2019年11月 観劇記

 

はじめに

 11月は精神科ローテということもあって公私、心身共に充実した時間を過ごすことができました。

 こういった趣味で得たエッセンスは案外日々の診療に活かせると知れたのはどこか不思議な経験でした。

 

11/10 アーバンギャルド『令和零時のアーバンギャルドツアー』@渋谷CLUB QUATTRO

 約半年ぶりのアーバンギャルドのライブ。ノンフィクションソングから始まるという強気の構成に代表されるように、演者が自分の演奏や言葉への自信を取り戻しているような印象を受けた。4月の新体制後すぐのライブよりも格段に説得力があり楽しめた。

 


11/15 『ひとよ』@TOHOシネマズ新宿

 原作者が桑原裕子とのことで、久しぶりに映画へ。

 以前観劇した『らぶゆ』と同系統で、家族の存在と自らの過去というどうしようも無いものへの向き合い方がテーマとなっていると感じた。

 15年前、3人の子供達のためにDV夫を自動車で轢き殺した女(以後「母」)は取り返しのつかない過去の罪と向き合う。また、子供たちはそんな母と機能不全の家庭に育った影響と各々のやり方で向き合っている。

 妻に殺された男が経営していたタクシー会社は親族や知人の助けで15年後も存続していたが、そこに新たに勤める男も違法薬物のブローカーという過去があり、そのせいで離婚、子との離別に至っている。


 過去の罪や傷跡が穏やかで牧歌的な現在を脅かす描写はシビアで、登場人物の絶望が鮮烈に焼き付く。特に印象的だったのが、佐々木蔵之介演じる元違法薬物ブローカーの豹変ぶりだった。

 男は(恐らく服役した後に)暴力団のような組織から足を洗い、真っ当に生きていくことを決意している。元妻に引き取られた息子とも面会したり、小さな幸せを噛み締めていた。

 しかし、その息子はすでに自分が所属していた組織によって懐柔されており、薬物にも手を染めていたと知る。

 そして、男は真っ当に生きることに絶望し、自暴自棄になって「母」を乗せたタクシーごと海に身を投げようとする(3人兄弟に阻止されるが)。

 対照的に、4人家族はどこか希望を持たせるラストになっている。その差はどうしようもないものを「そこにあるもの」と認められる/許せるかか否かなのかなと感じた。


 別の観点では、家族関係というとどうしても子の視点が強調されがちな中、親からみた「どうしようもない存在」としての子を描く視野の広さには感服した。

 


11/16 ロ字ック 『掬う』@シアタートラム

 どこかの文章で、日本文学は宗教的なバックグラウンドの問題で「赦し、救い」を描くのが苦手だ、といった事を読んだことがある。

 そんな中で『すくう』というタイトルでどんな物を描くのか興味が湧き観劇したが、前日に引き続き家族のどうしようもなさがテーマだったので驚いた。

 正直1ヶ月半近く空いてしまったので記憶が曖昧。あまり印象に残らなかっただけかもしれない。

 


11/20 『地獄少女』@Humaxシネマズ池袋

 大学の後輩が原作を好んでいたようで、これも何かの縁かと思い鑑賞。

 正直あまり期待はしていなかったが、予想以上に出来が悪い作品だと感じた。


「恨みを持つ対象を地獄に送れる、その代わり依頼者も死んだら永遠に地獄行き」というシステムと、それを淡々と執行する「地獄少女」を軸にストーリーが進んでいく。

 重大な決断をする割に、登場人物の逡巡がほとんど描かれていないのが一番の不満点。「地獄少女」の登場回数や作品コンセプトの問題で登場人物/復讐の回数が増えすぎてしまったことが原因か。

 また、復讐した側のその後もあまり描かれておらず、これでは、「衝動的に拳銃で人を殺せる、その代わり死刑」という現代のルールとほぼ同じで、わざわざファンタジー的な設定を導入する意義に乏しいと感じた。


 「地獄少女」の人格や感情、背景に関しては敢えて描かなかったのかどうかは不明だが、妙な無機質さ・無慈悲さが強調されていて印象的だった。情状酌量の余地がある主人公に関しても前述のルールが例外無く適応される(ことが示唆される)が、ここに関しても後味の良さのために妙な許しや甘えを用意しなかったのは良かったと感じた。


 しょうもない感想としては、地獄をお試しさせたり、ルールを説明した上で契約の是非を任せるのは良心的な取引だなぁとも感じた。

 

 謎のV系バンドや地獄の表現など、笑いどころなのかわからないシーンも多かったが、映像表現のレパートリー、奇抜さは印象的だった。


11/21 『JOKER』@TOHOシネマズ新宿

 お口直しにということで評判が良い作品を鑑賞した。多くの人がこの作品について語っているので、今更語ることはは少ないかもしれない。

 ただ、主人公アーサーは「普通に生きる」事を諦めて悪へと堕ちた、と書かれた記事に引っかかる点があったので少し述べていきたい。


 アーサーの感覚は「世界の普通」からはズレている(「笑い病」だけでなく、コメディーショーを鑑賞している時に笑うタイミングがズレている事が印象的だ)。そしてそのズレを表現する方法も「笑い病」や知的な問題によって奪われている。

 そして、世界は「普通」からズレた存在(原文ではFreakと表現されている)に対して不条理なほどに厳しい(と少なくともアーサーは感じている)。冒頭の少年による突然の暴力、悪漢に絡まれる、上司に言い分を聞いてもらえない*1など、アーサーは事ある度に低い自尊心を傷つけられていた。


