、部活では、到底プロレベルではない演奏、好きでもない(もしくは知らない)曲のコピーに盛り上がる*1姿に馴染めないものの、これが音楽が好きということなのだろうと漠然と思っていました。

 さらに言えば、沢山の音楽を聴き、もっと上手に演奏するようになれば、その感覚が理解できるだろうと考えていました。

 しかし、卒業を間近に控えた時になっても、その違和感は消えませんでした。それでは私は音楽が好きではないのか、それとも彼らの「音楽が好き」と質的な違いがあるだけなのか、あるとしたらどんなものなのか、について考えるために、このテーマについて書いてみようと思いました。

1つの音楽

 はじめに、この記事で分析の対象とする音楽の範囲を明確にしておきたいと思います。

 先述のような動機があったため、この記事においてカギカッコ付きの「音楽」という表現はいわゆる歌曲、特に邦ロック、J-POPを指しています。

 

2つの態度

 まず、最初の手がかりとして、かつて提唱された絶対音楽と、それに対立する標題音楽いう概念から出発したいと思います。

 

 絶対音楽は、絵画的情景や文学的内容など音楽以外の内容と直接結び付くことなく、音そのものの構成面に集中しようとする純粋器楽であり、したがって、同じ器楽でありながら、標題や説明文をつけて物語や特定の情景を表現しようとする標題音楽とは、対立する音楽用語として使用される。

                    小学館 『日本大百科全書

 

 このように、絶対音楽芸術としての音を意識して作られたのもので、標題音楽メディアとしての音を意識して作られたもの(歌詞が脚本で、音が演出という言い方もできるかもしれません)でした。さらに単純に言えば、前者は「目的としての音」、後者は「手段としての音」と言い換えることも可能かもしれません。

 

 当初、これら2つの概念は製作者の意図によって分類されていました。しかし、鑑賞者の立場から見れば、製作者が「メディア」に乗せて伝えたかったものを無視することで、標題音楽絶対音楽としても聞くことが可能です(その逆も可能ですが、独りよがりな解釈になって一笑に付される可能性もあります)。

 つまり、これら2つの区分を最終的に決定するのは鑑賞者の態度であり、絶対的な標題音楽は存在しないことになります。

 

 これを応用すると、歌詞があり、極めて標題音楽的な「音楽」の鑑賞においても、「音楽」を「絶対音楽的=アート的」に解釈する態度と「標題音楽的=メディア的」に解釈する態度が存在する、と言えるかもしれません。もちろん、これらは製作者の意図とは独立して存在します。そして、1つの「音楽」に対してどちらかの態度しかとらない鑑賞者もいれば、両方の態度をとる鑑賞者もいることが想定されます。

 

3つの視点

 次に、各々の態度をとった時に生じる鑑賞者の視点、立場について考えます。ここでは、1人称,2人称,3人称の考え方を手がかりにしていきます。

絶対「音楽」的な態度をとった場合

  この場合は比較的シンプルです。絶対音楽には伝えるべきテーマも表現すべき風景もありません。そのため、基本的に鑑賞者は三人称の視点、つまり傍観者の視点をとることになります。

 その視点の鑑賞者は、音楽の中の物理的な要素(音・身振り・手振り・言葉(シニフィアン)の連なり)を主に感じ取ることになります。そこから表現者の楽曲の解釈(ジャズやクラシックなどでは顕著です)を共有したり、ダンスを観るように表現者身体性を感じたり、それらの要素に誘発される内的な感情や肉体感覚などを楽しんだり、それらの感情や感覚を踊りや振りのような形で発散することもできるかもしれません。

 ただし、これは「音楽」の一要素を鑑賞しているに過ぎませんし、タンゴや民族音楽など、あらゆる音楽について共通している現象と言えるかもしれません。そもそも音楽に限らずあらゆる物の鑑賞は、鑑賞の対象をきっかけに個人の心身が参照される、内的対話とも言える出来事であり、特殊なことが起こっているとは言えません。

 

 では、その中でだけでなく、意味を持たざるを得ない(=シニフィエを伴う)言葉が融合した形態である「音楽」の絶対「音楽」的な鑑賞はどのようなものになるのでしょうか。

 もちろん、シニフィアンではなく、シニフィエを捉えている時点で言葉を「表題的」に捉えており、その時点で「絶対的」でないという意見は至極当然のものです。

 しかし、我々が

www.youtube.com

 のような曲を聴いていない限り、我々の意識はシニフィエを全く無視することはできません。

 その中で、どんな視点が相対的に絶対「音楽」的と言えるのかについて考えた時、それは「音楽」を日常の中で繰り返し鑑賞し、心身両面*2「思い出/コンテクスト」の記憶/再生装置として機能させる、つまり個々人の「思い入れ」を作る視点なのかな、と思っています

 実際、大学の友人が「思い出を詰め込み、再生できること」が音楽の好きな点だ、と言っていたことが思い出されます。

 では、繰り返し鑑賞しやすいこと以外に「音楽」が記憶装置として機能しやすい理由としては何があるのでしょうか。

 端的に言えば、それは「音楽」のいい意味での曖昧さや余白の多さなのだと思います。

 まず、「音楽」を構成する音自体は、少なくとも個人の思い出と直接の関係はないはずで、そこに見出される意味はすべて鑑賞者が付け加えた物です。この時、音自体の性質(激しさ・大きさ・抑揚)などは、個人の思い出との親和性を左右するパラメータとして機能しています。

