2019年11月 観劇記

 

はじめに

 11月は精神科ローテということもあって公私、心身共に充実した時間を過ごすことができました。

 こういった趣味で得たエッセンスは案外日々の診療に活かせると知れたのはどこか不思議な経験でした。

 

11/10 アーバンギャルド『令和零時のアーバンギャルドツアー』@渋谷CLUB QUATTRO

 約半年ぶりのアーバンギャルドのライブ。ノンフィクションソングから始まるという強気の構成に代表されるように、演者が自分の演奏や言葉への自信を取り戻しているような印象を受けた。4月の新体制後すぐのライブよりも格段に説得力があり楽しめた。

 


11/15 『ひとよ』@TOHOシネマズ新宿

 原作者が桑原裕子とのことで、久しぶりに映画へ。

 以前観劇した『らぶゆ』と同系統で、家族の存在と自らの過去というどうしようも無いものへの向き合い方がテーマとなっていると感じた。

 15年前、3人の子供達のためにDV夫を自動車で轢き殺した女(以後「母」)は取り返しのつかない過去の罪と向き合う。また、子供たちはそんな母と機能不全の家庭に育った影響と各々のやり方で向き合っている。

 妻に殺された男が経営していたタクシー会社は親族や知人の助けで15年後も存続していたが、そこに新たに勤める男も違法薬物のブローカーという過去があり、そのせいで離婚、子との離別に至っている。


 過去の罪や傷跡が穏やかで牧歌的な現在を脅かす描写はシビアで、登場人物の絶望が鮮烈に焼き付く。特に印象的だったのが、佐々木蔵之介演じる元違法薬物ブローカーの豹変ぶりだった。

 男は(恐らく服役した後に)暴力団のような組織から足を洗い、真っ当に生きていくことを決意している。元妻に引き取られた息子とも面会したり、小さな幸せを噛み締めていた。

 しかし、その息子はすでに自分が所属していた組織によって懐柔されており、薬物にも手を染めていたと知る。

 そして、男は真っ当に生きることに絶望し、自暴自棄になって「母」を乗せたタクシーごと海に身を投げようとする(3人兄弟に阻止されるが)。

 対照的に、4人家族はどこか希望を持たせるラストになっている。その差はどうしようもないものを「そこにあるもの」と認められる/許せるかか否かなのかなと感じた。


 別の観点では、家族関係というとどうしても子の視点が強調されがちな中、親からみた「どうしようもない存在」としての子を描く視野の広さには感服した。

 


11/16 ロ字ック 『掬う』@シアタートラム

 どこかの文章で、日本文学は宗教的なバックグラウンドの問題で「赦し、救い」を描くのが苦手だ、といった事を読んだことがある。

 そんな中で『すくう』というタイトルでどんな物を描くのか興味が湧き観劇したが、前日に引き続き家族のどうしようもなさがテーマだったので驚いた。

 正直1ヶ月半近く空いてしまったので記憶が曖昧。あまり印象に残らなかっただけかもしれない。

 


11/20 『地獄少女』@Humaxシネマズ池袋

 大学の後輩が原作を好んでいたようで、これも何かの縁かと思い鑑賞。

 正直あまり期待はしていなかったが、予想以上に出来が悪い作品だと感じた。


「恨みを持つ対象を地獄に送れる、その代わり依頼者も死んだら永遠に地獄行き」というシステムと、それを淡々と執行する「地獄少女」を軸にストーリーが進んでいく。

 重大な決断をする割に、登場人物の逡巡がほとんど描かれていないのが一番の不満点。「地獄少女」の登場回数や作品コンセプトの問題で登場人物/復讐の回数が増えすぎてしまったことが原因か。

 また、復讐した側のその後もあまり描かれておらず、これでは、「衝動的に拳銃で人を殺せる、その代わり死刑」という現代のルールとほぼ同じで、わざわざファンタジー的な設定を導入する意義に乏しいと感じた。


 「地獄少女」の人格や感情、背景に関しては敢えて描かなかったのかどうかは不明だが、妙な無機質さ・無慈悲さが強調されていて印象的だった。情状酌量の余地がある主人公に関しても前述のルールが例外無く適応される(ことが示唆される)が、ここに関しても後味の良さのために妙な許しや甘えを用意しなかったのは良かったと感じた。


 しょうもない感想としては、地獄をお試しさせたり、ルールを説明した上で契約の是非を任せるのは良心的な取引だなぁとも感じた。

 

 謎のV系バンドや地獄の表現など、笑いどころなのかわからないシーンも多かったが、映像表現のレパートリー、奇抜さは印象的だった。


11/21 『JOKER』@TOHOシネマズ新宿

 お口直しにということで評判が良い作品を鑑賞した。多くの人がこの作品について語っているので、今更語ることはは少ないかもしれない。

 ただ、主人公アーサーは「普通に生きる」事を諦めて悪へと堕ちた、と書かれた記事に引っかかる点があったので少し述べていきたい。


 アーサーの感覚は「世界の普通」からはズレている(「笑い病」だけでなく、コメディーショーを鑑賞している時に笑うタイミングがズレている事が印象的だ)。そしてそのズレを表現する方法も「笑い病」や知的な問題によって奪われている。

 そして、世界は「普通」からズレた存在(原文ではFreakと表現されている)に対して不条理なほどに厳しい(と少なくともアーサーは感じている)。冒頭の少年による突然の暴力、悪漢に絡まれる、上司に言い分を聞いてもらえない*1など、アーサーは事ある度に低い自尊心を傷つけられていた。


 それでもアーサーの様に世界とズレている人間は、世界から切り離されているが故に、世界とのつながりを強烈に求める*2

 そのつながりは基礎的(ローカル)な部分では家族や友人、パートナーに対応し、発展的(ソーシャル)な部分では職業や地位などの自己実現などになるのだと思う。


 アーサーはほとんど世界と繋がれてはいないが、母親だけは信頼できており、その言葉によってコメディアンになるという発展的な繋がり方を求めるようになる。その中である程度の友人関係なども築けているような描写も見られる。


