2019年7月 観劇記
はじめに
7月分の観劇記です。そのイメージとは異なる腎・糖尿病科の忙しさに圧倒されていたため質*1・量ともに乏しいですが、記録は記録として残しておきます。
7/14 青年団『その森の奥』@こまばアゴラ劇場
いわゆる「静かな演劇」の発起人である平田オリザの新作ということで、初めてこまばアゴラ劇場へ。この劇場、あの大林宣彦が映画館として立ち上げたものを甥にあたる平田さんが引き継いだというなかなか強烈な由縁をもっており、その独特な建物の構造が印象に残っている。
前情報で「多言語同時発話」であることは知っていたが、開幕から舞台を埋め尽くす日本語・韓国語・フランス語での騒々しい会話に圧倒された。
氏の評論『演劇入門』にあるように、多言語*2で交わされるカジュアルでとりとめのない会話(Conversation)の中から、抽象的で省察的な対話(Dialogue)が浮かび上がってくる様を興味深く観た。
舞台では、サルを幼形成熟によって人為的に進化させようとするマダガスカルにある研究所の1日が描かれる。対話の大まかな内容としては日・韓の関係をフランスとその植民地における白人・黒人の関係によって相対化し、その関係を人・ボノボ・サルの関係によって相対化するといったものから、動物実験の是非、喪失とどう向き合うか、商業主義の功罪などなど多岐にわたる。どのテーマについても、雰囲気は穏やかなもののなかなか刺激的なものに仕上がっており、面白く観ることができた。
政治的なテーマに踏み込む中でも、不快感や違和感を持たせない筆者のバランス感覚に感服した。唯一、日本*3のビジネスマンとその同僚の描き方には露悪的な部分もあったが、その矛先は日本人ではなく、拝金主義の愚かさに向いている、そんな気がした。
7/15 パスピエ『More You More』@Zepp Tokyo
高校の時の友人に誘われ、かなり久しぶりに「舞台芸術」をやっていないライブへ。
抒情的な内容を華やかな音像に載せる楽曲はもちろん、観せ方・聴かせ方も上手で満足いく時間が過ごせた。大学時代に少し由縁があるバンドだったこともあり、ちょっとセンチメンタルな気分にもなった。
ただ、終演後の虚脱感に、いくら成田ハネダのキーボードが技巧的に優れていよう*4と、大胡田なつきのボーカルが可愛かろうと、その言葉以外にはあまり自分の人生には影響を及ぼさないのだなぁと思った。
ちなみにパスピエを知ったきっかけは作家の佐藤友哉。彼は顕著な例かもしれないが、荒んだ人間観を持ってしまった人*5が好きになる音楽は結構限られている気もする。
7/31 『HERO 2019夏』@ヒューリックホール東京
チケットぴあのポイントを引き換えた無料券で観劇。
1000人規模のホールでストレートプレイを観るのは初めてだったが、途中退席を検討するほどには面白くはなかった。
ツッコミどころを挙げるときりがない。タイトルのHEROだが、(おそらく)主人公の内面描写のシーンで(おそらく)恐怖心などを具現化したショッカー風の黒子に対峙するヒーロー戦隊風の一味から採ったものと思われる。しかし、話の流れ上ヒーロー戦隊が出てくる必然性が皆無であり、タイトルの時点で内容のなさ、思慮の足らなさを露呈してしまっている。
内容も驚きはなく、過去のトラウマのために男女交際に消極的になっていたが、相手の押しに負けて2年間限定という条件で交際していた主人公が、恋人が妊娠していることを知り「父になる*6」こと、その責任を受け入れるというだけだ。
しかし、その克服の過程やきっかけが描かれることはない*7。主人公が父になることを拒む理由も、過去の恋人を病気で亡くした、父が人助けをしようとして死んだなど、極めてありきたりなもので小学生向けの漫画を読んでいる気分だった。
宇野常寛『リトルピープルの時代*8』にもある様に、すでに問題は「父になるか否か」ではなく、マーケットの中で否応なく小さな父として機能してしまう私たちが「どの様な父になるか」なのだと思う。
モヤモヤした気分のまま迎えたカーテンコールではなんと映画化の発表。どうしてこんなにつまらない作品が、商業的な成功を収めてしまうのかと暗澹とした気分で有楽町から帰ったことを覚えている。
2019年6月 観劇記
はじめに
先月もいくつかの舞台を観に行ったので記録に残しておきます。準夜勤のせいで本数が少ないですが、一作一作が印象的な作品になりました。
6/2 KAKUTA 『らぶゆ』
これまで妙な恐怖感があって近づけなかった下北沢へ。
かなりのキャリアがあり、作品が映画化されたこともある劇団の最新作ということで期待していたが、想像以上に重厚な作品だった。
いわゆる「辺境のユートピア」モノ。刑務所の中で知り合った元受刑者4人とその知人*1が、社会から逃れるように移り住んだ福島*2にある山村での共同生活とその崩壊が描かれる。
この生活は、獄中で自死した男が4人に出所した後の夢として語ったものであり、その彼の存在が4人をゆるく結びつけている。
受刑者の罪状は詐欺、薬物ブローカーと様々だが、彼らからはどこか憎めないような人の良さがにじみ出ている。そんな彼らだからだろうか、同じ工場で知り合った者同士での農業移住と身分を偽って移り住んだ先でも少し怪しまれながらも地域に馴染んでいく。