 そして「音楽」を構成する言葉も同様に、個人の思い出との親和性左右するパラメータとして機能しているのではないかと思います。しかし、「音楽」の言葉は、映画や演劇、小説の言葉に比べると、短く、曖昧で、解釈のための余白が大きいものになっています。別の言い方をすれば、取り回しが良く、多くの「思い出」と結合できる(基質特異性が低い)ものと言えるでしょう。「思い出の曲」という表現の「普通さ」に比べ「思い出の小説」というと重苦しい印象を受けるのはそのせいかもしれません(「思い出の詩」はその中間くらいしょうか)。

 そんな「音楽」をを繰り返し鑑賞し、その音・言葉の「余白」部分思い出など自らの内的対話のきっかけを詰め込むこのような視点は、内的対話のきっかけとして「意味を持たないもの」を利用するという点で絶対音楽的と言えるのではないでしょうか。

 そして、だけではなく言葉(シニフィエ)も鑑賞の対象としつつ、内容ではなく内面をひたすらに見据えるこの視点が、絶対「音楽」的な態度に基づく視点として、最も包括的なものと言えるのかもなと思っています。

 

標題「音楽」的な態度をとった場合

 この場合は少し複雑です。前述の通り、標題「音楽」的な態度では、テーマやメッセージ、情景を観賞者は感じ取ります。

 それらの「音楽」の中に描かれる内容は千種万様であり、厳密に分類することは不可能かもしれません。

 しかし、その中で、鑑賞者が曲中で描かれるものをどの視点から捉えるか、ということで大まかな分類は可能なのではないかと思いました。それを具体的な例を用いながら説明していきます。

 もちろん、一人称の例として挙げた楽曲を三人称的な視点から鑑賞することも、その逆も可能です。鑑賞という出来事は、作品・表現者と鑑賞者との間にとある関係が結ばれることを指します。そのため、どのような鑑賞が引き起こされるかは、作品・鑑賞者どちらか一方の要素で決定されるわけではない、という点は常に心に留めておく必要があります。

一人称的な視点

 まずは一人称的な視点についてです。この視点は、アーティスト本人もしくは曲中の「私」に近い位置から「音楽」を鑑賞する視点です。

 場合によっては、カラオケやコピーバンドなどで実際に歌うという形で鑑賞することもあるかもしれません。

 後述しますが、「カラオケで歌って気持ちいい曲」「共感できる曲」と呼ばれる曲は、このような視点を誘発しやすい気がします。

具体例

  •  Green Day『American Idiot』を聞いて「俺もAmerican Idiotにはならないぞ!」と思う
  •  阿部真央『あなたの恋人になりたいのです』を聞いて「この曲は共感できる」と思ってカラオケで歌う
  •  μ's 『僕らは今のなかで』を聞いて、提示される「僕らの物語」に一員として参加する
二人称的な視点

 次は二人称的な視点についてです。この視点は、アーティストが呼びかけている「あなた」(=曲を聞いている「私」)、もしくは曲中の「あなた」に近い位置から「音楽」を鑑賞する視点です。

 「応援歌」、「ファンへの感謝を歌った」、「メッセージを込めた」と評される曲がこのような視点を誘発しやすい気がします。

具体例

三人称的な視点

 最後に三人称的な視点についてです。この視点は、アーティストによって投影された物語や風景を一人称・二人称的な視点以外から眺める視点です。

 この視点は、自らの視点の距離感を取ることができるという点で他の視点と少し異なります。「音楽」がどのように現実に作用しているかについて考えるこの記事も、ひねくれた形の三人称的な視点からの鑑賞と言えるかもしれません。

具体例

  •  童謡『夕焼けこやけ』を聞いて自分の田舎の懐かしい風景を思い出す
  •  Linked Horizon『紅蓮の弓矢』を聞いて『進撃の巨人』の物語やそのメッセージを感じる
  •  黒うさP『千本桜』を聞いて雰囲気を想像する

4つの関係

  これまでは、1つの楽曲に対して、2つの鑑賞態度があり、その中で標題音楽的な態度をとった場合、一人称、二人称、三人称に倣う3つの視点があることを述べてきました。

 これからは、それぞれの視点に立つ鑑賞者と楽曲・表現者との間に結ばれる関係の形について考えていきたいと思います。

 この問題を論じる上で、まず触れておかなければならない問題は、歌詞の中の「私」歌っている「私」と一致しているか、という点です。前章の具体例では、意図的に両者を混同させていましたが、この点は関係性においては大きな違いをもたらします。

 

 もし両者が一致している場合、前述の3つの視点がそのまま適応できます。この時鑑賞者が観るのは「自分自身の主張・感情を音楽というメディアを通して主張する主体としてのアーティスト」です。それでも単数・複数の問題は残りますが、こちらに関しては後述します。

 

 一方で、一致していない場合は問題は少し複雑です。その場合、鑑賞者は直接的には「純粋な光景もしくは他者の物語・意見を朗読・描写・主張するアーティスト」、つまり「メディアとしての楽曲を、客の前で演奏するメディアとしてのアーティスト」の姿を観ることとなります。

 これは少々厄介な問題です。

 本来的に言えば、印刷される前の新聞紙や電源の消えたテレビがほとんど意味を持たないのと同様に、極論を言えば、メディアそれ自体は方向性を持ち得ません

 そんなメディアを純粋に一人称的・二人称的な視点から鑑賞することは、なかなか困難であり、基本的には、属人的な評価から離れた三人称的な視点をとることになります。それはつまり、「人」ではなく「光景・物語・主張」を評価する視点です。