 しかしその試みは失敗し*3、善意は踏みにじられ*4、暴力から守ってくれるものはおらず、福祉も手を差し伸べてはくれない。


 さらに悪いことに、隣人の女性とパートナーシップに繋がる良い関係を築けているというのは本人の妄想で、生き別れた大富豪の父がいる、というのはパーソナリティ障害、統合失調症(の疑い)を患う母の妄想で、その母は息子(自分)を虐待し、精神病院に強制入院させられていたという事を知ってしまう。友人だと思っていた同僚も自分を救ってはくれないことに気づく。


 このように世界とのつながりをほぼ完全に断たれゆく中で、彼は思わぬ形でソーシャルな繋がりを得てしまう。電車の中で絡んできた輩を射殺したところ、当時のピエロ(JOKER)のメイクが反富裕層・権力のアイコンとして祭り上げられてしまうのだ。

 警察から追われている時などは大衆=「普通」が自らの味方をし、多勢のピエロフェイスの中では自分が周囲と同化しているようなこれまでに無かったような感覚を味わう。

 ここで注目すべきなのはきっかけとなったこの行為が完全に自己防衛の為に行われたという点だ。彼は悪に堕ちようとして輩を射殺した訳ではないし、彼らの素性を知っていた訳でもない。


 彼は「普通に生きる」ことを諦めた訳ではなく、「世界とつながる=普通に生きる」ことを強烈に求めるが故に悪のアイコンを背負うというチャンスを掴んでしまっただけなのだと思う。

 現に彼は悪であることを目的とはしていない。小人症の同僚を「俺に優しかったのはお前だけだよ」といって逃してやるのがその証左だ。

 

 こういった現象や心理は多くの人がぼんやりとは認識している、そこまで斬新ではないことだとは思う。ただ、それを2時間のパッケージ内で例示するのはお見事だし、有意義な事だろうと思う。

 それを踏まえて2点気になった点がある。一つはアーサーが精神病院に送られる、つまり「病人=異常な存在」だとされている点だ。もちろん彼の背景には病的とも言える部分は大きいが、彼の情動は極めて正常で、理にかなう部分も多分にあると感じる。それまで纏めて「異常」なもの/理解できない、理解する必要がないものだと捉えられてしまう結末は避けるべきだったと感じる。

 もう一つは現実世界の出来事だ。この映画がアメリカで上映された時、銃乱射に備えて警備体制が強化されたというニュースだ。

 この映画はアーサーのような人間を産まないために、少しでも保護的な環境を維持しましょう〜、といったところに落ち着くものだと*5。それが、アーサーの感情に共感するだけでなく、行動までも重ね合わせてしまう人間がすでに存在していることに驚かされた。

 人によっては、現実はすでにゴッサムシティを超えるシビアな環境なのだと気付かされてハッとさせられた。


11/22 鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』@東京芸術劇場

アーティスティックなコンセプト*6を掲げる劇団。主催者の経歴も東大→東京藝大(院)とエリートコース。

 作品の内容自体よりも、作品の背景にある思想やコンセプトを伝えることに重点を置くという点ではかなり現代アートチックで、その中でもポップというよりはシリアス寄りな作品だと感じた。

 ある程度はっきりとしたストーリーはあるものの、台詞回しや表現方法はかなり抽象的で理解が追いつかない場面も多かった。こういう作品は興味深くはあるが、あまり楽しくはないので何本も観ていると疲れてしまうようのが難点か。

 作者の抽象化能力の高さが仇となることもあるのだな、と感じた。すでに存在する事物を分析する批評家やキュレーターとしての能力と、0から1を生み出す創作者としての能力は両立し得ないような気もする。

  

11/23 新国立劇場シリーズことぜんVol.2『あの出来事』@新国立劇場

 働き始めて身の回りで「個と全」について考えさせられることが増えたため鑑賞。

 ノルウェーウトヤ島で起きた銃乱射事件にきっかけを得て描かれたという背景からは社会派の作品のように思えるが、焦点は個と個の関係に向けられ、全は理解できない個を包括する集団として描かれている。

 基本的には恩田陸『ユージニア』と同様のテーマ。当事者になってしまう事の重さ、相手を理解して納得したいという身を焦がすほどの欲求などが描かれる。

 『ユージニア』とは違い、最終的に対話を試みて「理解できない存在」を許せるようになるのが大きな救いだと感じた。

 このシリーズは次作の『タージマハルの衛兵』も素晴らしかっただけに、第一弾の『どん底』を見損なったのが悔やまれる。

*1:ピエロの看板の件

*2:ズレていない人間は、一体化しているため敢えて「繋がる」必要はない

*3:小児病院で友人が渡した銃を落としてクビになる/コメディーショーに出るがうまく話せず、それを憧れのtv番組で晒し者にされる

*4:子供を笑わそうとしてその親に怒られる

*5:実際に監督もそう述べている。https://front-row.jp/_ct/17308681 の最終セクション参照

*6:

https://www.bird-park.com/15-1

2019年 10月 観劇記

 

はじめに

  10月は外科ローテで時間が読めなかったこと、夏休みをとってウズベキスタンへ行った関係で2本だけでした。

 外科ローテは偶然にもあまり忙しくなく、消耗せずに済んだのが今振り返っても本当にラッキーでした。

 