こういった作品の定型として、「最初は地元住民に歓迎されて幸せな生活を送るが、徐々に素性がバレて徐々に日々が壊れていく」というパターンがあるように思う。
1幕の終盤、中村中演じるトランスジェンダーの女性(MTF)の友人*3が売り物のヘロインに手を出して中毒になってしまった彼氏を連れて来る。彼らの生活が、外部からの横暴な闖入者によって破壊されるのかと多くの観客は思ったはずだ。
しかし、再び幕が開くと男は落ち着きを取り戻し、共同体の一員として受け容れられる。彼らのユートピアはそれなりに強固なものであったのだ。
その中で惹かれ合う者もいた。元ドラックの売人と交通事故で子を無くした高齢女性、父子を母国に置いてきたフィリピン人女性と詐欺を働いた男、そしてその父とうまく付き合えない思春期の娘。
もちろん描かれるのは彼らの間にある愛だけでない。修道女を辞めた女*4は神の愛と赦しを説き、地元の名士の娘は村役場で働く冴えない夫との離婚を考えている。ヘロイン中毒の男をその彼女は過剰なほどに案じ、男はその愛に甘え続ける。なかなか子を授かることができない、という「ありきたり」な悩みを持つ夫婦。彼らは人並みに苦悩しつつ、それでも穏やかな日々を送っていた。
しかし、これまたありきたりな言い方にはなるが、幸せな生活は長続きせず崩壊へ向かっていく。やはり受刑者たちの過去は徐々に暴かれ、地元の人々の間に若干の距離ができてしまうのだ。ただ、彼らは同じ家で住み続け、交流も続いていた。
最終盤にかけて、舞台設定が2011年3月であることが示される。彼らの偽りの生活を決定的に破壊したのは自然という、さらに外部の存在であったのだ。
震災によって暴かれるのは、磐城にアルバイトに行っていたというヘロイン男の嘘だけでなく、様々な真実が一気に露呈することになる。その中でも苛烈なのが、ブローカの男から買った薬が原因で、女の息子が交通事故死したという事実だろう。
この2人が感情をぶつけ合うシーンは凄みがあった。崩れた家の下敷きになった男に「私の願いの方が強かったねぇ」*5と言い放ち立ち去る女、元修道女が彼の元に駆け寄って手を取り、主の祈りを繰り返し唱える中で「本当は神様や許しなんてどうでもよくて、あんたと一緒に居たかっただけかもしれない」*6と吐き捨てる男。女の怒りと男の後悔と諦観にどこか背筋が凍る思いだった。
しかし、この舞台が素敵なのは、「残酷な真実が露呈しました、終わり」とならずに一縷の希望を残すことだろう。彼らは元の生活に戻っていくが、父娘はお互いを理解し、名士の娘も元の鞘に収まる、そして一時は相手の死を願った女も元売人と共に過ごすことになる。そこにどんな経緯があったのかは描かれない。
ただ、そんな少し暖かい結末を導いたのは何かをを許すことかもしれないし、何かを愛し続けることなのかもしれないなと思った。そしてそれは綺麗な「love you」ではなく、母国に帰るフィリピン人が発した東北訛りの「らぶゆ」のようにちょっと野暮ったい、それゆえに心からの気持ちなのかもしれないと柄にもないことを思った。
余談にはなるが、あれから8年、図らずも震災をテーマにした舞台を見ることになって少し驚いた。少なくとも震災を歴史上の出来事として消化しきれない人々にとって、今も「震災後」の世界は続いているのかもしれない。
6/5 STRAYDOG『おとうさんとわたし』
固定ファンも多い、音楽モノの芝居を観た。
内容自体はよくある「好きなモノを追い求めるっていいよね〜、いつか理解されるよ」といった売れないバンドマン、演劇人の自己弁護的なストーリーの範疇を脱していないと感じてしまった。
さらに、その一生かけて提示したいほど好きなモノの内容が「BIG FACE」「(顔が)デカいナガい」というのがあまりに貧相だと感じてしまった。
それでもある程度の説得力を持たせることができるのが、音楽のなせる業なのかもしれないと思った。
6/9 モダンスイマーズ『ビューティフルワールド』
当代随一の脚本家との声もある蓬莱竜太が所属する劇団の20周年記念公演。
3月に観た『母と惑星たち、および自転する女たちの記録
*7 』と同様、シビアな現実を温かく描く彼らしい作品であった。
こちらの内容も広義の「辺境のユートピア」ものと言えるかもしれない。軸となるのはと夫からのDV、モラハラに苦しむ中年女性、衣子とその家に居候することとなった40歳引きこもりニート、夏彦の恋愛だ。
2人は社会や家庭といった環境から迫害*8を受けており、そこから逃げる様にして結ばれる。それはいわゆる大恋愛ではなく、お互いがお互いを精神の拠り所として必要とした結果の関係だった。
もちろん、真っ只中にいる2人はお互いを必要としているだけで、別に好意を持っているわけではないということに最初は気づかない。彼らの姿は生き生きとしており、以前には得られなかった安寧を得ている限り両者を峻別する必要はないのかもしれないとも思わされる。
しかし、徐々に2人の関係にも不穏さが漂っていく。きっかけはちょっとした嫉妬や疑念、小さな嘘もあったかもしれない。しかし2人のすれ違いの最大の原因は安らぎと「誰かに求められた」というだけで夏彦を少しだけ尊重する様になった周りの人々からの承認を得たことによって、お互い*9が相手を必要としなくなったことだった*10。