 もちろんこの三人称にも、一人称的だったり、二人称的な視点は内在しています。それは小説を読んで、共感したり、怒ったり、感動したりするのと同じと言って差し支えないでしょう。

 しかし、音楽が面白いのは、メディアとしてのアーティストにも「Xに共感する!」「Yは僕たちの代弁者!」「Zに救われた!」という一人称的・二人称的な「人」にまつわる評価がつくことが往々にしてある点です。そしてそのアーティストが作詞・作曲すらしていないこともあるかもしれません。

 これは、冷静に考えるとやや不自然なように思えます。三人称的な「彼の物語は面白い」「彼女の描く光景は綺麗だ」「彼らは表現が上手い」という内容ならまだしも、メディアとしてのアーティスト自身は鑑賞者と直接の関係を結んでいるわけではないのです。

 それでも、鑑賞者は擬似的にアーティストに「共感」などの関係を結んでいるように見えます。やや難しい話になりますが、これは本来交流が行われていない(もしくは極めて乏しい)相手とのコミュニケーションを錯覚するというパラソーシャルインタラクションと呼ばれる現象(詳しくはググってください)の一種と言えるかもしれません。

 

 このように、メディアそれ自体への評価軸を持たない三人称の視点が属人的な一人称・二人称の視点に巻き込まれたともいえるこの状態をひとまず「巻き込まれた三人称」と定義します。

 なぜ「音楽」において、巻き込まれが起きやすいのか、巻き込まれるとは具体的にどのような関係なのか、という点については後ほど述べていきます。

 これからは、これらの関係について個別に述べていこうと思います。

一人称の場合の関係

一人称単数の場合

 この場合は歌っている「私」の立場に立って鑑賞することは難しいと考えられます。カラオケやコピーのような形で表現する立場を追体験し、一人称単数の視点からの鑑賞的な体験をすることはできるかもしれません。

一人称複数の場合の関係

 この場合は、歌詞中の「We」「僕たち」「我々〇〇」のような表現、もしくは共有されている性質(君が代における日本人という性質)をトリガーににして関係が結ばれます。

 そのため、その関係の第一には、同一化や同意が必要です。その同一性を前提として、自分達の意見が代弁されることなどに快感などを覚える、共感するというのが予想される関係です。

 また、共有されている性質として「〜のファン」というものを利用するのも典型的かもしれません。

 例えば、『American Idiots』を一人称的に鑑賞することを想像してみます。 

 まず、前提として、反戦意識やメディアへの懐疑を持つこと、"not a part of a redneck agenda"であることなどへの同意が必要です。そして、その前提の下で社会に対して異議申し立てを一緒にするという関係が成り立っていることがわかります。

 このような関係は、特定の文化を背景にもつ音楽ジャンル、具体的に言えばパンクロックやヒップホップなどで多く結ばれることも予想されます。

 

二人称の場合の関係

 ここで問題になる関係をを簡潔に言い換えると、歌詞中の「私」=歌っている「あなた」と、歌詞中の「あなた」=歌われている「私」の関係です。

 二人称が特殊なのは、歌詞中に「あなた」が存在しない場合など、二人称的な視点をとり得ない曲(例えば、『夕焼けこやけ』の例)が多い点です。

二人称単数の場合の関係

  この場合も、二人称単数の「あなた」になることは難しいかもしれません。現実的なレベルで唯一と言ってもいいパターンは「アーティストがある人のために作曲し、その人の前で演奏している」と言ったところでしょうか。

 しかし、一人称単数では許されない解決策が二人称単数にはあります。

 それは「この曲を聞いている人」というメタ的なものです。これは前の具体例ではももいろクローバー『行くぜっ!怪盗少女に当てはまります。

 この楽曲は「この曲を聞いているあなた」に対して、グループの説明、メンバーの自己紹介をしつつ、「私たち」と「あなたたち」の関係を「アイドル」と「ファン」の関係へ変化させようとする試みです。

 厳密にはこの変化は「二人称複数」として制作された「あなた」を聞き手が「二人称単数」と混同することで起こっています。このような混同が音楽における「巻き込まれ」の根底にある、ということは後述します。

二人称複数の場合の関係

 この場合、歌う=作る「私」は「音楽」を通して、聞いている「あなたたち」へ、何らかのメッセージを伝えたり、意見を伝えたりしようとします。

 この構造は簡単なように見えて少し厄介です。大きな問題となるのが、どんな「あなたたち」へ向けて曲が作られるのか、という点です。なぜなら、この関係は、メッセージを向ける「あなたたち」とメッセージを受け取る「私たち」が一致していること、つまり当事者性がないと本来は成り立たないものだからです。

 簡単な例としては、熱狂的なファンも多い椎名林檎が率いる東京事変『女の子は誰でも』を女の子ではない男の子が聞いても、二人称な視点はとれず、後述する三人称的な視点に追いやられてしまいます。そこには、熱狂的なファンが感じているような強固な関係は成立しません。ただその分、成立したときの両者の関係は「救済」「(理解者としての)信仰」「利用」「応援」など強固なものになることが予想されます。