10/6 ゆうめい『姿』@三鷹市芸術文化センター星のホール

  MITAKA "NEXT" Selectionと銘打つシリーズの第三弾。

 コンセプトは、「作演出の池田亮の両親が離婚する*1のでその話をします」と言う強烈なもの。しかも実の父*2を実際に出演させてしまうのだから驚いた。

 そしてその父にモーニング娘を踊らせたり、V-Tuberのようなこと*3をさせたりなどやりたい放題。

 そのコンセプトの中で、「親/家族という存在のどうしようもできなさ」、「"それでも"両親を慕う子の気持ち」など様々なテーマがポップに、ただしっかりと描かれる。

 その中でも主題となるのは、「芸術への憧憬*4を捨てきれずにいるバリキャリ公務員の母」と「芸術の道に進んだ父/息子」の葛藤ではないかと感じた。

 真贋は別として、「ここにある」ことを徹底的に利用して感情を曝け出す、まさに舞台芸術と呼ぶにふさわしい作品だった。

 どちらかと言うと主人公、観客から遠い側に位置づけられた母親すらも「こちら側」に引き寄せる最後の演出も見事。 下半期早々とんでもないものをみせられてしまったと思った。

 3月には代表作を連日上演する企画があるそうで、そちらも今から非常に楽しみにしている。

 

10/6 水素74%『ロマンティック♡ラブ』@新宿眼下画廊

 

 初めてのダブルヘッダー。新宿眼科画廊という眼科とは関係ないスペースの地下で 、名前の通り画廊も併設されているのだが、一言で言えば「メンヘラ系のハコ」だそうだ。

 お話は一人のふしだらな女*5が運転し、冴えない男が同乗する車が、「人らしきもの」を轢いてしまうことから始まる。

 女は罪を知人に被せようとする。その代償に男の「恋人」になってやると言う*6

 その後は男の兄が出てきたり、男と女が結ばれたり結ばれなかったりするが、基本的には2人の男の内面での保身/自己と性欲/他人の綱引き、そしてそれを利用しようとする女という構図。

 タイトルは完全に皮肉で、アンチロマンチシズム全開の作品。これでもかと言うほど

男の愚かさと「好き」と言う言葉の空虚さが描かれる。

 ただ、やや話が単調にすぎる印象で「ここで終わりか」感が残ってしまった。どんでん返しを意図したであろう最後の内容も十分予想できるものだった。

*1:真偽の程は不明だが、主人公の設定などある程度実話に基づいた部分を作る、メタ演出を入れるなど、「本当らしさ」を演出するのも上手だ

*2:本業は舞台俳優らしい

*3:舞台上にHMDをかぶる60代男性とスクリーンに映った猫耳のキャラクターが同時に提示される

*4:そして強烈な感情の起伏

*5:演じていたのは元アダルトビデオ女優だそうだ

*6:「私の代わりに警察に行ってくれるほどに私のことを思ってくれているなら好きになっちゃう」

2019年 9月 観劇記

 

はじめに

 定時に帰る際に投げかけられる冷ややかな目線もなんのその、先月に引き続き9月も比較的多くの芝居を観ることができました。

 観劇趣味は決まった時間に決まった場所にいる必要があり、医者稼業と絶望的に相性が悪いとも感じています。

 

9/1 feblabo プロデュース『ナイゲン』@新宿シアターミラク

 タイトルの『ナイゲン』とは千葉県立国府台高校に実在する「内容限定会議」の略。この会議では文化祭の展示や、最後は全会一致、途中退出は禁止など自然発生的に定められたであろうルールが存在している。

 その会議を題材に描かれているが、もちろん平穏な風景が描かれることはない。今年は3クラス3学年、合計9クラスのうち1クラスが各々の企画を中止し、行政との関係で教員サイドから押し付けられた「節電エコアクション」を実施しないとならなくなったのだ。どのクラスも実施しない場合は文化祭の一般公開の中止、という厳しい条件も付いている。

 そのなかで、どのクラスが節電エコアクションをやるのか、どうやるのかなどについての取り止めのない議論がポップに描かれている。

 各所で再演されるだけあり、ユーモラスかつ熱量を持って高校生なりの自治、理想と現実のすり合わせを描いている。

 自治問題でお決まりの多数決の瑕疵(ある人がターゲットになった時、その他の人は反対するメリットが薄い)や、自由な議論の場における年長者・年少者の問題などもしっかり描かれていてとても興味深かった。

 最後の結末も上に政策あれば下に対策あり、といったもの。半ばジャンプ的な明るさも秘められていると感じた。力ないものの自律、自主性について考えさせられた。

 これは贅沢な要望だが、「誰がやるのか」というテーマの会議が途中まで描かれていたのに、それが不可抗力で決まってしまったのは少し残念だった。もちろん、それを議論で決めてしまわないからこその美しい結末なのだが。

9/3 おおくぼけいのベランダ@LOFT HEAVEN

 100人規模の会場で大槻ケンヂが見られるとのことで参加。

 穏やかな音楽がメインで心地よい時間を過ごせた。

 

9/4 Prelude『ここハ東京、ユメのなか』@シアター風姿花伝

 0点か100点かはっきりしてしまう日常と虚構というテーマに正面から向き合ってスパッと0点を叩き出した作品といった印象。

 仕事と家庭の両立に悩む金融業のキャリアウーマン、借金まみれになりながら豪遊する風俗嬢、レンタル彼女を生業にする女性、証券会社のマネージャの男などの光景がクロスオーバしながら描かれていた。しかし、東京/日常に潜む虚構性を示せていたのは金融業程度で、それもありきたりな表現に留まっていると感じた。

 20年後の東京にまつわる描写も極めて陳腐で、見ているこちら側が恥ずかしくなってしまう類*1のものであった。厳しい評価かもしれないが、作者の想像力の浅さだけが伝わってきて悲しくなってしまった。

 ただ、池袋演劇祭というプログラムでなんらかの賞をもらったよう。偉い人の考えることはよくわからんな、と思った。

 

 

9/6 マチルダアパルトマン『おへその不在』@下北沢 駅前劇場

 5月に観た『ばいびー、23区の恋人*2』のなんとも言えないおかしみが気に入り、次の作品も観に行った。

 話の趣旨は大きく違うのだが、「あぁ、同じ人が作ったんだろうな」というのはわかるのが不思議。

 今作は、コンプレックスだったでべそが突然どこかへ消えた人間の悲喜交々、というふれこみだったこともあり、2時間近くどのように観させるのか期待していた。

 実際の内容は前作以上にはちゃめちゃで、おへそについても直接触れられることはほとんどなかった。ただ、そのはちゃめちゃの中にも単純な繰り返しに頼らない理知的な笑いや、不思議な言語感覚に基く笑いが散りばめられていて、あっという間に終わってしまった印象。