そしてすれ違いはどんどんと大きくなり、2人の精神状態は以前の様に落ち着かなくなってしまう*11。しかし、喧嘩をする様になっても意見をぶつけることなく有耶無耶に済ませてしまう。それは、お互いにとって相手は拠り所となる「生存に必要な存在」であって、意見をすり合わせるほど興味をもてる存在ではなかったからなのかもしれない。
2人の関係はやがて終わりを迎えるが、その終わり方がこの作品の白眉だろう。2人は喧嘩別れをするのではなく、他人のはちゃめちゃな恋愛沙汰*12を見た夏彦が世界を面白いものとして肯定的に捉え*13、そこにコミットする手段として衣子の庇護の元から旅立つ(「 どうだっていいって思ってたけど、今ははっきりと逃げたいと思えてるから」)ことを決意するのだ。
そして衣子も一時は食い下がるが、別れを受け入れる。そして別れ際に「きっと気にいるよ」というこの作品の核心を夏彦に投げかける。 2人で過ごした時間と味方ができたという経験は、周囲に迫害され続け、心を閉ざしてしまった夏彦が環境を「気にいる」きっかけとして必要であったのだろうと思うし、きっとこの他の手段では達成できないものであったとも思う。
愛する、肯定できると言い切らない、「気に入る」という控えめな表現がとっても素敵だと思った。
夏彦も当初は何を「気にいる」のかわからなかったが、帰路、兄夫婦が妊娠したと聞いて兄に同じように「きっと気にいるよ」と声をかける。「何を?」と聞き返す兄に夏彦は「セカイ?」と答えて物語は終わる。
ここまで直截的に表現されたことには驚き、少し興ざめだと思う反面、衣子と別れて一人になった後でも、夏彦がここまで「セカイを気にいる」ことに希望と確信を持っていることにどこか救われる様な気がした。
演劇作品には珍しく、戯曲が刊行されている(「すばる 7月号」)ので興味がある人はぜひ手にとってみて欲しい。
*1:娘、友人と様々である
*2:脚本家の出身地らしい
*3:2人は過去に交際していた
*4:元々福島に住んでいた
*5:うろ覚え
*6:こちらもうろ覚え
*7: 2019年3-4月 観劇記 - Trialogue
*8:前半はその迫害を事細かに描くことに費やされる。このことが後半の説得力を増している
*9:特に夏彦
*10:「ただ、ちょっと楽しいと思うにつれて衣子さんのことがだんだんと…」
*11:「あれ、なんだろうこれ、夏彦くんがだんだんあの人みたいになってきてる」「あれ、いつの間にかお父とお母にあたっていた時みたいになってる、なんでだ!?」
*12:BGMも相まって劇場で大笑いしてしまった
*13:「いいなぁ、叫びたい!俺もあそこに入って、罵倒して、罵倒されて!あぁぁ、叫びたい!」
2019年5月 観劇記
はじめに
先月もあまり忙しくもない研修の合間を縫っていくつかの舞台を鑑賞することができました。放っておくと感想すら忘れてしまいそうなので、4月分と同様に書き留めておきます。
4/30 アーバンギャルド presents 平成死亡遊戯
平成最後の日、高校時代の友人と表参道にライブを見に行った。
3月にギターが介護離職した後初めてのライブということもあり、フロアにも若干の緊張感があったように思える。実際は今までと同様、サポートメンバーを加えた編成での演奏がメインであったが、数曲は正規メンバーのみでテクノ風に披露されていた。
もちろん馴染みの問題もあるだろうが、前者の方が好みだった。
彼らのライブは、CDでは身体性が薄い歌詞と音像の楽曲が、ドラム,ベースを加えた形で目の前で披露され、大勢と共有することが魅力だと感じていたので、後者ではCDの音源を流されているのと大差なく感じてしまった部分もあったと思う。
余談にはなるが、彼らの長年のテーマが「少女元年*1」で直截的に表現された中、次にどのようなスタンスの楽曲が発表されるのか楽しみに感じてもいる。
ライブ後は渋谷のスクランブル交差点に行こうとしたが、あまりの混雑に辟易し帰宅。テレビを観ながら元年越しを迎えた。
5/3 STRAYDOG 『それからの夏』
いわゆる「昔の地下演劇」を初めて観劇した。何度も再演された、その筋の方々には有名な作品らしいが、期待に違わず素晴らしかった。
話は抽象的だが明快で、ある男とその親友、そして4人の女(春子,夏子,秋子,冬子)の関係がバラバラの時間軸で描かれる。
男は常に走っている。ある女は彼を深く慕い、ある女は死と孤独に満ちた狭い街から一緒に抜け出そうと誘い、ある女は理由も分からぬまま男に惹きつけられ、ある女は走る彼をどこか突き放しつつも優しく見守る。
友人は男をアニキと慕いながら彼の影を追いかけ、追い抜こうとしている。
だが男は決して絆されて立ち止まらず、女と交わっても、友と共にあっても、彼にとってそれは偶然同じ道を、同じスピードで走っている間柄に過ぎないということが描かれている。
途中までは男のナルシシズムと自己中心性が目立つが、その分終盤で彼の心情が明かされた時、その真摯さが際立つように思えた。