 この問題を解決するため、多くの場合は、「あなたたち」の位置に「人間全部」「日本人」「若者」「男性」「女性」「男の子」「女の子」といった抽象名詞(明示されない場合も多いです)を据えることで普遍性を確保しようとします。ただ、難しいのは、「あなたたち」の対象が広ければ広いほど、一般的に説得力を欠き、前述のような強固な関係は築けなくなる傾向があるからです(広い「あなたたち」をとりつつ別の要素で説得力を上げ、強い関係を築ける人をカリスマと呼ぶのかもしれません)。

 上にあげた具体例ではウルフルズ『ガッツだぜ』がこれに当てはまります。

 

 別の解決策として一人称複数の時と同様、「あなたたち」を「私のファン」としている場合も見受けられます。この場合は、ファンへの感謝などを語る場合がほとんどです。

 ただ、特殊な関係として、特撮『林檎もぎれビーム!』のように「君が想う そのままのこと歌う誰か 見つけてもすぐに恋に落ちてはダメさ『お仕事でやってるだけかもよ』」と一人称的な語り口で三人称的な分析をするケースもあります。

 

三人称の場合の関係

 三人称の場合も、歌詞の中の「私」は歌っている「私」と一致しているかという場合分けは有効です。ただ、その2つに加え、『夕焼けこやけ』の場合のように、「私」が歌詞中に存在しない場合が存在します。

歌詞中の「私」=歌っているアーティストと、聞いている「私」の関係

 この場合は、「音楽」の標題する「感情」や「主張」などの内容に関して「賛同/批判」、「解釈」「分析」と言った関係が結ばれることになります

 もちろん、「感情」「主張」の対象に聞いている「私」が含まれる場合は二人称的な関係が結ばれることは言うまでもありません。

 これは、政治家の演説や、学術論文などと視聴者・読者たる私たちの間に結ばれる関係に近しいものがあるかもしれません。

 前述した『女の子は誰でも』の例のように二人称的鑑賞を意図した曲の「あなた達」から排除された場合も、このような視点を取ることになります。

 

歌詞中に「私」が不在の時、「描かれた情景」と聞いている「私」との関係

 この場合は、「音楽」の標題する「風景」などの「特定の人称が明示されない」内容に関して「想像」「共有」と言った関係が結ばれることとなります

 これは、誰かが撮った写真や、描いた絵画と、鑑賞者たる私たちの間に結ばれる関係に近しいものがあるかもしれません。

 

歌詞中の「私」≠歌っているアーティストと、聞いている「私」との関係

 この場合、「音楽」が標題する、歌詞中の「私」「あなた」「彼/彼女」の物語や感情と言った内容に関して一度は「想像」「共有」といった関係が結ばれますそしてその後、共有・想像されたものに応じて「賛同/批判」、「解釈」「分析」と言った関係が二次的に結ばれます。

 これは、監督が撮った映画や、作家が書いた小説、俳優が演じる演劇と観客・読者たる私たちの間に結ばれる関係に近しいものがあるかもしれません。

 

 しかし、問題はこれだけで終わりません。「音楽」が複雑なのは、「私」「あなた」「彼/彼女」の物語、感情と私たちを直接繋ぐのは、歌手と言う肉体を持ち、歌詞中の「私」と同じレベルで語りうる(=「私」を完全に演じられる)存在だからです。

 我々は映画を観るとき、物語が映るスクリーンの存在を強く意識することはありません。同様に小説を読むときも、手に残る紙の束を意識することはありません。

 それと同様に、iPodで「音楽」を聴いたり、Youtubeで「音楽」を聴くときにイヤホンやスマホの画面を意識することもほとんどありません。その時は、歌手の肉体性は希薄になり、純粋に「物語」「感情」を楽しむことができるかもしれません。

 しかし、演劇を観るときに俳優の肉体性を全く意識しないことは難しいように、ライブといいう形で歌手が目の前にいる時、その存在、肉体性は到底無視できるものではなくなってしまうという点です。

 

 さらに問題はややこしくなります。俳優達は自分自身の人格を表出せず、その肉体の佇まいを「私」「あなた」「彼/彼女」に寄せるなど、メディアとして「透明になる」(=役になりきる)努力をしています。

 しかし、多くの歌手達はMCという形で自分自身の人格を積極的に表出し、舞台上でも歌っている「私」の存在を強力に主張します。しかし、そんな存在が歌う歌詞の中の「私」は依然として虚構の中の「私」であって、歌っている現実の「私」ではないのです。

 同じようにそんな存在が声を掛ける「あなた」は歌詞中の「私」が声をかける「あなた」であって、聴いている「私」を直接指しているわけではありません。

 

 これは『私小説的な小説(小説中の「私」は作者の「私」と重なっている)』『俳優が本人役で出演する演劇(物語中の「私」は俳優の「私」と重なっている)』のように、かなり複雑で高度な構造を持っています。つまり、観客にとっては、歌詞という虚構の中の言語的な「私」と肉体と顔を持つ現実の歌手が一人称で語る、肉体的な「私」とが峻別できないほどに重なった形で認識されるという構造です。

 