テーマとしてはアイデンティティ周辺のことなのだとは思うが、あまり解像度高く観劇することができなかったのは心残り。

9/8 アーバンギャルド presents 鬱フェス@TSUTAYA O-EAST

 多彩な出演者に応じた雑多な感想があるので別にまとめます。

 

9/11 NICE STALKER 『暴力先輩』@ザ・スズナリ

タイトルとフライヤーのアバンギャルドさに惹かれて観劇。

2020年代の多様性と自由について考える異色女子正義譚」とのこと。内容は、多様性を重視しすぎると寛容性をたてにして不寛容への寛容や、強制への寛容への圧力が生じる。「多様」であることを良しとしているため、対話によるすり合わせも困難になり、最終的な解決手段として「暴力」が生まれてしまうのではないか、みたいな内容。それを防ぐためには、自分の認知のフレームの外にあるものを「理解しないが干渉もしない」みたいな解決策しかないよね、といった明るい諦めも感じた。

 ただ、「芸術表現を大義名分として個性的な女子をフィーチャーする」の劇団コンセプトの通り、今回フィーチャーされるみしゃむーそというアイドルにフォーカスがあたり、あまりテーマの掘り下げはされていない印象。結局みしゃむーそが強引に解決してしまうし。

 オリンピックのテーマソング『パプリカ』もその不自然さを助長している気がして少し不気味だった。これが作者の意図するところなのかは知りたいと思った。

9/15 柿食う客『御披楽喜』@本多劇場

 有名カンパニーの本公演とのことで興味が湧き観劇。 

 聞き取れないくらいの早口、長台詞、大きめの音響、しかも続き物であらすじもわからない、というでって正直あまりわからなかった。

 アフタートークで観客の老婆が似たような感想を述べていて一安心。それに対する作者の返答も「極限まで役者の肉体と精神を追い込み、演者の中での律動、そして舞台と客席の律動がどんなものになるか〜」とアーティスティックでよくわからず。

 確かに、他の芝居に比べると役者の身体性は表面には出ていたので、ストレートプレイというよりもダンスやミュージカルの様な見方をするのがいいのかな、と感じた。

 

9/20 iaku『あつい胸さわぎ』@こまばアゴラ劇場

 フライヤーを見て興味が湧き観劇。開演後に評判が評判をよび、全回大入りだったようだ。

 女子大生が抱く幼馴染みへの淡い恋心とその初恋の顛末、そしてその娘を女で一つで育ててきただらしない母親の十数年ぶりの恋が並行して描かれる。

 描写は優しい響きの関西弁に導かれるよう、話も平穏に進む。娘が乳がんの疑いで精密検査となったことから話が動き出す。とはいっても激しい展開や感情の表出がない中でじっくり、心理的な揺れ動きは描かれるのは印象的だった。

 最後はがんではなく、病の可能性を知って自分と向き合えました、というような展開を予想していたが、完璧に裏切られた。

 結果は早期の乳がんで、乳房全摘か部分切除(再発のリスクが高い)を迫られることとなる。それを踏まえた母、娘のそれぞれの思いが強烈に伝わってきたのと同時に、両者の分かりあえなさも感じてしまった。

 いや、初期乳がんだったら基本温存でセンチネルリンパ生検で…みたいなのが頭に思い浮かぶのは職業病か。

 

9/28 阿佐ヶ谷スパイダーズ『桜姫 〜燃焦旋律隊殺於焼跡〜』@吉祥寺シアター

 タイトルは「燃えて焦がれてバンド殺し」と読む。

 原作:四代目鶴屋南北という触れ込みどおり、歌舞伎『桜姫東文章』を換骨奪胎した演劇。

 効果音(小豆を使って波の音を演出、動きに合わせた鼓の音など)やBGM(何度も繰り返し同じ曲が用いられるが、その気の抜け方は絶妙だった)も生、奈落の使い方も上手。外連味のある演出(背景にあったドアが開いて外の道路が見えるなど)も歌舞伎らしさと言えばらしさか。


 内容としては、ほぼ最後まで原作のストーリーをなぞりつつ、舞台を戦後日本に移したというところで、大きな違いは、主人公の高貴な出生、というのが不確かな主張にとどまるくらいか。

 やはりキーポイントとなるのは楽隊。物語の転換点や重要場面でたびたび登場し、登場人物を原作の「物語」へと導いていく。

 しかし、最後の最後、原作とは異なり、桜姫はお家再興に成功することも、自分の旦那*3をあやめることもない。姫は無惨にも殴り殺され、楽隊の面々も同様にたおれ、音楽は徐々に止んでいく。そこに残ったのは「物語」よりも生きることを優先せざるを得ない男(そして、死んでもなお生きることを諦められなかった清玄)だけだったのだと思う。

 逆に考えると、楽隊やその音楽は現状に満足できなかったり、人生に彩りや外連味を求めてしまうような美しく、贅沢な人間の欲や業のようなものなのかもしれないと感じた。

 そして欲は「戦後」という荒れた時代には仇にしかならないものだったのかもしれない。

 とにかく原作の流れを最後で裏切るというギミックはとても素敵。上半期最後にいい芝居を観られて幸せだった。 

*1:「故人をAI化してスマホで持ち歩く」、「自動運転」

*2:動画が連続ドラマ形式で配信されている

*3:原作どおり、姫を無理やり孕ませたり、置屋に売り払ったりなどかなりの悪党だ

アーバンギャルド 『少女都市計画』について

 