彼は自分と、自分の目の前にあるものから目をそらすことなく見据えて走っていたのだった。「死は死としてそこにあり、孤独は孤独としてそこにある」という開き直りのような宣言がいやに明るく響いた。
余談にはなるが、傷痍軍人が割と唐突に登場するのにどこか時代を感じた。
5/19 渡辺実希 『身内に不幸がありまして』
初めての一人芝居観劇。原作小説が手記風であったこともあり、かなり朗読劇に近い形だった。
内容はさておき*2、渡辺さんの眼の表現力には驚かされた。怯えや怒り、喜びなど様々な感情がダイレクトに伝わってきた。
演出面では、一人芝居にいかに外部性を導入するかという点でやはり苦労していた印象。洋服やメトロノーム、スカーフや本など様々な小道具が上手に活用されていたが、俳優の代用品としての印象も強く残ってしまった。
客入れの時にかかっていた曲*3で、吉澤嘉代子を知ることができたのが最大の収穫かもしれない。
5/21 キャラメルボックス 『ナツヤスミ語辞典』
毎回のことだが本当に素晴らしかった。ベタな表現だが、笑いと涙と共に物語世界に丁寧かつ深く誘われ、劇場から出た後に同じ風景が少し輝いて見える、そんな体験は滅多にできるものではない。
平成元年初演とのことだが、全く古さを感じさせない演出と脚本の書き換えは見事。
あらすじは、悪人といった悪人も登場せず、狭い人間関係内でのいわゆる「いい話」の範疇だが、とにかく見せ方が上手。劇団のテーマである「人が人を想う気持ち」の強さが最後に報われるのも同様だが、今作はそれに呼応する形で「人が自らを信じる気持ち」も高らかに宣言されるのも素敵。
この公演が終わった先日、劇団の活動休止が発表された。ガレージセールやこの公演*4の存在を考えると、おそらく、随分前から決まっていたのだと思う。そんなものを微塵も感じさせず、最後までエンターテインメントに徹した彼らを強く尊敬する。
思えば、中学生の時、最初に演劇に触れたのも、大好きな作家がこの劇団に書き下ろした『猫と針』という作品で、大学生の時、本格的に観劇を始めたのも『スロウハイツの神様』がきっかけだった。
正直、キャラメルボックスのオリジナル作品が小説なり映画なりになっても、自分はそんなに気に入らなかったと思う。話がベタすぎて説得力に欠けてしまうのだ。
しかし、一度それが演じられると、彼らのまっすぐな言葉はスッと心身に馴染み、何の違和感もなく受け入れられてしまうのだ。それは「自分はこんなピュアで素朴な物語を愛せるのか」と自分で驚くほどであった。そして、彼らが王道とされ、多くの支持を集めている事に納得しつつ、どこかでホッとしていた気もする。
そんな風に演劇というメディアの可能性と面白さを知るきっかけになった彼らは、自分にとっては本当に大切な存在だったし、これからもあり続けると思う。
5/26 悪い芝居『野生の恋』
こちらも15年と長い歴史があるカンパニー。
苛烈なまでの一目惚れの片思いをしているという2人のラブストーリーを主軸として描かれている。
もう一つの軸であるタイムトラベル要素の存在意義を掴みきれず、ぼんやりとした印象になってしまった。仮に「こういうことは不確定だから面白い」程度であるのなら少し残念に思う。
終盤にかけても、パートナーを得ることで激しい感情が制御できるのか、それはいったいどのような形なのか描ききれていない印象を受け、消化不良感が残ってしまった。
5/26 悪い芝居『暴動の後、さみしいポップニューワールド』
新作2本立ての2本目。『野生の恋』とは対照的にいい意味で騒がしく、カラフルな舞台。『野生の恋』での歌唱が印象的だった、煙子の生い立ちが描かれる。
「他人の目を気にせず自分が思うままに表現するしかないよね〜」的な結論は極めてありふれているが、その境地を「さみしい*5ポップニューワールド*6」、そしてそこに至るまでの苦しさと葛藤を「暴動」と表現するのは上手。
その結論に達した煙子が最初にどんな曲を歌うのかが焦点だと思っていたが、タイトルコール*7のみで終劇し、肩透かしを食らった気分になった。
笑いの取り方は、同じことを何度も繰り返したり、奇抜な格好で登場するなど比較的非言語的で暴力的な形なのも印象に残った。関西の劇団が全てこう、というわけではないだろうが、どこか吉本新喜劇の影も見え隠れした。
2作とも魅力的な特定の表現にドライブされる一方で、独りよがりで起伏に乏しい展開になってしまう傾向がある脚本という印象を受けた。どちらかというと演劇よりも作詞や音楽向きな想像力な気もする。
追いコン用スピーチ原稿 (卒業によせて②)
はじめに
今回はメモ程度に卒業時に話そうとしたことを残しておきます。当日は日和って言いたいことの半分も言えなかったのでリベンジの要素もあるかもしれません。
スピーチ原稿
まず、こんな素晴らしい会を企画し、参加していただいた皆さん、ありがとうございます。
2年生でひょんなことから途中入部して、5年間という長いような短いような時間を過ごした軽音部は私にとって、「音楽のテーマパーク」のような存在でした。
現実のテーマパーク、例えばUSJやディズニーランドにも、アトラクションを楽しむ、ショウを楽しむ、デートの舞台にする、友人と一緒にいることを楽しむ、色々な楽しみ方があると思います。