 これが、この論考最大の話題である「巻き込まれ」の原因となっているのです。

巻き込まれた三人称の場合の関係

 ここからが「音楽」の要点ですが、これまでの議論もだいぶ煩雑になってきたので、ここで一度整理します。

  1.  「音楽」に対し、標題音楽的な鑑賞態度をとった時、その視点は一人称的、二人称的、三人称的な視点に分類される
  2. 厳密に議論すると、一人称、二人称は「歌っている私」=「歌詞中の私」の場合にしか成立しない。一人称的な視点からは楽曲=歌手との間に「同一化」「共感」という関係、二人称的な視点からは楽曲=歌手との間に「信仰」「救済」「応援」という関係が結ばれやすい
  3. 「歌っている私」=「歌詞中の私」の場合にも三人称的な視点を取ることができる。それは一人称にも、二人称にも含まれなかった場合に生じることが多い。
  4. 「歌っている私」≠「歌詞中の私」の場合は厳密に言えば三人称的な視点しか取ることができない。その視点からの眼差しは、本来メディアを通りぬけ、メディアによって投影された内容と関係を結ぶことになる。
  5. しかし、現実問題としては、メディアたる歌手に対して、本来一人称的な視点から生じる「同一化」「共感」という関係、二人称的な視点から「信仰」「救済」「励まされる」という関係が結ばれていることがある。
  6. このような関係を「三人称が一人称/二人称に巻き込まれた状態」と定義した。これはメディア論において論じられるパラソーシャルインタラクションの一種である。
  7. その一因として、固有の肉体と顔と人格を主張しつつ、「私」と言う一人称で語る現実の歌手と歌詞という虚構の中の「私」が峻別できないほどに重なった形で提示される「音楽」独特の形式にあるのではないかと主張する。

 以上がこれまでの内容です。これからは

  1. 「巻き込まれる」過程の中で何が起こっているのかを検討し、「巻き込まれ」が起きるための必須条件について考える。
  2. 必須条件の他に、「巻き込まれ」を起こしやすい楽曲はどんな要素を持つのかについて、純粋な一人称・二人称、巻き込まれていない三人称的な視点からの鑑賞を誘発する楽曲を含めて検討する。

 という形で進めていきます。

一人称に巻き込まれた三人称

 まずは、三人称が一人称に巻き込まれる状態、つまりメディアたる歌手と擬似的な「共感」「同一化」の関係が結ばれる状態についてです。

 結論から述べると、これには、歌詞中の「私」と聞いている「私」が「似ている」と感じている、という一人称的な三人称の視点から結ばれる関係が必要です。

 これは純粋な一人称の時のように、ある要素を必ず共有していなければならない、同一でなければならない、というわけではありません。

 詩の特徴として、特定の「感情」「物語の流れ」だけをその場面や設定・文脈に依存しない形で切り出せるというものがあります。それは前述(「絶対音楽的な態度からの視点」)のように、実際にBGMとしてかけることすらできる取り回しのいいものと言えます。

 そして、鑑賞者は、虚構から切り出され、何度でも再生でき、取り回しのきく「感情」や「物語の流れ」を自分がおかれている環境に当てはめて理解しようとします。

 それが成功し(そのためには両者の文脈がある程度共有されているか、おかれている場面自体が似ていることが必要です)、かつ、肯定的な結果が得られた時に、歌詞中の「私」と聞いている「私」が「似ている」と感じ、巻き込まれが始まると考えています。

 そこから起こることを以下のように想像してみます。

  前提1:歌詞中の「私」に対する共感的な感情移入

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「私」という混同、前提1に代入

  →解釈1:歌っている「私」に対する共感的な感情移入

 これは、とてもシンプルな構図で、細かく見れば、もっと複雑なことが起こっているのだと思います。ただ、重要な特徴は、一人称の巻き込まれには、「歌う-歌われる関係が必要ない」ことです。つまり「歌っている姿を見る」「一緒に歌う」だけで巻き込みが完成するのです。

上の具体例の中では、阿部真央『あなたの恋人になりたいのです』の例が一人称巻き込まれの例になります。

二人称に巻き込まれた三人称

 次に、三人称が二人称に巻き込まれる状態、つまりメディアたる歌手と擬似的な「尊敬」「信仰」「救済」の関係が結ばれる状態についてです。

 まず試しに、これも一人称への巻き込みのように、歌詞中の「あなた」≒聞いている「私」という共感的な感情移入を前提として巻き込まれの形が導けるか検討してみます。

  前提1:歌詞中の「あなた」≒聴いている「私」という共感的な感情移入

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「あなた」という混同

  →解釈に行き詰まる(代入できる項目がない)

 というように、これだけでは二人称の巻き込まれの形は説明できません。

 では、ここで何を導入すれば、二人称の巻き込まれの形が導かれるのでしょうか。ここでヒントになるのが、純粋な二人称単数では可能で、純粋な一人称では不可能だった、「この曲を聞いている人」に対するメッセージという視点です。

 つまり、歌っている「あなた」が聞いている「私たち/私」に語っているという事実/認識を導入したら巻き込まれの形が導かれる可能性があります。実際にやってみましょう。

  前提1:歌っている「あなた」が聴いている「私たち/私に」語っている

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「あなた」という混同

  →解釈1:歌詞中の「私」が聴いている「私たち/私に」語っている

  前提3:歌詞中の「私」は歌詞中の「あなた」に語っている

  →解釈2:歌詞中の「あなた」≒聴いている「私」という混同

 このように、「歌詞中の「あなた」は聴いている「私」のことだ」という巻き込まれまでは導けました。

 ここまでが上の例で挙げたSnow Man『君の彼氏になりたい。』の例で起こっていることだと推定されます。ただ、これではまだ、歌っている「あなた」との関係にまで巻き込まれが及んでいません。さらに解釈を続けます。