はじめに

 先日、とある演劇を観に行きました。その劇団名があるCDアルバムと似通っていたこともアンテナに引っかかった理由の一つでした。

 演劇は素晴らしく、さらに自分がそのCDから感じ取ったものと同様のメッセージが込められていると感じました。後にその劇団の処女作ではバンドの曲が多数引用されていたことを知りました。

 もちろん鑑賞は極めて個人的なもので、正解不正解はないのは重々承知です。ただ、同じものに触れた人間が似たメッセージを受け取っていた、というのは否応なく嬉しいことでした。

 

 デリケートな作品の分、おっかなびっくりにはなりますが、彼ら/彼女らに背中を押される様に2つの作品について感想を残しておきたいと思います。

 

全体を通して

概念の娼婦

 このアルバムを通して描かれるのは「概念の娼婦*1」が主体性を取り戻す過程であると感じました。

 

 エリクセンのライフサイクル論をひくまでもなく、青年期は男女問わず、自己同一性の確立が大きな課題となります。しかし、その時期に男女が置かれている環境、社会との距離感はその性別により大きく異なるように思います。

 

 現代社会において、青年期の女性は行動ではなく存在に対して需要/欲望が発生してしまう存在と言えるかもしれません。それは生物学的な理由だけでなく、絵画から文学まで様々な文化が彼女たちの肉体に纏わせてきた憧憬や幻想によるところも大きいと思います。そしてその欲望は否応なく彼女たちを社会へ巻き込んでいきます。

 それは暴力や「JKビジネス」の様な搾取など、わかりやすい被害者-加害者関係の形をとることもありますが、もう少し穏当で隠密な共犯関係のような形をとることもあるように思います。

 

「説明しよう、都会の仕組み」

 そもそも、取引や行為が成立するためには買う人と売る人の意思が一致することが必要です。さらに、消費社会において私たちは常に代替可能な消費者として求められています。

 

 例えば、私たちはコンビニに行き「欲しいもの」を買いますが、それは同時にコンビニが「売りたいもの」でもあります。また、私たちがコンビニに行きたくなる時もそうでない時も、同時に私たちはコンビニの経営者から消費者として求められています。ただし、売る側の欲望は、私たちの「欲しい」という感情を惹起させるような広告で上手に隠されており、なかなか表沙汰になることはありません。

 

 このように、私たちの周りにあるほぼすべての事物は私たち一人一人の「買いたい」欲望と私たちの中の別の人の「売りたい」欲望が結託した産物*2と言えるのかもしれません。そしてそれが私たちの周りをパッチワークのように埋め尽くし、都市を形作っているのだと思います。

 

 もちろん、売りたい/買いたい欲望の力関係は対等ではなく、それが反映されたパラメータの1つが価格(≠価値)*3なのだと考えます。

 そして、価格は単純に欲望のバランスを表したもので、価値*4とは因果関係を持たない*5ことを常に意識する必要があると思っています。

 

「少女性」について

 そのような社会において、買い手は売り手に対して常に「売るように、売るならばいい売り手*6であるように」という一方的な欲望を持っています。

 その欲望は極めて身勝手であり、本来無下にできるようなものです。存在が欲望されることは、他人に媚びない「強い売り手」となり、都市における自由を確保できる特権的なことですらあるように思います。

 

 しかし主体性が確立されていなかったり、他者に従順な気質を持っていたり、経済的/精神的に独立していなかったり、自分の価値を信じられなかったりする人間にとって、その要求を完全に無視することは難しいどころか、自分に価格や指針、アイデンティティを与えてくれるように感じてしまうのかもしれません。

 そして、価格と価値を混同した人間であれば、「価格がつかない」と「無価値である」という認識に陥ってしまい、なんとか自分に価格を付けてくれる「買い手」を強烈に要求することも理解できます。

 

 もちろん、前述した要素(弱さと言い換え可能かもしれません)は社会的(学校/部活/職場などあらゆる集団にいる)な人間であれば多かれ少なかれ持っている*7のですが、やはりこのような特性は若年者に多くみられると思います。

 

 しかし、同時期の男性という存在が「売り手」として社会から欲望されることはほとんど無いように感じます。彼らは資本主義社会からは切り離された存在であることを大っぴらに許されているように思います*8

 「年頃の女の子なんだから〜しなさい」という表現は多用されますが、女の子を男の子に変えるだけでしっくりいかない表現になるのもそのためかもしれません。

 

 ここまで述べてきたように、「社会から欲望され(需要があり)」、「社会からの欲望に脆弱(未成熟)」である若年女性(存在としての少女)が、社会/都市に生きる人間の病理を最も反映しやすいような気がしています。

 そのような病理に侵されやすい性質を「少女性」、その少女性を備える人間(もちろん男女は問いません)を「少女」と定義し、本論に移ります。

 

アーバンギャルドと「少女」

 アーバンギャルドはこれまで述べてきたような、人間関係や社会の中で主体性が確立されず、第三者の存在や欲望、視線に依存している存在(「少女」、後の作品では「幽霊」と換言されています)が主体性を恢復し、「人間」になる一歩を描いている様に思います。

 他者に欲望されることへの欲望(「ふりむいてもらおうと焦れば焦るほど/ぽつぽつするの」)、もしくは自分への信頼感の欠如の為に、現実の姿と理想の姿の間で自己否定/自己分裂に陥る「少女」の心理を描いた『水玉病』から始まる第1作、『少女は二度死ぬ』を貫くのはそんな「少女」を「僕」が人間として愛してやるよ、そうしたらお前も「少女」を卒業できるよ(『四月戦争』)、といった蔑視にも通ずる強烈なナルシシズムだと感じました。

 

 しかし、この主張は大きな問題を2つ孕んでいるように思います。

 1つ目はいくら「僕」が「少女」ではない、代替不可能な存在として相手を想おう*9とも、その気持ちは「少女」にとっては代替可能なもの、存在の不安を紛らわせるその場しのぎ程度になってしまうのではないかということです。

