うみのて『IN RAINBOW TOKYO』について

 

はじめに


 今回は音楽についての記事を書いてみようと思います。
 せっかくなので前の記事と少しだけ関連づけることができる作品をチョイスしました。

アルバムを通じて

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 8年前の大震災の風景を今でも覚えている。もちろん水田を飲み込む津波、燃え盛る気仙沼の街並みも衝撃的だったが、やはり身をもって体感した東京の姿が印象的だった。

 東京は停電や交通機関の乱れ、物流の麻痺など都市機能のダメージが大きな問題となっていたが、幸運にも建物の倒壊などの物理的な被害は少なかった。


 東北地方では、建造物とその上で繰り広げられる生活*1が同時に破壊された。舞台装置がなくなってしまったがために都市という物語を上演できなくなってしまった、と喩えることができるかもしれない。 

 その一方で東京では、舞台装置は綺麗に残ってしまっていた分、上演が中断されたという事実が強烈に示された。そのギャップが示す私たちの日常の脆さに恐怖感を覚えた事を今でも覚えている。

 

 その中でも印象に残っている映像が2つある。1つは計画停電の地域を空撮した画像、もう1つはテレビで見たディズニーランドの映像だ。

 計画停電で明かりが落ちたエリアを上から見ても、そこに人が住み、生活しているのかすらわからない。まるで街がその部分だけ死んでしまったような印象を受けた。そして街の生死が電力会社の一存で決まってしまうことに底知れぬ不気味さを感じた。

 ディズニーランドの映像は、あの享楽的な空間が地震と停電によって生きて脱出すべき陸の孤島に変わってしまったことを私たちに伝えた。ミッキーもミニーも着ぐるみを剥がされ、キャスト*2は保安要員に役割を変えた。その姿は、私たちの街の死に様を端的に表していた気がするのだ。

 

 関係者の努力もあり、日を置かずして私たちは学校や会社に向かうことができるようになった。しかし、私たちは街の死を見てしまった。日々の生活があっけなく失われることも解ってしまった。
 そしてそんな私たちは、いつもと変わらない街並みの中、日常を簡単に破局に追い込む余震と原発事故に怯えながら日常と非日常の狭間で揺蕩う、まさにかりそめの生活を送り始めたのだ。

 

 もちろん、8年も経った今では余震や原発事故への恐怖感は薄らいでいる。しかし、少なくとも私は日常や生活の脆さを見せつけられた。そしてそれは、震災のような「デカイ一発*3」だけでなく、大小さまざまな一発にすら耐えられないようなものなのかもしれないと心のどこかで思っているのだ。

 

 このアルバムでは、そんな私たちの日々に潜む2種の非日常が淡々と描かれている。1つは上で述べたような日常が破壊された後に表面化する可能性がある”今後あるかもしれない”非日常、そしてもう一つは私たちが見過ごしてしまっているだけの”今ここにある”非日常である。


 前者は大きな戦争やテロ、通り魔*4のようなもの、そして後者は死ねという言葉が平然と使われたり、他人のセックスの映像が何百万回も再生されるような”日常”である。


 はっきりとした関係は述べられないが、これら2つの非日常は決して断絶しているわけではないと感じている。後者を見逃し続けると、前者のような取り返しのつかないことが起こってしまう、そんな気もしている。

 

 また、この作品が素晴らしいのは、強烈な風景を強い言葉で描きつつも、フロントマンである笹口氏個人の意見が述べられないところだと思っている。もちろん題材を選ぶ時点である程度本人の問題意識は伝わってくるが、あくまで描かれるのは起こったこと、起こりうることで、それに対して笹口は意見を述べない。私はそこに彼が持つリスナーへの信頼が垣間見えるような気がしてならない。彼が鮮明に描いた風景を共有し、どうすべきか、どうあるべきかを考えるのはこの作品に触れた私たち一人一人の営みなのだ。そして彼はその余地を十二分に残してくれている。