  前提3':歌詞中の「私」と歌詞中の「あなた」は特定の場面におかれている

      歌詞中の「私」と歌詞中の「あなた」との間には特定の関係がある 

  前提2:歌詞中の「私」≒歌っている「あなた」という混同

  解釈2:歌詞中の「あなた」≒聴いている「私」という混同

  →解釈3:歌っている「あなた」と聴いている「私」は特定の場面におかれている

       歌っている「あなた」と聴いている「私」との間には特定の関係がある 

 ここまできてやっと、歌手とリスナーの間に擬似的な関係が結ばれました。つまり、歌っている「あなた」が聞いている「私たち/私」に語っているという事実と内容がある程度整えられた「音楽」さえあれば、二人称の巻き込まれが起こりうるということです。

 そして興味深いのが、この関係の内容は、前提3'にあるように楽曲における「私」と「あなた」の関係を反映する、ということです。そして、楽曲における「私」と「あなた」の関係がリスナーにとって快楽をもたらすものであればあるほど、解釈3にあるような巻き込まれが起こりやすい、という点には異論はないでしょう。

 アイドルビジネスは、理想的なラブソングを多く歌い、前提3'の関係として、恋愛関係を利用し、歌手とリスナーの間に擬似的な恋愛関係を成立させることで成り立っているのかもしれません。

 ちなみに、これを応用すると、『あなたの恋人になりたいのです』にアイドルソング的な二人称的な巻き込まれがほとんど見られず、Snow Man『君の彼氏になりたい。』は男性の一人称的な巻き込まれが見られないことも理解できるはずです。

 お節介にも自分の解釈を述べると、前者は「私」が「あなたの恋人になりたい」という感情を歌ったもので、「私」と「あなた」の間の具体的な関係は全く示されていないため、後者はSnow Manと自分の間、そして『君の彼氏になりたい。』な内容と、自らの環境との間にある類似点を積極的に見出すことができないため、ではないかなと思っています。

 これをさらに展開すると、「同性ファンが多いアーティスト」「異性のファンが多いアーティスト」の差も、どちらの巻き込まれが多く起こっているか、という点に起因するという仮説も導けるかもしれません。

 

 

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終わりに

 これまで、1つの音楽に対して鑑賞者がとりうる態度、視点とその視点から曲の内容、そしてその曲を表現するアーティストととの間で結ばれる関係をできる限り体系的に考えてきました。

 まず、アーティスト自身の意見や言葉が直接語られる場合は、普通の対話と同じように「現実的な」一人称、二人称、三人称の視点のいずれも取ることができることを指摘しました。

 それに対し、誰かの物語や、人格を持たない純粋な光景が語られる場合などは、読書をするときと同様、基本的には三人称の視点しか取ることができないこと、アーティストはメディアとして機能していることを指摘しました。

 

 その中でも、物語に没入する「一人称的な三人称」「二人称的な三人称」的な視点だけでなく、「擬似的な一人称/二人称」的な視点からメディアたるアーティストとの擬似的な関係(アイドルなどが顕著な例です)が結ばれている現実に注目しました。

 そして、テレビや新聞紙それ自体に感情移入できない、という現実に反するこの事態が起こった状態を「一人称/二人称に巻き込まれた三人称」と定義しました。

 

 それに引き続き、「音楽」のどの要素が小説や映画、演劇などに比べ「巻き込まれ」を生じやすくさせているのかを考えました。

 それは、小説における紙、映画におけるスクリーンとは違い、演劇と音楽のメディアは人格と肉体と顔を持つ人間であること、そのため物語中の(言語的な)「私」と表現している(肉体的な)「私」が重なりあっていることが、第一にあると主張しました。

 次に、演劇と「音楽」における違いは演者の態度にあるものと主張しました。

 俳優は物語の中の人物を演じることに心身を集中させており、「素」を見抜かれることは「大根役者」と蔑みの視線を浴びる行為でした。ましてや、演技を中断し、「素」で語ることはほぼありません。 

 一方、「音楽」のアーティストは歌っている「私」の存在を強く主張し、あまつさえMCといった形で上演を中断し、「素」の自分で観客に語りかけます。

 このことが、「音楽」において、重なり合っている2つの「私」の混同を助長させており、それが第二の要素になっていることを主張しました。

 

 この事実から、歌詞中の「私」への共感を前提として、その共感が歌っている「私」への共感へと巻き込まれる「一人称への巻き込まれ」の仕組みを想定することができました。

 しかし、同様に歌詞中の「あなた」への共感を前提としても、「二人称への巻き込まれ」の仕組みを推定することはできませんでした。

 その仕組みを想定するために必要だったのが、歌っている「あなた」が聞いている「私たち/私」に語っている、つまり「音楽」が上演されているという事実でした。

 そして、その仕組みを想定する中で、その上演内容が、「私」と「あなた」といった2者の関係について語るものであるとき、その関係が現実の「あなた」と「私」の間にあると擬似的に認識されている可能性も示唆されました。

 

 これまでの議論を踏まえて自分が「音楽」の何が好きだったのかについて自己分析してみたいと思います。

 自分はある「音楽」を「電化された朗読劇」と定義していました(②

追いコン用スピーチ原稿 (卒業によせて②) - Trialogue

)。これは、大体の場合において、誰かの物語や、人格を持たない純粋な光景が語られる「音楽」を標題音楽的な態度で三人称的な視点から鑑賞すること指していたのだと思います。

 