 ボーナストラックを除いた最後の曲『四月戦争』と『水玉病*10』がひとつながりになり、アルバムがループ構造をとっていることからも、この問題に関しては作者も自覚的であると考えられます。

 もう1つは「少女」を卒業した人間はもう「僕」の庇護を必要としないという点です。それを「僕」もわかっているからこそ、「少女」が成熟しないことを願うのかもしれません(『セーラー服を脱がないで』)。つまり、「僕」の庇護にある限り「少女」は「少女」のままになってしまいます。

 もちろんこれは、当時のバンド-ファン関係をバンドの側から揶揄したものかもしれません。ただ、誰かから欲望されることは気休め程度にはなるが、「主体性の恢復」には繋がらないという問題点は明らかに残ります。

 

 それらの問題点に真っ向から取り組んだのがこの『少女都市計画』というアルバムだと感じました。そして最後に残った結論は「欲望されること」ではなく「欲望できる何かと出会うこと」で「欲望する主体たる自分を発見する」といったものでした。

 

 ちなみに「少女三部作」の最終作、『少女の証明』では前作で解決の糸口として描かれた「欲望」が商業主義や他者によって植えつけられたもの(「欲しいものが欲しいの」)、「価格」と「価値」を混同してしまったものではないかという懐疑(『プリントクラブ』)を前提として「不在の(他人を見れない/他人から見られない)少女」*11の主体性を主張しようとします。しかし、その結末は「もうどうしようもない(『救生軍』)」ものでした。

 

 無論、リスナーを突き放すことが彼らの目的ではない様に思います。そのままではどうしようもないことを指摘した上で、「私たちの青春はあなたのものです」と現実の代替としての機能を果たす虚構として、楽曲を差し出しているのかもしれないという風に思ったりもします。そしてその虚構に触れることは、私たちの「現実」を私たちが漫然と眺めるよりもずっと人生に有用であるような気がしています。

 

個々の楽曲について

 ここからは個別の楽曲について言及していきます。カギ括弧で括ったものは歌詞からの引用です。

M1 『恋をしにいく』

 「あたしのこゝろ 概念の娼婦」

 M5までのSide:Aでは、欲望と共犯関係を結ぶ*12「概念の娼婦」の一般的な帰結が描かれます。

 端緒となるM1では坂口安吾*13を大胆に引用しつつ、「概念の娼婦」という概念の導入と「恋をしに行く=行為をしに行く」というあけすけで強烈な描写がなされます。

 また、「概念の娼婦」である「あなた」が「名前を棄てた」存在、つまり匿名的で代替/複製可能な存在であることも指摘されています。

 

M2『コンクリートガール』

 「イライラしていた 誰でも良かった」

 M2では「コンクリート」ジャングル、もしくは鉄筋「コンクリート」の中に生きる「概念の娼婦」の内面が描かれます。

 その無機質な精神(「脱人間化」とも言えるかもしれません)は生々しい肉体(「血と肉だけ」でできている)と対比され、より鮮やかに描かれているように思います。無機質なテクノサウンドと生ピアノ、生ギターのミスマッチさもその鮮やかさを際立たせていると感じました。

 「あたしだって▼笑うよ▼泣くんだよ」という表現の生命力には驚かされます。

 また、私は冒頭の「イライラ」をアイデンティティ不安と捉えてしまいますが、これは鑑賞者によるところが大きいかもしれません。

 

M3『東京生まれ』

 「また出会って 恋をして それがルールなの」

 視点は「概念の娼婦」を育む環境である都市に向けられます。

 内容はシンプルで、私たちの恋愛/欲望は「都会のルール」に誘発させられたものに過ぎないのではないかといった問いが断定的に描かれます。

 ただ、同時に「死ぬときは皆ひとり」とどうしようもない個人主義を謳うのが彼ららしさだな、と思いました。

 

M4『アニメーションソング』

 「ふしぎだね げんじつ」

 都市の虚構性というものは語られて久しいですが、現実問題として私たちはそこに住み、そこに参画しています。

 そのような”虚構(「▼家庭▼学校▼会社▼国家」)が存在するという現実”の”現実面”にフォーカスを当てつつ、"その虚構の価値観を内在化した結果の「少女性」とそれが宿る現実の肉体"というテーマで描かれているという解釈は可能だと思います。

 

 比喩や突飛な表現が多くてあまりよくわからない(これは決して批判や悪口ではなく褒め言葉です)、というのが正直な感想です。

 

M5『リボン運動』

 「昭和八十余年少女享年」

 リボン運動とはRibbon Campaign であり Reborn Campaignであると作者が語っている*14ように、少女の「少女性」は死に、再度人間として生まれ変わるという基本的なこれまでのコンセプトが再度提示されます。また、その変化に対する両価的(「リボン運動 賛成 反対」)な感情も描かれます。

 方法はこの時点では具体的に示されず、他人の声に耳を貸すな、といった程度の主張に留まりまるように思いました。

 作者のキリスト教的なバックグラウンドを加味すると、聖霊によってもたらされるborn again*15いう概念も見え隠れします。

 この聖霊については次作で語られている、と作者は述べています*16

 

 ちなみに「少女元年」というフレーズは最新作のリードトラックのタイトルともなっています。

 内容もかなりあけすけなメッセージソング*17 となっており、ツアータイトルに至っては「あなた元年」とさらに明瞭になりました。これを考慮しても彼らの主張は10年間一貫しているような気がするのです。

M6『修正主義者』

 「自己批判しろ」

 SIDE: Bと名付けられた後半では、Side: Aや前作までの行き詰まりを打開する(="Reborn"運動を達成する)方法が探られます。

 

 まず初めに、M1-5までの病理の一つである共犯関係を結ぶ原因となった受動性(「好きだといってくれたから 好きになってあげたの」)と、それの裏返しとして別れゆく相手自体への好意の薄さが描かれます。