 

 門外漢ではあるが、サウンド面で特筆すべきはそのバランス感覚だと思う。リスナーがあまり触れたことのない、簡単には同意し難い世界観を、エモーショナルなボーカル*5や効果音的なギターで提示している一方で、どこかノスタルジックで耳触りのいい鉄筋や鍵盤ハーモニカのメロディが流される。また、楽器隊は1回聞いただけで耳に馴染んでしまうほどに特定のフレーズを繰り返している。

 

 これらのサウンドはシビアな世界観に対する、リスナーの拒否感を軽減しているように思える。言い換えると、万人には受け入れ難いであろうボーカルを抑制した上で、トゲトゲしさを失わせない程度に耳馴染みを良くしたサウンドに載せることによって、それなりに聞かせるという企みが成功しているのだと思う。

 

 現に彼のソロプロジェクトの音源では音楽面でのポップさが失われている。そして、ソロの楽曲のカバーとして制作されたはずのこの作品に比しても人気を得ているとは言い難い。

 

アルバム全曲の感想


以下では個別の曲について触れていきます。全ての内容について触れられるわけでは無いので軽めに仕上げました。鍵カッコで括った部分は歌詞からの引用です。

地獄の序盤


M1「TALKING BABY BLUES (HEY BOY HEY GIRL)」


 「いかれちまった気分はどうだい わかっちまった気分はどうだい」

 どのアルバムでも、1曲目がお気に入りになることが多い気がする。それは、アルバムの世界に誘ってくれる、抽象的な曲が配置されるからかもしれないと最近になって思う。
 この曲も、街とそこを動く人をどこか俯瞰的に眺めつつ、「どっかで鳴ってるウォーニングサイン*6」を聴くという抽象的だが直感的に把握しやすい風景が描かれている。

 確かにこの世界観を「わかってしまう」ことは「いかれてしまう」ことかもしれない。しかし、それでも私は私に喜びと憂鬱を与える都市に潜むものを理解したいと切実に思っている。なぜなら、わからないことは言葉にできず、言葉にしない限り私たちは憂鬱を晴らすことができない。そして「お前のその憂鬱はいつかお前の身を滅ぼ」してしまう。
 そんな憂鬱を「とっとと吐き出し」、「楽になっちまう」ため、この作品と向き合うことはとても役立つと私は感じている。

M2「NEW WAR (IN THE NEW WORLD)」


 「新しい戦争を始めよう」
 前の曲とうって変わって具体的な1曲。原曲は秋葉原歩行者天国にトラックが突っ込んだ事件に触発されて作ったと笹口氏が述べたこの曲では、日常に潜む「無差別の殺意/悪意」「不特定の死/怒り」が描かれる。こんな劣悪な感情が形を成したもの、もしくはそんな言葉に晒され続けることが「新しい戦争」なのかもしれない。
 「新しい戦争」においてはっきりとした「敵味方」の区別はない。それゆえに「大事な人/大切な家族に指一本触れた」誰かに対する怒りの言葉もどこか空虚に聞こえてしまうのだ。 


M3「もはや平和ではない」


 「笑っていいとも!やってる限り平和だと思ってた」
 詩人の谷川俊太郎の言葉に、「戦争が終わって平和になるんじゃない。平和な毎日に戦争が侵入してくるんだ。」というものがある。戦争と平和はデジタルではなくアナログな関係なのだ。

 「誰も傷つけない/誰にも傷つけられないように」「慎重に暮らし」てたとしても、私たちはたくさんの「一人のバカ」によって否応無く日常的に「小さな悪意」を向けられている。それはM2にあるように新しく「小さな戦争」が日常に侵入している状態であり、それはもちろん完全な「平和ではない」。仮に日常を「平和」だと信じられていても、そこにはすでに建前や虚構によって「見て見ぬ振り」をされた「小さな戦争」が眠っているのかもしれない。
 この曲はそんな「もはや平和ではない」という気づきが明るいメロディとユーモアを伴って繰り返されている。うみのてのテーマの核をポップに表した一曲だと感じる。
 