軽音部も同じです。ライブという環境を楽しむ、物理現象としての音楽を演奏すること、聞くことを楽しむ、誰かの言葉と向き合う、自分がかっこいい存在であるとアピールする、色恋沙汰の材料にする、うまくいかない学業から逃避する…、皆さん色々な楽しみ方をしているように見えました。
それらを1つにまとめていたのが「音楽が好き」というテーマ、お題目なのだと思います。
テーマパークを楽しむマナーとして、そのお題目を疑わず、積極的に信じるというものがあると思います。いくら巨大な、日本語を喋るハツカネズミも、そこにいるのは「ミッキーマウス」であり、それを不自然だ、着ぐるみだと指摘することは極めて正しいがゆえに、極めて間違っていることであるのだと思います。
言い換えると、テーマパークとは物語、あるいは虚構が支配する空間であり、信仰、あるいは嘘が必要な空間でもありました。
しかし私はミッキーマウスを観ると、直感的に着ぐるみの中にいる人を考えてしまうタイプの人間、テーマパークに馴染まない人間でした。捻くれようとしているわけでも、こうなりたくてなった訳でもありません。それが私にとっての自然であり、普通であり、現実なのです。
そんな私は高校生の時まで、ベースとギターの違いすらわかっていないような人間、言うなれば音楽の洗礼を受けていない人間でした。
しかし、きっかけは省略しますが、色々な縁があってこの部活に流れ着きました。
入部当時はわからないことばかりでした。どうしてみんな同じように手を振り上げるのか、何故ギターソロがかっこいいとされ(動作)こんなことをされるのか、音楽が好きなのならなんでそれと向き合わずに走り回るのか、頭を振るのか、何故焼き直しのような歌詞を絶賛できるのか、何故音楽よりも音楽が好きな自分が好きなように見える人間が溢れているのか。
当時はその違和感は自分の不勉強が原因で、いずれ自分も「音楽が好き」という状態になり、馴染めるようになるだろう、と思っていました。
そんな自分は必死に「音楽が好き」になろうため、「音楽」を信仰しようとしていました。それがこのテーマパークで楽しくすごす為の、たった一つのやり方のように思えたのです。
しかし、そんな試みも徐々に限界に近づき4年生が終わる頃にはすっかり疲れ切っていました。個人練も練習もライブもちっとも楽しくなくなってしまいました。
当時は何も分かっていなかったと今さらになって思います。
自分にとって軽音楽とは、電化された(言うなればエレクトリカルな)朗読劇だったのだな、と今は思います。つまり、歌詞が脚本、音楽は演出の一部、脚本が先、演出が後であるということです。
大事なのは、あくまで主観的な劇であって誰かに向けた演説ではないことです。みなさんも映画館に行って突然映画監督の”俺は完全感覚DREAMERなんだ”という自分語り*1や”これが本当の君たちの姿だ”というお説教が流れたら戸惑うはずです。それと似た事が私にとっては繰り返されていたのです。
もちろん、作品を作る人間に動機やメッセージがあるのは当然だと思います。しかし、それは基本的に「朗読劇」の題材や展開、演出などで恭しく提示されるべきだと信じています。もちろん「あとがき」「カーテンコール」のように作者が自らの言葉で語りかけることはあるでしょうが、ある程度具体的な形と共に提示されてこそ有効なのではないでしょうか。
よりシンプルに言えば、軽音楽のライブにおける、音という一方的な武器の強さに驕った演者の安易さや自省の足らなさ、そしてそれを良しとする観客-演者の距離の近さ、共犯とも言える関係がが最後まで許せなかったのだと思います。
その積極的な共犯関係が生み出す環境は、もう一つの意味で極めて「”あるアーティスト”のテーマパーク的」と言えるかもしれません。
もちろん、敗色濃厚な中でも色々な方法を試してみました。逆に意味を削りきった無害なバンド、オリジナルの脚本のバンド、より劇に近づけたバンド…、どれもうまくいきませんでした。何をしても私は音楽それ自体を好きになれず、音楽は私を拒み続けました。
最後の実験*2が、あんな普通の音楽からかけ離れた形になったのは必然だったのかもしれないなと思っています。自分が観たら面白いだろうな、自分が好きだろうなという要素を詰め込んだ最後の抵抗のようなものです。皆さんがあれを音楽と認めてくれたなら嬉しいです。
さて、こんな自分でも、ここまで続けて、様々な景色を見て、様々な話を聞いて、様々な知見を得ることができたのは、部員の皆さん、特に同級生のおかげです。私を辞めさせなかったのは、大学では部活に入っていないと生存に不利になるという強迫観や、一度組んでしまったという義務感もあったかもしれません。
しかし、皆さんと過ごす時間は間違いなく、とても楽しかったです。それだけで続けるのに十分な理由だったと確信しています。
最後に、下級生の皆さんに一つだけお願いをしたいと思います。皆さんの中にどれくらいの割合でいるかは分かりませんが、世の中にはきっと音楽がどうしようもなく体から溢れてしまう人がいるのだと思います。そんな人達には、この環境が必要なはずです。どうか彼らのためにこの場所を保ち続けてください。
その中で、皆さん自分自身が「軽音部」や音楽の何が、何故好きなのか見つけられたら、きっと幸せなことなんじゃないかと思います。
