2019年12月 観劇記

 

はじめに

あけましておめでとうございます。先月は時間に正確な麻酔科と言うこともあって、比較的多い作品を観ることができました。ただ、麻酔科は正確な動作や手技などフィジカル面が要求される場面が多く、なかなか大変でした。

 

11/28 青年団リンクキュイ『景観の邪魔(Aプログラム)』@駒場アゴラ劇場

 オリンピックを控えて演劇畑の人間がいかにに東京を描くのか気になり鑑賞。

 内容は他のコンテンツ同様、「オリンピック後の緩やかな衰退」を予測するもの。衰退を見据えるブルーな感情に災害の不安を重ねるのもやや典型的か。

 ただ、その不安をぶちまけた上で、その衰退や災害を「土地にとっては有益」とポジティブな視点を提供するのは新鮮。

 都市をドラスティックに変容させてしまう人々の欲望とその土地の繁栄を両立させるのが度々繰り返される「あなたの土地に愛着を持ってください」というお題目なのだろうと思った。

 ただ、劇中で詳しく描写されるのは東京の西側だけであり、作者の発想も吉祥寺の変化に基づくところが大きいと感じた*1

 自分も三鷹に住んでいたため、認識できる「東京」の東限が東京駅になってしまうのは理解できるが、もう少し東京の東側について描写があればより多面性が出ると感じた。

 

12/1 青年団リンクキュイ『景観の邪魔(Bプログラム)』@駒場アゴラ劇場

 ほぼ同じ戯曲をより華やかな演出でといった内容。

 Aプログラムの「景観の邪魔は生命に他ならない」という殺伐としたコンセプトに「人を必要とする土地*2」の視点が少しだけ導入されるだけで深みが出る。

 

 衰退と東京といえば、椎名林檎の「TOKYO」についての記事をいつか書きたいと思っている。これを書いている途中に東京事変再生のニュースを聞いて驚いた、後出しジャンケンにならないようせめてオリンピック前には!

 

12/5 『椿姫』@新国立劇場

 U25割引が強烈(75%OFF)だったので観劇。

 内容は娼婦が真実の愛に目覚める〜というありふれたもので、最後に報われないのも西洋的な世界観では典型的。

 ただ。19世期としてはかなり斬新であったと思うし、何より音楽で増幅された感情のダイナミックさに圧倒された。しょっちゅう観に行くものではないと思うが、今後も観たいと思った。

 

12/7 inseparable 『変半身』@東京芸術劇場

 村田沙耶香と松井周の共同制作プロジェクト。ある程度共同で下地を作ったのちに、小説版を村田さんが、舞台版を松井さんが制作するといったもの。

 村田沙耶香の想像力にはいつも驚かされるため、企画が発表されてからずっと楽しみにしていた。

 

 両者ともヒトという種の相対化、あやふやさを最終的な主題にはしている。ただ、個人的には小説版の方が好みだった。

 

 小説版は「海のもの/山のもの」の対立、絶対視されていた「モドリ」がデタラメな虚構あったことなど、「真実だと思っていることが虚構である」という段階*3から始まり、次に「その虚構が恣意的なものである可能性」を述べる*4、そして「恣意的な虚構だとしてもそれを必要とし、信仰してしまう人間の性」を描いた最終地点として「我々は人間だ」という観念にもそれが適用可能ではないかとする流れになっている。

 私たちの信ずるあらゆるものの弱さ、曖昧さをこれでもかという程暴く作品で、その最終形として「私は人間である」という信念まで脅かすもので、そこにたどり着く必然性があり、説得力も相当な作品だった。

 

 しかし、舞台版では「人間」を相対化するために「神様」という上位概念を安易に導入してしまった結果、舞台設定のほとんどが意義を失い、ただ突飛なだけの賑やかしになってまったように思えた。そしてあっさりテーマをこなした後は、「不確定性に飛び込むことって勇気がいるけど楽しいよ」という無難なメッセージに終わってしまいやや消化不良だった。

 

 これは才能や視点の問題だけではなく、肉体を無視して言葉だけで世界を捉える小説と、肉体で表現する演劇というメディアの違いによるものな気がする。

 小説では内面や認知の描写が克明にでき、地に足がついていない展開にも説得力を持たせることができるが、その分実現可能性という面では劣ってしまうし、こちらの行動を促すものにはなりにくい。

 その分演劇は肉体的で、人間にできること、第三者にわかる言動としてしか提示されない。それは内容の乏しさにもつながりうるが、こちらの言動をダイレクトに変容させうる実用性の高いメディアたらしめるのだと思う。

 

 どちらも一長一短だと思うが、今回のテーマを扱うには小説版の方が一歩上手だった印象。 

 