 


M4「WORDS KILL PEOPLE (COTODAMA THE KILLER)」


 「俺はそれを見たんだ」

 「死ね/殺す/消えろ/ゴミという言葉」を投げかけるという小さな戦争がもたらし得る「本当に死ぬ」という大きな結果を描きつつ、「俺はそれを見た」「俺は今日/頭の中で人をぶっ殺したよ」「誰でもやったことあるだろ/あんただってやったことあるだろ」と誰でも傍観者/加害者/(そして被害者)の立場になりうることを少ない言葉で鮮烈に描く名曲。この曲がリリースされた(2013)のちに、LINEで「死ね」と言われた女子大生がマンションから飛び降りたという事件が起こった*7のも印象に残っている。
 「めでたいな」「お前が望んだことだろ/笑えよ」との皮肉とグロッケンの底抜けに明るいメロディの相性も抜群。


天国の中盤


M5「三億年」


 「地球が生まれて三億年も経ったのに」
 ここでは「新しい戦争」の果てに「ぷっつり切れた」私たちが繰り広げるかもしれない大きく、古い戦争が描かれる。
 その風景は「あの世もこの世もない」ほどに破滅的で、「地球が生まれて三億年も経ったのに」の叫びが虚しく残る。 
 そして、ここまで絶望的な状況になって初めて「上下左右前後不覚/天国も地獄もありゃしねえ/だから今は眠らせて/あなたの腕の中眠らせて」と今後3曲に続く恋愛にまつわるモチーフが出現する。
 今後数曲を聴くにあたって注目すべきは「だから」という接続詞だ。つまり、「前後不覚」になってしまうような絶望的で不安な状況に陥っているからこそ、安らぎを与えてくれる逃避の対象として「あなた」という相手を必要とするという因果関係が成立しているのだ。
 これが2ndアルバムのリードトラックにもなっている「恋に至る病」の正体なのかもしれない。

 

M6「ぐるぐる回る」


 「地獄は色々たくさんあるけど 天国は一つ」
 ここまで大きな想像力によって導かれた地獄のような風景をたくさん描いてきたからこそ、たとえ酔っ払いが現実から逃避するための言葉だとしても「天国は一つ/あなたの腕の中」という言葉が途轍もない説得力を持つ。他の曲に比べると丁寧で地に足がついた言葉遣いも素敵な名曲だと思っている。

 

M7「SUICIDAL SEASIDE」


 「深い暗い海の底 二人は結ばれる」
 M6の現実的な内容と異なり、少年と少女が唯一安心できる相手と結ばれ、逃避するように海へ身を投げる風景を淡々と描く小曲。余談にはなるが、江戸時代には心中のことを「相対死に」とも呼んだそうだ。心中にまとわりつくロマンティックなイメージを払拭するために作られた法律用語だそうだが、こちらの方が一層情熱的な表現な気がする。

 

M8「SAYONARA BABY BLUE」


 「落ちれば落ちるほど ドキドキが止まんないの」

 「見るものすべて疑って感じることもなくなった」風俗嬢が、「そんなにも好き」と思える彼の存在によって救済されつつ、M7とは反対に「ぞうきんと呼ばれたって生き」ることを決意するといった内容。
 娼婦が恋愛感情を持てる相手と邂逅する、というテーマは古今東西にあるが、心中や身請けではなく、誇りを持って仕事を続ける、という結末は珍しい。前者のような結末に至る背景として、娼婦の仕事に対する蔑視があることは容易に想像できるが、それをあえて無視できる作者の真っ直ぐな視線が前向きな明るさをもたらしている。