 繰り返される「自己批判しろ」というフレーズには2つの意味があると感じました。それは”お前なんか別に好きじゃなかった、好かれていたと思ってる甘さを自己批判しろ”という相手*18の自覚を迫る意味は明確に示されています。もう一つは”自分が欲しいと思ったものは本当に欲しいものではないのかもしれない”という自らの感情への批判的検証です。

 その批判を元にして、卑近な表現ですが、”本当に欲しい/好き”とはどういうことかという問いが、この後のテーマになっていると感じました。

M7『少女のすべて』

 「受話器ごし世界が生まれたの」

 これまでとうってかわってロマンティシズムに溢れた作品。大上段に構えたタイトルをこの内容につけること自体がかなり挑戦的かつ示唆的だと感じました。

 「女の子」を「少女」たらしめていた社会的な要素はなりを潜め、劇的な出会いをした「彼」への一方的とも言える感情が描かれます。

 ボーボワールの有名な一節*19を彷彿とさせる「(彼に息を吹き込まれて)あたし女の子に生まれたの」という表現を元のコンテクストのままネガティブに捉えるか、「少女」が"Reborn"して女の子になったとポジティブに捉えるかは難しいところだと感じました。これまでの流れを踏まえると後者であって欲しいような気もしています。

 

M8『都市夫は死ぬことにした』

 「説明しよう 世界の仕組み」

 突然テイストが大きく異なる作品が挟まれます。描かれるのは表現者見習いの苦悩といったところでしょうか。

 照れ隠しのように引用で埋め尽くされているのが、かえって作者の自意識を浮き上がらせているような気がして興味深く思いました。

 全体の流れの中では「都市」=社会的な要素/「夫」=男性性の排除と頑張れば捉えることはできますが、これは牽強付会に過ぎるでしょう。

M9『ラヴクラフトの世界』

 「好きなの」

 最後に種明かしのごとく「概念の娼婦」と実在の娼婦*20の姿が重ね合わせて描かれます(もちろん『修正主義者』からここまで1人の話と見ることもできますが)。

 歓楽街の外れの産婦人科クリニック、エイズ検査の結果を待つ人間*21の複雑な感情、様々な願いをシンプルな歌詞に込めたサビは絶品だと感じます。

 もちろん、検査の結果は描かれずに終わります。しかし、「生まれ変わ」った彼女は「概念の娼婦」ではなく、一人の人間として検査結果を受け取り、その如何にかかわらずその後の人生を自ら歩んでいくのだろうだと思いました。

 

最後に

 以前お話を伺ったとある精神科医の言葉に、「『〜先生じゃないとダメ』という状況は二流。一流は『〜先生がよく理解してくれているけど、〜先生じゃなくてもいい』という状況を作り出せる医者」というものがありました。

 それを援用すると、この作品はきっと一流の作品なのだと思います。

 

 また、前述のように彼らは同じテーマで10年以上作品を作ってきたように思います。活動がひと段落した今、次のステップで彼ら(ソロ活動、特に『生欲』に関してはテーマは比較的似たところにある気がしています)がどのような言葉を発するのか今から楽しみでなりません。

*1:娼婦とは受動的に”買われる”ことを許し、中動的〜能動的に"売る"存在と言えるかもしれません

*2:どちらかが欠けてしまうと取引は成立しません

*3:価格は必ず他者との関係の中で生まれますが、価値は独立して存在することができます

*4:実用性や尊さ、あなたが価値を見出すものを代入してください

*5:ある程度の相関関係は存在します

*6:"いい商品"を提供できる/商品を”安く”提供できる

*7:これがこの作品の普遍性につながっています

*8:それは将来良い「買い手/売り手」になることを期待されるが故なのかもしれません

*9:『四月戦争』では「僕」も明らかにアイデンティティ不安に陥っている=「少女性」を兼ね備えうるので状況はより悪いかもしれません

*10:「水玉病は少女特有の病」で「思春期生理期失恋期を期に発症」するそうです

*11:=『傷だらけのマリア』, マリアといえば"処女"懐胎です

*12:卑近な表現では「恋に恋している」と言えるかもしれません

*13:『恋をしにいく』の副題は『「女体」につづく』だそうです

*14:

アーバンギャルドの少女都市計画 (全文) [テクノポップ] All About

*15:神学は全くわからないのでwiki

新生 (キリスト教) - Wikipedia

をどうぞ

*16:

アーバンギャルドの証明 (全文) [テクノポップ] All About

*17:ガイガーカウンターの夜/ノンフィクションソング」といいこういう作品はこのバンドに限らず区切りの時に出るよなぁと思っていたらギターが介護離職してしまった

*18:これはもしかしたら作者自身なのかもしれません

*19:「人は女として生まれるわけではない〜」

*20:エイズ検査に行」くことが必要な職業はそう多くありません

*21:そもそもこのシチュエーションに深い感銘を受けました。なぜ「エイズ検査に行」こうと思ったか、それを考えるだけで感情が揺さぶられます

2019年8月 観劇記

 

はじめに

 書きたいことはたくさん溜まっているのですが、ルーティンワークを優先して8月分の観劇記を残しておきます。また、今月は『松永天馬殺人事件』へのリスペクトとして、劇場で見た映画についても感想を残しておきます。

 また、ある1作品に関しては深く印象に残っているので別の記事にする予定です。

 

8/8 『夕 -ゆう-』 @シアターサンモール

 カンフェティで80%以上のポイントバックだったため、あらすじから漂う地雷感にもめげず半ば怖いもの見たさで観劇。

 

 過度に単純化/デフォルメ*1された人物造形、アイドル・モデル人気に甘えたようなキャスティング、あまりに単調なストーリーテリングに辟易し、時間の無駄と判断して1時間程度で退席。新宿で美味しいラーメンを食べて帰った。

 

8/16 特撮ワンマンライブ@恵比寿LIQUIDROOM

 約3年ぶりに特撮のライブへ。

 『バーバレラ』を生で聴けて良かった。不謹慎かもしれないが、夜勤をしているといつもこの曲を思い出す。

 