12/14 『少女都市からの呼び声』@早稲田Space

 演劇界隈で度々リファレンスされる唐十郎の代表作ということで観劇。

 一歩間違えば突飛になってしまう展開をギリギリの所で観客に伝える脚本は20年以上前の作品とは思えない程に新鮮さを保っていると感じた。

 タイトルの少女都市とは男が手術中に夢見る、自らの実在しない妹*5が住む世界のことで、そこでは歳を取らず、肉体も劣化しない。それを維持しているのが、少女の自らの肉体への実感のなさ、変化への恐怖感なのだ。

 その象徴としてガラスの*6体、子宮への欲求が描かれているのだと思った。

 それが女の髪の毛に象徴されるように男の中に眠っているというのがまた外連味があって良いと感じた。

 また、大槻ケンヂや松永天馬を指して「お腹の中に少女を飼っている」と述べた文章を読んだことがあるが、こういうことだったのだなと思った。

 

12/14 新国立劇場シリーズ「ことぜん」Vol.3 『タージマハルの衛兵』@新国立劇場

 シリーズ「ことぜん」最終回。今回は強大な「全」との権力関係に向き合う「個」という「個と全」の関係が描かれる。

 登場人物は2人、ムガール帝国の衛兵を務めるフマーユーンとバーブル。2人は幼なじみでお互いをバーイー(兄弟)と呼ぶ間柄だが、仕事や権力への取り組み方は大きく異なる。

 フマユーンはその生い立ちもあり、権力の存在やそれに従うことに対して肯定的な態度を取る。一方、バーブルは極めて個人主義的で、精神的な自由を重視する。ただしバーブルはニヒルを気取っているわけではなく、彼は美しいものへの執着熱っぽく語る。

 

 中盤まではややグロテスクな流血場面もあるもの、2人の対話がポップに描かれる。しかし、バーブルの一言がきっかけとなって訪れる結末は極めてシビアで、権力のどうしようもない暴力性が露わになる。しかも権力の根源たる皇帝は直接手を下さず、権力を恐れ、従うことがその暴力と離別を引き起こしてしまうというのがより権力と我々の関係の不条理さを浮かび上がらせていると感じた。

 パンフレットにある内田樹の「権力を創り出し、機能させているのは、権力には争うことができないという個人の信憑である。権力の非情と暴力性をかたちづくっているのは個人の非情と暴力性である。権力を恐るべきものたらしめているのは個人の恐怖心である」という言葉がこの演劇の本質をついていると感じた。

 

12/15 二兎社『私たちは何も知らない』@東京芸術劇場

 いわゆる社会派演劇というものにおっかなびっくり挑戦。こういった作品は政治的なメッセージを伝えようとするあまり、無理筋の展開になったり、作者が挑戦をしなくなりがちなので好きではないが、今作は比較的楽しめた。

 思ったより政治色も控えめであったし、何より平塚らいてうというドラマティックな人生を送った人を主人公に据えたことで作品自体も楽しめた。歴史モノということもあって事実に反した描写も少ないというある程度の信頼を持って鑑賞することもできた。

 

 しかし、最後に平塚が戦後共産党系の組織を率いた人間であったことを隠し「女性の権利回復に尽力した組織*7の委員を務めた」と述べるのは、これまでの2時間半あまりで「女性の権利向上を応援するモード」に誘導されることを考えるとあまりにアンフェア*8に過ぎると感じた。こういやってプロパガンダというのは成されていくのだなと思って背筋が冷える思いがした。

 

12/18 PLAT 『荒れ野』@ザ・スズナリ

 桑原裕子作品はこれで3作目。

 これまでの作品とは異なりややコメディタッチに、ただ個が個を想ってしまうことのどうしようもなさが描かれる。その中で家族内での相互不理解という形で家族というテーマが繰り返されるのも作者らしさか。

 自らの想いが満たされないときに「あなたならどうする」という締め括りは劇中の登場人物だけでなく観客にも深く刺さるものだった。

 

12/19 ワワフラミンゴ『くも行き』@東京芸術劇場

 小さな恐竜という劇団のキャッチコピーに惹かれて鑑賞。表現方法は穏やかでポップなのにバックグラウンドには厳しい人間観や深い思考があるということなのかなと感じた。

 11月の鳥公園とセット券が発売されているようにこちらも現代アート系で、正直ほとんど理解できずに終わってしまった。ただ、全部の芝居がわかってしまうよりもわからない芝居がある方がワクワクしてしまう。来年はどんなものが見られるのだろう、今から楽しみだ。

*1:吉祥寺シアターやブックスルーエの件など

*2:ここで被災地を出すのはやや短絡的だとは思うが

*3:幼少期

*4:島に戻るまで~島に戻ってからの序盤

*5:演出上は男の分身/少女性が具現化したものである

*6:老化しない/変化しない

*7:実際は共産党の外郭団体に過ぎなかった

*8:作者の共産党との繋がりを考えると尚更である