 そして、自分が「特定のアーティストが好き」と述べるとき、それはそのアーティストが提供する作品、もしくは鑑賞体験が好きなのであって、アーティストの人格や身体について述べたものではありませんでした。つまり徹頭徹尾、三人称の中でも「巻き込まれない三人称」から鑑賞していたのだと思います。

 この原因が、自分の言語に対する鋭敏さか、肉体に対する愚鈍さ、もしくはテーマパーク的なるもの(①

テーマパーク的なるものについて (卒業によせて①) - Trialogue

)への親和性によるものなのかなと思っていますが、どれも全てを語り尽くすものではないのだろうな、と思っています。

 

 大学の軽音部にまつわる一連の記事はこれで終わりです。これらの記事が、自分が「音楽」をどう鑑賞し、その何が好きなのか、ということを考える補助線になっていればいいな、と思います。

 今後は試論、もしくは人気取りとして、最近並べ立てられて語られることも多いYOASOBI, ずっと真夜中ならいいのに。, ヨルシカの3団体の作品について検討しつつ、夜というキーワードは何を表象しているのか、そしてその夜的なものの行方について考えてければと思っています。

  
補遺:5つの要素

 最後に、おまけとして、これまでの議論を踏まえ、どんな曲のどんな要素が、どんな視点・関係を誘発しやすいのかということに関して無根拠に並べ立てておきたいと思います。

描かれている対象の虚構性/現実性

  虚構性が高い場合は、より純粋な三人称の視点のみを誘発できます(黒うさP『千本桜』)。うまく調整すれば一人称巻き込みすら完全に排除できるはずです。虚構性と具体性を「音楽」を両立させることは難しいですが、うまく行けば普遍的に説得力を持つ曲を生むことができるかもしれません。

 もちろん外部の要素を利用したりして、情報を補完し、抽象性に流れても普遍的な説得力を保っている例も多く見受けられています(Linked Horizon『紅蓮の弓矢』)。

  現実性が高い場合は主語・対象の範囲を調整すれば純粋な一人称・二人称を誘発できる可能性が高まります。また、三人称的な視点を取られた時も、より説得力が出るはずです(Green Day 『American idiot』)。

 ただ、同じ時代の同じ現実を共有していない人にはほとんど届かない、という弱点はあります。

 

描かれている内容の抽象性/具体性

 抽象性が高ければ、自分の文脈への当てはめがやりやすくなり、一人称/二人称一人称的/二人称な三人称一人称への巻き込みを起こしやすいはずです(ウルフルズ『ガッツだぜ』)。一方で、曲への愛着や巻き込まれの強さは下がりやすいので別の方法で補完する必要があるかもしれません。

 具体性が高い場合は、純粋な三人称がほとんどになりますが、曲中で「私」と「あなた」との関係が明確に示される分、二人称への巻き込みを起こしやすい(Snow Man『君の彼氏になりたい。』)と考えられます。

描かれている内容の主観性・客観性

 主観的な場合、内容の「理解」は容易です(どう感じ、どう判断しているかは把握できる)が、内容の「共有」は困難(何について言っているのかわからない)です。

 この場合、純粋な三人称的なな視点を取るのは難しく、三人称の中でも一人称、二人称的な三人称のどちらかに偏ることが多いと思います(Snow Man『君の彼氏になりたい。』、阿部真央『あなたの恋人になりたいのです』)。

 興味深いのは、主観的になればなるほど、主語として「私」とあえて表現する必要がなくなるといいう点です。虚構の中での主観性が強くなればなるほど、虚構の中の「私」の影は薄くなり、現実の「私」の身体がより強く浮かび上がってきます。

 このようなメカニズムも、巻き込まれやすさに影響しているのではないかと思っています。

 

 客観的な場合は、内容の「共有」(何について言っているのかは把握できる)は容易ですが、多くの場合「理解」(どう感じ、判断しているかは把握できない、もしくはそもそもない)は完璧になされません。

 この場合、純粋な三人称的な視点をとることが多いと思います。そのため、巻き込まれ(特に一人称)もあまり起こりません。最も顕著な例は、童謡『夕焼けこやけ』でしょうか。

 

描かれている内容の指向性

 これは少し解説が必要かもしれません。

 これは、曲中の「私」もしくはアーティスト自身の「私」の言葉が向けられる対象が明らかになっているか、ということを指しています。

 言い換えれば、独白調か会話調か、独白調の場合は言葉が差し向けられる対象はいるかという点です。以下に具体例を示します。

 「あー疲れた」という言葉は独白調で対象はいません。純粋な独り言に近い言葉で、指向性は低いと言えるでしょう。

 「あなたが嫌いだ」という言葉自体は独白調ですが、明確な対象を伴います。中程度の指向性を持っていると言えるでしょう。

 「誰か私を助けてよ」という言葉自体は会話調ですが、明確な対象をとりません。これも中程度の指向性を持っていると言えるでしょう。

 「あなたに聞いてほしい」という言葉は会話調で、高い指向性を持っています。

 

 これは、一人称/二人称どちらの視点を取りやすいかということを決定するとともに、三人称的な視点をとった時、巻き込みの起こしやすさ、並びに一人称/二人称のどちらに巻き込みやすいかを決定するパラメータになります。

 

 指向性が低い場合は、巻き込まれはほとんど起こりません。

 指向性が中程度の場合「感情」「物語の流れ」だけが切り出されているため、自らの文脈に当てはめ、勝手に自分のこととして「共感」することができます。そのため一人称の巻き込まれを引き起こしやすいといえるかもしれません。