もう私は楽器に触れることも、舞台に立つこともないでしょう。しかし、皆さんが守っているこの歪で魅力的なテーマパークを想像するだけで、その場にいられたことを思い出すだけで、こんな自分でも音楽が好きなのかもしれない、と少しだけ胸を張っていられる気がしています。
長々とすみませんでした、ご静聴ありがとうございました。
うみのて『IN RAINBOW TOKYO』について
はじめに
今回は音楽についての記事を書いてみようと思います。
せっかくなので前の記事と少しだけ関連づけることができる作品をチョイスしました。
アルバムを通じて
8年前の大震災の風景を今でも覚えている。もちろん水田を飲み込む津波、燃え盛る気仙沼の街並みも衝撃的だったが、やはり身をもって体感した東京の姿が印象的だった。
東京は停電や交通機関の乱れ、物流の麻痺など都市機能のダメージが大きな問題となっていたが、幸運にも建物の倒壊などの物理的な被害は少なかった。
東北地方では、建造物とその上で繰り広げられる生活*1が同時に破壊された。舞台装置がなくなってしまったがために都市という物語を上演できなくなってしまった、と喩えることができるかもしれない。
その一方で東京では、舞台装置は綺麗に残ってしまっていた分、上演が中断されたという事実が強烈に示された。そのギャップが示す私たちの日常の脆さに恐怖感を覚えた事を今でも覚えている。
その中でも印象に残っている映像が2つある。1つは計画停電の地域を空撮した画像、もう1つはテレビで見たディズニーランドの映像だ。
計画停電で明かりが落ちたエリアを上から見ても、そこに人が住み、生活しているのかすらわからない。まるで街がその部分だけ死んでしまったような印象を受けた。そして街の生死が電力会社の一存で決まってしまうことに底知れぬ不気味さを感じた。
ディズニーランドの映像は、あの享楽的な空間が地震と停電によって生きて脱出すべき陸の孤島に変わってしまったことを私たちに伝えた。ミッキーもミニーも着ぐるみを剥がされ、キャスト*2は保安要員に役割を変えた。その姿は、私たちの街の死に様を端的に表していた気がするのだ。
関係者の努力もあり、日を置かずして私たちは学校や会社に向かうことができるようになった。しかし、私たちは街の死を見てしまった。日々の生活があっけなく失われることも解ってしまった。
そしてそんな私たちは、いつもと変わらない街並みの中、日常を簡単に破局に追い込む余震と原発事故に怯えながら日常と非日常の狭間で揺蕩う、まさにかりそめの生活を送り始めたのだ。
もちろん、8年も経った今では余震や原発事故への恐怖感は薄らいでいる。しかし、少なくとも私は日常や生活の脆さを見せつけられた。そしてそれは、震災のような「デカイ一発*3」だけでなく、大小さまざまな一発にすら耐えられないようなものなのかもしれないと心のどこかで思っているのだ。
このアルバムでは、そんな私たちの日々に潜む2種の非日常が淡々と描かれている。1つは上で述べたような日常が破壊された後に表面化する可能性がある”今後あるかもしれない”非日常、そしてもう一つは私たちが見過ごしてしまっているだけの”今ここにある”非日常である。
前者は大きな戦争やテロ、通り魔*4のようなもの、そして後者は死ねという言葉が平然と使われたり、他人のセックスの映像が何百万回も再生されるような”日常”である。
はっきりとした関係は述べられないが、これら2つの非日常は決して断絶しているわけではないと感じている。後者を見逃し続けると、前者のような取り返しのつかないことが起こってしまう、そんな気もしている。
また、この作品が素晴らしいのは、強烈な風景を強い言葉で描きつつも、フロントマンである笹口氏個人の意見が述べられないところだと思っている。もちろん題材を選ぶ時点である程度本人の問題意識は伝わってくるが、あくまで描かれるのは起こったこと、起こりうることで、それに対して笹口は意見を述べない。私はそこに彼が持つリスナーへの信頼が垣間見えるような気がしてならない。彼が鮮明に描いた風景を共有し、どうすべきか、どうあるべきかを考えるのはこの作品に触れた私たち一人一人の営みなのだ。そして彼はその余地を十二分に残してくれている。
門外漢ではあるが、サウンド面で特筆すべきはそのバランス感覚だと思う。リスナーがあまり触れたことのない、簡単には同意し難い世界観を、エモーショナルなボーカル*5や効果音的なギターで提示している一方で、どこかノスタルジックで耳触りのいい鉄筋や鍵盤ハーモニカのメロディが流される。また、楽器隊は1回聞いただけで耳に馴染んでしまうほどに特定のフレーズを繰り返している。
これらのサウンドはシビアな世界観に対する、リスナーの拒否感を軽減しているように思える。言い換えると、万人には受け入れ難いであろうボーカルを抑制した上で、トゲトゲしさを失わせない程度に耳馴染みを良くしたサウンドに載せることによって、それなりに聞かせるという企みが成功しているのだと思う。
現に彼のソロプロジェクトの音源では音楽面でのポップさが失われている。そして、ソロの楽曲のカバーとして制作されたはずのこの作品に比しても人気を得ているとは言い難い。