 彼の眼差しは風俗嬢やAV女優、傷痍軍人、ホームレスなど社会の暗部と呼ばれる層に向けられているが、その描写は決してその存在を美化していない。露悪的だ、茶化していると批判したくなる気持ちも理解できる。しかし彼らは現実に存在しているのであって、その存在に善悪はないはずだ。彼らを見てはいけないものと判断し、疎外しているのは私たちの方なのかもしれない。

 

混沌の終盤


M9「東京駅」


 「お前らなんか不自由だ、不自然だ」

 恋愛による不安からの救済を描き、M8でアルバムを終わりとした方が綺麗で平和な終わりは迎えられただろう。しかし今作は前述の通り「平和ではない」。

 ホームレスの「あいつ」は都市だけでなく、ほとんどの物語から疎外された存在だ。そんな彼から見ると私たちは「不自然で不自由な」ごっこあそびをしているように見えてしまうのだ。
 そして、「考えようによっちゃ/ウソもホントだぜ/考えようによっちゃ/間違いも正しいぜとあらゆる虚構を相対化した上で、「俺の駅は東京駅」という彼だけのフィクションを唱えながら、「東京中の電気を消す」、「東京中の電車を止める」ことが出来る、つまり私たちのフィクションの上演を中断できると嘯く。

 「あいつ」は私たちを相対化の果ての混沌*8に導くジョーカー的な存在であり、その姿は笹口氏本人と重なる部分を感じずにはいられない。
 しかし、もちろん平和ではないものの、その混沌は既存のフィクションによって苦しめられてきた人間にとっては案外心地いいものなのかもしれない。

 

M10「正常異常」


 「生活をしよう」
 価値観が混ざり合う混沌が描かれた前曲に対して、これまでのモチーフを生かしつつ不条理劇的な混沌が描かれる1曲。個人的にはよく分からない1曲となってしまった。

 

M11「ATOMS FOR PEACE


 「非常事態は目の前に」
 こちらもM10とコンセプトは同様。原子力は悪魔の契約だという一般的な言説を抜け出せていない。彼が大好きと公言しているトム・ヨークへのリスペクトとしての色合いが強いかもしれない。

 

M12「RAINBOW TOKYO」


 「なんであんたそんなトクベツさ」
 ここからはまとめの2曲。レコ発ライブの1曲目にもなる実質タイトルトラックは、M1の前半と同様、再度東京という都市を描いている。
 ここでも東京は「のたうつ地面」の「地獄絵図」として描かれており、その中で持て余した「発狂するカンジョウ」がこのアルバム全体を貫いている。そんな感情の持ち主から見ると「どこにでもあるようでどこにもない」都市という不確かな環境を信じきり、安寧を得る「あんた」は「トクベツ」な存在に見えるのだろう。そして、何らかの理由で環境を信頼できなくなった自分が、二度と「あんたみたいにトクベツに戻れない」ことも理解しているのだろう。そんな穏やかな絶望にも似た憂鬱を吐き出してこのアルバムは終わりに向かう。

 

M13「FUNADE」


「パチンと音がして 世界を呼び起こす」
 混沌を描いた後の「でもその混沌をかき分けて進む」という係り結びは多くの作品に登場するが、この作品も例外ではない。しかし、M10でも述べたが、「破壊と再生*9」を「あれは夜の終わり/光のはじまり」と破壊自体もより前向きに捉えているのがこの作品の特徴かもしれない。

*1:これら両方があって初めて都市と言えるのだろう

*2:出演者

*3:「もう”デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる。ハルマゲドンなんてないんだから。世界は絶対終わらない」『完全自殺マニュアル』より

*4:アルバムの1曲は秋葉原歩行者天国での事件をうけて作られた

*5:音源ではかなり抑えられているが、ライブでは情感が豊かである。作品としては前者の方が好みだが、上演されるとしたら後者が好みだ

*6:表面化していない危険を知らせてくれているのだろう

*7:https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2101F_R20C14A2CC0000/

*8:彼の最新ライブのタイトルは「もはや平成ではない 『混沌元年』」だそうだ

*9:M1より