 それでもアーサーの様に世界とズレている人間は、世界から切り離されているが故に、世界とのつながりを強烈に求める*2

 そのつながりは基礎的(ローカル)な部分では家族や友人、パートナーに対応し、発展的(ソーシャル)な部分では職業や地位などの自己実現などになるのだと思う。


 アーサーはほとんど世界と繋がれてはいないが、母親だけは信頼できており、その言葉によってコメディアンになるという発展的な繋がり方を求めるようになる。その中である程度の友人関係なども築けているような描写も見られる。


 しかしその試みは失敗し*3、善意は踏みにじられ*4、暴力から守ってくれるものはおらず、福祉も手を差し伸べてはくれない。


 さらに悪いことに、隣人の女性とパートナーシップに繋がる良い関係を築けているというのは本人の妄想で、生き別れた大富豪の父がいる、というのはパーソナリティ障害、統合失調症(の疑い)を患う母の妄想で、その母は息子(自分)を虐待し、精神病院に強制入院させられていたという事を知ってしまう。友人だと思っていた同僚も自分を救ってはくれないことに気づく。


 このように世界とのつながりをほぼ完全に断たれゆく中で、彼は思わぬ形でソーシャルな繋がりを得てしまう。電車の中で絡んできた輩を射殺したところ、当時のピエロ(JOKER)のメイクが反富裕層・権力のアイコンとして祭り上げられてしまうのだ。

 警察から追われている時などは大衆=「普通」が自らの味方をし、多勢のピエロフェイスの中では自分が周囲と同化しているようなこれまでに無かったような感覚を味わう。

 ここで注目すべきなのはきっかけとなったこの行為が完全に自己防衛の為に行われたという点だ。彼は悪に堕ちようとして輩を射殺した訳ではないし、彼らの素性を知っていた訳でもない。


 彼は「普通に生きる」ことを諦めた訳ではなく、「世界とつながる=普通に生きる」ことを強烈に求めるが故に悪のアイコンを背負うというチャンスを掴んでしまっただけなのだと思う。

 現に彼は悪であることを目的とはしていない。小人症の同僚を「俺に優しかったのはお前だけだよ」といって逃してやるのがその証左だ。

 

 こういった現象や心理は多くの人がぼんやりとは認識している、そこまで斬新ではないことだとは思う。ただ、それを2時間のパッケージ内で例示するのはお見事だし、有意義な事だろうと思う。

 それを踏まえて2点気になった点がある。一つはアーサーが精神病院に送られる、つまり「病人=異常な存在」だとされている点だ。もちろん彼の背景には病的とも言える部分は大きいが、彼の情動は極めて正常で、理にかなう部分も多分にあると感じる。それまで纏めて「異常」なもの/理解できない、理解する必要がないものだと捉えられてしまう結末は避けるべきだったと感じる。

 もう一つは現実世界の出来事だ。この映画がアメリカで上映された時、銃乱射に備えて警備体制が強化されたというニュースだ。

 この映画はアーサーのような人間を産まないために、少しでも保護的な環境を維持しましょう〜、といったところに落ち着くものだと*5。それが、アーサーの感情に共感するだけでなく、行動までも重ね合わせてしまう人間がすでに存在していることに驚かされた。

 人によっては、現実はすでにゴッサムシティを超えるシビアな環境なのだと気付かされてハッとさせられた。


11/22 鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』@東京芸術劇場

アーティスティックなコンセプト*6を掲げる劇団。主催者の経歴も東大→東京藝大(院)とエリートコース。

 作品の内容自体よりも、作品の背景にある思想やコンセプトを伝えることに重点を置くという点ではかなり現代アートチックで、その中でもポップというよりはシリアス寄りな作品だと感じた。

 ある程度はっきりとしたストーリーはあるものの、台詞回しや表現方法はかなり抽象的で理解が追いつかない場面も多かった。こういう作品は興味深くはあるが、あまり楽しくはないので何本も観ていると疲れてしまうようのが難点か。

 作者の抽象化能力の高さが仇となることもあるのだな、と感じた。すでに存在する事物を分析する批評家やキュレーターとしての能力と、0から1を生み出す創作者としての能力は両立し得ないような気もする。

  

11/23 新国立劇場シリーズことぜんVol.2『あの出来事』@新国立劇場

 働き始めて身の回りで「個と全」について考えさせられることが増えたため鑑賞。

 ノルウェーウトヤ島で起きた銃乱射事件にきっかけを得て描かれたという背景からは社会派の作品のように思えるが、焦点は個と個の関係に向けられ、全は理解できない個を包括する集団として描かれている。

 基本的には恩田陸『ユージニア』と同様のテーマ。当事者になってしまう事の重さ、相手を理解して納得したいという身を焦がすほどの欲求などが描かれる。

 『ユージニア』とは違い、最終的に対話を試みて「理解できない存在」を許せるようになるのが大きな救いだと感じた。

 このシリーズは次作の『タージマハルの衛兵』も素晴らしかっただけに、第一弾の『どん底』を見損なったのが悔やまれる。

*1:ピエロの看板の件

*2:ズレていない人間は、一体化しているため敢えて「繋がる」必要はない

*3:小児病院で友人が渡した銃を落としてクビになる/コメディーショーに出るがうまく話せず、それを憧れのtv番組で晒し者にされる

*4:子供を笑わそうとしてその親に怒られる

*5:実際に監督もそう述べている。https://front-row.jp/_ct/17308681 の最終セクション参照

*6:

https://www.bird-park.com/15-1