アルバム全曲の感想
以下では個別の曲について触れていきます。全ての内容について触れられるわけでは無いので軽めに仕上げました。鍵カッコで括った部分は歌詞からの引用です。
地獄の序盤
M1「TALKING BABY BLUES (HEY BOY HEY GIRL)」
「いかれちまった気分はどうだい わかっちまった気分はどうだい」
どのアルバムでも、1曲目がお気に入りになることが多い気がする。それは、アルバムの世界に誘ってくれる、抽象的な曲が配置されるからかもしれないと最近になって思う。
この曲も、街とそこを動く人をどこか俯瞰的に眺めつつ、「どっかで鳴ってるウォーニングサイン*6」を聴くという抽象的だが直感的に把握しやすい風景が描かれている。
確かにこの世界観を「わかってしまう」ことは「いかれてしまう」ことかもしれない。しかし、それでも私は私に喜びと憂鬱を与える都市に潜むものを理解したいと切実に思っている。なぜなら、わからないことは言葉にできず、言葉にしない限り私たちは憂鬱を晴らすことができない。そして「お前のその憂鬱はいつかお前の身を滅ぼ」してしまう。
そんな憂鬱を「とっとと吐き出し」、「楽になっちまう」ため、この作品と向き合うことはとても役立つと私は感じている。
M2「NEW WAR (IN THE NEW WORLD)」
「新しい戦争を始めよう」
前の曲とうって変わって具体的な1曲。原曲は秋葉原の歩行者天国にトラックが突っ込んだ事件に触発されて作ったと笹口氏が述べたこの曲では、日常に潜む「無差別の殺意/悪意」「不特定の死/怒り」が描かれる。こんな劣悪な感情が形を成したもの、もしくはそんな言葉に晒され続けることが「新しい戦争」なのかもしれない。
「新しい戦争」においてはっきりとした「敵味方」の区別はない。それゆえに「大事な人/大切な家族に指一本触れた」誰かに対する怒りの言葉もどこか空虚に聞こえてしまうのだ。
M3「もはや平和ではない」
「笑っていいとも!やってる限り平和だと思ってた」
詩人の谷川俊太郎の言葉に、「戦争が終わって平和になるんじゃない。平和な毎日に戦争が侵入してくるんだ。」というものがある。戦争と平和はデジタルではなくアナログな関係なのだ。
「誰も傷つけない/誰にも傷つけられないように」「慎重に暮らし」てたとしても、私たちはたくさんの「一人のバカ」によって否応無く日常的に「小さな悪意」を向けられている。それはM2にあるように新しく「小さな戦争」が日常に侵入している状態であり、それはもちろん完全な「平和ではない」。仮に日常を「平和」だと信じられていても、そこにはすでに建前や虚構によって「見て見ぬ振り」をされた「小さな戦争」が眠っているのかもしれない。
この曲はそんな「もはや平和ではない」という気づきが明るいメロディとユーモアを伴って繰り返されている。うみのてのテーマの核をポップに表した一曲だと感じる。
M4「WORDS KILL PEOPLE (COTODAMA THE KILLER)」
「俺はそれを見たんだ」
「死ね/殺す/消えろ/ゴミという言葉」を投げかけるという小さな戦争がもたらし得る「本当に死ぬ」という大きな結果を描きつつ、「俺はそれを見た」「俺は今日/頭の中で人をぶっ殺したよ」「誰でもやったことあるだろ/あんただってやったことあるだろ」と誰でも傍観者/加害者/(そして被害者)の立場になりうることを少ない言葉で鮮烈に描く名曲。この曲がリリースされた(2013)のちに、LINEで「死ね」と言われた女子大生がマンションから飛び降りたという事件が起こった*7のも印象に残っている。
「めでたいな」「お前が望んだことだろ/笑えよ」との皮肉とグロッケンの底抜けに明るいメロディの相性も抜群。
天国の中盤
M5「三億年」
「地球が生まれて三億年も経ったのに」
ここでは「新しい戦争」の果てに「ぷっつり切れた」私たちが繰り広げるかもしれない大きく、古い戦争が描かれる。
その風景は「あの世もこの世もない」ほどに破滅的で、「地球が生まれて三億年も経ったのに」の叫びが虚しく残る。
そして、ここまで絶望的な状況になって初めて「上下左右前後不覚/天国も地獄もありゃしねえ/だから今は眠らせて/あなたの腕の中眠らせて」と今後3曲に続く恋愛にまつわるモチーフが出現する。
今後数曲を聴くにあたって注目すべきは「だから」という接続詞だ。つまり、「前後不覚」になってしまうような絶望的で不安な状況に陥っているからこそ、安らぎを与えてくれる逃避の対象として「あなた」という相手を必要とするという因果関係が成立しているのだ。
これが2ndアルバムのリードトラックにもなっている「恋に至る病」の正体なのかもしれない。
M6「ぐるぐる回る」
「地獄は色々たくさんあるけど 天国は一つ」
ここまで大きな想像力によって導かれた地獄のような風景をたくさん描いてきたからこそ、たとえ酔っ払いが現実から逃避するための言葉だとしても「天国は一つ/あなたの腕の中」という言葉が途轍もない説得力を持つ。他の曲に比べると丁寧で地に足がついた言葉遣いも素敵な名曲だと思っている。
M7「SUICIDAL SEASIDE」
「深い暗い海の底 二人は結ばれる」