8/17 『松永天馬殺人事件』@池袋シネマロサ

 世界初「4DIEX上映」に興味がわき、初めてのインディーズ映画へ。

 

 作品自体は映画論+見る/見られる系のメタ+フックとしての下ネタ+「第4の壁*2」の完全な破壊といった感じで作者のカラーそのまま、といった印象であった。

 

 宣伝方法、彼のこれまでの実績から4DIEXの仕組みは予想はつくので、いざ眼前に現れて何をするのかを期待していたが、思ったよりあっさりしたパフォーマンスに留まっていた。

 「事件」は我々がそれを目撃し、起こった時点で完結しており、その解釈はこちらに委ねられているのだろうと思った。

 そうでなくてもこういうネタは大体のケースでくどくなってしまう気もするので、1曲歌って潔くさようなら、で良かったのだと思う。

 

8/20 『天気の子』@イオンシネマ市川妙典

 たまにはメジャーな作品をということでチョイス。

 

 印象は「家出少年の成長譚まがい」であったが、見せ方は上手で全く退屈はしなかった。

 演出意図としては「(逃避/無責任の象徴としての)サリンジャー/家出」→「(偶発的に責任を負うことになる)おもちゃ(=フェイク)だと思って放った実弾入りの銃や「雨がやめばいいと思う?」に対する返答*3」→「(責任/代償を払う覚悟を伴った)行為*4や選択」なのだろう。

  最後に描かれるのは「世界の形を変えてしまった責任を負っても2人で生きていく」と言う覚悟だが、後味を良くするためか「責任/代償」の描き方がかなり生ぬるいように感じた。

 

 銃刀法違反や公務執行妨害など様々な犯罪行為は観察処分と言う形で有耶無耶にされる。彼の弾丸は誰も傷つけてはいないからだ。

 また、東京の一部は水没するが比較的平和な日々が描かれ、こちらも本当に苦しむ人や傷つく人は描かれない。

 その点で「最大の被害者」である最後の仕事相手の老婆との対面シーンが描かれたのは意外であったが、彼女も穏やかな表情のまま主人公を責めることはしない。

 この点が逆説的に完全に責任を取ることの難しさ、成長の不可能性を示してしまっている気がしてしまった。

 

 余談にはなるが、重要なシーンの舞台が軒並み所縁のある場所で*5それだけで嬉しくなってしまった。思ったより人は単純なのかもしれない。

 

 さらに余談にはなるが、「オリンピックが終わったら日本や東京は徐々に衰退していくのはわかっているけど見て見ぬ振りをしている」と言う時代の雰囲気からして、ここで「誰かを犠牲にして都市の日常を守る」と言う結末は描きにくいよな、とも思った。

 

8/22 少女都市 『光の祭典』@こまばアゴラ劇場

  テーマやその扱い方が自分の好みに合っていたことを抜きにしても本当に素晴らしいと思った。描かれる感情の強さは決して万人受けするものではないと思う。ただ、撒き散らされた怒りや欲望の裏には、作者の個人への信頼が垣間見えるような気がしたのだ。

 これで一度休止になるようだが、作者が作者自身の「赤くて黒い金魚」に飲み込まれずに向き合い続け、その産物として新たな作品を観られることを強く祈っている。

 この作品を見ることができただけでも東京に来た価値があったかもしれないと素直に思う。

 まだ消化しきれていない部分もあるため、詳しい感想は今後必ずまとめておきたいと思う。

  

8/23 第27班『潜狂』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

 実家から徒歩5分の場所にも小劇場があることに驚き。

 

 ブラック企業やパートナー間の相互不理解、DV、金銭トラブル、友情と恋愛、難病といった比較的ありふれた、ただ当人にとっては深い苦悩を生みうる問題を容赦なく描く手法は見事。

 

 最後の「チュニジアの夜」の演奏は「やりきれないけど生きて行かざるを得ない」的な説得力があり、印象に残った。ただどこか言語化や解決法の模索を諦めてしまったゆえの結末のような気がしてしまい、そこまで好みではなかった。

 

8/24 『星を捨てて』@池袋シネマロサ

 『松永天馬殺人事件』の前に流れていた広告に惹かれて再度池袋へ。

 

 現実度の差はあれどィクションとそれを必要とする人を肯定的(社会からの逃げ場としての秋葉原、先の見えない将来からの逃避としての地球滅亡論、かりそめの自己実現のための地下アイドル)に描く作品。どの結末もフィクションが人を飲み込むことなく、あくまで手段として描かれているのは好印象

 最後のシーンの唐突さにはびっくりした。有効かどうかはさておき、直球勝負で清々しいと感じた。

 

8/25 パルコプロデュース『転校生(女子校版)』@紀伊國屋ホール

 平田オリザの名作戯曲『転校生』を新人女優のショーケースとして用いる企画。

 

 脚本自体は高校演劇でも用いられるようにマイルドな味わいだが、その分演出が凝っていて楽しめた。

 

 開演前のロビーに佇む女優たち、徐々に舞台上に現れる開演の仕方*6、風鈴や楽器の音色、舞台上の舞台に設置された椅子と机*7、などどれもちょっと外連味があって楽しめた。

 

8/26 少女都市 『光の祭典』@こまばアゴラ劇場

 同一公演期間に2回見に行くのは初めて。一緒に行った友人も楽しんでくれたようで良かった。

*1:ネガティブな方向へのデフォルメがあったもの悪趣味だ

*2:映画においてはスクリーン

*3:「実は自分の方が年上(大人だった)」と年齢の上下関係が逆転していた、と言うのも示唆的だ

*4:実弾入りと知って銃を撃つ

*5:ラストシーンは中・高の通学路の一つ、最初のシーンの病院や廃墟ビルは塾のすぐ近く、編集プロダクションも自宅から徒歩圏内

*6:これは『その森の奥』と同様か

*7:教室の中と外が明確に分けられている