 一方で、指向性が高い場合は、物語の中で「誰に何とといっているか」という構造が明確になります。そのため、二人称的な巻き込まれが起りやすく、起こった時に擬似的な関係が結ばれやすいと考えられます。

曲中に使われる代名詞の種類と、その現実との一致度

 これについては上記の議論で言い尽くしているため省略します。

 

上記の例を分析するなら、

 『American Idiot』の例

  現実性:極めて高い、現実に端を発した作品

  具体性:中程度、現実を反映

  主観性:中程度、主観的な決意表明あり

  指向性:中程度、社会に対するメッセージ、大きな対象をとる会話調 

  代名詞:一人称複数・極めて高い、ファンも含まれる

         (We're not the ones who're meant to follow)

  →「デモ隊に参加する」一人称複数からの関係

   「デモ隊を見かける」三人称からの関係

 

 『あなたの恋人になりたいのです。』の例

  現実性:中程度、現実的な物語

  具体性:中程度、ある程度の状況は推定できる

     「恋人になりたい」「あなた」は「私」の想像の中にしか出てこない

  主観性:極めて高い、個人の心情の吐露

  指向性:中程度、内容は「あなたへの気持ち」で指向性が高いが

          形式はひとりごとで指向性が低い

  代名詞:一人称単数・中程度、一致している要素は多い

      二人称単数・低い、存在しない可能性すらある

→「他人が恋心を語る様子を見る」三人称の視点

→「他の人の恋バナを聞き、自分の経験との共通点を感じて親近感を覚える」一人称的三人称の視点

→「阿部真央は私の気持ちをわかってくれてる」という一人称に巻き込まれた視点

 

『僕らは今の中で』の例

  現実性:

   物語の階層:高い、物語の中での現実に即した内容

   現実の階層:低い、純粋なフィクション

  具体性:曲単体では極めて低い具体性を他の文脈(アニメーション)に依存

  主観性:かなり高いが、「僕ら」の範囲は曖昧

  指向性:低い、「僕ら」による一方的な抽象論・意見の表明

  代名詞:

   物語の階層

    一人称複数・高い(キャラクタ自身が歌っている)、ファンも含まれている

   現実の階層

    一人称複数・演者のレベルでは低い(声優が演じている)

         ファンのレベルでは中程度、一致していると見なすことも可能

①現実の階層で「無根拠に前向きな抽象論を聴く」としての純粋第三者としての視点

②テレビの中から「キャラたちが歌っている」としての二人称複数的な視点からの関係

 →現実の階層「キャラが自分たちへ歌っている」で二人称巻き込まれ?

③物語の階層で「アイドルを推す」という同一化、一人称複数的な視点からの関係

 →現実の階層でも一人称複数的な視点が持ち越されている?

 

行くぜっ!怪盗少女

  現実性:高い、歌う-歌われる関係を明確に語る

  具体性:高い、シチュエーションが明確

  主観性:基本は高い、時折一般的な抽象論が混入

  方向性:高い

  代名詞:一人称複数・極めて高い (『We are ももいろクローバー』)

      二人称単数・極めて高い

 →「ももクロに歌われている私」という二人称複数的な視点を明確化

  →今後の二人称巻き込まれを強力に誘発

 

『君の彼氏になりたい。』

  現実性:低〜中程度、現実的な物語だが、やや虚構性が高い

  具体性:高い、シチュエーションが明確

  主観性:高い、

  方向性:極めて高い一緒にいる「君」へのメッセージ

  代名詞:一人称/二人称単数・低い

「ドロドロした男の陳述を聞く」三人称の視点

「こんなふうに求められてみたいなぁ」という二人称的な三人称からの視点

「格好いいアイドルにこんな風に求められてる気がして嬉しい」という二人称に巻き込まれた視点

 

『ガッツだぜ‼︎』

 現実性:極めて高い

 具体性:極めて低い、抽象的な一般論

 主観性:極めて高い、歌詞から「私」が消えている

 指向性:極めて高い、「男」を対象に取った、呼びかけ

 代名詞:ほぼなし

 →「ウルフルズから人生論の講義を受けている」二人称単数の視点

  「それを側で聞いている」三人称の視点

 

『夕焼けこやけ』

 現実性:極めて高い

 具体性:高い 具体的性と普遍的性 性質を両立

 主観性:極めて低い

 指向性:極めて低い、徹底した情景描写

 代名詞:なし

 →「夕焼けの写真を眺める」三人称の視点

 

『紅蓮の弓矢』

  現実性:低い、進撃の巨人』の存在という現実で補完可能

  具体性:曲単体では比較的低い、進撃の巨人』の内容で補完

  主観性:低い、情景描写メイン

  指向性:低いが、時折「お前」に向けたメッセージあり

  代名詞:まれに二人称単数・極めて低い、進撃の巨人』の登場人物を指している

 →「他人の『進撃の巨人』の感想を聞く」三人称の視点

 

 

『千本桜』

  現実性:極めて低い、完全なフィクション

  具体性:極めて低い、何が起こっているのか理解できない

      視覚的要素、聞き手が参照する他の作品の設定で補完

  主観性:極めて低い、光景の断片的な連続

  指向性:極めて低い

  代名詞:まれに二人称単数・低い

 →「イラスト集を眺める」三人称の視点

*1:もちろん、それが部活のマナーだった、という面はありますが、それを差し置いても音楽で一つになっているように思われました

*2:歌詞が心理的な面、音が肉体的な面を担当します