M6の現実的な内容と異なり、少年と少女が唯一安心できる相手と結ばれ、逃避するように海へ身を投げる風景を淡々と描く小曲。余談にはなるが、江戸時代には心中のことを「相対死に」とも呼んだそうだ。心中にまとわりつくロマンティックなイメージを払拭するために作られた法律用語だそうだが、こちらの方が一層情熱的な表現な気がする。
M8「SAYONARA BABY BLUE」
「落ちれば落ちるほど ドキドキが止まんないの」
「見るものすべて疑って感じることもなくなった」風俗嬢が、「そんなにも好き」と思える彼の存在によって救済されつつ、M7とは反対に「ぞうきんと呼ばれたって生き」ることを決意するといった内容。
娼婦が恋愛感情を持てる相手と邂逅する、というテーマは古今東西にあるが、心中や身請けではなく、誇りを持って仕事を続ける、という結末は珍しい。前者のような結末に至る背景として、娼婦の仕事に対する蔑視があることは容易に想像できるが、それをあえて無視できる作者の真っ直ぐな視線が前向きな明るさをもたらしている。
彼の眼差しは風俗嬢やAV女優、傷痍軍人、ホームレスなど社会の暗部と呼ばれる層に向けられているが、その描写は決してその存在を美化していない。露悪的だ、茶化していると批判したくなる気持ちも理解できる。しかし彼らは現実に存在しているのであって、その存在に善悪はないはずだ。彼らを見てはいけないものと判断し、疎外しているのは私たちの方なのかもしれない。
混沌の終盤
M9「東京駅」
「お前らなんか不自由だ、不自然だ」
恋愛による不安からの救済を描き、M8でアルバムを終わりとした方が綺麗で平和な終わりは迎えられただろう。しかし今作は前述の通り「平和ではない」。
ホームレスの「あいつ」は都市だけでなく、ほとんどの物語から疎外された存在だ。そんな彼から見ると私たちは「不自然で不自由な」ごっこあそびをしているように見えてしまうのだ。
そして、「考えようによっちゃ/ウソもホントだぜ/考えようによっちゃ/間違いも正しいぜとあらゆる虚構を相対化した上で、「俺の駅は東京駅」という彼だけのフィクションを唱えながら、「東京中の電気を消す」、「東京中の電車を止める」ことが出来る、つまり私たちのフィクションの上演を中断できると嘯く。
「あいつ」は私たちを相対化の果ての混沌*8に導くジョーカー的な存在であり、その姿は笹口氏本人と重なる部分を感じずにはいられない。
しかし、もちろん平和ではないものの、その混沌は既存のフィクションによって苦しめられてきた人間にとっては案外心地いいものなのかもしれない。
M10「正常異常」
「生活をしよう」
価値観が混ざり合う混沌が描かれた前曲に対して、これまでのモチーフを生かしつつ不条理劇的な混沌が描かれる1曲。個人的にはよく分からない1曲となってしまった。
M11「ATOMS FOR PEACE」
「非常事態は目の前に」
こちらもM10とコンセプトは同様。原子力は悪魔の契約だという一般的な言説を抜け出せていない。彼が大好きと公言しているトム・ヨークへのリスペクトとしての色合いが強いかもしれない。
M12「RAINBOW TOKYO」
「なんであんたそんなトクベツさ」
ここからはまとめの2曲。レコ発ライブの1曲目にもなる実質タイトルトラックは、M1の前半と同様、再度東京という都市を描いている。
ここでも東京は「のたうつ地面」の「地獄絵図」として描かれており、その中で持て余した「発狂するカンジョウ」がこのアルバム全体を貫いている。そんな感情の持ち主から見ると「どこにでもあるようでどこにもない」都市という不確かな環境を信じきり、安寧を得る「あんた」は「トクベツ」な存在に見えるのだろう。そして、何らかの理由で環境を信頼できなくなった自分が、二度と「あんたみたいにトクベツに戻れない」ことも理解しているのだろう。そんな穏やかな絶望にも似た憂鬱を吐き出してこのアルバムは終わりに向かう。
M13「FUNADE」
「パチンと音がして 世界を呼び起こす」
混沌を描いた後の「でもその混沌をかき分けて進む」という係り結びは多くの作品に登場するが、この作品も例外ではない。しかし、M10でも述べたが、「破壊と再生*9」を「あれは夜の終わり/光のはじまり」と破壊自体もより前向きに捉えているのがこの作品の特徴かもしれない。
*1:これら両方があって初めて都市と言えるのだろう
*2:出演者
*3:「もう”デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる。ハルマゲドンなんてないんだから。世界は絶対終わらない」『完全自殺マニュアル』より
*4:アルバムの1曲は秋葉原の歩行者天国での事件をうけて作られた
*5:音源ではかなり抑えられているが、ライブでは情感が豊かである。作品としては前者の方が好みだが、上演されるとしたら後者が好みだ
*6:表面化していない危険を知らせてくれているのだろう
*7:https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2101F_R20C14A2CC0000/
*8:彼の最新ライブのタイトルは「もはや平成ではない 『混沌元年』」だそうだ
*9:M1より